ミックス・ブラッド   作:夜草

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11/2 最後のひとつ前に一場面、加筆修正しました。


咎神の騎士Ⅰ

神緒田神社

 

 

 ―――曰く、<蜂蛇(ホウダ)>とは災厄の前触れである。

 

 

 神緒田神社が『神縄湖』に置かれた理由は、その災厄を鎮めるため。

 古来、封印されし<蜂蛇>が覚醒の兆しを見せるたびに、歴代の社を仕切る神職は、開封はただ一度となくそれを悉く鎮めてきた。

 そう、霊力に優れた巫女を“人柱”とすることで、封印を強化してきた。

 人一人の犠牲で、数十年、一国の平和をもたらせるのだ。

 災厄を回避するために“人柱”を生きたまま湖に沈める―――同様の儀式は世界各地で行われている。

 この神緒田神社にいた過去の巫女たちは皆、その身を捧げてお役目をはたしてきた。

 そして、最後に儀式が行われてから70年後の今、現当主である暁緋紗乃もそれを果たさなければならない。

 

 しかし、緋紗乃に“人柱”は務まらない。

 

 歴戦の経験はあったとしても緋紗乃の霊感能は老齢に衰え、霊媒としての感性はすでに若者たちに負ける。

 そして、生贄に望まれているのは、“穢れなき処女(おとめ)”だ。

 だから、その“人柱”の第一候補に最も相応しかったのは、暁凪沙―――祖母譲りの霊力を持った強力な巫女である、緋紗乃の孫娘であった。

 息子の妻の深森と緋紗乃の嫁姑仲が悪いのは、それが原因だろう。

 もしも娘が誰かに嫁いで純潔を捧げる前に、封印に綻びが見えたならば、その時は彼女に“人柱”になってもらう―――そう女児が産まれてすぐに宣告した。孫娘に手伝いと称して巫女としての鍛錬を施し、“人柱”に相応しくあるよう調整する……その課せられた責を打ち明けることなく。義娘から鬼婆と陰口をたたかれても仕方がない。

 だが、それほどに暁凪沙の素養は凄まじかったのだ。義娘の深森から天然の接触感応力者(サイコメトラー)の資質まで受け継いでいる混成能力者(ハイブリッド)は、これまで歴代の巫女たちよりも遥かに上だろう。凪沙を捧げて神緒田の社に伝わる秘儀を行えば、数十年と言わず、百年以上もつ強固な封印に仕上げられるはずだ。

 

 ……でも、鬼婆にも、情はないわけではない。

 極めて優秀な巫女を生贄に捧げるのを神職として望ましくも、可愛い孫娘を生贄に捧げることを祖母としてはけして望めない。

 気の迷いか。八岐大蛇を退治し、生贄の娘を救った破壊神(スサノオ)の到来を願ったこともあった。

 ああ、“現存する『聖殲』をすべて破壊する”ための『最後の殺神兵器』を呼ぼうとしたのは、この“人柱”の宿命から孫娘を解放させたい祖母としての緋紗乃だ。

 しかし、計画を前に下手な刺激を控え、蜘蛛の糸のような最後の通話を切った。あの1分あまりの葛藤の末に制したのは、神職としての緋紗乃であった。

 

 そう。

 すでに。

 そのような不確定要素になど頼らなくても、災厄を鎮める使命を果たせ、孫娘を救うことができるのだから―――

 

 

 十二に裂かれた<第四真祖>の眷獣―――その一体を封印するために生み出された、人造の吸血鬼アヴローラ=フロレスティーナ。

 災厄を鎮めるための生贄に、彼女以上の適任はいない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 湖底に深く沈んでいてもなお霊感で捉えられる、ただ圧倒的に異質な霊気の集合体。現在進行形で上昇する魔力濃度はこのままいけば、十日以内に付近の生態系に深刻な影響を及ぼすだろう。

 連携を取っている自衛隊の科学的な水中探査機からも、その塊の存在を確認できる。

 陽炎のようにゆらゆらと形を変えるのが、貝殻の真珠層に似ていることからそれは<黒殻(アバロン)>と名付けられた。

 

 すべてを拒絶する黒い障壁に囲まれて、内部の様子はわからない。

 剣巫の鋭敏な霊視をもってしても、不吉な予感に胸がざわめかされるも、具体的な素性までを見透かせることはできない。

 それ故、この儀式は『三聖』の間でも意見が分かれてしまうほどに、危険な賭けである。

 

 だが、『闇白奈』は、国防のためではなく、『聖殲』の脅威を除くために動くもの。

 それは生存競争のような本能的なものであり、止められるものではないのだ。

 その原罪ともいうべき執念は、何世代にもわたって『聖殲』を撲滅させんとする『(くらき)』の意思を、『闇白奈』に襲名された当代の器へと引き継がせてきたほどだ。

 

 そして、目をつけた『十二番目のアヴローラ』は、もとは<第四真祖>の魂を封印する器として造られた吸血鬼。

 肉体がなくともその霊体は、未だに桁外れの魔力を残している。外部から生贄を供給して遺産を封じる<黒殻>を強化する目的であれば、彼女は暁凪沙以上に適役だろう。それももう死んでいるのだ。

 加えて『十二番目のアヴローラ』の魂が消滅すれば、彼女の依代から暁凪沙は解放される。肉体が衰弱するほどの霊力の酷使をしなくてもいいのだ。だからそれを知った緋紗乃は、孫娘である凪沙を救うためにも、この冷酷な計画に加担した。

 

「ごめんなさい」

 

 当代の『白奈』が、謝意を零す。

 腕の中には、眠らせた凪沙がいる。器の肉体に触れ、その中にある『闇』の意思まで見透かした凪沙は必死に抗うも、その霊体はすでに掌握した。

 

 魔族に似て真なる魔族に非ず。

 日本最強の攻魔師『三聖』のひとりである『闇白奈』の霊糸は繋げたものを駒に変えてしまう。幽体離脱されて霊体から切り離されたその肉体は、糸の切れた人形も同じ。

 そして、暁凪沙の霊体を離した暁凪沙の肉体に残るのは、アヴローラの魂ひとつ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 頬に涙を伝わせながら、謝罪の言葉を繰り返し繰り返し……けれど、力の使い途を決めるのは『闇』の意思であっても、実行するのは力を持った器の『白奈』。

 その赦しは一体誰に向けているのか、それはどちらにもわからない。

 

 

神縄湖付近 作戦本部

 

 

 陽光に煌めく水面に、神楽の舞殿に似た小さな祭壇が浮かんでいる。

 小舟を連結させて造った木製の簡易祭壇。

 その祭壇上には、銀色の長剣を持った制服姿の少女―――なんと、暁緋紗乃ではなく相方の剣巫が対策を任されているではないか。

 きっと唯里の表情は緊張に強張っているだろうが、祭壇に横たえられた巫女装束を着せられた暁凪沙を守護する任をきちんと努めている。

 

(うん。こっちも負けてられない)

 

 弓手として鍛えた鷹の目で見届けた志緒は、己の任に意識を戻す。

 『神縄湖』を一望できる展望駐車場。

 今ここには無人偵察機を運用するための管制車や整備用トラック、軽装甲機動車などの偵察車両に大口径火器を装備した装輪装甲車といった自衛隊の車両で埋め尽くされている。

 これだけあれば、小さな都市のひとつふたつを制圧可能だろう。

 

 彼らは、防衛大臣直轄の自衛隊『特殊攻魔連隊』――魔導災害対策専門の攻撃的な特殊部隊だ。

 

 今回の作戦で『三聖』が率いる獅子王機関と連携を取り、<黒殻>の眠りを見守りまた鎮めてきた神緒田神社の神職・暁緋紗乃の采配によって動いている。

 そのちょうど『神縄湖』の様子がうかがえる場所に、斐川志緒―――と彼女が監視している暁牙城がいた。

 

「―――よお、安座真三等特佐殿」

 

 髭面をポリポリと掻きながら、気安く監視対象が声をかけた迷彩服の男性。

 見た感じ30代前後の年齢で、猟犬を思わせる風貌の、背の高い男は、この『特殊攻魔連隊』の部隊指揮官だ。

 牙城の斜め後ろにいた志緒に気づいて短く敬礼をするその対応は、こちらを小娘と侮る気配は微塵も感じさせず、そしてこちらも気を引き締め直される、若いが有能な指揮官なのだろう。

 で、

 

「どうよ、<黒殻>の現状は?」

 

 ちょ暁牙城!? とあまりの無遠慮さに慌てる志緒。だが、安座真の方は、大して咎めることもなく、低い声で受け答えする。

 

「活性化は進行しているな。殻内圧力は48時間で1.25%の上昇。表面の魔力濃度は基準値の774倍―――危険域に達している」

 

「そうか。このままだと、最悪、市街地にまで被害が出るかもしれねぇな」

 

「わかっている。そうなる前に事態を収拾する。そのために我々はここにいる。―――そうだろ、斐川攻魔官?」

 

「あ、はい、もちろん」

 

 この獅子王機関とは勝手が違う陣営の中で、安座真に呼びかけられた、借りてきた猫のように大人しかった志緒は頷く。

 

「暁師範(せんせい)にはお世話になってもらったことがあってね。その伝手で、暁牙城と知り合いなのだよ」

 

「そ、そうなんですか」

 

 本当にこの男は考古学者じゃないのか? 自衛隊にも顔見知りがいたとか、どれだけのコネを持っているのだろうか。と志緒は、この風来坊な男の脅威度を上方修正する。

 

「いやしかし、この子は真面目ちゃんでね。ちょーっと、凪沙の顔を見に『神縄湖』に行こうとするとすぐ邪魔しにくるんだ。本当に参ったもんだよ」

 

「当然だ。緋沙乃様からあなたの監視を任されてるんだからな」

 

「ちぇ、ちょっとくらいあの婆の言うことなんざ無視してもいいだろうが」

 

 あからさまにすねるポーズを取ってくる牙城に、ムッとする志緒。

 余程、娘の凪沙が心配なのだろうが、こちらがふと目を離した隙に、儀式場へと行こうとするのだから油断がならない。一体もうあれから何度止めたことだろうか。

 そんな大人げない牙城を、頼れる大人な安座真は苦笑して、諌める。

 

「こらこら。あまり斐川攻魔官を困らせる真似をするものではない。一応、君は一般市民なのだから」

 

「それで、昨夜の侵入者(ネズミ)はどうなってる? 一般市民として徹夜でガキの頃に遊び回った森の中を探してみたんだが、見当たらねぇ」

 

「こちらもまだ見つかっていない」 しかし、安座真は不敵に微笑を返した。 「相手の情報を得ている。霊力と魔力による攻撃とは相性が悪いみたいだが、我々の銃火器ならば問題ない。山狩りの最中にでも見つけたら、蜂の巣にしてやろうではないか」

 

「お、頼もしいねぇ。さっすが自衛隊様だ。税金分の活躍は期待してもいいんだよな?」

 

「もちろんだ。……ただ、『神縄湖』には入れなくてね。あそこは、今作戦のもっとも重要なポイントであり、巫女しか許されない神聖な儀式場。暁師範にも警備の進言をしたのだが、自衛隊にも立ち入りを禁じられている」

 

「ちっ、あの妖怪婆……」

 

 牙城が悪態を吐いてところで、安座真は志緒をテントの中へと誘う。

 

「そうだ。斐川攻魔官。昨夜の侵入者についての情報、暁師範と(くらき)卿から話を聞いているが、直接対峙した君からも伺いたい―――どうぞ、こちらへ」

 

「……はい、わかりました」

 

 曖昧に濁した返事をする志緒。

 羽波唯里が気づいた、あの黒衣の青年が振るっていたのは、『零式突撃降魔双槍』だ。『廃棄兵器』とも称されるその失敗作だが、あれは獅子王機関が開発した武神具であって、ならば、あの男は獅子王機関と関わりがあるのだろう。

 今は共同作戦をとっているが本来『特殊攻魔連隊』は別組織であって、政治的にこちらの恥部を曝してしまうようなことは避けるべきか。

 いやいや、ここは大事な作戦前で足並みは揃えておくべきか。

 この事情聴取で、どこまで話していいものかと悩む志緒は、無人のテント内に入り―――

 

 

神縄湖

 

 

 不死にして不滅。一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ災厄の化身たる十二の眷獣を従え、人の血を啜り、殺戮し、破壊する―――世界の理から外れた非情な吸血鬼。

 その怪物がこの国のどこかに出現し、獅子王機関の誰かが、彼を抹殺するために派遣されるのではないか、と今年の夏に入る少し前のころに、

 全寮制の名門女子高にして獅子王機関の養成施設でもある『高神の社』の生徒たちの間で噂立って、彼女たちを恐怖のどん底に突き落としていった。

 結局それは、根も葉もない噂である、とすぐに風化される花火のような一瞬の広がりであったが、羽波唯里はそれが真実であったと教えられた。

 そう、獅子王機関『三聖』、閑古詠から、<第四真祖>の正体が、絃神島に住む高校生であり、自身と同い年であること―――そして、彼の監視役として派遣される剣巫の候補に、羽波唯里の名前が挙がっていること。

 それに最初は驚き、そして恐怖したが、しかし同時にかすかな期待もした。

 つまり同い年の男子であるところの<第四真祖>を監視しているうちにラブコメチックなイベントが発生するのではないか、という甘い期待だ。これはルームメイトも知らないことだが、唯里の愛読書は少女向けのベタな恋愛漫画である。

 

 けれど、その話は『七式突撃降魔機槍』を上手く扱えなかったことで流された。

 獅子王機関の秘奥兵器は、使用者に合わせた調整ができないもので、使い手の能力(レベル)技量(スキル)ではなく、武器との相性が求められる。それは『三聖』であっても同じ。そして、<第四真祖>の監視役という危険任務には、この秘奥兵器の能力を完全に引き出せる者が望ましい、と。

 

 また、羽波唯里は、孤児ではない。

 

 全国から霊媒資質のある少女たちを集める、または保護する『高神の社』の中では珍しく、唯里には家族がいた。両親は獅子王機関の職員であって、また年の近い弟がいる。

 もちろん、親の七光りで剣巫になったつもりはないが、家族に配慮して監視役の第一候補から外されたというのは、考えられることだ。

 だから、一つ下だけど優秀で『七式突撃降魔機槍』の使い手にも選ばれ、そして、孤児である姫柊雪菜が<第四真祖>に監視役に派遣されて、そのことを唯里は今も負い目に感じている。

 

 

 そして、秋の中ごろ。

 

 

 人間と魔族の禁忌の混血。黒死皇の血統を引いた獣王にして、万象を破壊する凶狼―――現代最後に完了した殺神兵器。

 それについての噂が流れ、そして、それを獅子王機関が監視または獲得(スカウト)しようとしているという話も広まった。先の<第四真祖>のように有名ではなく、その異名も『高神の社』の女学生には知らないものばかり。ただ、存在が不確定ではなく、実在されている脅威とされていた。

 曰く、<第四真祖>の後続機(コウハイ)

 曰く、舞威姫に禁呪をかけられ、巫女たちに手を出せない。

 曰く、生粋の『壊し屋』で、師家様の後釜候補。

 曰く、『三聖』の『闇白奈』が欲している。

 と割と身近な人たちが関わっているようで、その中の寮で同室であって、謹慎中で帰還していた煌坂紗矢華が話してくれたところによると、『あの子は噂されるような人面獣心の怪物なんてものじゃないし、人畜無害なんだけど、すっごくヤンチャで、ちょっと目を離すと何をしでかすかわからないから心配させられる』とのこと。師家様こと縁堂縁にも気に入られており、剣巫の唯里や雪菜よりも白兵戦が上手だと褒めていた。

 この二人の全体評からして、唯里は、自分の年の近い弟のことを思い浮かべた。それなら、自分でも監視役ができるかもしれない。そう、今度こそ……と唯里は覚悟を決め、

 そして、禁呪をかけたとして英雄視された紗矢華をライバル視している、同じ舞威姫の志緒が『だったら、私が監視役をやってやる! 紗矢華よりも完璧に御してみせる!』と息巻いていたけど、結局、その話は太史局に任されることになった……

 

 

 そして、冬。

 

 

 今、唯里は、<第四真祖>の妹であり、<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の一体を憑依させている暁凪沙の護衛に大抜擢されていた。

 最後の会議まではその役は、彼女の祖母でもあり、伝説的な攻魔師である暁緋紗乃がするはずであったが、その緋紗乃からこの未熟な剣巫である唯里を代役にと推してきたのだ。

 見習いの唯里に、最高ランクの機密情報である『聖殲』に関する知識もなく、そもそも<黒殻>の正体や、今回の作戦の具体的な内容までも知らされていなかった。

 そして昨夜の襲撃者に対して、相方と連携を取っても手も足も出ずに追いつめられた。

 さらに上位層の人間たちが皆、あの中にあるのは『聖殲』の遺産、すなわち殺神兵器であると警戒している中で、『脅威というには少し違う。あの<黒殻>は災厄そのものではなくて。ただ眠っているだけというか、何かを護っているような感じがします』と一人見当違いな所感を述べてしまった。

 

 なのに、唯里は緋紗乃の鶴の一声によって暁凪沙の護衛役になった。

 

 唯里は緊張し、しかしそれに負けないくらいの気合いを入れていた。

 すでに同期には、真祖の監視をしている剣巫や、獣王に禁呪を施した舞威姫などと一線で活躍している者たちがいて、ならば、唯里もそれに続く貢献をするべきだ。

 

「あそこに……『聖殲』の遺産が……」

 

 下に目を凝らせばこの透明な湖の底に、巻貝に似た闇色の多面体が沈んでいる。

 黒い真珠にも似た表面、陽炎のように不規則に揺らぐ、生物と人工物の両方の特徴を兼ね備えた異質の物体。地上にある如何なる物質にも似ていない。

 あれがこの神緒田の土地に眠る災厄を封じるための結界――<黒殻>。

 

「でも……あれって、本当に……封印、なのかな?」

 

 拭えぬしこりのようなとっかかりを抱えたまま儀式が始まり、眠っている暁凪沙、その髪が変色する。光の加減で刻々と色を変える金髪、逆巻く炎のような虹色の髪へ―――

 

 あれは凪沙ではなく、アヴローラ=フロレスティーナ。

 かつての<第四真祖>であり、十二番目のアヴローラ。

 

 これまで優秀な巫女を“人柱”に捧げてきた神緒田の秘儀だが、今回は違う。

 生贄とするのは人ではなく、魔族。それも暁凪沙が現世に意識を留めさせているだけの、ほぼ死人と変わらないその魂をだ。

 

 薄らと朝霧に包まれ、静かに凪いだ水面を晒す『神縄湖』

 ここに小舟を足場の支えとし、注連縄を周囲に張り巡らせて供物を捧げた湖上の祭壇は、生贄の霊体を抽出し、湖底の<黒殻>へ送り込むための舞台装置。今の凪沙は、『三聖』の力により、霊体は肉体から一時的に切り離されている。生贄として使われるのは、彼女の肉体に残されたもうひとつの霊体――即ち、アヴローラの魂だけだ。

 

「これが、白奈様の力……!」

 

 湖底で内圧が高まり続けて今にも紙風船のように破裂しそうな<黒殻>を包み囲うよう、その枝根の威容を水中に拡張させていく樹木。

 それは巨大な樹木のように束ねられた霊糸だ。その『三聖』の白髪より伸びる一本一本は霊視にも覚れないほどに細く、けれど、この霊糸こそが他人の霊体を自在に操る能力の触媒であった。

 『闇白奈』は、千年以上もかけて記憶と霊力を受け継ぎ、力を高めてきた一族の末裔。生まれつきの呪いにも似た彼女たちの在り方は、不老不死の吸血鬼とも共通点がある。

 そして、積み重ねてきたこの力。

 災厄じみた力を有する<焔光の夜伯>の一体の魂を、人の技で掌握せんとするその無謀。だが、その不可能を可能にしてこそ、『三聖』は魔族の王たちも警戒する国内最強の攻魔師なのだ。

 唯里が見ている中で、祭壇から伸びた霊樹の幹は、<黒殻>へ到達。『十二番目』の霊体に残されていた魔力を吸い上げようと脈動を開始する。

 

「え―――」

 

 剣巫の霊視が、これまでに感じたことのない異変を捉えた。

 亀裂が走る<黒殻>。

 その隙間より這い出てくる無数の影。

 

 なに……あれ……?

 

 反射的に柄を手にした『六式降魔剣・改』を握る力を強める唯里。

 有機生命体のシルエットでありながら、人工物のような質感。頭部は蜂のような複眼で、鋼色に輝く肉体、尾は“蛇”のように長い。

 

 まさか、あれが<蜂蛇>―――!

 

 羽波唯里が確認できたのはそこまでだった。

 

 異変はそこでとどまらず、<黒殻>も、『三聖』の霊糸も、すべてを凍てつかせる濃密な魔力な波動が解き放たれた。

 そのあまりに膨大な魔力は、太陽を直視してしまったかのように、唯里の霊視()を眩ませたのだ。

 

 

『アヴローラ! 駄目えぇ―――――――――!』

 

 

 霊体だけの少女が、叫ぶ声。

 それに気を取り戻したか、唯里はまだ盲目なれど、骨身に沁み込まれた剣技を振るい―――

 

 

神縄湖付近

 

 

 神緒田地区の大地が揺れた。

 地震のような断続的な揺れではない、巨大な錘が間近に落ちてきたような、瞬間的な衝撃だ。

 震源はおそらく『神縄湖』―――たった今、儀式が行われているはずの方角。

 しかし魔力を含んだ霊気の霧が、そこで何が起こっているかの事態を隠蔽して、ただ漠然とした胸騒ぎだけしかつかめないでいる。

 気温も真冬とはいえ、一瞬にして景色全体に霜がつくという異様な寒波が襲い、続いて“それ”が現れる。

 

 鋼色に輝く異形の怪物。

 全長は3、4mほど、雀蜂に似た頭部と蛇の胴体、そして翼竜のような翼。

 その鱗は通常のライフル弾程度では貫通できるものではなく、偵察用の高機動車を主体とした『特殊攻魔連隊』の装備では、火力不足。

 その戦闘力は破格の強さというわけではないが、獅子王機関の攻魔師が手古摺る程度に厄介だ。

 それが1体や2体ではなく、視界に入るだけでも20以上の大軍で、空を埋め尽くすような勢いで迫っているのだ。

 陣を敷いている自衛隊の戦力では、今はかろうじて拮抗ができても、この強い魔力を帯びた霧のせいで、無線や呪術による通信は阻害されている。この状況下で、湖の周辺一帯に散らばる隊員たちを連携させるのは難しく、いずれは戦局は一方的なものに傾くであろう。このままでは―――

 

「硬い体ですか。化け蟹の類を相手にしていると思えば、なんとかなりますか」

 

 鋼色の魔獣が十体近くも暴れる渦中に、減速することなく飛び込んだ小さな影。その道着姿の老女は手にした長物を無造作に振るい、一伐必殺と魔獣の群を撃墜させていく。それも意識をなくした白髪の少女を背負いながら。

 冴え渡る薙刀の武技で無双するのは、暁緋紗乃。

 切先は演舞のように。

 魔獣たちは地に顔を擦りつけてから、ようやく切られたことを覚るだろう。

 現代兵器の通用しない怪物を、薙刀一本でズタズタにしていく快刀乱麻の活躍は劣勢であった自衛隊の士気を盛り返した。

 70歳近い老女とは思えぬ身軽さで極寒の戦場を駆け、時折、危機に陥った隊員を助けながら、中心地である『神縄湖』へ向かう。

 

 だが、鋼色の魔獣――<蜂蛇>は、『神縄湖』に近づこうとすればするほど、抵抗を激しくしていく。

 まさに巣を狙う外敵から護らんと集団で攻撃する獰猛な雀蜂のよう。功を競うかのように魔獣たちは襲い掛かる。

 彼女の迅速な武技を以てすれば、凶撃のひとつやふたつは容易く掻い潜って返す太刀で伐り伏せよう。だが、密度の増した群は、スクラムを組んだようにひとつの津波となっていた。飲み込まれず津波を払いのけるには、速さだけでなく、重い撃でなくてはダメだ。

 いくら一騎当千の強者であっても、やはり老体の身。体力の衰えは隠せず、そして、振るっている得物も鋼の鱗を幾度も斬りつけて原形を維持できていられるものではなく。

 

「やはり最後まで保ちませんか。歳は取りたくないものですね―――」

 

 薙刀の耐久性がついに限界を超えて、刃が欠けた。呪力の供給量が追い付かずに刃を強化していた術式が解除されてしまったのも刃毀れの原因だ。

 

「ですが、内部への打撃はそれなりに有効なようですね」

 

 と今度は素手で魔獣らを殴り飛ばしていく緋紗乃。また複眼の頭部を踏みつけ天狗の御業の如き跳躍を見せる。それは、鰐鮫を足場にして海を渡ろうとした因幡の白兎のよう。

 彼女の猛進を<蜂蛇>は止められず、『神縄湖』への防衛線を突破させられた。

 しかし、依然と緋紗乃の表情は険しいまま。

 

 あの娘――羽波唯里攻魔官の言葉通り。

 “<黒殻>は封印などではない”。人間たちは利用されていた。生贄の巫女から吸い上げていたのは霊力だけではなく、知識も。

 そして、花粉を虫に運ばせる植物のように、時を満ちるのを測っていた。

 

 この見立てが正しいとするのならば、今回の獅子王機関の作戦は、前提からして間違っていたということになる。

 『十二番目のアヴローラ』を生贄にささげた結果、彼女の知識を手に入れた<黒殻>は災厄を目覚めさせた。

 

 真に恐ろしいのは、この<蛇蜂>ではない。

 伝承には鋼色の魔獣たちは、災厄の先触れに過ぎない。ならば、まだ湖底に魔獣たちの主が潜んでいるのではないか。

 これらが真の災厄に寄生していた取り巻きに過ぎないというのであれば、これほどの数の魔獣を従えられる存在など、吸血鬼の真祖に匹敵するものだろう。

 

 一秒でも早く凪沙の下へ―――!

 

 

「―――お急ぎのようですが、その“荷物”、私が始末しましょうか?」

 

 

 瞬間、緋沙乃は声がした方向へ、攻撃用の式神を放っていた。

 ハヤブサに似た銀色の猛禽が、弾丸並の速度で襲い掛かる。呪術の専門家から見ても、寒気が覚えるほど見事な攻撃術式だ。

 だが20体を超える緋沙乃の式神は、悉く、砕け散るように消滅する。

 防御されたわけでも、撃ち落とされたわけでもない。式神としての機能を失って、完全に無効化されたのだ。

 

「怖い怖い。全盛期であったころのあなたでは、私など相手にならなかったでしょう。しかし、今は醜く衰えた」

 

 黒衣の青年は、緋沙乃を嘲笑し、構えた漆黒の双槍より霊力を無効化する力場を発生させる。

 途端、これまで魔獣相手に膝をつくことがなかった緋沙乃が頽れた。術で老体を身体強化していた呪力を剥奪されて、若かりし頃より半分以下に筋力の衰弱した老女は、少女一人の重さも支えきれなくなったのだ。

 

「っ、これが……<冥餓狼>ですか、絃神冥駕……!?」

 

「あなたは尊敬に値する伝説的な攻魔師だ。しかし、『零式突撃降魔双槍』で霊力を封じられれば、ただの人間に過ぎない。老いることのない私に敵う道理もない! ―――さあ、『三聖』の身柄をこちらに渡せ!」

 

 緋沙乃が、『闇白奈』を背負っているのは、護衛のためだ。

 儀式に霊糸の力を使っている間、自身の霊体まで幽体離脱して抜けてしまうので、器の肉体は無防備となってしまうのだ。

 だから、この瞬間が、襲撃者に最も狙われる。

 

「さもなくば、冬佳の師であったあなたであろうと容赦はしない!」

 

 振るわれた漆黒の刃が、緋沙乃が盾に構えた薙刀を甲高い音を立てて砕き、彼女の身体を地面に叩きつけた―――

 

「青二才にまだ後れを取るつもりはないですよ」

 

 ガッ、と打ち付けた双槍を抱きかかえるように押さえつける緋沙乃。道着の下に着こんであった帷子(かたびら)。それが致命傷となるのを免れた。

 そして、

 

 

「復讐者となるにはまだまだ甘いな、『冥狼』」

 

 

 狸寝入りをしていた『闇』が起きる。

 そして、すでに。その白髪から伸びる不可視の霊糸が一本、青年の背をついていた。

 

「『零式突撃降魔双槍』―――霊力も魔力も打ち消す厄介な武神具であるが、それが一度に両方を消すことのできない『廃棄兵器』であることは、造った貴様ならば当然知っていよう」

 

「ぐっ……クラキィ……!」

 

 出来損ないの人造吸血鬼――『僵屍鬼(キョンシー)』であっても、その霊体を縛られては、動きが封じられる。

 『零式突撃降魔双槍』は、霊力と魔力を両方一度に打ち消すことができないからこそ、失敗作。

 暁緋沙乃の霊力を封じようにも、『闇白奈』の魔力までを禁じることはできず、緋沙乃が双槍を受けた隙に不意を突いて仕留めた。

 

「もう、貴様は指一本と動かせぬ。儂が力を使っている間が恰好の隙ができると知ってそこを狙ってくるのが読めれば、罠にはめるのは簡単だろう?」

 

 緋沙乃の背から降りて、自らの足で立つ白髪の少女。

 抵抗を続ける冥駕に、『闇』はさらなる霊糸を繋いで屈服させ、『零式突撃降魔双槍』を手放させた。

 

「潔癖症の閑とは違って、儂は『聖殲』の知識を有する貴様は、排除すべきと考えている。飼い主の手を噛んでくるような『冥狼(イヌ)』は特にな」

 

 蜘蛛の巣にかかった獲物をどう調理しようかと嗜虐的な笑みを浮かべる『闇』は、そこで胸を押さえながら立ち上がる緋沙乃に細められた視線を向けられる。

 

「白奈……彼は殺さずに捕縛すると……」

 

「殺さずというが、すでにこいつは死人だ緋沙乃。それに儂の勘からして、『冥狼』は疾く葬ってやった方が良い」

 

 絃神冥駕という男の脅威度を高く見ている『闇』はこの好機を逃す気はない。

 そこでまた新たな足音を耳にする。

 

「緋沙乃様―――! 白奈様―――!」

 

 銀弓――『六式降魔弓・改』を手にする舞威姫――斐川志緒が、二人のもとに駆け付ける。

 

「斐川志緒……牙城はどうしたのです?」

 

 開口一番に、緋沙乃が監視を命じていた息子の不在を咎めると、志緒は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません。この異常事態に暁牙城を見失ってしまい……それに、唯里がこの先に……!」

 

 昼行燈だが相手の隙を見つけるのが上手い息子ならば、小娘の監視からもたやすく免れよう。それが仲間想いであり、その危機に焦った心境であるのならばなおさら。

 

「失態だぞ、斐川志緒―――と言いたいところだが、ちょうどいいとこに来た」

 

「え、白奈様……?」

 

「昨夜の襲撃者だ。この男に止めをさせ」

 

 その命令に、瞠目して志緒は白奈を見た。

 

「今、こいつは儂の霊糸で金縛(しば)り動けぬ。『六式降魔弓・改』で一思いにやってやれ」

 

 息を呑む志緒。

 舞威姫は、呪術と暗殺の専門家。しかし、同時に志緒は年相応の少女であることに変わりはない。

 人としか思えない者を殺せ、と命じられて固まってしまうのも無理はなく―――しかし、一呼吸で、意識の切り替えを行い、銀弓に呪矢を番えた。

 

「最期に言い残すことはあるか、『冥狼』」

 

 冥駕は凍った地面に屈しながら、白髪の支配者を睨み、そして、称賛するかのように湛えてみせる。

 

「黒を白にするその忌々しい力。盤上の駒すべてを己のものとするそれは、一度術中にはまればこれほどに恐ろしいものはないでしょう。それでこそ、吸血鬼の真祖たちですら一目置く獅子王機関『三聖』だ―――」

 

 ―――矢が放たれた。

 

 

神縄湖

 

 

 その肉体は氷河のように透明。氷の人魚、あるいは妖鳥(セイレーン)

 人間の女性の上半身に、魚尾の下半身、そして背には翼を生やし、鋭い鉤爪をもった、吸血鬼の眷獣―――アヴローラ=フロレスティーナが封印する彼女の分身体<妖姫の蒼氷(アルレシヤ・グラキエス)

 

 環境をも激変させるからこそ、世界最強の吸血鬼の眷獣は天災の化身だと畏れられる。

 

 羽ばたきに吹雪く膨大な魔力は、『神縄湖』を瞬く間に凍りつかせる。

 水も空気も、液体も気体も、あらゆるものが固体と成り果てる真空零度の別天地。たった一振りの猛威で吹かれる突風に触れた湖全体、またそこに存在する全気体もまとめて固体化させてしまい、温度どころか気圧まで絶対の零に落としてしまう。重力自体は存在しても、感覚的にはほどんど太陽の光が届かない遠い宇宙に放り捨てられるようなもの。

 膨大な魔力を秘めた<黒殻>といえども、その凍気の前にはひとたまりもない。

 

 

 そして、青い光が閃き―――『神縄湖』と呼ばれていた場所はすべて、渦を巻く巨大な氷の結晶に変わる。爆心地からの余波は周囲の山々をも純白の霧と氷雪に覆いつくした。

 

 

「何だったの、あの力……『六式降魔剣・改』がなかったら絶対死んでたよ」

 

 単純に絶対低温による収縮と脆化により凍結するか、酸欠で果てるか、高山病のように血液成分が壊されるか、圧力差により体内から臓物を吐き出して悶死するか。

 この様々な死因が複合する白一色の地獄の中に唯里が生き残れたのは、ひとえに『六式降魔剣・改』の空間断絶にて熱をも真空遮断する絶対の盾に守られたからだろう。地獄が顕現したその一瞬に、あらゆる攻撃を防ぐ絶対的な障壁が張れたことで直接的に危機を免れることができた。

 おかげで唯里の剣がかろうじて薙ぎ払えた範囲と、その背後―――祭壇の一部と、そこに祀られた寝台に眠っていた暁凪沙は、護れたはずだ。

 これはここにいたのが獅子王機関から『六式降魔剣・改』を与えられた唯里でなかったら、ひとりも生存は叶わなかったろう。暁凪沙の護衛を唯里に命じた暁緋沙乃の判断が結果的に正解であったといえる。

 

「っ……凪沙さんは!?」

 

 すでに眷獣の脅威は消え去った。しかし、急激な気温の低下によって空気が白く凍り付き、魔力の余韻を含んだ冷気の霧に視界を白に染め上げられていた。

 この濃密な凍気と魔力のホワイトアウトに、中心地にいながら『神縄湖』の現状を把握しきれない。ただ、今、足場としているこの純白の平原の正体が、凍り付いた湖面であることだけはわかる。

 総貯水量6000万tを超える人工の貯水湖、その広大な水面がすべて完全に凍りついているのだ。

 凍結によって増加した体積の分だけ、湖面は氷山のように険しく盛り上がり、氷雪混じりの切り裂く寒風が吹き荒れるので、歩くだけでも困難な状況下。

 呪力を使い寒さに耐えつつ、唯里は必死に護衛対象である少女を探す。

 

「どこ!? どこにいるの……!?」

 

 360度を純白のスクリーンで覆い尽されたこの銀世界、距離も方角もわからないのだ。痕跡など見当たるまい。

 また魔力の暴発の影響により、湖面を覆う霧は強い魔力を帯びているため、剣巫の霊視は上手く働かず、探索用の式神も使うことができない。

 かといってこんな極低温の環境下に放置していたら、5分か10分で薄着の巫女服のまま無防備に眠り続ける少女の肉体は人間樹氷となってしまいかねない。

 

「そ、そうだ、無線機」

 

 唯里はコートのポケットに入れていたごつい無線機を取り出す。祭壇の護衛任務に就く前に、自衛隊から借りてきたものだ。慣れない機械に四苦八苦しながらも通話状態にしたが、しかしスピーカーから流れだしたのは、がりがりと耳障りな雑音のみ。

 応答も何もない。

 

「なんで……なんでつながらないの……!?」

 

 頼る術もない状況に、唯里は力なく立ち尽くしてしまう。

 きっと異変に、湖を監視していた自衛隊の部隊も巻き込まれてしまったのだろう。それに魔力を帯びた霧は電波障害も起こしていた。

 寒い。

 吹き付けてくる寒風に晒されて、思わず弱音を零したくなる。

 いずれにしても、今の状況では唯里ひとりで暁凪沙を捜し出すのは不可能だ。一度、自衛隊の作戦本部に戻って救援を仰ぐべき―――でも、どこに?

 視界不良の最中に、どうやって作戦本部の方角に見当をつける。勘を頼りにやるしかないだろう。

 だが、焦って周りを見るばかり足元が疎かになってしまったのだろう。うっかり足を滑らせて、唯里は見事にバランスを崩す。

 

「きゃあああっ!」

 

 深々と抉れた氷の斜面を滑り台のように滑落する唯里。

 氷の裂け目(クレバス)、その直前にまで滑り落ちた。巨大な怪物が這い出した痕跡のような、凄まじく深い裂け目(クレバス)で、深さはおそらく4、50mは超えており、それでも氷の底は見えない。

 半ば上体が身を乗り出してしまって、ゾッとする。

 そして、この人造湖に貯蓄されている水のすべてが、完全に凍結しているのは間違いなかった。

 それもあの秘儀の最中に出現した異界からの召喚獣―――真祖の眷獣の力。こんなかつてない規模の魔導災害に直面していることを改めて思い知らされて、唯里は怯えたように首を振る。

 

 そして、見た。

 

「魔獣!?」

 

 霧を撹拌する異様な羽音。

 慌てて身構えた唯里に迫ってきたのは、鋼の鱗に包まれた、蜂と蛇を掛け合わせたような魔獣である。あの湖底で垣間見た、<蜂蛇>と呼ばれる種族(タイプ)なのかもしれない。

 だが、放つ気配は人工的で、『高神の社』にて教わった魔獣のものとは違う。そのせいで唯里の反応が遅れた。『六式降魔剣・改』を構える余裕はない。ならば―――

 

「―――<伏雷>っ!」

 

 魔獣の頭を紫電と共に蹴り飛ばす唯里。呪力の篭った渾身の一撃は、しかし<蜂蛇>の硬殻に通らなかった。反動で蹴った唯里が逆に足首を痛める。

 

 硬い……!

 ―――でも確か、この手合いを倒すには、内側から……!

 

 体勢を立て直し、再度、<蜂蛇>の懐に潜り込み、内部破壊の剣巫の技を放つ。

 

「―――<(ゆらぎ)>っ!」

 

 唯里が叩き込んだ必殺の呪力が、魔獣の体内で炸裂。鋼色の魔獣の巨体が、一度微動して、沈黙した。

 

 効いた!

 これなら―――!

 

 この一瞬に、『六式降魔剣・改』を振り上げる唯里。

 空間ごと斬り裂く剣撃に耐えられる魔獣など存在しない。

 

「っ……!」

 

 だが、両断する直前に中断して、唯里は下がった。

 仲間の危機を救援する、新たな<蜂蛇>の群が、次々と唯里に殺到してきたのだ。

 その数は、70、いや80……ひょっとすると100を超えているかもしれない。空一面が鋼色に染める魔獣の軍勢。

 

「は―――ああ、あ……!」

 

 体力、霊力共に未だ半分を残していながら、剣巫は終着に追い込まれていく。

 無理もない。

 この圧倒的な数、過酷な環境下。味方となるものがひとつとてない孤独な戦場。

 体力の前に心が折れるのは、当然の帰結だろう。

 

「嘘……こんなの、無理……絶対無理……!」

 

 遠雷とも地響きともつかぬ終末の音が聴こえてくる。

 魔獣の群れだけでは飽き足らず、ついに氷結された湖底より、魔獣たちの将が現れるか。

 

「あ、ぁ―――」

 

 助けて、と形作る紫色の唇。

 こうして孤軍奮戦が荼毘に付す。

 願わくば、愚昧だった彼女の決意が、今際の悲鳴に貶められぬよう。

 

 

 そして、

 

 

「―――この騒動、止めに来た」

 

 

 その愚昧さは、新たな乱入者の参上に、心強いものに変わることを。

 

 

???

 

 

 あの子を使って、何をする気……?

 

 人柱……もしかして生贄ってこと? まさか、あの子を……!?

 

 ダメだよ、それはダメ……!

 

 違うの! そうじゃないんだよ!

 

 あれは封印なんかじゃないの。監視してたのは、あの子の方なんだよ。あの子を起こしちゃいけなかったの!

 

 ……ダメ……やめて……

 

 アヴローラ! 駄目えぇ―――――――――!

 

 

 

 ……ダメ、だった。

 救おうとした者たちに救われる、救いようのないのが、あたし。

 

(………)

 

 ……ああ。

 認識が、蘇る。

 記憶が繋がり、感覚が連動し、ひとつずつ蘇っていく。

 自分がどうなっているのか、やっとのことで把握する。

 

(……こ、こは)

 

 もつれる思考をもどかしく思いながら、周囲を探る。

 そこは、闇に包まれていた。

 透明な湖底の中に幽体離脱された霊体を鎮めていた―――一瞬で切り替わったように、そこが闇に染め上り、自分を包み込んだ。<黒殻>より溢れ出したものが、『神縄湖』を変化させてしまっていた。それを阻まんと、凍結させた“彼女”。

 まるで、湖がひとつの卵と化したかのようだった。

 あたしはまた、視ていることしかできなかった。

 あのとき、<黒殻(あれ)>が何であるかを覚り、そして、そこに“人柱”に捧げられんとした“彼女”に手を伸ばそうとして―――一緒に取り込まれてしまった。

 暴れてみたが、霊体は指一本ろくに動かない。

 『触覚過適応』と霊感には何ひとつ反応がないのに、体中が鎖で縛られているかのようだった。

 

(っ……!)

 

 歯噛みする。

 また、この有様なのか。

 ここまで来て、誰よりも早く真相に辿り着きながら、何もできないままなのか。

 

(お願い……

 

 誰か……

 

 止めて―――)

 

 誰にも届かぬはずのその思念(こえ)

 

 

『わかった―――待ってろ』

 

 

 それに応える思念に、肌が震えた。

 

 

ベズヴィルド

 

 

 ピピピッ、と腕時計から設定されたアラーム音が鳴る。

 同時、奪われた力が戻り―――“その声”を聴いた。

 

「わかった」

 

 南宮クロウは、立つ。

 もう十分、『待て』の時間は終わった。限界までしならせた弓のように、あとは矢を解き放つだけ。

 

「フォリりん―――悪いが、オレはもう行く」

 

 現状、装甲飛行船<ベズヴィルド>は、本土に到着したばかり。対地高度は約2500mで、そこから一応は丹沢山地を一望できるところまで来ている。

 そして、つい先ほど、高度な魔導技術を誇るアルディギア王国製の観測機器が、『神縄湖』に出現した巨大な魔力源の存在をはっきりとらえている。暫定的に<蜂蛇(ドローン)>と名付けられた魔獣の群の存在もだ。

 また『戦王領域』のアルデアル公のクルーズ船も東京湾に停泊しており、ネウストリア国籍のティルトローター機も『神縄湖』上空で目撃。ロタリンギアや『混沌界域』も目を光らせていることだろう。

 

 その注目を集める中心地点(グラウンド・ゼロ)

 そこへ行く、と客人(クロウ)は言う。

 

「理由を尋ねようか?」

 

 そして、それをイブリスベールが阻んだ。

 甲板に出ようとしたクロウの前に立ちはだかる、真祖直系の王子。

 

「教えてやろう。あそこは死地となる。全ての魔族を滅ぼそうとする賊が死に物狂いで来るぞ」

 

「なるほど……この展開は予想されていた、というわけですか、殿下?」

 

 瞳に好奇の光をたたえてラ=フォリアが訊く。

 状況を俯瞰する<ベズヴィルド>の望遠カメラには、<蜂蛇>だけでなく、『神縄湖』から数km離れた山中の空き地に展開する所属不明の部隊も捕捉している。大型トレーラーを含む装甲車両が全部で3台、兵力の規模こそ小さいが、霧に紛れるように隠れ潜んでいる不気味な存在だ。

 彼らは自衛隊(JSDF)の部隊ではない。

 『神縄湖』を包囲している『特殊攻魔連隊』の目的は、出現した魔獣の封じ込めのはず。すでに戦闘が始まった状態で、わずかな戦力を伏兵のように配置する理由はないのだ。

 彼ら所属不明部隊の指揮系統は、明らかに自衛隊とは別物。むしろ敵対しているようにも見える。

 そして、おそらくその答えを知る者がここにひとり。

 そちらに顔を向けず、クロウと対峙したままイブリスベールは淡々と答えた。

 

「『聖殲派』―――咎神カインを奉じる狂信者(テロリスト)だ。あの地に眠っている『鍵』を奪いに来たのだろうな」

 

 会話に参加せず聴衆である船員たちがその言葉の意味に息を呑んだ。

 大地を血で汚し、世界から追放された『咎神』の力を以て、魔獣魔族の存在しない、清浄で平等な世界を実現させようとする―――それが、『聖殲派』。

 

「この俺がわざわざこの僻地にまで出張ってきたのはそれが理由だ。<焔光の夜伯>の『十三番目』、<第四真祖>の“後続機”と呼ばれながら、咎神の殺神兵器である雑種には、余計な因縁が付けられるだろうよ。そもそも雑種は『魔族特区』以外の人間たちの土地に受け入れられるものではない。それでも赴くか」

 

 全身のいたる箇所に巻かれた包帯を解き、屈伸して準備運動をするクロウに再度訊ねるイブリスベール。

 

「ん。面倒なのはイヤだけど、それは今大変な凪沙ちゃんには関係のない話」

 

「<第四真祖>の妹か。ならば、その命懸けの働きに対し、娘子は一体何をして雑種に報いているのだ?」

 

 興味本位でイブリスベールは訊ねる。

 何がこの『混血』を動かしているのかを。

 

「何でそんなことを考える? 困っていたら助けたいと思うのは間違っちゃいないことだって、『魔族特区(しま)』で学んだぞ。だから、オレは助けたいと思ったから助ける。それ以上の理由がいるのか?」

 

「……間違ってはいない……か」

 

 打算の欠片もなく、そう言い切ったクロウの回答に、イブリスベールが失笑した。

 

「あそこがおっかないのはわかるぞ。絃神島の外は勝手が違うのもわかってる。でも、あのおっかないところに人がいっぱいいる。護りたいものを護ろうとするヤツらがいる。犠牲になる必要のない行為なら食い止めたい。せいせんは、とかいうのも半殺し程度で済ませたいのだ。オレはご主人にみんなを救ってこいと言われたからな」

 

「なるほど、どうやら俺は、いささか見誤っていたようだ……俺が思う以上に傲慢だな、クロウ」

 

 イブリスベールは呆れたような、そしてどこか感心したような晴れやかな表情で笑った。

 

「あう?」 ときょとんと思わぬ自己評に傾げるクロウ。

 

「無自覚か、雑種。特別な理由もなく、己の望むままに行動し、敵の生き死にすら己の裁量で決める―――それは絶対強者にのみ許された思考、王者の特権だ。とても飼い犬(サーヴァント)になどと収まらぬ大器よ。もしくは底抜けの愚か者か」

 

 ニィ……と。

 真祖直系の王子は、愉快極まりない笑みを浮かべながら、腕を組んで告げる。

 

「良いだろう、雑種。俺が協力してやる。だが、『獣王(おう)』を名乗れ。俺は並び立つと認めるものが道化(ピエロ)であることは許せん」

 

 二人のやりとりの決着に、王女もまた薄らと静かに微笑み、

 

「でしたら、アルディギアも一枚かませてください殿下。私もこのイベントに一石を投じてみたいと思っていたところなので」

 

 

 

空間跳躍(テレポート)チャンバー起動! 跳躍目標は『神縄湖』!」

 

 緊迫した声のオペレータに、中世の海賊(バイキング)を連想させるごつい風貌の船長が、ご機嫌な王女に苦笑を返しながら、

 

「準備は整ったようですが、姫様の無茶ぶりに応えるのは大変ですな」

 

 <ベズヴィルド>の現在地から、『神縄湖』までの直線距離は、まだ20km以上はあるだろう。

 それだけの長距離を空間跳躍で移動するのは、ほぼ不可能。空間制御に必要な魔術演算量は、移動距離に比例して指数関数的に増加するものだ。

 単独でそのような離れ業ができる空間制御に特化した<空隙の魔女>がいるが、あれは例外だ。

 しかし<ベズヴィルド>に搭載された戦艦級の精霊炉を利用し、演算精度の不足を復活した<黒妖犬>の魔力量で補えれば、強引に空間を安定させることはできる。精霊炉に加え、真祖直系の『旧き世代』の吸血鬼の膨大な魔力が後押しされれば、この不可能は可能となる。

 当然、その跳躍は一方通行であり、単騎の飛び込みとなるだろうが、

 

「―――覚悟はいいな、坊主。これだけの長距離をやるのは初めてだ。だから、何が何でも耐えろ」

 

「ああ、お願いだキャプテン」

 

 船体下部の空間跳躍チャンパーで待機しているクロウ。空間制御の魔術が彫り込まれた転送室(チャンパー)

 クロウは己を見送る皆、ラ=フォリア、ユスティナ、船長、そして見届けんとするイブリスベールそれぞれに視線を返して、転送装置が起動する。

 

 普段の南宮那月に付き添う空間跳躍とは比較にならないくらい乱雑な、凄まじい空間の揺らぎがクロウを襲う。

 全ての力は両の足に。

 爆発しそうな滾りに、床がたわむ。

 景色が歪んでいく。

 歪みが広がり、虚空に穴を穿ち―――そこへ一気に飛び込む。

 

 瞬間、全ての世界が後方へ流れ去った。

 

 急激な加速を行ったように、視界は暗転(ブラックアウト)―――空間認識を完全に剥奪され、天地も方角もわからない移動の直中に放り込まれる。

 因果律を崩壊させる一歩手前の極限速度、光速の数%に及ぶ瞬時のうちに空間上の異なる二点間を繋ぐ距離を突破し―――

 

 

???

 

 

 ―――その、瞬間。

 

 闇が砕けるのを、見た。

 強烈な光が闇を貫き、まるで硝子のように砕き散らしたのだ。

 同時に、自分を拘束していた重圧も解け、ぐらりと落下していく不安を覚えさせる浮遊感。ひどく頼りない感覚で、永遠にどこでもない場所へ落ちていくのではないかとも思われた。

 

(ああ……っ!)

 

 声が、でてしまう。

 恐ろしさよりも、心細さが強かった。

 凍てつく暗闇に囚われて、まだそんな感情(こころ)があったのか。

 それでも、信じた。

 待ってろと、そう言ってくれた少年を。

 光の中から、見覚えのある手が伸びた気がした。

 墜落していく少女の霊体は、その光の方へ、必死で手を伸ばした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――その、瞬間。

 

 少年も見た。

 どこにいるか、観測機器でも座標位置はわからない。巫女の霊視すら騙し抜くような吹雪の結界だ。だから、覚えていた“匂い”を頼りに、願う。

 会いたいと思った少女、彼女を探しに、いや、必ず見つけなければならない。

 

 

 

『彼の優しき巫女の御魂は、此処だ“コウハイ”―――』

 

 

 

 凍てつく暗闇の向こうに輝く虹色の焔。

 

「…………!」

 

 声も出ないその空間の中で、少年は叫んだ。

 喉も裂けよと叫びながら、ひたすらに手を伸ばした。

 捕まえたと思ったその刹那、重力が再び自分の身体を捉えるのを感じた。

 

 

神縄湖

 

 

 視界が変わり、気圧が変わった。

 世界は突然に色を取り戻し、重力と共に正常へと復帰する。

 

「―――っ!」

 

 クロウが到達した瞬間、その周囲、半径4、5mほどに衝撃波が荒れ狂い、凍れる湖中が球体状の空間が穿たれる。更にその上数十m以内の凍れる湖面が罅割れ、外に出る裂け目(クレバス)の出口を作り出した。これは長距離空間跳躍の余波であったが、ここが通常の市街地なら、大惨事となるところだろう。

 しかしクロウは無事。強靭な肉体に瞬時に張った生体障壁。

 強烈な魔力酔いが脳内をかき回すも、しかし、それはすぐに抜けた。

 後は静かなもので、多少クラクラとはしたが、ダメージはまったくない。

 そして、闘争本能をもった獣の王であり、空間跳躍には慣れている。飛空艇から全く違う場所へと“跳ばされた”直後でありながら、その“匂い”を認識できた時点で、凍れる世界に取り残されている現状を、立ちどころのうちに理解した。

 

「―――クロウ、君」

 

「凪沙ちゃん」

 

 腕の中を見る。

 純白の巫女衣装をまとった少女は、そこにいた。

 プリズムのように光の加減で色を変える淡い金髪をなびかせ、ただ瞳だけは元の黒いままの瞳でこちらを見上げ、弱々しげに微笑んでいた。

 心配になるぐらい冷え切った、軽い身体であった。

 

「本当に……来てくれたんだ……」

 

 まだ一月と経っていないはずなのに、その声を聞くのはもう何年振りの事のように思えた。

 

「……約束したからな」

 

 強く抱きしめるのを、クロウはぐっと押し殺した。

 

「今度はちゃんと守れたか?」

 

「………」

 

 凪沙の声が、沈黙する。

 つい今までたくさん言いたいことがあったのに、直前に急ブレーキをかけられてしまったかのような、妙な躊躇い方だった。

 

「凪沙ちゃん!?」

 

「ぁ……」

 

「眠いのか、凪沙ちゃん! 駄目だぞ、こんなところで寝ちゃ!?」

 

「その……あのね……」

 

 言葉を淀ませる凪沙に、クロウが眉を寄せた。

 

「何だ? 何か、問題があるのか?」

 

 すると、

 

「……ごめんなさい」

 

 たまりかねたように、少女は言ったのだ。

 

「…………………………あう?」

 

「きっと今しか言えないから。眠ると忘れちゃうから! クロウ君から“一番”を奪ってしまったこと!」

 

「…………」

 

 今度は、クロウがポカンとする番だった。

 その記憶がないからわからない、だけどこの少女の慟哭は、ひどく胸にしみた。ポカンと口を開いてしまって、何度も瞬きをしてしまって、それから難しくしかめっ面な表情を作った。

 

「……わからん」

 

 と、思わず口にしてしまった。

 それが“一番”を奪い、それまでの彼を否定(こわ)してしまったことの有り様をまざまざと見せつけられたようで、

 

「……ごめんなさい」

 

 謝るしかない。

 蚊の鳴くような声。ほとんど可聴域の限界に挑戦するような、ひどくか細い声音。

 しかし、クロウにはハッキリと聞こえている。ただ、聴こえていても理解はできなかった。

 

「……どうしてそんなことを謝るのか、わからん」

 

 自分がどんな表情をしているのか、凪沙にはわからなかった。

 ただ、こんな状況だというのに、彼の声だけしか聞こえなくなった。突然、ふたりだけ真っ白な世界に放り込まれたような気がした。

 

「ごめん。理由をオレにもわかりやすく教えてくれ」

 

「だ、だから、クロウ君から、あたしが“一番”を奪ったの! それでクロウ君が壊れちゃったの! 道具のように扱われるのがイヤで、でも、そんなクロウ君を変えちゃったのは結局、あたしの都合のいいようにしたことと変わりないから! ―――だから、あたしが好きになっちゃいけなくて……でも、クロウ君のこと大好きなの!」

 

 少女の声は、支離滅裂な、まるで駄々をこねる子供のようだった。まだ夢見心地が抜け切らず、半分寝ぼけているような状態だから、大胆になれるのか。

 いつもとまるで違っていて、それでいて、いつも通りという気もした。

 

「…………」

 

 クロウも、ひとつ深呼吸した。

 なんか、顔が熱くなった。汗が噴き出るのがわかって、でも嫌な汗ではなかった。

 この動悸の原因もよく理解できていないが、まあこのままでもいいかと、そんなことをクロウはぼんやりと思った。

 ひどく間抜けな事をしているようにも、とても大切なことをしているようにも思った

 

「……凪沙ちゃん」

 

 とりあえず、深層が表出している今の彼女が悩み苦しむのを放置しているわけにはいかない。

 実際、たった一秒が黄金にもまして貴重なときだろう。

 だけど、その貴重な一秒を、今この時だけは彼女に付き合うことに優先してやりたいと思った。

 

「凪沙ちゃんが何を言っているのか。オレには思い出すべきなんだろうけど、思い出せない。でも、そんなオレでもわかることはある」

 

 少年は、心中で苦笑する。

 壊れたものに責任を感じてしまっている少女を見て、『壊れないものを欲した』なんていう、思い返すだけで笑うしかない幼稚な願望を不意に思い出してしまったから。

 そんなものは存在しないことを、神さえ殺す怪物となった己はいい加減に自覚している。

 世界には、ふたつしかない。

 壊れたものと壊れるもの。

 死者と生者。

 過去と未来。

 結果と素因。

 『自分は死者よりも生者を優先する』というこの感情は、壊れるもの――まだ壊れていないものは、『壊れないもの』であるかもしれないという希望を夢見ていたのが正体だ。

 その感情とこの身に宿す毒とを、ひそやかにクロウは精査するように。胸を深呼吸の吐息が胸を撫でて、その奥底に沈んだ慨嘆と諦観を一緒に拾い上げながら、クロウ自身の結論を語る。

 

「壊れないものなんて、ない。どんなに大事でも壊れるのは、しょうがないものだ―――だけど、生命(いのち)は、“卵の殻は壊れないと生まれてこない”ものだぞ。だから、オレは、あの時、もういちど生まれたんだ」

 

 これでいい、と肯定する。

 壊れないものがあるから愛着するし、壊したから生まれるものもある。

 とはいえ、これは屁理屈なようなもので、少女に納得させなければ意味のない。

 

「だから、そう気に病むな」

 

「でも……」

 

「オレは、今のオレが気に入ってる。だって、オレは凪沙ちゃんが好きになってくれたこと嬉しかったからな」

 

「………っ」

 

 腕の中で、息を止める気配があった。

 

「そんなの…………聞いてないよ」

 

「ん? そうか?」

「そうだよ! 全然、一っ言もそんなこといわれてなかったよ! 『うんそうか。ありがとう』だけだったからね!」

 

 怒鳴られた。被せるような勢いでやられ耳がキーンと怯んだが、

 

「それでも、まだ気にするようなら、凪沙ちゃん」

 

 クロウは続きを言う。

 力一杯に抱きしめるには脆い身体に、強過ぎる腕力。だから、少女の罪悪と後悔の混ざった戸惑いを否定するように、精一杯に抱き寄せようとしようにも、ぎこちなくて。

 こんな不恰好にしかできないとしても、格好つけて言えるような言い回しは思い浮かばずとも、これは紛れもなく本音を伝える。

 

「……は、はい」

 

 

「……オレが、お前を好きになってもいいか?」

 

 

 できるだけ、優しく言った。

 壊れないように意識して、どこか照れくさくて、でも今想う気持ちを篭めた。

 だけど、抱きしめる腕に少しだけ力をこめた。

 ただ触れあうだけでも。

 この宣誓は、堅いものであると少女の肌の触覚に訴えるように。

 

「………」

 

 それにどれだけの効果があったのか。

 あれだけ冷たく、頑なだった凪沙の方から力が抜け、体温が伝わってくる。

 ……何日ぶりかはもう忘れたが、やっぱり今までと何も変わらない暁凪沙だった。

 抱きとめた感触も、肌の熱さも、香る“匂い”も変わらない。

 少女は抱きとめた少年の腕を振り解こうと抵抗することはなく、一筋頬を濡らして―――

 

 ………

 ………

 ………

 

 沈黙が長く、感じる―――そして、その沈黙は、いつのまにか気まずいものに変わっていた。

 

「『……………すまん、巫女は眠った』」

 

 と。

 抱く腕の力を緩めて、顔を見れるだけの間を開けるとそこに、“焔光の”瞳を伏し目がちにする“彼女”。元の黒目から目の色が変わった今の少女は暁凪沙ではなく、

 

「あー……お前、“センパイ”か?」

 

 “匂い”が切り替わったことは気づいたが。クロウは一応確認する。

 “彼女”は、虹色の金髪を揺らしながら間の悪そうに首を振り、

 

「『そうだ』」 途切れ途切れの声で“彼女”は説明する。 「『“コウハイ”の顔を見たとき、巫女は汝へ贖罪せんと、無理に表出したが……汝の赦しに、その責が薄れた』」

 

「ん……気楽になってくれたなら、よかったのだ」

 

 若干、消化不良な感じが否めないが、急に矢面に立たされた“彼女”に文句を言っても仕方がないだろう。とりあえず納得したようにクロウは相槌を打つ。

 張り詰めていたものが緩んだせいで肝心なところで寝落ちしてしまったような感じというか。

 それともまた別の要因があったのか。

 とにかく、

 

「凪沙ちゃんは無事なんだな?」

 

 クロウがそう尋ねれば、“彼女”は口元に笑みを洩らし、

 

「『彼の優しき巫女の御魂は、此方に―――後は、任せた“コウハイ”』」

 

 大切なものを愛おしむような、儚くも美しい微笑のまま、自らの胸元に両手を当てて、“彼女”もまた意識を落とした。

 クロウの腕の中に残るは、目を閉じた白装束の少女。

 これといって、その安心し切ったように緩む少女の寝顔に悪戯してやろうとかいう気が少年には起きることはなく―――早速、行動を開始した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――雷に撃たれたかのように<蜂蛇>が、失墜する。

 

 

 羽波唯里が見たその光景、裂け目から跳び出したかと思えば、ついでとばかりに飛んでいる鋼色の魔獣をハエか何かのように叩き落としていき、凍れる湖面に着地した。その鮮やかで軽やかな手際は思わず見惚れてしまいそうになるほど。

 だが、魔獣はまだ大量にいる。

 耳当て付き帽子、首巻、法被に手袋と重装備なその人影へ襲い掛かる。

 

「    ―――っ!」

 

 何か警告のようなことを魔獣たちに発しながら、その人影の全身が――筋肉が膨れ上がったように見えた。

 <蜂蛇>渾身の突進までの、一秒にも満たない刹那の間に、“背負ったもの”を一端、地に降ろす。

 武器も呪術も使わない。ただ真っ向から迎え打つつもりであった。

 

 激突の瞬間。人影は拳を振り上げながら身体を弓形の如く捻る溜めを作り、鋼色の魔獣にカウンターを叩き込もうとする。

 <蜂蛇>の飛行速度は純粋に速い。しかし突撃という性質上タイミングを合わせての反撃は容易い。まして何の計算もなく真っ直ぐにぶつかってくるのなら反動は半端では済まない威力となるだろう。

 ただし、3、4mの巨体で勢い付けて滑空攻撃してくる<蜂蛇>に真っ向からカウンターを喰らわせるなど、人間の膂力では無理な話で、そもそもその高速の移動を見切れるだけのずば抜けた動体視力と反射神経がなければタイミングを合わせるのも無理だろう。しかも武器ではなく拳を使おうとしているのだから、腕が千切れても何らおかしい事ではないはずだ。

 どこからどう見ても無謀にして蛮勇。だがしかし、そのとき、唯里が霊感で一瞬先の未来に視たのは―――撃沈された魔獣の姿であった。

 

 ―――   ドゴンッ!!!

 疾風の如き目を瞠っても手が霞む速さに、迅雷の如しと表現するのが相応しい遅れて耳に轟く力強さ。

 まさに天から落とされる神鳴りと形容させる、とんでもない拳鎚であった。

 それしか浮かばないほどに、圧倒させる一撃。自分の蹴撃が通用しなかった魔獣の鱗を素手で粉砕する。そして、インパクトの余波が凍れる大地に粉塵を撒き散らしたこの大暴力。

 

 ―――魔獣よ平伏せ、ここにいるのは“王”だ。

 

「な―――」

 

 唯里の絶句も当然だ。

 <蜂蛇>の群が飛ぶのを止め、恐れ引き下がるよう距離を取ったのだから。

 退治するのではなく、その覇気がこれ以上の反抗の無意味を悟らせたのだ。

 低知能な魔獣たちでも、圧巻され、怖気づかせる迫力。

 

 でも、そこで唯里はその人影が背負っていたもの―――捜していた少女に気づいた。

 

「あれは、凪沙さん……っ!」

 

 白装束の少女―――しかしそれを阻む人影。帽子と首巻の隙間から見える金瞳が、唯里に合わされた。

 瞬間、強烈な圧迫感を叩きつけてくる気配に、ぞくりと唯里の背筋が凍る。やはり、今の目の疑う一連の出来事は夢ではなく、魔獣を叩きのめしたのは幸運ではなく実力。

 コートの袖口を握り締め、唯里は寒さではないものに震える吐息を零した。

 そして―――

 

「凪沙さんから、離れて……っ!」

 

 脳裏に思い浮かべる、ひとりの後輩。華奢で儚げの容姿の彼女が、屈強な獣人族すら打ち倒す姿を何度も見てきた。

 憧れてきた姿、唯里なりに特訓を重ねてきたイメージを投影(トレース)する。

 

 斬り掛かってきた唯里を観察するようにその場から動かない人影が、剣を見てピクとわずかに反応する。

 

「む。それを受けるのはダメなヤツだな。一度、受けて反省したぞ」

 

 その弟に似た、まだ変声期を終えていない声から相手が年下の少年のものと悟る。

 

「『六式突撃降魔剣・改』―――っ!?」

 

 銀色の長剣から繰り出されるのは、あらゆる物体を斬り裂く空間断層の一撃。

 だが、その間合いを詰める寸前―――唯里よりも先に、“身をのべる”ような移動で詰められた。

 ふっ、と。目前に迫った少年の右掌が、振り払う前の銀色の長剣―――その柄頭を上から押さえるように、剣技の動作を止める。

 

(あ……)

 

 斬撃を受け切れないのならば、斬撃を放たせない。柄頭から滑らし剣を握る唯里の手と重ねるように手袋を付けた右手で抑える。

 そして、底の見えない裂け目(クレバス)の深奥をたった一度の跳躍で跳び越えてしまうことを考慮すれば、その脚力移動力は予想してしかるべきだった。

 

「でも、まだ―――!」

 

 剣巫は魔族と肉弾戦を挑めるほど白兵戦を修めた攻魔師。

 元々、抑え込まれた事態の為、小手返し程度の合気、関節の掌握法は唯里は習得している。

 魔獣をブッ飛ばす相手では柔よく剛も制すもないだろう。

 でも、相手を投げ倒す必要はない。柄から手を離させればいい。一度でも剣を振り抜ければこちらにチャンスが生まれる。

 

「ぬ、待て」

「待ちません―――!」

 

 体当たり―――片手で押さえられながら同じ速度で後退される。

 上段蹴り―――片手で右から左に運ぶように逸らされる。

 内部破壊―――片手で止められて、内力相殺される。

 

 一連の攻防はまるで踊るようだが、完全に“合わされている”。

 組技を仕掛けようにも躱される、ひとつの失手(ミス)もなく対処する相手の手練に、唯里は戦慄する。うち数撃は明らかに視界の外から打ち込んだというのに、手袋に包まれた左腕はまるで見えているかのように確実に剣巫の打ち込みを防ぎ通す。

 聴勁。功夫が達人の域となれば、視覚で敵を捉えることなく、腕と腕が触れ合った刹那に相手の次の動作を予測することが可能だと、戦法と拳法の達人である指導教官から話を聞かされたことがある。

 だから、死角を攻めようがない。

 剣巫の株を暴落させる白兵戦技術だ。腕力だけではこうはいかないだろう。

 

「いい加減に落ち着くのだ。誰だか知らないけど、獅子王機関っぽいし。姫柊といい、煌坂といい、師家様といい、獅子王機関というのはみんな最初挨拶代わりに襲い掛かってくるのか?」

 

 何かを言ってるようだが、今の唯里はランナーズハイとなっている走者のようにもう必死で、我武者羅に任務を果たさんと奮戦している。

 

「むぅ、ご主人に『五車の術』は―――っ! おい! 後ろ!」

 

「ぇ―――っ! その手には乗りません!」

 

 敵に注意をするような相手が一体どこにいる。

 一瞬、その切羽詰った言い方に振り返りかけたけど。

 相手の方が上手だとわかっているから、なおさら余所見など油断は侵すまい。

 

「だから、後ろだぞ! もう顔出してるのだ!」

 

 そこでようやく唯里も気づく。大気がかすかに震えていた。硬く凍てついた路面が、不規則に揺れている。巨大な質量の塊が動いているような異様な震動だ。

 え、まだ何かいるの……!?

 背後から差す巨大な影。五里霧中の白銀世界に、大入道が現れたかのように伸び上がる大きな影が唯里を呑む。

 後ろに目がないからわからないが、湖面にかかるその影絵(シルエット)から大まかに姿を予想できる。

 歪な刃物に似た広大な翼。装甲車すら華奢に見えるほどの逞しい四肢。狂暴な肉食トカゲに似た頭部。そして、二つの真紅の眼光。

 

 もしかして、今、私の背後にいるのは……

 

 脳裏に過ぎったのは、誰もがその名を知る最強の魔獣の名―――

 嘘……と唯里の唇が、引き攣るように震える。

 

 

 グォォォオオオオオオ―――ッッ!!!!!!

 

 

 純白の霧を吹き飛ばすその雄叫びは、もう間違いなく(ドラゴン)のものだ。

 吃驚して思わず跳び上がった唯里は、大きく足を滑らしてしまいそのままバランスを崩して転倒―――というところを寸前で掬い上げるように軽々と拾われた。

 今さっきまで戦っていた相手に。

 その細いながらもしっかりとした腕に抱きかかえられる。

 

「きゃあああっ!」

「おっと」

 

 とん、と人一人を持ったまま後ろへジャンプする。

 この怪獣映画にまず真っ先に喰われる第一発見者な役柄(ポジション)ながら、何気なく少女漫画に出てくるお姫様だっこなポーズに気付いた唯里がバタバタと手足を振り回す。しかしがっちりと捕まっているのでビクともしない。暴れれば暴れるほど、互いの身体が密着していく。

 

「きゃーーっ! きゃ、きゃああああっ!」

 

「むぅ、こうなったら、禁じ手を使う―――!」

 

 じたばた暴れる唯里の面前に手が翳されて―――

 

 

高神の社《》

 

 

『―――この子をあたしの後継にするから。よろしく頼むよ』

 

 

 数年前にそう言って師家様が森から拾ってきたひとりの男の子。普通の学校に通わせられず、でも、『魔族特区』には送らないので特別に『高神の社』で師家後継者という名目で育てることとなった。

 同じ年代で、けど異なる性別。しかしながら、特別、異性という感じがしない不思議な、弟みたいな少年。過去の境遇から男性蔑視の強いルームメイトのひとりでも、触れられても不快を表すことなく平気であるから、その無欲ぶりは筋金入りで、無垢な有り様はマスコットとみんなから可愛がられている。

 でも、その実力は剣巫候補の自分やユッキーでも敵わないくらい近接戦闘力がずば抜けていた。それも当然。師家様に<四仙拳>の指導教官の後釜としてみっちりと鍛えられているのだ。だけど、式神や武神具(どうぐ)の扱いには残念であるとアンバランスな才能。まるで、己自身を“ひとつの兵器(どうぐ)”としているような、そんな印象を受ける。

 

「あ、……」

 

 井戸水を汲み上げ、その殺人的な冷たさに身を震わせることなく、汗を洗い流す少年。

 幼いころから全寮制女子校で育ったここの女子生徒には、男性の裸身を生で視るのは、物心ついて以来一度もないだろう。だから、その普段の厚着の下に隠された、小柄な体躯にこれでもかと詰まったような重厚さを覚えさせる筋肉に覆われた彼の肉体は、見るものには圧巻で、目を奪われる――見惚れるものがある……と噂さ(言わ)れてたりする。

 だけど、師家様に扱かれているのを見たり、また獅子王機関の長たる『三聖』から仕事を頼まれてたりする彼は、一目――距離を置かれていて、自分やルームメイトたち以外のほとんどは遠巻きに窺っている。

 

 で当人は、そのようなことに慣れているのか気にもしせず、ぶるぶるっ、とまるで濡れた犬のように全身をぶるつかせて水気を飛ばす。

 

「ああもう……っ」

 

「ん、唯お姉ちゃん、訓練終ったのか?」

 

「終わったのか、じゃないよ。ダメでしょ、ちゃんとタオルで拭かなきゃ。風邪引いちゃうよ」

 

 いつも通り暢気に――昔の弟の口癖がうつってから、今もまだそのままな呼び名――反応する彼に、羽波唯里は大きく嘆息してみせる。いつのまにやら携帯するようになったタオルを取り出すと、彼のぼさぼさの頭をやや乱暴に拭いてやる。

 

「むむー」

 

「むむー、じゃないの。ほら、大人しくして」

 

 学内で、反則的なくらいギャップな肉体や触ったら大人の階段に昇れそうな素肌と称されるその鍛え込まれた肉体美だが、今更なことに唯里は照れない。この少年の世話を焼いているのは今に始まったことではなく、もう何度となくその感触を知っている。

 硬いようで、それほど硬くなく。体温が高く、そして、森に囲まれるような芳香が薫る……居候の身体。

 高神の森で訓練はさせても、流石に男子禁制の女子寮に宿泊はさせることはできないので、唯里の家族のいる羽波の実家より通わせているのだ。

 だから、もうほとんど身内。ここ最近、ませて反抗期を迎えた実弟と比べればこの純朴な少年は可愛くて、ついつい可愛がりたくなる。よくズルいと言われてるけどそこは姉特権で。だいたい異性だなんて意識するのは……

 

「実際問題、煌坂に隠密行動なんて無理だろ」

 

「なんですって!? どういう意味よ斐川志緒!」

 

 向こうから騒がしい声。

 舞威姫候補生の訓練が終わったのだろう。そして、その中でもトップを争う優等生で、ルームメイトである二人がいつものように言い争いをしている。

 

「今日の試験で勝ったからいい気になってるの?」

 

「いや、だって煌坂は目立つだろ?」

 

「悪かったわね、でかくて!」

 

 こめかみを引き攣らせながら攻撃的に唸る煌坂紗矢華。彼女はその低身長な唯里には羨ましいくらいのファッションモデル並の長身が、密かなコンプレックスなのだ。

 だけど、斐川志緒が言いたいのは、背ではなく胸の事で、食い違いが生じてしまっている。

 

「けなしてるわけじゃない。少し羨ましいという気持ちはある」

 

「あなただって別に小さくはないじゃない」

 

 あなたの身長は160cm前後と羨まれるほど小柄ではない、と紗矢華は言いたいのだろうけど、それで志緒が視線を落とすのは胸元。言うなればスリムと称されるような志緒のボディラインだが、グラマラスな紗矢華と比較するまでもなく、その体型には圧倒的に起伏が乏しかった。

 

「それは嫌味で言ってるのか?」

 

「は? なにそれ、あなたこそケンカを売ってるの?」

 

 バチッ、と両者の中間で火花が散った。

 眇めて睨み合う二人はこのままエスカレートすれば、口だけでなく手も出るような争いになる。

 だから、止めよう―――そう、唯里が呼び掛けるよりも早く、放たれた喝。

 

「―――二人とも、訓練後もピーチクパーチクするくらい元気が有り余ってるようなら、居残りで稽古付けてあげようかい」

 

「「師家様!?」」

 

 萌葱色の髪と瞳に、長く尖った耳が特徴的な長生(エルフ)族の女性――『高神の社』の師家様・縁堂縁が、ふたりの耳を引っ張り、訓練所へと逆戻りさせていく。

 

 して、一連のやり取りを傍観しながらも、勝手に動いていた手はその耳の穴まで水気を拭き終ってる。解放された少年は、上半身は裸のままタオルを首に掛けたスタイルで―――すっとこちらの面前に顔を寄せた。

 

「ぇ―――」

 

 ルームメイトからこちらの意識が戻った唯里の視界を占めるその顔。見慣れてる筈なのに、こうも至近で注目すると新たな発見が出てくる。

 日本には異色な褐色な肌、野性味を感じさせる端整な顔立ち、金色の瞳は綺麗で……そして、その常に巻かれている包帯の下の傷は、女子生徒の中ではルームメイトたちも知らない、私だけが知る秘密―――

 

 

「どうだ、背、追い抜いたぞ唯お姉ちゃん」

 

 

 ぽん、と頭に置かれた手で、その数cmの差を自慢げに見せてくる。

 いつの間にか閉じていた瞼を開き、そこで唯里は彼が背比べをしていたことに気づく。きっと舞威姫たちの会話に触発されたのだろう。

 もうこれくらいの身長差があるんだ、と驚かされ、でも、成長期に入ってるんだから抜かされるのも当然と納得する。

 

 だけど、そう―――そう、この行動(アクション)に初めて彼が男の子だって意識し―――いや、そんなのもうとっくに手遅れなくらい―――

 

(……するのに、理想的な身長差って確か……)

 

 頭では参考書(少女漫画雑誌)で得た知識を検索しながら、唯里は“あくまで姉として”、この軽々しく不意打ちじみたスキンシップを取ってくる年下の男の子にまずは正しい異性感や倫理を切々と説くことにした。

 

「……あのね。クロ君、姉さん女房をもらった方が男の人は幸せになれるってものの本で読んだことがあるの」

 

「? なんか唐突だけど、そうなのか唯お姉ちゃんは物知りだな。でも、それ前にも言ってなかったか? 金の草鞋がどうたらこうたらって」

 

「クロ君、復習と予習は大事だって、前に勉強を教えたときに言ったでしょ?」

 

「そうだったな。うー、でも、唯お姉ちゃんが言ってるようなことが書いてある教科書がないし、予習は無理だぞ……」

 

「そうね……じゃあ、私の部屋の本棚に『あなたはペット』ってタイトルの漫…参考書があるから、それを一冊ごとに読んで感想文を書いてね。私がきちんと採点するから」

 

 こうして、羽波唯里の『逆光源氏計画』は着々と………………………………………………………………………なんて、もし(IF)を夢見てたり。

 

 

神縄湖

 

 

「ふぇ……」

 

 羽波唯里が目覚めたとき、彼女は“白いもふもふとしたもの”の上に横たわっていた。

 はっ、と腕時計を見て、2、30分程度時間が経過していることを知る。それだけあれば拘束するには十分な時間で、けど、特に手足を縛られているわけでも猿轡を噛まされているわけでもなく、『六式降魔剣・改』は、手の届く距離のある壁に立てかけられていた。

 

「これは、かまくら……?」

 

 吹雪く白霞を遮る空間。そう、ここは結構大きなサイズな防寒壕(かまくら)。その語源は意外にも呪術神道的な意味合いもあり、“神の御座所”――『神座(かみくら)』が転じたものだとも言われる。

 そして、かまくらというのは合理的で、雪の壁の中に空気を溜め込むから、ダウンジャケットのような断熱効果が出る。多人数であればお互いの体温が中の空間を温めてくれる。

 

「うわぁ、やわらかいし、あたたかい……まるで動物の毛皮のよう……」

 

 でーん、とかまくらの中央に置かれる“天然羽毛”。その熱効果で、唯里の冷めていた心身は解されて、許されるのならば、永遠のあと五分をここで過ごしたい。

 でも、寝ているのは唯里だけではなく、

 

「凪沙さん」

 

 眠る巫女。

 白装束の薄着に、今は頭を寒さから護るよう耳付き帽子と首巻がつけられている。

 その前には付けていなかった防寒具が、先ほど対峙した相手のものと気づくが、彼はおらず―――代わりに、

 

「ままぁ……むにゃ……」

 

「へっ!?」

 

 視界の片隅にうつるそれに、唯里の目が点になる。

 そこにいたのは低身長な唯里よりもさらに小柄な女の子が、真っ白な羽毛に顔を埋めている。蕩けるようにふにゃけた、人懐こい微笑を浮かべた、可愛らしい少女だ。

 足首のあたりまで達している、鋼色の長髪。

 そして唯里を動揺したのは、羽織らせている蒼銀の法被(コート)以外、何ひとつ衣服の類を――下着でさえ――身に着けていないということだった。それでいて、少女自身は気にしている様子はない。

 

「な……あなた……なんで裸……!?」

 

 わなわなと震える指先を少女に向ける唯里。正体不明――ひょっとすると先程戦ってきた相手かもしれない――少女に対する警戒心よりも、心配の方が勝っている。

 いや、この中暖かいけど、外の気温を考えて全裸でいれば、凍死してしまうのでないかと思う。

 驚く唯里の様子に、鋼髪の少女は顔を持ち上げてそちらを向き、パチパチと瞬きしてから、可愛らしく小首を傾げ、

 

「みっ!」

 

「……み?」

 

 つられて思わず訊き返してしまう唯里。そんな唯里の反応が挨拶を交わしたようなものであったのか、少女は嬉しそうに目を大きくした。

 その瞳は、美しい鏡鉄鉱(ヘマタイト)のような鋼色。

 

「と、とりあえず、前はちゃんと閉じないと!」

 

 唯里は全開にオープンしてる法被の前を閉じてやる。少女にはぶかぶかと大きめのコートは、膝下までしっかり隠してくれるはず。

 

「おおー」

 

 前のボタンを留めてくれて少女は嬉しそう。だぼだぼの袖口をきゅっと摘まんで、嬉しそうに両手をパタパタと上下させて唯里に反応を返す。

 それに少し和んで―――ちらりとかまくらの出口から見える景色が唯里の視界に入った。

 そして、寒風に負けない元気のいい声が聴こえた。

 

 

 

「これぞ、『魔獣庭園』で鍛えた調教術、なのだ―――!」

 

 

 

 鋼色の魔獣の群―――が、ずらっと整列している。ウェーブするように端から順々に低頭……

 災厄の前触れと言われた<蜂蛇>を、カリスマ(獣)を発揮して治める褐色肌の銅髪金瞳の少年。

 顎の関節が外れたように、あんぐりと開いた口が塞がらない剣巫。

 言葉にならない悲鳴が口から洩れる。して、それに気づいた少年が、かまくらから顔を出す唯里の方へ向き、

 

「お、起きたみたいだな―――オレの名前は、南宮クロウだ。凪沙ちゃんに会いにここに来たんだけど、ごちゃごちゃして情報整理できないのだ。お前から現状について話を聞きたい」

 

 ―――それはこっちのセリフっ!? もうツッコミどころが多すぎるよ助けて志緒ちゃん……! と獅子王機関の剣巫・羽波唯里の悲痛な叫びが凍れる湖に響き渡った。

 

 

 

つづく

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