回想 人工島西地区 高級マンション
『はぁい、クロウちゃん、メリークリスマスだったり』
『? 師父、ご主人なら今部屋にいるけど何か用なのか?』
『今日の私は師父じゃなくてサンタクロースだったり! ほら、いつものチャイナドレスとは違うでしょ?』
『……?? さんた、くろーす?』
『あ、あれ?』
チャイムを鳴らして玄関で出迎えてくれた教え子に明るく時期の挨拶をすれば、時間のかかる検索のように反応が鈍い。
それに戸惑いを覚えた。
まさか幼稚園児でも知ってる、この『魔族特区』でも広まってる世界で最も有名な行事を、まったく知らない、なんてありえないだろう。
『クロウちゃん、クリスマスって知ってるよね?』
『ん……………そういえば、前に叶瀬がそんなこと話してた時にそんなこと言ってたな。それに最近、学校でも街でもそんな話題が聴こえてくるのだ。でも、なんなんだそれ?』
念のために確認してみると、記憶を探るように斜め上に視線をゆらゆらさせて、きょとんと首を傾げられる。
この子は、単語としてサンタクロースやクリスマスを聴いたことがあるのだろうが、体験がないのだ。
なんて非常識な事だろうか? と冷静に考え、すぐに答えを察する。
仙境並に俗世から隔離された秘境の大自然で生まれ育ったのだ。そして、
だからこの子は、先輩に拾われて覚えてきたことしか知らないのだ。
そして、それはまだ一年と経ってはおらず、また、この一年は存分に
それを想い、奥歯を噛み締め、心の中で拳を握った。
この子のせいでもないし、当事者のうちの誰のせいというわけでもないだろう。強いて言うなら運が悪かった。そして、火消しのできない
第一印象が大事といわれるが、入学したその日に、女子生徒を泣かしてしまったこの子は周囲から忌避され批難されるようになった。その日以降、あの子に対する苦情で、職員室会議にも話題が上ることもままある。盛大に失敗した学生デビューは中々に拭えるものではなく、残念ながらこの
しょうがないか……
思考を一端遮断。今日は悲しむ日ではなく、もちろん哀れむ日でもない。彼の時間はまだ動き始めたばかりなのだ。そう、凍てつく森から外へ踏み出している。ならば、知らないというのであれば、そのつど教えていけばいい。
『……毎年、12月にはね、クリスマスってイベントがあったり』
『いべんと……『波朧院フェスタ』みたいのか?』
『そう、お祭りだよクロウちゃん。25日がクリスマス、24日がクリスマス・イブ、それから23日はクリスマス・イブイブって呼ばれてたり』
『おお! 3日も続けてお祭なのか! なんかすごいな!』
『そうだよー。でね、すごいのはサンタだったりするのよ』
ぶんぶんと獣化はしてないのに尻尾を振ってるイメージが見えるくらいに興味津々なご様子。子供というのは騒がしくはしゃぐのが大好きであり、この子も例外ではない。ちょっと前まで野生児でも子供。いや、無知な分だけ無垢でより純粋だ。
この穢れない目から出される期待に、大人は誠意をもって応えねばならない。世間一般的なサンタ像をやや装飾して語り、それが終わったら次は質問時間が始まる。
『そうか、最近、街にいるのはそのサンタなのかー……でも、あんまり
『あれは、コスプレよコスプレ。衣装を真似ただけの別人。ほら、私と一緒だったり』
『じゃあ、本物はどこにいるのだ?』
『えっと……確か、欧州の北方にいたり』
『どんな格好してるのだ?』
『んー……太っちょのお爺さん、だったり』
『どうやって、一夜で世界中を回ってるのだ?』
『そうね……サンタさんは、空飛ぶソリを持ってたり。それを八頭の鹿ちゃんに引いてもらって、世界中を回ってるのよ』
『そうなのか。空飛ぶソリと鹿か。でも、オレが森で見た鹿は空を飛んだりしなかったけど……』
『そこはそれ。魔法だったり』
『うん、サンタは魔法が使えるのか。なら、納得なのだ。魔法で世界中を飛び回って、いいこにプレゼントを渡していくお爺さん……むぅ、ご主人でも
『うん、そうねー』
やや強引にだが、夢を壊さずに子供の質問時間を凌ぎ切った。
奇蹟的な純粋さと柔軟な思考は、サンタクロースの存在を受け入れたようで、その様子に安堵したが、それも次の会話で覆される。
『そうだな。欧州の北方って出身が近いところだけど、サンタに会ったことがないのも、しかたないぞ。オレは良い
と大して残念がってる様子もなく納得してしまうこの子の反応に、しまった、と説明の仕方を間違えたと悟り、すぐに訂正を入れる。
『それは違ったり。サンタさんはそこまですごくないというか、流石に森の奥までは行けなかったりするのよ』
『そうなのか?』
『そうそう、そうなの! だから、今年はクロウちゃんに先ぱ――サンタさんがきっと来てくれたり』
『オレのとこまで来てくれるのか?』
輝く瞳で見つめられ、笑顔で頷き返す。
『もちろん、クロウちゃんは良い子だから当然よ。そこは絶対、先生が保障したり』
『じゃあサンタに会えるのか?』
『それはダメだったり。夜更かしするとサンタさんは恥ずかしがり屋さんだから来てくれないみたいだったり』
寝入っていても途切れないこの子の覚知圏内で、存在を気づかれずに忍び入るのは、わりと
『いったいいつまで玄関で駄弁ってるつもりだ馬鹿犬二匹』
棘のある声を発するのは、見た目がお人形のようなこの住居と生徒の主人。
放置されてふて腐れた子供のように膨れっ面こそ作ってはいないが、それでも機嫌の悪そうな雰囲気を滲ませる。
『しつこい訪問販売なら話を聞かずに扉を閉めて鍵をしろと言ってあったはずだが馬鹿犬』
『あー、あー! 挨拶遅れてごめんなさい! でも呼んだのは那月先輩だったり!』
そうである。冬休みに入ってから、独身女教師の先輩後輩で飲み明かそうかと誘われてここに来たのだ。これで追い出されたら本当に寒空の下で独り寂しい聖夜をすることになる。
これ以上気を損ねない内に、慌てて靴を脱いで中に入る。
そして、リビングへ入ると、おおーっ! と驚く少年。
『師父を迎えに行ったら部屋の内装が変わってるのだ!? いつのまに!』
去年の二人で飲み会した時にはなかった天井や壁に施された飾り付けにクリスマスツリーの置物まである煌びやかなパーティ仕様。
おそらく空間制御の魔術を使って一瞬で作業を終わらせて、サプライズを狙ったものと思われる。先輩は口では大人アピールをするが、こういう茶目っ気というか、子供っぽい悪戯を好む。
して、この子は見事に期待通りのリアクションをとったのだろうが、特に成功したことの反応を表に出したりはしないという。今も『何を部屋の入り口で呆けてる。とっとと入れ馬鹿犬』と素っ気ない感じに言葉を飛ばしている。
素直じゃなかったり、と思わないでもないが、それを口にすればマンションの外まで飛ばされそうなのでしない。
『そういえば、ご主人、今日はクリスマス・イブっていうイベントなんだぞ』
『ふん、何だ貴様、そんな常識も知らなかったのか』
『う、さっき師父に教えてもらったのだ』
ちっ、と舌打ちする先輩。こちらを睨む目に『余計な事を……』とありありと不満が見えるよう。ひょっとして、先輩は自分でこの子に教えたかったのかもしれない。学校でも文句を言いながらも追試補習者の面倒を最後まで見ている教師であるからに、その実、教えたがりな性分をしている。
つまり、鳶に油揚げを掻っ攫われたようなものだろう。
鳶は七面鳥にされないよう、少年の背後でわたわたと拝み謝って、どうにか溜飲を下げてもらう。
そして、この会話の流れならば訊けると判断したか―――
『馬鹿犬は何か欲しいものはないのか?』
それは、きっと契約上は不要だが、先輩自身が納得したいがためのもの。いわば、自己満足。
この人里にこの子を連れてきたが、それでここまで迫害されるような状況になるものとは予想していなかったのだろう。予め窮屈な思いをすることになるとは言い含めてあったにしろ、先輩は表立ってこのいざこざに介入することはなかった。
だから。
褒美というよりも、見通しの甘さが招いた計算違いによる補填をしておきたいのだろう。
対して、初めて人里に降りて比較できる事例のない以上はこの窮屈さを当然のものとみなす少年に、そのような先輩の胸の裡を汲み取れるはずもなく、首を小さく傾げてこう返す。
『サンタは本当に何でもプレゼントを用意できるのか?』
『叶えられる範囲はあるだろうがな』
『ふぅん』
話に納得して。
呆気からんと、大した表情の変化もなく少年はこう続けて言ってのけた。
『もしもサンタと話ができたら、オレのじゃなくてご主人のを用意してもらうように言ってみるな』
『……、』
予想外の回答であった。
『ご主人にはたくさんもらったからな。少しでも返せたらと思ってるけど、オレにはご主人は何が欲しいのかよくわからないし、でも、サンタならできるのだ。サンタはご主人よりもすごいヤツみたいだからな。なあ、師父』
そして、納得のいく返答であった。
……ああ、そういうこと。これほどの不自由な環境でも、この子にとっては充足であった。
そして、満たしてくれた大部分は、先輩が与えてくれたものなのだ。
たとえそれが、ただ朝に挨拶をしてくれるだけという、取るに足りない、些細なものに過ぎなくとも。
きちんとあのときにした約束を果たしてくれていて、そんな彼女の
偶然なことに、この十代の前半にある思春期を区切りとして、この子は殺戮機械から少しずつ雪解けして人間になっていき―――先輩は当たり前の日常を捨てさり、少女時代の時間を凍結して魔女となった。
『……馬鹿犬、それはお子様の特権だ』
『むぅ、そうなのか。でも、ご主人、ちっこいし、サンタもセーフにしてくれるんじゃないのか』
『ほう、様付けを忘れるだけでなく、主人に向かってそのような戯言をほざくとは、どうやら躾が足りなかったとみる』
とにもかくにも、この子が何気なく口にしたのは、予想外で、氷解させられる答えであった。この先輩の中で、古傷となってしまった何かに柔らかい刺激を与える程度には。
彩海学園
時間にしてはまだそんなに経ってないという人もいるだろうけど、色々と思い募らされたこちらの体感として『大分』と頭についているといっても過言ではない、特にラッキーイベントを起こした当人の彼には反論は言わせたくない、久しぶりの顔合わせ。
兄に心配されていたが、自身でも過敏になっているのに気づいており、だからこの感情の整理がつかない内にその姿を見れば想いが破裂しかねない、と危惧していた。
だけど、朝、遅刻間際に彼と教室に入ったところで視線を合わさった時、思ったほどの動揺は現れなかった。
(あれ……? どうして……?)
胸に手を当てて考え込む。
落ち着いた? いやなんか冷めてる? 確かに千年の恋も冷めるような発言や行動をわりと頻繁にするけど、40点赤点ギリギリ上を通っている評価は相変わらずだけど、でもいつもついつい目で追って、それで目が合っただけで胸がときめいたり、何気ない仕草に一喜一憂したり、そしていざという時は王子様のように頼りになったりで……
―――なのになんだろうか、この“違う”という感覚は?
それに、覚えたのは違和感だけでなく、
(ううん、なんでクロウ君のこと、“怖い”、って思っちゃってるの……!?)
暁凪沙は克服したと思っていた、『
「悪いな、凪沙ちゃん。急に呼び出しちゃって」
「う、ううん、何かな、クロウ君?」
昼休み。食堂に向かわず凪沙がやってきたのは、校舎裏。ゴミ焼却炉の近くにあるそこは学園七不思議のひとつである『伝説(電設)のフェンス』があるところで、最初はお供えをすれば想い人と結ばれるという話だったが、現在では告白に
それと今日は、偶然が多発する事故の影響から学園全体で教師生徒問わず欠席者が続出しており、人目はない。
でも、凪沙は“一秒も待てない”緊張というよりも、“一秒でもここにいたくない”緊迫とした空気を覚えていた。
「用件は早くお昼食べないと時間がなくなっちゃうからさ」
「大丈夫。用件はすぐに終わるぞ。だから、そんな慌てないで、少しお話をしよう」
「う、ん……」
無垢な子供っぽい語り調子から大人びた、というより老成した雰囲気をその余裕の微笑から漂わせる彼、南宮クロウ。
上からくる威圧感ならぬ圧迫感が凪沙の頭に重石を乗せたように頷かせ、そのまま俯かせる。そして、喋りに誘われれば、余計なことまで吐いて、横道脱線がままある常人の三倍くらい忙しい凪沙の口から出たのは、言葉数が少ない返事。彼女の魅力のひとつでもある饒舌な賑やかさがやけに大人しい、この沈黙の違和感は半端ではなく、対峙した少年も数mmほど眉をひそめた。
それでも凪沙が逃げずここに留まっているのは、ひとえに『彼をもう二度と拒絶する真似はしたくない』という意思だ。
「といっても、話をしたいのはヌシではないのだがな」
「え―――」
暁凪沙の意識はそこで途切れた。
全身から力が抜け、意識は抗えぬ眠りに堕ちていく。
最後に凪沙が見たのは、獣性の滲み出た瞳。
火眼金睛の妖仙の瞳だった。
「
頽れた身柄を片腕で抱きかかえながら、脅し文句で急かす少年の皮を被る何か。暁凪沙の瞼がゆっくりともちあがる。同時、彼女の周囲に極寒の冷気が漂い、接触する敵を凍てつかさんとする。
しかし、その魔性の冷気は、同じく、そしてそれ以上の空間干渉力のあるものに遮られた。
少年の肉体より蒸気のように噴き上がる、吸血鬼の霧化とはまた違う、妖仙の霧。それは本来凍るはずの大気中の水分を取り込み、絶対零度の干渉を上書きしてしまう。
「無理じゃよ。真祖といえど分霊如きに滅ぼされるほど獣王は甘いものではないぞ。理解したのなら、無駄な抵抗を諦め大人しく話に応じるのが賢い選択じゃ。気が済むまで我慢比べに付きおうても構わぬが、これでは儂より先にその宿主が死ぬのう―――」
指摘され、魔力の放出を止める。それでも凪沙は突っぱねるように腕を突きだし、だが、腰を抱く腕の拘束は解かれない。
かつて、『宴』で力尽くでの吸血行為に及べたことからわかっているが、それが『原初』であろうとも肉体の
虹彩の開き切った虚ろな瞳が、『南宮クロウ』を険しく睨む。解けた長い髪が、ゆらりと流れ落ちていく。
「『汝は……』」
「安心せい。頼まれた伝言をするだけじゃ。ヌシの“
驚愕する凪沙を、依然と抱きとめたまま囁くように『南宮クロウ』は告げる。
「『これは、あたしの戦争。あなたは、微睡の中で何もしないで。それが“あたしたち”の願いでもあるのだから』―――確かに、伝えたぞ」
「『何故……
「ほれ、伝言はこれで終いじゃ。我らの姫は、ヌシと会うつもりはない。因縁を持たぬよう儂をつかわせて、自身からは遠ざけておるのだからな。夢へ堕ちるといい」
這わせるように撫でた後頭部に、刺さるは一匹の眠り虫。その蚊ほどの麻酔針にやられ、かっくりと糸が切れたように身を弛緩させ、眠らされる。
「―――凪沙に手を出しやがったのかクロウ!」
そのタイミングで、いつもの気怠さをどこかに置いてきた高等部の男子高生が乱入する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昼休み。
心の準備を終え……てはいないのだが、とりあえず、当初の予定通り、昼休みに後輩を呼び出そうと中等部の教室へ。
バレるとまた面倒になりそうなので、妹には内密に。つまり、古城の気配をいち早く察知してこちらに(注意しにやって)来てくれた、同じクラスメイトの監視役の少女に内通する協力者役をお願いして(大変呆れられ、最初は断られたがしつこく拝み倒して)、そしたらなんと教室からいなくなっていた。聞くところによると、古城が説得している間に校舎裏に誘われたと委員長と女子部活の後輩に教えられた。
(くそっ!)
悔やむ。
朝の親身になってくれた築島倫委員長に諭され、思い直したが、まさかこうも早く展開が進んでいたとは。世間体とか蹴っ飛ばして、教室に駆け込んでおけばよかった。
「―――凪沙に手を出しやがったのかクロウ!」
慌てて校舎裏に駆け付ければ、そこに気を失っている妹を抱きしめる後輩の姿が。
それは無理やり襲っているようにもみえ、せめて凪沙の意識があったのならばまだ説得できる余地はあったのだろうが、直感的に危機を把握した兄は問答無用で突っ込んだ。
てめぇなら、って信じてたのによぉ―――!
「っ、先輩ダメです! 落ち着いて―――」
ついてきた監視役の少女の制止を無視した古城は、魔力を滾らせながら、魔族の脚力で一気に踏み込む。
反省して殴りかかりはしないが、それでも胸ぐらをつかもうと手を伸ばし―――
「なんじゃそれは? 力があっても鈍らか。動きに切れ味がなさすぎる」
突き出した腕は空を切って、そして場面が切り替わったかのように古城は天を仰いでいた。
な……っ!?
驚きに呑まれる古城。カッとなったのはこちらで、向こうもただやられるだけのストレス発散のサンドバックではない。だが、反撃してくるとは思わなかったのだ。
しばらく意識が飛んだほどの強烈な一撃。それは肘だったか、それとも膝だったのかもわからないし、攻撃された瞬間さえも覚えていない。
「あなた、クロウ君……?」
仰向けから完全に立ち上がることはできずとも、揺れる頭を押さえながら上体を起こす古城を、駆け付け背中を支えて抱き起す雪菜は警戒の目をやる。
何じゃ今更気づくのか、と剣巫の反応を嘲るよう一笑する後輩。
「南宮那月のおらん学園の対応が遅いのはわかっておったが、それにしてもここはヌシの領土だろうに。こうも容易く占領されてどうする<第四真祖>」
後輩の身体より魔力が放出される。
『旧き世代』の吸血鬼にも匹敵するような魔力量と、周囲の大気が濁って視えるほど濃密な魔力質が実感できた。いや、この氷山の一角に触れることができた。はたして、現実を変革する術にして放たずとも、この魔力で暴れれば、どれほどの被害を出すだろうか。
対する古城、それに雪菜も、まだ完全に状況を理解していないというのに。
「テメェ、いったい……」
「はーい、ここから先は先生に任せてね、姫柊ちゃん、それに暁ちゃんのお兄ちゃん」
古城が誰何を口にする前に、こちらを制止する声があった。この一片の油断も許されぬ空気、この張り詰めた弦によく響く声。
おっとっとと転がり落ちるようにして、グラウンドの方からこの校舎裏へ、新たな人影が現れた。
チャイナドレスに身を包んだ、朗らかな容貌。
雪菜の担任教師である笹崎岬だ。
「先輩とは違って庇える余裕はなかったりするから、余計な手出しはしないでちょうだいね」
中等部の教師は、凪沙を捕える『南宮クロウ』を、そして古城たちを見て、苦笑交じりの愛想笑いを浮かべた。
「笹崎先生、これはいったい……」
「説明してあげたいのはやまやまなんだけど、迂闊に刺激を与えると大変だったから。でもちょうどいいからそのまま抱き着いて起こさないで。暁ちゃんのお兄ちゃんが暴れたりしないようにするのが、姫柊ちゃんのお仕事でなかったり?」
いつもと変わらぬ調子の言動であるも、それが担任としてではなく、同業者として注意を呼びかけることに気づく雪菜。
そして、笹崎岬は彼らを背に置いて、一歩前に出る。
「いつでも待ってる―――つまりずっと見てたんだけど、校舎内では生徒を巻き込んじゃうから見逃してたり。それにこちらも見られてたみたいだから、公社に応援を呼んで騒ぎを大きくすることもできずにいたのよね。だから、こうしてひとり離れてくれたのは好都合。といいたいところなんだけど、凪沙ちゃんを連れられちゃうとはね。まあ、害する気はなさそうだけど」
少年の皮を被った怪物へ、言い放つ。
「とりあえず、大事な生徒を置いて退場してくれたらありがたかったり」
手品師の挨拶代わりの一芸の如く、細い手首をくるりと軽く捻ると手の平に目にふわりと咲く。
それは鮮やかな桃色の花だった。
息を吹き込むように掌の花に口づけすると鋭く腕を翻す。
欧州における白手袋を相手に投げる決闘方式であるかのように、足元に放り捨て、花弁を散らせる。途端、舞い飛んだ花粉が妖仙の魔気で充満したこの場の大気を清め祓う。
“毒性のある気を呑んで”、“無害な
そんな技法で、息苦しいとさえ覚えていた魔力の圧を一掃する、剣巫が瞠目するほどの、鮮やかな手並み。
蓮の花。
泥水から凛と咲き誇る美しい花を目にして、化生の火眼金睛はくすりとも笑わなかった。
「儂を倒す、とな」
「彩海学園配属国家攻魔官、<仙姑>」
すう……と笹崎岬の瞳が音もなく細められていく。
保健体育を指導する無害で優しい教師のものとは、まったく別の異名が世界へ放たれた。
「……<四仙拳>と呼ばれてるけどその実、深山幽谷を物見遊山で渡り歩いてる内に見つけた桃を齧ったらあわや昇天しかけたお転婆娘だったり。まあでも、もう弟子卒業させちゃったけど、今では『獣王』とか呼ばれちゃってるクロウちゃんの師父だから、少なくともあなたみたいな手合いには慣れてると思うわね」
姫柊雪菜は、見誤っていた。
剣巫と舞威姫の訓練生を一気に相手取って楽勝した武術と仙術の達人……それと同じ称号が認められたのだから国家攻魔官に相応しい実力者であるのは理解していた。だが、それで測ったつもりでいたのは表層であったか。
<第四真祖>の力を封殺できる南宮那月がいるからこそ、先輩はこの彩海学園を通うことができる。それと同じように、身の内に『十二番目のアヴローラ』――かつての<第四真祖>の魂を眠らせる暁凪沙を、監督できるからこその彼女の担任教師に選ばれた。
裏の裏は表。本来であれば裏で管理しなければならない危険対象を、表の世界にいさせるためにその裏で支える、ひとりの女性であるのだ。
人並みの手加減を覚えさせるまで、彼女は眷獣を殴り飛ばせる、一撃で人体を粉砕できる『獣王』に付き合ったその手腕。
現在、<空隙の魔女>が不在であるこの彩海学園にいる人間側の最強。
それだけの矜持をもち、だからこそ、笹崎岬は理解していた……
「所詮ヌシは、人仙の道士。修行はしたが俗世から解脱できず、オマケ程度の力で満足した半端者の分際でようほざきよるわ」
蓮華とは、『荷花』。『八仙』の紅一点を示す
それだけに一目で力量を測り、己との差を妖仙はすでに悟っている。
「泥より出でて泥に染まらぬ蓮の花。儂の魔力を無害で清いだけの花に変化させるのは見事なものよ。じゃが花というのは命が短い。不滅の儂にいつまでも付き合えんだろうなぁ」
「命短し、恋せよ乙女ってね。ま、私はもう少女時代は過ぎてるし、これでも一応、仙女だからどうしても婚期は遅れそうになりそうだったり。それでも魔族と比べればまだまだ若輩者。けど先輩がいない、そして生徒がいる以上、逃げ込むわけにはいかなかったり」
「ひっひ、<空隙の魔女>は毅人に譲ったからちと遊び足りなくてのう。人間の道士がどれほどのものか久しぶりに見てやろうか」
こいつが那月ちゃんをやったのか!? と古城は目を丸くする。
朝のホームルーム、担任が学校を休んでいると報らされていたが、それは偶然に多発している海難事故の調査に駆り出されているものだとばかり古城は思っていた。
だがこの二人の会話と態度から察するに、どうやらあれは古城の知る
笹崎に制され、雪菜に抑えられ、そして、人質に捕まっている凪沙を見て、幾分か自重して思考の冷えた古城はそこで堪忍袋の緒が切れて飛び出しこそはしなかったが、それでも喧嘩っぽい突き放した声調で口を挟んだ。
「てめぇ……本当に那月ちゃんをやったのか?」
「ひっひ、儂は不滅にして、今世紀における『最古の獣王』<
と、面白おかしく語る。
無茶ぶりばかりしてくるがそれでも恩人といえる那月を虚仮にされたようで、カッと古城の頭に血が上るも、<白石猿>と間近に相対していながら、古城のように怒りや驚き、恐れといった感情の動きを、まったく表に出していない。学生時代から慕っていた先輩を相手の手中にあるというのに、その態度に変化はない。
単に古城の眼力が、彼女に及ばないからかもしれない。しかし、古城だけではなく雪菜から見ても、笹崎岬に感じるのは、いつも以上に自然で、軽い態度だった。個人的感情を、見事に排している。
『
その真髄を発揮しようとする道士に、人間味は限りなく希薄となる。感情や個性などという“生きた人間の持ち物”を手放しているのだ。
今の彼女の階梯はもはや道士ではなく、『尸解仙』を超えた先へ、人間が生身のまま達成できる限界点である『地仙』に至るか。
「これは、<神懸り>……!? ―――いえ、それよりもこれは、クロウ君の……!?」
信奉する高次存在を身に降ろす剣巫の禁じ手とも言える秘奥<神懸り>、人間性を喪失させるそれと似ている。しかしそれとは違い、外側からではなく内側から変化を生じさせていた。
道術とは、神を宿らせるのではなく、“神を超える存在を目指す”のが術理。
「『師は弟子を育て、弟子は師を育てる』というし、先輩程じゃあないけど、私も結構、影響を受けてたり」
存在を進化させる<神獣化>。その際に裡で起こっている気功の変動を参考にして洗練させたこれは、いうなれば、『真人化』とでもいうべきか。
「ほう……。昔に<四仙拳>は食ったことがあるが、『獣王』を弟子に取った変わり種は初めてじゃのう……」
ようやく、<白石猿>は暁凪沙の身柄を手放し、脇へ横たえさせる。
『真人』と化した笹崎の双眸にないを見たのか、口端に皺を作る後輩に似合わぬ老成した面貌で、クツクツと底冷えのする笑い声を洩らした。
「これは、童を抱いたまま片手間で遊べぬな」
そして。
相手はゆらりと揺れる構えを取り、腕をこちらへ差し向けた。
古城に見えたのはそこまでだった。
ズドッッッ!! と。
笹崎岬の胸の中心に、腕に生えた獣毛が更に変化した分厚い刃が突き刺さる。
「な」
意味が解らなかった。
ただただ混乱する。
一番槍をつけたのは、穂先の刃が紅々と燃え盛る槍の武具。
だが一本に留まらない。動き出しすら許さず、道士の全身をくまなく抉り、貫き、引き裂くように、続けざまに大量の『宝貝』が飛び出していく。
そうだ。
一つ一つで効果が違う魔具を、束ねた状態で解き放ったのだ。
ドガドガドガッ!! と鈍い音の乱舞だけが続いた。
痛覚はまだ脳に届かず。出血もまだ身体を破らず。もとより他人の肉体なのだからそう知覚する方がおかしい。だが“滅多刺しにされた”という確実な事実だけが古城の視覚を眩ませてくる。
何もないところから手品のように大量の魔具を吐き出したのも、そしてそれらが一斉にして一瞬に襲い掛かったのも、ちゃちな幻術ではなく、現実としてこうなっているのだ。
そう、すでに終わってしまったこの結果。
ただあまりの事態に理解が追い付いていないだけ。
落雷から数秒経って轟音が聴こえてくるように。
こんな“見るだけで痛苦”とも思えるものを目の当たりにして、リアクションが遅刻している。
そして。
どお、と音を立てて、女教師が倒れ伏す。
明らかに、命を失った者の倒れ方だった。
ようやく理解した脳が古城の口から叫びを放とうとし、
「―――っ!?」
地面に伏したそのとき、肉体は一枚の紙人形となっていた。
<紙兵>
即席の
―――続けて、<紙兵>は炸裂する。
強烈な光が、校舎裏をつんざいた。
「っ!?」
古城と雪菜が、共に呻く。
光圧の凄まじさに網膜を焼かれたのだ。それは単なる光ではなく、霊視すらも晦ませる呪力の込められた爆光だと、理解した。
そして、動揺がおさまり、回復した視界に映り込んだ光景は―――
「ひっひ。巧く隠れおったな。さて、どこにいるものかのう」
隠れた?
何を言ってるんだこいつは……?
「(……反応してはダメです、先輩)」
隣から、囁くような声があった。
姫柊?
つい反射的に首を向けようとしたら、寄り添うように身体を抑えていた監視役から尻を抓られた。それから、人差し指を使って太腿裏をなぞる恰好でいくつかの文字が記されていく。
『こ え を だ さ な い で バ レ ま す』
「どうしたんじゃヌシら?」
怪訝そうな顔を向けてくる
最初、まだ光で視界がやられてるのではないのかと思ったが、視野の端にいた古城たちの様子にまで気づくとは、そういうわけではないようだ。
すっ……と。
笹崎岬は躊躇なく、意識しないと目を引いてしまうような奇怪な歩法で間合いを詰め始めたのだから。
なのに、
「何でも……ねぇよ。もろに光を食らっちまってまだ目が変な感じがするだけだ」
言って、不自然ないよう古城は目を瞑って、視線から気取られないようにする。
「そうかのう。いや、あれは中々に熟達した手際よ。儂も少々意識が飛んでしまったわい」
……身を隠せる障害物は何もないというのに、やはり<白石猿>には<仙姑>が“見えていない”。もう、ここまで言ってしまうと気配を断つとかそういう次元ではない。
それは、仙術と武術の達人である<四仙拳>が、真人の境地に達してより極まった故に起こした現象。
解脱した仙人が世界を乱さぬものであるように、仙人の振るう道術は世界の法則を安定させるもの。
魔性を打ち消す『神格振動波』とは異なる、『道』という中庸を維持させるそれは性質中和をもたらす。
消しゴムで絵を消せばその跡は目立つものだが、限りなく色を薄くして背景に溶け込ませてしまえば痕跡は見当たらない。それを『園境』という天地と合一するだけではなく、相手の気に溶け込み、相手の呼吸に合わせて相手の感覚野に限定して己の存在情報を中和している。
笹崎岬が事前に
まだかくれんぼとばかりに遊ぶ気でいる相手―――その“油断”を最大限につける、最初で最後の
大胆不敵にも、極限まで存在を中和させた<仙姑>は海底を歩くようにゆっくりと音もなく、浮雲のように踏み足の重圧すら感じさせず、<白石猿>の傍まで近づく。
その気になれば、距離1cmまで自由に接近し、真正面から完全な不意打ちという不可能を可能とする。
そして、今、彼女の踏み込む奇怪な歩法は、<禹歩>。伝承に曰く『<禹歩>して虎狼蛇蝮に擲てば、皆即ち死す』とあるように、この二の打ち要らずの仙拳に『獣殺』の属性を付与する。
ズボァ!!!!!! と。
笹崎岬の細腕が、後輩――に化けた<白石猿>の鳩尾から容赦なく突き抜けた。
「……お……が……?」
不思議がるような声がこぼれ出た。
結局、最後まで、気づけなかったか。自分の肉体に巨大な風穴を開けられてようやくだ。その女性の細腕で、後輩に変身した身体を貫かれる真似をされる光景に、古城は若干頬を引くつかせる。そうするだけの余裕が取り戻せたのだ。
「ぶっぶがぁ! びぼどじゃっ! ひっび!」
風呂のパイプを掃除するときに生じる音でもこうはいかない汚い言葉を吐き出しながら、その妖仙の肉体は頽れた。
「……油断大敵、だったり」
聴き取り困難な賛辞を受け取った<仙姑>は引き抜いた右腕を掃って血振りすると、汚れてない左手で気を失って倒れている凪沙の腕を取って、軽く息を吹きかける。
東洋圏において魔術の基本とされる『吐息』。それは、ぼうっと昏睡の針で打ち込まれた妖仙の呪力を吹き飛ばす。これほど鮮やかに応急処置を施してみせるとなると、剣巫であっても驚嘆に値するものだ。
「うん。これで、凪沙ちゃんは、無事だった、り……っ」
「笹崎先生っ!」
ガクッ、とよろめいて、膝をつく岬。
<真人化>の反動だろうか。とにかく無茶をした国家攻魔官のもとへ、雪菜と古城は駆けつける。
「凪沙を助けてくれて、ありがとうございます、先生!」
「良いって、先生として、当然のことを、しただけだったり」
途切れがちな返事だが、岬は健在だった。雪菜の目から見ても虫の息だったが、達成感を噛み締めるように笑って見せる。ぐっ、と立ち上がろうとして―――<仙姑>は目を剥く。
「―――っ!」
刹那、女教師の身体が水平に吹き飛んだのだ。
数mも飛んで、ほとんど一回転した形で、地面へと激突する。
かは、と道士の肺から無理に吐息が押し出される。肺か気管が傷ついたのか、血が混じっていた。無理もない。まともな人間なら全身の骨が砕けるほどの衝撃であった。
「ひっひ、儂を一撃で倒すとは中々じゃったぞ。じゃが、油断大敵だわいのう。最初に言ったとおり、儂は不滅じゃぞ?」
そして、現れたのは古城たちにも見知った顔であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「―――」
古城は、言葉を出すこともできなかった。笹崎岬に安否ももちろん心配しているがそこに視線を送ってやれる余裕もない。あまりに“異常”な何かを目の当たりにし、思考は完全に空転。身も心も痺れるように麻痺している。
古城だけでなく、雪菜も驚愕のあまり思考を空白にしてしまっており、状況を呑み込めずにいる。
何なんだ一体? 何が起こっている?
「何を驚く第四真祖よ。第三真祖に
そこにいたのは、姫柊雪菜のクラスメイトでもある高清水。
以前、ちょっとした勘違いをしてしまった相手だ。それが、頬筋を歪ませて嗤っていた。
「まあ、儂は変化に加えて、
だが、この学園敷地内ならば問題ない―――
ゾワリ、と。
『高清水』の目の色が火眼金睛に塗り替わり、気配が悪意を伴って膨らんでいく。
粘ついた愉悦の感情を滾らせ、<白石猿>は問う。
「さて、ひとつ問題じゃ、この学園の中に儂が化けた欠席者は何人おるか?」
―――ッッッ!?!?!?
理解した瞬間、悪寒に総毛立つ。
古城の背筋に電流のようなものが走り抜ける。
だが、もう決定している。
「そういえば、ちょうど今は昼時じゃったな。儂は腹が空いておる」
「あなた、まさか―――!?」
腹を擦りながら、さして選ぶのに大した理由のない、気まぐれな風に言った。
「たしか、ヌシの教室には、美味そうな女児がいたのう。たしか、藍羽浅葱というたか?」
「っ、やめろテメェ!」
この学園校舎が弁当箱で、学生が
古城のイメージできる『日常を閉じ込めた箱庭』を喰らう、そう予告して。
少年の頭の中で。
細い細い線が焼き切れそうなのを、確かに感じた。
「やめろ……! やめてくれッ! やるなら、俺をやればいいだろうが!」
「そうは言うても、儂はヌシらには手が出さんようにと言われておるしの……」
「頼むっ!」
その大事な一線、瀬戸際で最古の『獣王』は弄んでくる。
なんと、白々しい事か。ここで変化の立ちの悪さを嫌でも理解させてから、分身を倒したところで無駄と悟らせる。そのために、わざと盾にもできない
無条件で相手の要求を呑むしかない、詰みの状況だ。
「頼むっ! これ以上、手を出さないでくれ……!」
ケンカもせず、負けを認めるのも、こうして無様に土下座するのも古城には初めての経験であった。
こんな奴に頭を下げるなど耐え難い恥辱だが、それでも古城は強く頭を地面に擦り付けて乞うた。
「そこまで頼まれたら、仕方ないのう……」
この世界最強の吸血鬼がした対応に呆れたような『高清水』の声が響いた。それから、頭髪を一本抜いて、それを武具に変化させる。
「これは、昔に<ナラクヴェーラ>を仕留めるに鍛えた<化血刀>じゃ。この毒の刃は、常人ならば一刺しで即死、あの旧型も一撃で行動停止してしまう代物よ」
カラン、と。
音に反応して、視線が前方を流れて、無造作に投げられたそれを見つける。
赤黒い刀身の柳葉刀を。
そして、酷薄に告げた。
「―――これで自害せい。この国の形式で言うなら、人質を助けたくば切腹しろ、第四真祖。ヌシが自ら刃を受ける――これならば契約に背いたことにはならん。さあ、刺した刃の深さでヌシの甲斐性を計ろうぞ」
息を、呑む。
「先輩ダメです! この要求を呑んではいけません!」
まず真っ先に反応したのは、監視役の少女だった。
雪菜は明らかに罠の予感に、古城へ冷静になるように呼びかける。しかし、古城は雪菜の制止を振り切り、毒の刃を手に取った。
もう古城には、選択の余地はないのだ。
「心配するな、姫柊」
そう気丈に振る舞いながら、古城は一度深呼吸をする。
この肉体は、世界最強の吸血鬼、すなわち、不死身の真祖だ。
たかが毒の刃を受けたところで死ぬことはない。死ぬほどの激痛は味わうことになるだろうが―――そんな死を覚悟した思考を読み取り、甘いと評定を降さんばかりに<白石猿>は口を開いた。
「やる前に言っておくが、この<化血刀>は、読んで字のごとく、“血を変える”毒じゃ。
旧型とはいえ自己進化する<ナラクヴェーラ>を壊すのは手間でのう。だから、刺して
これがなかなかの思い付きでな。面白い副産物も見つかった。血に眷獣を宿し、夜王の魔力を有する吸血鬼も、その力の根源である血を変えてしまえば、なんともあっさり殺せてしまう。もともと旧型のために用意したものじゃが、今では邪魔な吸血鬼を虐めるのに使おうとるよ」
それは、人心を惑わす悪魔の囁きのよう。
「ひっひ、安心せい。真祖ほど呪われた魂までは変えられんはずじゃ。おそらくな」
説明以上、と口を閉ざす<白石猿>。
吸血鬼としての力の根源である血を変えてしまう毒。それがもしも強力な魔力耐性を持っている魔族にも効能が及び得るものだとすれば、<第四真祖>もただでは済まない。
監視役としても、止めねばならない。なのに、雪菜が動くよりも早く、彼の腕の震えは止まっていた。
「先輩―――!?」
古城の背中より突き出た血濡れた柳葉刀が、後ろにいた雪菜の視界を真っ赤にした。
「悪い」
「っ!?」
「全然大丈夫じゃ……なかったみたいだ」
ガクリ、と古城の膝が落ちた。
そのまま、世界最強の吸血鬼の身体はあがらなかったのだ。
「先輩!」
「すまん……姫柊」
声音さえ震え、
俯いた顔を覗き、雪菜は悲鳴を洩らしかけた。
暁古城の顔は、およそ人間とは思えないほどに、どす黒く染まっていったのだ。
「せん、ぱい!?」
「だけど……これで、皆を―――」
苦々しい声と共に、古城の頭がぐらりと傾いだ。
不死身の真祖の肉体は、そのまま校舎裏の地面へ倒れ伏したのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雪菜は見てやることしかできなかった。
彼女の腕の中で、古城の顔は異様なほど黒く染まっていた。
そう、強く『死』を想起させる黒さだ。
眉間に皺を刻むほどきつく目は閉ざされ、苦しげな声を洩らす。
先輩のそれは、彼女にとっては胃の腑どころか、骨の芯から絞り上げるような悲鳴であり、十秒と聞いてられない。いいや雪菜でなくとも、たとえ死に慣れた医者でも数分ももたずにこの場から逃げるように後にしたことだろう。
細胞のひとつずつが腐っていくような、そんな錯覚をさせる苦悶。
そんなこの上ない責め苦の中で―――この悲壮な空気に場違いなほど気軽に妖仙は言った。
「さて、藍羽浅葱を食うとするかの」
脅しに屈して自害した先輩に一瞥すらせず、後ろ髪など引かれる素振りなど一切なく、校舎へと向かおうとするその態度を見て、姫柊雪菜の目が大きく見開いた。
「先輩と、約束したのに……っ! あなたは……っ!」
「おうしたのう。じゃが、破らんとは言っておらん。ひっひ、相手の言うことを素直に信じるのがド阿呆じゃ。これは、
罵声のように浴びせる雪菜の非難を、負け犬の遠吠えとばかりに聞き流して、妖仙は自論を語る。
「外道……! どうして、こんな真似ができるんですか……っ!」
「本能には抗えんからじゃ。憎しみでも恨みでもなく、ただあるのが許せぬ。関わりがあるだけで皆滅ぼすと決まっとる。彼奴の血がたとえ一滴でも混じった末裔が、
―――そう儂らの本能に
「こ、の……っ」
「気に喰わんなら、ここで儂を刺しても構わぬぞ。どうせそれも毛一本程度の損失しかないじゃろうがな」
思わず獣のように跳びかかろうとした剣巫に、
これも、分身。
斃せたとしても、徒労に終わる。
そこにひとつの丸薬を詰め込んだ瓶を見せながら、一本の蜘蛛の糸を垂らすように、邪悪に塗れた言の葉を唱えてくる。
「どうしても儂を説得したくば、まず<黒死皇>の血を絶やせ。<黒妖犬>が死せば、儂も本能に従うことなく一片くらいの情けを見せることができような。そうさな、<化血刀>の毒に唯一効く薬丹をわけてもよいぞ」
「な」
「死にたくても死ねん。永劫に苦しむとは哀れよのう。じゃが儂を除いて、この薬丹を作れるものはおらん。人間の医者になんぞ診せたところで匙を投げられるのは目に見えておるな。さあ、どうする剣巫。第四真祖の最後の命綱を手に取りたくはないか?」
「ああああああああああああああああああ!! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ひとりの少女は絶叫していた。
叫び、咆哮し、慟哭しながらも、すぐ目の前にいる敵に、指一本も触れることができなかった。
「『獣王』に主人も、師匠も、弱者も必要ない。もつべきものは、宿業のみで十分よ」
葛藤に苦しむ少女の声を、聴き心地が良いようにうっとりと目を細めて、その悦楽に水を差す硬い声が飛んだ。
「無様だな、暁古城」
校舎裏を見下せる屋上に、全方位に攻撃的な雰囲気を纏う少年がいた。
漆黒の軍用服でも銀色のタキシードでもない、彩海学園高等部の制服に身を包んだ、前学期に転入してきた『旧き世代』の吸血鬼。
「誇りと品性が欠片もないサル如きにここまでいいようにされるとは、なんて滑稽だ。愚かにもほどがある」
その冷たい刃物を連想させる美しい顔立ちの少年は、『戦王領域』の苛烈なる炎の貴公子――トビアス=ジャガン。
彼は屋上から校舎裏へ飛び降りると、苦しむ古城に侮蔑の視線を投げ、そしてより強い敵意を含んだ眼光を妖仙に向ける。
「だが、そんな貴様でも閣下がお認めになられた閣下の宿敵だ。その約定を破るというのであれば、それは閣下を侮るということだ。そのような真似、俺はけして許さん―――一匹残さずここから失せろ」
「青二才がようほざく。プライドなんぞイヌにでも食わせておけばいいのよ」
息を呑む。『最古の獣王』と『旧き世代』と―――双方の魔族から、膨大な魔力が渦巻いているのだ。妖仙の魔力は汚泥のように澱んだ色合いで、貴公子の魔力は紅蓮の焔色に燃え盛っている。ここで迂闊に手を出せば、魂まで微塵に分解されかねないだろう。
「……<蛇遣い>には、<黒死皇>を食ったお礼参りがしたいと常々思っておったが、儂はとにかく、『戦王領域』まで相手に回すのは<タルタロス・ラプス>の計画にちと悪いのう。事が終えたら、次は儂個人が蛇を喰らうと貴様の主に伝えておけ」
「ふん、戯言を」
そして、睨み合いの末、退くことにした妖仙は空間転移の呪符を投げ捨てて、その場から消え去った。
吸血鬼の超視野でもって校舎内を見通し、妖仙の気配が完全にいなくなったことを確認して、それからようやくジャガンは、雪菜と視線を合わせ、
「閣下が出るつもりがない以上、これ以上、介入する気はない」
「あなたは……」
言って、それ以上会話に付き合う気はなく、その身を霧と化して、去り際に、
「『ゼンフォース』での借りはこれで返した、と伝えておけ」
車内
『―――居場所を捉えた賊を逃すとは、失態だな』
特区警備隊本部より、人工島管理公社所属の全攻魔師に、
人工島管理公社の上級理事二名に狙撃未遂事件。それを受けて、警戒度が上がったのだ。
命の危機を免れた二名だけでなく――一名を除いて――他の上級理事ら全員が管理公社の有する安全スポットへ避難してしまい、
トップが一斉に
また組織的な魔導テロと確証を得られたのはいいが、絃神島の外交は封鎖された鎖国状態であるため、日本政府に協力を頼むことができない。
結局、島内に残されたわずかな戦力だけで、<タルタロス・ラプス>に対抗するしかなく、
現在は理事長直轄部署である都市管理室長の矢瀬
そして。
この人工島が封鎖されて孤立してから後手後手に後れを取っている公社陣営の中で、唯一、相手の先手を取って襲撃を防いだ特別チームは、管理公社へ移動中、避難しなかったたったひとりで表立っている上級理事からの叱責を受けていた。
『暗殺者ごときを捕まえられんとは、貴様らは揃いも揃って無能か』
車内に、上級理事のひとり、矢瀬顕重の声が響く。
とはいえ、この移動車に、『魔族特区』の重鎮が直接やってきたわけではない。
スクリーンに映ったライブ映像だった。
『ふん。それも他の理事連中と比べればマシだがな。組織を預かる立場の者がああも浮き足立っては、末端の指揮が乱れるのは当然のことよ。だというのに、神色自若に務められんとはな』
侮蔑の相をありありと顔に表しながら、逃げ足を踏んだ上級理事らを軟弱と詰る人工島管理公社名誉理事。巨大複合企業を経営する名門矢瀬家の当主である矢瀬顕重は、この『魔族特区』の礎を築きあげた人物であり、それ故に<タルタロス・ラプス>という『魔族特区破壊集団』にいいように振り回されるのが気に喰わないのだろう。
「……そういう、あんたは今どこにいんだよ」
画面越しの冷厳な眼差しに咬み付くように細めた目で睨み据えるのは、矢瀬基樹。矢瀬顕重は、彼の父親だ。ただし、基樹の母親は正式な妻ではない。当主の息子ではあるが妾腹である基樹は一族の者たちに蔑まれ、数少ない発現した超能力者であることだけしか利用価値を見出されていない立場だった。
『それをわざわざ教える意味はあるのか、『
「テロリストがたったひとり避難しなかった上級理事のあんたを狙うなんてもうわかり切ってることだろうが! だったら、こっちもあんたの状況をわかってねーと守りようがないんだよ!」
『守る? はっ、何を言うか。あのような賊に命を奪られるとでも心配してるのか?』
「んなのするわけねーだろうが。こんなテロで殺されるくらいなら、あんたはとっくの昔に何十回もくたばってなきゃおかしいからな。だが、あんたがくたばると相続争いに巻き込まれるから面倒なんだよ」
地位と財産を独占しているこの上級理事が命を落とせば、息子である矢瀬も相続争いと無縁ではいられない。下手すれば、後継者争いで暗殺されかねないのだ。
『“出来損ない”の事情など知ったことではない』
だから、こんな肉親でも守らなければならない。
『それに教える必要はない』
「だからな―――!」
『予定通りに私は、橋村市議の会議後にある、魔導協会の記念式典に向かっておるのだからな』
矢瀬は驚愕に目を瞠った。多数の人々が出入りする式典会場は、狙撃犯たちにとって絶好の舞台だ。
「っ、あんた、今、特区警備隊に第二種警戒態勢が出てるのをわかってんのか!?」
『ふん、貴様も室長と同じで、私も他の軟弱な上級理事連中と一緒に、御簾の奥にでも引き籠っていろと言いたいのか? 愚か者め! そんな真似が上に立つ人間に相応しいと思うのか!』
声を荒げれば逆に矢瀬が咎められた。
テロリストに臆して、弱みを見せる気などさらさらないのだ。
そして、一方的な通信は切れる。くそっ、と矢瀬は拳を叩きつけ、運転手へ指示を出す。
「式典会場だ! 急げ!」
しかし、彼らが間に合うことはなかった。
自動車爆弾。
路肩に故障車と見せかけて停車させた自動車に爆薬を仕込む、そして標的が横ぎったところで着火させる。紛争地帯で民兵組織がよく用いる手口。その威力は至近で巻き込まれれば、防弾車両の装甲でも防ぎ切れない。
式典への移動中に人工島管理局の公用車が襲われ、そして、矢瀬顕重の
つづく