洋上の墓場
以前、メイドの後輩が来る前、ご主人が自分を教育しようとし、その紅茶の淹れる際の分量があまりに大雑把だったりしたので諦めたそうだけど、お蔵入りとなった執事服は今も丁寧に保管されている。
それを久々に着込んで、やってきた。
その堅苦しい執事服というのは我慢できたけど、そこのパーティに参列してる500人余りの人々の“匂い”――キツメな香水だけでなく、思惑や感情、表面的に浮かべてるのとは食い違うその嫌な感じに辟易した。
これが政治なんだというのは理解してるけど、自分の肌にはひどく合わない。
でも、そこに出ている料理は美味しい。
「……その金色の瞳。やはり面影がありますな」
振り向くと、そこに自分と同じように頬に古傷を残している初老の男性。
料理の配膳をしている使用人と同じ礼服に身を包んでいる、けれど、たった一度しか着てない自分の執事服姿と同じように、窮屈な感じがある。見た目は熟練の老執事で、物腰は静かで知性的とも見えそうなのに。
そんな初老の男性は、自分の目を見て感慨深そうに呟くと、下した視線の先にある枷のような首輪に目を細める。
「オレに何か用か?」
「失礼した。貴殿の顔が、かつての我が盟友と似ていたもので、つい」
「ふうん。そんなに似てるのか、お前の友達と」
「ええ、人間らに紛れ込んでいても、すぐにわかるほど」
一礼し、自分の前に料理の皿を置くと、初老の男性はその場を立ち去る。
その料理は、他のと違い、不思議と、自分の舌になじむように好みの味付けだった。
その遠目からでも異様に目立つそれは、アルデアル公ディミトリエ=ヴァトラーのクルーズ船。
その船体に刻まれた船名は、
「……<
趣味の悪い名前だな。
だけれど、派手にライトアップされた船体は、宮殿のように華やかである。
宮殿、そう、ある意味ここは城のようなものだ。
『夜の帝国』で自治領の君主を任されている貴族の。
宣戦布告ともとれる招待状を受け取った暁古城は、監視役にして代理パートナーの姫柊雪菜と共に、<洋上の墓場>へ乗船する。
「吸血鬼が海を越えられないというのは迷信ですけど、彼らの能力が海上で制限されるのは事実ですから」
それが遥々海を渡って、堂々と船に乗っているということは、それだけで外交的な示威効果がある。
それが軍艦ではない、戦闘力のない民間船であろうと。
つまりは、単なる派手好きというわけではない。
それにここの主は、最大級の空母にも匹敵する戦闘力の持ち主でもある。つまり絃神島は、その主の気まぐれな采配ひとつで戦争が起こりかねないきわどい状況にある。
そのせいか、ほんの数ヵ月前までは普通の学生だった古城は若干浮いてさえいる。
ほかに乗船している人々は、ニュースなどで見かける顔が多く、大物政治家や経済界の重鎮、政府や絃神市の要人たち、そして、首輪を付けた執事がひとり―――
「うまうま。はぐはぐ」
バイキング形式で並べられた豪華な料理の数々。それを端から片っ端に空にしていく大食。その喰いっぷりは気持ちのいいもので、会場に集う偉そうな大人たちはひとつのショーのように指を指し、酒の肴にして隣と談笑しながら観戦してる。
「なんで、クロウがいるんだ?」
こんな社交界でも己を貫いてる後輩の勇姿?に、一先輩として肩身が狭くなるような思いをする古城。雪菜もクラスメイトとして恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「んぐ―――あ、古城君。姫柊。待ってたのだ」
料理を味わっていても、しっかりこちらの“匂い”を察知したらしい。
手を止め、ごっくんと口の中のものを呑みこんでから、声をかける。正直、あまり目立ちたくはなかった古城はできればご指名を無視したいところだが、こんなところで知り合いを放置する方が不安だ。
やれやれ、と溜息をついてから、古城は後輩の下へ。
「おい、クロウ。どうしてお前がこんな吸血鬼がらみのパーティに参加してんだ」
「ひょっとして、南宮先生もここに……」
「ご主人はここにはいないぞ。オレも招待状をもらったのだ」
「何? クロウもか?」
「そうだぞ。それで、古城君も参加するって聞いたから、来たんだ。ご主人から姫柊と一緒に古城君の御守をしろと言われてるしな」
「おいおい。どちらかというと俺の方が御守することになると思うんだが、那月ちゃん」
隣にいる監視役と言い、そんなに年下の後輩に面倒を見させなければいけないくらいだと自分は思われているのだろうか。
これまで気にしたことがなかったけど、先輩としての格が心配になってくる。
「で……俺たちを呼びつけた張本人、そうだな、この中で一番強い“匂い”を放ってるのはどこにいる?」
会場内を見回しながら古城は、後輩にわかりやすいよう言葉を選んで問う。
会場になっている広間は船の中とは思えないほど広大で、その中から名前しか知らない第一真祖の使者を見つけるのは骨が折れる。
だがその一方で、乗船した時から、古城は奇妙な感覚を覚えていた。
バスケの試合、今日のバドミントンの試合が始まる直前の昂ぶりによく似たこれは、恐怖と歓喜、危機感と高揚感が一体となったような心地よい緊張感。
おそらく、古城の中の『世界最強の吸血鬼』の“血”が、すぐ近くに強大な力を持つ同胞に勘付いて、騒いでいるのだろう。
「上にいるぞ。あそこに古城君と負けないくらい“濃い血”の匂いがする。こっちを見てるのだ」
「はい。アルデアル公は外のアッパーデッキに」
直感に優れた2人の後輩の同意見に、古城は己が昂ぶりは空回りしてるものではないことを知る。
そして、混雑する広間の隅には階段があり、そこへ導くよう雪菜が手を伸ばして―――その真横から殺気を伴った銀色の光が古城へまっすぐ伸びた。
「―――せいっ!」
「――――ほっ!」
「うおっ!?」
咄嗟に跳び退いた古城の眼前を、鋭く研ぎ澄まされたフォークの先端が静止してる。
横を見れば、そこに物的証拠となる
その下手人は、ちっと小さく舌打ちし、
「失礼。つい、手が滑ってしまったわ」
「む。そうなのか。気を付けるのだ」
反省の色が全くない謝罪をあっさり受け入れてしまう後輩。古城は頬を引くつかせながら、
「どう滑ったら、フォークを他人の腕に向かって振り下ろそうとするのか、ぜひ教えて欲しんだが……てか、なんか今、掛け声っぽいものも叫んでたよな!?」
「あなたが、下劣な性欲を剥き出しにした手で、雪菜に触れようとするからよ、暁古城」
どこか出会ったばかりの雪菜と雰囲気が似ていて、それがより攻撃的になったような少女。少しでも隙を見せたら、確実に仕留めにかかりそうだ。
雪菜と、古城の名前を知ってることから、十中八九は、
「―――紗矢華さん!?」
「雪菜!」
獅子王機関の関係者だろう。
睨みあう両者の間に、雪菜が割って入った途端、長い髪の少女は相好を崩し、彼女に抱きついた。先まであった殺意の波動などあっさり霧散してしまっていて、犬の尻尾のように揺れる後ろ髪からは、喜びいっぱいしか伝わらない。
「久しぶりね、雪菜。元気だった?」
「は、はい」
離れ離れとなった姉妹同士の再会のよう。
突然の再会に喜びこそすれ、戸惑いの強い雪菜を他所に、くっついてもう離れないくらい少女の頬をその首筋にぐりぐりと擦り付けながら、
「ああ、雪菜、雪菜、雪菜っ……! 私がいない間に高神の社から転校したって聞いて心配したのよもう! でも、聞いたわ。最初は戸惑ってたようだけど、新しいところでもちゃんとやってるのね。流石、雪菜。クラスの皆から姫と呼ばれて、そんなの当然だけど。それに、友達もできたみたいだし。可愛い女の子なんでしょ、ふふふ。紹介してね」
「あ、あの……紗矢華さん……!? どうして……もしかして、クロウ君?」
「うん。煌坂は、姫柊のお姉さんだからな」
きっと悪気はなく、クラスの様子を話したのだろう。
だけど、お姫様的な立ち位置にいることは知り合いには隠しておきたかった。
「でも、<第四真祖>なんかの監視任務を押しつけられて可哀想に! 獅子王機関執行部も私の雪菜になんてむごい仕打ちをするのかしら!
けれど、もう安心していいのよ。この変態真祖があなたに指一本でも触れる前に、私が即座に抹殺するわ。生命活動的な意味でも社会的な意味でも―――」
「おい。誰が変態だ!」
「―――古城君。ダメなのだ」
雪菜に夢中で隙だらけな紗矢華の後頭部に、古城はチョップを叩き込もうとし―――後輩に止められた。気づいて、きゃっと悲鳴を上げて紗矢華が怯えたように後ずさり、そこでぱっと古城の腕からクロウは手を放す。
その紗矢華を庇った後輩の行動に、雪菜は少し驚いたように瞬きして、古城は訝しむ。そして、キッと紗矢華は古城を睨み、
「何触ろうとしてるのよ、ド変態真祖! 私と雪菜の感動の再会を邪魔しないでちょうだい」
「邪魔したのはおまえだろうがっ!」
「怒鳴らないでよ唾が飛んできたじゃない。気持ち悪い。そっちはそこの後輩の面倒でも見てなさい。ちょっとでも目を離すと何かやらかすから面倒見るのが大変だったのよ!」
荒々しく息を吐きながら、こちらにフォークを突き付ける。
なんて失礼な女だ、と憤慨した古城だが、そこでようやく思い出す。
これは乗船する前、雪菜の髪飾りにふと古城が目についた時、煌坂紗矢華という元ルームメイトからもらったものだと教えてもらったのだ。
「となると、コイツが姫柊の元ルームメイトだったっつう……」
「煌坂紗矢華。獅子王機関の舞威姫よ、あほつき古城」
「あ・か・つ・き、だ! わざとらしく言い間違えんな!
ったく、んで、舞威姫ってなんだ? 剣巫とは違うのか?」
まともに相手するのがこの短時間でうんざりしたのか、古城は話が通じそうで、事情を知ってそうな雪菜に質問する。
「どちらも同じ攻魔師ですけど、修めている業が違うんです」
「そう、舞威姫の真髄は呪詛と暗殺。つまり、あなたのような雪菜に付き纏う変態を抹殺するのが私の使命よ」
「付き纏ってねぇよ! どちらかというと、付き纏われているのは俺の方だ!」
「何勝ち誇ってるのよ!? 別に羨ましくなんかないんだけど!」
「羨ましがらせようと思って言ってんじゃねぇよ!」
互いに激昂しながら睨み合う年上二人。それを眺めてて、仲裁する気のないクラスメイト。自分しかいないこの状況に雪菜は額に手を当てながら、紗矢華に問い掛ける。
「それで、どうして紗矢華さんが? 外事課で多国籍魔導犯罪を担当していたんですよね?」
「ええ、そうよ。だから、この島には任務で来てるの」
古城とは180度違う、優しい姉の口調で紗矢華は事情を話す。
雪菜が暁古城――<第四真祖>の監視役として絃神島に来たように、アルデアル公――<蛇遣い>が絃神市民に危害を加えないよう監視するのが今回の任務であると。そんなわけで、アルデアル公の代わりに招待状の手紙を届けたりもしていたとか。
……いきなり古城をフォークで刺そうとしたり、その脳天に矢文を食らわそうとしたのは仕事ではなく、私怨から働いたものであるが。
「クロウ君とお知り合いのようですが……大丈夫ですか」
「ちょっと色々とあったのよ。それで仕方なく付き合ってるというか、でも、大丈夫よ雪菜。コイツ、どこかの第四真祖のように邪な下心とかないし、男というより子供っていうか、犬っぽいから」
「納得です。先輩のようにいやらしさはないですよね」
「お前らな……」
と不意に曇らせた紗矢華は、雪菜に小声で耳打ちする。
「(ねぇ、雪菜。さっきも言ったけど、凪沙ちゃん、って子、紹介してもらえないかしら)」
「(え、凪沙ちゃんですか。どうして紗矢華さんが……)」
「(その、
「(ああ、それで……)」
出かける際も、お喋り好きな妹がずっと生返事ばかりで様子がおかしかったと先輩が言っていたが、なるほどこれが原因だったのか。
こちらの事情を誤魔化すには都合がよかったけれど、雪菜もその話を聞いて友人の心配していた。
「(ホント、私でも何言ってるかわからないと思うけど、大変だったのよ!)」
「(いえ、わかります紗矢華さん)」
強く同意する雪菜。雪菜もまた同じような場面に遭遇してしまい、紗矢華と同じように誤解を招いてしまった。あれほど対処に困らされることはそうない。
「おい、内緒話なんかしてないで、さっさと案内してくれ」
「うっさいわね。お望み通り、さっさとあの世に連れてってあげるから、とっとと死になさい変態真祖」
「死ぬかっ!」
そうして、案内役を任された紗矢華を先頭に、古城たちは階段を上る。
紗矢華の後ろにクロウがついて、古城を挟んで、雪菜が最後尾を取る。
後輩たちに守られている陣形だが、それも仕方がない。
『戦王領域』の貴族。真祖直系の子孫たる純血の吸血鬼。第一真祖に及ばずとも、それに近い戦闘能力を持っている―――つまり、全開の<第四真祖>でなければ相手にならない実力者。
血は継いでいても、十二の眷獣のうち一体しか従えていない不完全な<第四真祖>の古城では、太刀打ちできない相手だろう。
不安と困惑を覚えながら、古城は船の上甲板に出る。
漆黒の海と夜空を背景にして、広大なデッキにひとりの男が立っていた。
純白のスーツを纏った眉目秀麗の青年。長身であるも、筋肉質ではなく細身。圧倒されるような威圧感もなく、先の紗矢華のような殺気じみたものも感じられない。
だけど、騒ぐ古城の血が、この相手が強者だ、と告げている。
たとえその見た目が二十代前半の若者であろうと、『旧き世代』、その外見年齢の何倍もの長い時間を生きている怪物だ。
そして、青年が漆黒の景色からこちらへ碧い瞳の視線を移した―――瞬間、
「―――先輩!」
青年の全身が純白の光に包まれ、光り輝く炎の蛇の眷獣が顕現する。
雪菜が手にした楽器ケースから<雪霞狼>の銀槍を引き抜き、古城の前に出る。紗矢華も雪菜を庇うように彼女の前に出た。
だが、その瞬きほどの刹那に反応した機敏さを以てしても、純白の閃光は防げない。
流星の如き速度で撃ち放たれた灼熱の眷獣に古城はまったく反応できず、
「ぐお……っ……!」
反射的に、古城の全身から眩い雷光が放たれて、その稲妻が炎の蛇を撃墜した。
たとえ不完全であろうと、一体であろうと、その力は災厄に等しき<
古城が唯一主と認められている<
「あ……ぶねぇ! なんだこれっ!?」
眷獣同士が消滅しても、甲板や大気にその爪痕や残滓は残り、巨大な魔力同士の激突の余韻から、我に返った古城が呻いていると、白のコートの男から疎らな拍手が送られる。
古城に攻撃を仕掛けておきながら、それを防がれたことを、喜んでいるようにも取れる表情を浮かべており、
「いやいや、お見事。やはり―――」
緊張感のないのんびりとした声で、賛辞を贈る男が、不意に止まる。
そう、雪菜よりも早く反応し、先に行動していたクロウがその男のこめかみに手刀に伸ばした爪先を突き付けていた。
いや、寸前で止められていなければ、脳髄を抉り抜いていたのかもしれない。
「<
その蜘蛛の糸が絡めるように、主に手を向けるクロウの周囲を覆い尽くしていた。
デッキの奥、その影となるところに、その陰に顔を隠してる人影と、その足元に美しく輝く琥珀色の蜘蛛がいた。
溶岩の肉体を持つ蜘蛛の眷獣。その放つ糸は濃密な魔力が具現化した灼熱の溶岩であり、それが美しい幾何学模様の陣となって、完全に包囲されている以上、空間制御も使えず、指一本も動かせない。すれば、絡みつく溶岩が一瞬で主に害を及ぼす敵を焼き尽くす。その蜘蛛の糸が絡めるように、主に手を向けるクロウの周囲を覆い尽くしていた。
「一度だけ警告します。その手を下げて、閣下から離れなさい」
貴族の側近と思われる吸血鬼から冷たい声が飛ぶ。
たとえ蘇るのだとしても、目の前で愛しき主を手にかけることは許さない。
それに、その戦場慣れした吸血鬼の本能が警告を発している。コイツの爪は閣下に届きうるかもしれない、と。
そして、もう一つの影が腕を頭上に掲げて、
「キラ、やめるんだ。トビアスも下がりなさい」
そんな自身の命をも賭けにする、生死をかけた緊張感さえ、この上ない催し物のように青年は無邪気な笑みを浮かべている。
「ですが」
「悪いのはこっちの方だ。それに、彼はボクに手を出したりしないよ。その目を見ればわかる」
自分が殺されなかった理由は、その憎悪も恐怖も、そして殺意もない目を見ればわかる。
たとえ灼熱の溶岩をその身に浴びようが、構わずその腕を振り抜いてしまえるだけの力はあっただろう。
けれどそれはない。
なぜなら、この相手はただ“やり返そうとしただけ”だ。
だから、寸止めで止まっている。
殺されかけたことに対しての反撃、ではない。
これは殺すつもりで試した行為に対する、当然の仕返しとして。
「クロウ! 何してんだ早くこっちに戻れ!」
主の命を聞き、側近が眷獣を消せば、クロウもまた手を降ろして先輩らの方へと後退する。
そう。貴族の青年が殺されなかったのも、部下の静止や、その意志によるものではない。
その機械的なまでの判断で、生死の天秤が吊り合うよう状況の差引を実行しただけ。
炎の蛇が雷光の獅子に撃墜されるとわかっていなければ、この場にいる誰かが傷つくようならば、速やかに眷獣を消すのに最も効果的な手段として――宿主の吸血鬼たる貴族の青年を殺していた。
「こんなにもボクを誘惑してイケナイ子だ。危うく挨拶の前に浮気してしまうところだったよ」
報復という万物が従う摂理は、この真祖に最も近いとされる青年にも適用されるものだとその行為は思い出させる。
それは永久の生に飽いてしまう不老不死の吸血鬼には、左胸を押さえたくなるほどに愉快な文句だ。
そうして、貴族の青年は、緊迫する古城の前で片膝を突き、恭しい貴族の礼をとった。
「
あまりに見事な彼の口上に、古城がうろたえた。その掌返しに獅子王機関の剣巫と舞威姫も固まってしまう。
古城は震える喉から振り絞ったような擦れた声で、
「あんたが、ディミトリエ=ヴァトラー……? 俺を呼び付けた張本人?」
「初めまして、と言っておこうか、暁古城。いや、<焔光の夜伯>――我が愛しの第四真祖よ!」
親しみと計算と、そしてこの上ない愛情をこめた微笑を捧げるよう、ヴァトラーは古城を見つめ、そして抱擁を受け入れ易いよう、大きく両腕を広げた。
「……はい?」
古城ができたのは、しばらくそこに立ち尽くすことだけだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「―――挨拶代わりとはいえ傷もつけることができなかったとはさっきの気配、<獅子の黄金>だね……ふゥん、普通の人間が<第四真租>を喰ったって噂、あながち間違いじゃなかったわけだ」
「……<獅子の黄金>を知っているのか……?」
あれだけのことがあって、あれだけのことをして、なお無邪気な笑みを浮かべる貴族の吸血鬼に、古城は戸惑いを禁じ得ず、警戒も解くことはできない。
とはいえ、向こうが側近を下がらせた以上は、こちらも後輩二人より前に出て対峙する。
「<焔光の夜伯>アヴローラ=フロレスティーナの五番目の眷獣だろ。制御の難しい暴れ者と聞いてたけど、うまく手懐けているじゃないか。よっぽど、霊媒の血がよかったんだな」
淡々と告げられるヴァトラーの言葉に、古城は無言で顔をしかめた。
古城は、先代の第四真租に関する記憶が断片的なものしかなく、それも思い出そうとするだけで耐え難いほどの頭痛まで呼び起こしてしまう。『アヴローラ=フロレスティーナ』という名を耳にするだけで容易に古城の精神をかき乱される。
「あんたとアヴローラ……どういう関係なんだ?」
<第四真祖>の眷獣に対する知識と言い、この貴族は知っているのだろう。
原因不明の激しい頭痛を堪えながら古城は、ヴァトラーに問う。
すると、ヴァトラーは芝居がかった仕草で胸に掌を当て、懐かしげに眼を細めた。
「最初に言わなかったっけ? ボクは彼女を愛しているんだ。永遠の愛を誓ったんだよ」
ヴァトラーは、第一真祖の一族だ。血族として第四真祖とは関わりのない。だが、そんなのは関係ない。ヴァトラーが求めるのは、血の繋がりではなく、その血の強さ。
「そう、“血”が強ければいいのさ。先祖が誰だろうが人種が何だろうが無関係に、強い血族が生き残る。そんなわけで仲良く愛を語らおうじゃないか、暁古城」
その時、古城は冗談ではない寒気を背筋に覚えた。
「待て待て待てっ、なんでそうなる!? お前が愛を誓った相手は、アヴローラじゃないのかよ!?」
「だけど彼女はもういない。きみが彼女を食ったんだろう?
―――だからボクは、彼女の“血”を受け継いだきみに愛を捧げる。彼女に永遠の愛を誓ったボクとしては、当然の行動じゃないか」
「その理屈がおかしいって言ってんだよ! 血筋が同じなら何でもいいのかよ!?」
「もちろんそうだよ。きみが<第四真祖>の力を受け継いだということは、つまりは彼女がきみを認めたということだ。それに比べれば、ボクたちが男同士だという事実なんて些細なことだよ」
「些細じゃねぇーよ! そこは重大な問題だから、あと、その舌使いはやめろ!」
と青年貴族のアヤシイ誘惑に半狂乱になる古城が怒鳴ったところで、雪菜が前に出た。
吸血鬼同士の会話に人間が割り込むなど相当な度胸がなくてはできないが、そこは獅子王機関から派遣された監視役。
ヴァトラーもその勇気と、<第四真祖>を呼び覚ますために霊媒の血を捧げた『血の伴侶』候補、いわば、恋敵に敬意を表して(吸血行為の事実が暴露された時、もう一人の監視役から凄まじい殺気が古城に向けられたが)、特別に問いを投げかけることを許された。
「
そうやって第四真祖といかがわしい縁を結ぶことを目的とした、いわば私情で政治を動かしたのですか、と言外に咎めるような意を込めて、雪菜が問い掛けるも、ヴァトラーは笑みを崩さず、むしろより深める。
「ああ、そうか。忘れていたな。本題はべつにある。 もちろん、そっちも本気だけどね」
「冗談じゃねぇのかよ」
うんざりとする古城。雪菜はより攻撃的な気配を鋭くし、追及を緩めるつもりは、その眼光を見ればわかるだろう。百戦錬磨が相手だろうと、霊視霊感と直感に優れる剣巫にごまかしは通用しない。
「本題というのは……?」
「ちょっとした根回しってやつだよ。この魔族特区が<第四真祖>の領地だというなら、まずは挨拶をしとこうと思ってね。同時に<空隙の魔女>の拠点でもあるし。なにせ、もしかしたら、迷惑をかけるかもしれないからねェ」
「―――迷惑とは、どういうことですか?」
「クリストフ=ガルドシュという男は知っているかい、古城?」
「いや? 誰だ?」
首を振る古城に、一瞬誘導するようにクロウへ流し目を送って、ヴァトラーは言う。
「『戦王領域』出身の元軍人で、欧州では少しばかり名を知られたテロリストさ。黒死皇派という過激派グループの幹部で、10年ほど前のプラハ国立劇場占拠事件を起こした犯人のひとり」
それは、うろ覚えながらも古城の記憶にもある。
民間人に400人以上の死傷者を出した、と当時小学生だった古城も注目してたほどの大事件だった。
だが、
「黒死皇派は、もう何年も前に壊滅したんじゃなかったか。確か指導者が暗殺されて―――」
そう、言っていた。
あのキーストーンゲート襲撃事件で、ロタリンギアの殲教師が、『<黒死皇>は、<蛇遣い>に暗殺された』と。
「そう、ボクが殺した。少々厄介な特技を持った獣人の爺さんだったけどね。もう半世紀以上前に
そして、その<黒死皇>の血を継いでいる『黒』シリーズが。
「この子、古城はまだ唾をつけてないんだろ?」
「同性愛者のお前と一緒にするな!」
吸血種の吸血衝動は、性欲から生じるものだ。
アスタルテのときは、雪菜を当て馬にしてどうにか吸血衝動を呼び起こしたが、男相手となれば誰を当て馬にしようがそんな気の迷いは起きないと断言する。
「もったいない。まだ青いけど、こんな美味しそうなのに」
ぺろりと唇を舌でなめて、細めた目で古城の後ろに立つ南宮クロウを見る。
「どうだい? この<
「俺の後輩にふざけた勧誘してんじゃねぇぞ」
「この子の“血”――資質は知ってる。言っただろ? <黒死皇>の爺さんを殺したのはボクだからね。なれるんだろう、君も獣人よりさらに上の段階―――」
<神獣化>。
それは命を削る禁じ手であり、だが、古城がアスタルテにしたように、吸血鬼から無限の生命力を貸し与えられれば、その制限はなくなる。
ヴァトラーが求めるのは、強さ。
己の血で強くなるのだというのならば、与えてやっても構わない。
「ご主人からもしも<蛇遣い>の軽薄男にあったら伝えるようにと言われたことがある」
「なんだい?」
先から警戒心を強め、口数が減るほど相手の挙動を観察していたクロウが、淡々とその伝言を口にする。
「『私の
流石は唯我独尊の高貴なる担任様だ。その弁舌はこの貴族の吸血鬼相手でも怯むものではないらしい。それをそのまま口にしてしまう使い魔たる後輩もそうだが。
「俺はご主人の眷獣だ。オマエのにならないぞ」
「なるほど。<空隙の魔女>はなかなかよく躾けてるようだ、残念」
と肩をすくめて、古城――<第四真祖>に対するものほどの執着を見せることなく話を戻す。
「ガルドシュは、その黒死皇派の生き残りだ。正確には、黒死皇派の残党たちが、新たな指導者としてガルドシュを雇ったんだ。 テロリストとしての実歴と、古参の
「ちょっと待て。 あんたが絃神島に来た理由に、そのガルドシュって男が関係してるのか?」
黒死皇派は差別的な獣人優位集団だ。その目的は聖域条約の完全破棄と、『戦王領域』の支配権を第一真祖から奪うことだ。
そして、ヴァトラーは第一真祖に連なる上位者。
古城の察しの良さに、ヴァトラーは感心したように頷いて、
「そのとおりだ。ガルドシュが、黒死皇派の部下たちを連れて、この島に潜入したという情報があった」
しかし、欧州の過激派が、なぜわざわざこの島に―――と古城はすぐその理由に思い立ったが、それは。
「オレのせいか」
古城が躊躇ったそれを、クロウは己から口にする。
『黒』シリーズの最終の九番個体にして、唯一の生存例、
<黒死皇>の血が流れるこの後輩は、そのテロリストたちには無視できない存在だろう。
つまり、テロリストを絃神島に招いてしまったのは……
「さあね……全く何を考えてるんだか。ただ、<黒死皇>とそのガルドシュは盟友だったそうだよ。古城とボクのようにね」
「っざけんな! あんたは<第四真祖>、ガルドシュは<黒死皇>にしか興味がないんだろ。ただ血が同じだけで、俺やクロウを一緒にするんじゃねぇ!」
「……古城君」
古城が犬歯を見せて訴えるが、ヴァトラーは片目を瞑って、
「何にしてもガルドシュに襲われたら、応戦してもおかしくないよねェ。自衛権として当然の行為だよ。ただ、ボクの眷獣たちは、細かな作業が苦手だから、ガルドシュひとり葬るのに、街ごと焼き払ったりするだろう。それに黒死皇派の悲願が叶う兵器がこの絃神島にあるというから、最悪、黒死皇派の残党を抹殺するためにこの島が沈んでもらう事態になるかもネ。だから、きみには最初に謝っておくよ」
その時になって、古城はこの男の目的を理解する。
「あんたが絃神島に来たのは、テロリストを挑発しておびき出すのが目的か。そして、正当防衛を盾に
ヴァトラーは<黒死皇>を暗殺した、いわばテロリストたちの仇敵だ。
それが潜伏していると思われる絃神島に、ド派手な船舶でやってきたのだ。挑発と変わらない。
「いやいや、どちらかと言えば愛しいきみに会うのが目的だヨ。この街の攻魔師たちがガルドシュを捕まえてくれれば文句はない。手間が省けていいよねェ」
ヴァトラーを止める術はない。
古城が第四真祖の力を使って止めようとしても、その余波だけで街が壊滅しかねない。
またテロリストへの正当防衛を主張されれば、獅子王機関もヴァトラーに手を出すことはできず、かといってテロリストに狙われているからという理由で絃神島から外交使節を退去させることもできない。
そんな八方塞の状況で、絶望を覚え始めた古城の前に、後輩が立つ。
「―――わかった。オレがテロリストをブッ飛ばす」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「―――待ちなさい、南宮クロウ」
クロウの宣言に、最初に待ったをかけたのは、先輩の古城でも、同級の雪菜でもなく、獅子王機関の舞威姫――煌坂紗矢華。
その手にした黒のキーボードケースから、戦闘機の主翼を思わせる、流麗な長剣を取り出す。刃渡りは120cmほど。刀身は分厚く、直線的な接合ラインが模様のように浮き上がっている。陽光に反射して銀色に輝くその姿は、雪菜の<雪霞狼>によく似ている。
「それは、『
雪菜の持つ『第七式突撃降魔機槍』と同じく、“魔族を討伐するための”獅子王機関の武神具。
それを古城の前で、後輩に向ける。
いったいそれがどんな意味なのか、古城はしばらく理解できなかった。やがて頭が正常に働き、その相手に直接意図を問う。
「おい、何するつもりだ煌坂」
「決まってるでしょ、暁古城。あなたの後輩は、<黒死皇>の血を継いでいるということが確かなら、テロリストの狙いである可能性がある以上、その身柄は獅子王機関が拘束させてもらう。もしそれに抵抗し、暴れるようなら、舞威姫としての実力を行使させてもらうわ」
無表情のまま静かに告げられた紗矢華の言葉に、古城、そして、雪菜が目を見開かせる。そして、ヴァトラーは両目を薄らと陽炎のように揺らめかせて、この
「紗矢華さん、彼は決して黒死皇派と繋がってるようなことは」
「でも、彼の身柄をエサにすれば、ガルドシュが釣れるかもしれないでしょう。最悪、ここで殺してしまえば、黒死皇派の目的のひとつが潰れたことになるでしょうね。
それに、雪菜。あなた、<黒死皇>の血縁者のことを獅子王機関に報告しなかったわね」
「それは……!」
「彼にもう情を抱いてる雪菜に冷静な判断は期待できない。だから、私の独断で決めさせてもらうわ。客観的に見て、第二の<黒死皇>となる可能性はゼロではないの」
そこにいるのは、雪菜が慕う元ルームメイトではなく、攻魔師の先達者。
弓矢を射るときのように、目を細めた厳しい視線を向けて反論を封殺するよう差し射抜く。
「ええ、雪菜に任じられた監視役はそこの暁古城・<第四真祖>よ。でも、獅子王機関は魔導テロを未然に防ぐためにあるの。起こってからでは遅い。少しでも芽があるのなら、それは刈り取らなければならない」
「じゃあ、ヴァトラーはどうなんだ! そいつは絃神島をぶっ潰しても構わないと言ってんだろ! なのに、それを放置させておいて、クロウは別かよ!」
「舐めないでちょうだい。私はアルデアル公の監視役。つまり、アルデアル公を討ち滅ぼす権利が与えられている」
監視役。
<第四真祖>を討伐することができると判断された雪菜と同じく、
それは、獅子王機関が、彼女にヴァトラーを討伐できるだけの実力があると認められていることになる。
「ただ、アルデアル公は『戦王領域』からの正式な外交使節よ。政治的にそう手は出せないわ」
「結局、自分たちに都合のいいようにしか考えてねぇんだろうが」
「そうね。言い訳はしない」
ふざけるな!
古城は己の眷獣を用いてでも、紗矢華を止めようとし―――そこへ、ヴァトラーが口を挟む。
「獅子王機関の剣巫。きみが監視役ならここは古城を止めるべきじゃないのかい?」
「なにを……っ!」
「だって、ここは、ボクの船だヨ。うちの
存在だけで戦争級の脅威とみなされる真祖。
その人間と魔族の不可侵条約が破棄されかねない混乱を未然に防ぐために派遣されたのが……
ヴァトラーの言葉に、雪菜は反論できない。
「そうしないようにするのが、監視役の役目なんだと思うんだけど、どうかなァ」
「っ」
返答はせず、けれど、雪菜は取り出した真祖をも殺せる銀槍――<雪霞狼>を構えて、古城の前に立った。
「ヴァトラー、おまえ……っ!」
「邪魔をしちゃダメだよ古城。それに、獅子王機関の舞威姫の実力が見れるいい機会じゃないカ」
そこでヴァトラーは片手をあげ、控えている側近たちにBGMを要求。それに応じて流れ始めたのは、吹き荒れる嵐のような曲。
その激しい旋律はそれだけで心音を乱してきて、正常な判断をさせなくさせる。
「っ! ―――姫柊……っ」
「先輩。お願いです、抑えてください。クロウさんも、大人しく捕まってくだされば、紗矢華さんは手荒な真似はしないはずです」
そうして、舞威姫と剣巫、二人の捕縛要求に、南宮クロウは、その執事服につけられた白手袋を外し、
「ごめん。それは断る」
異変は、一瞬で終わった。
錆びたような銅色の髪と褐色の肌はいぶした銀色の体毛に生え変わり、針金の如くそそり立つ。それとどうじに、犬歯は長く鋭い牙となり、手足の爪さえも常識を超えて肥大化した。
獣化。
獣人種がその野生を発揮するための形態。すなわち、戦闘するための変身。
「古城君。さっきの言葉、うれしかった。でも、やっぱり自分の血から逃げることはしちゃダメなんだと思う」
「クロウっ! だからって、お前は」
「だから、オレは自分の手で黒死皇派を止める。これはオレの戦争だ」
あっさりと言い放った。
この後輩を止めるには……っ。
言葉に窮した古城が、せめて何事かを告げようと胸元へ手をやった。だがこれ以上の会話する時間は与えられなかった。
月光を反射する銀の人狼に、舞威姫は、静かに長剣を構える。すでに相手の挙動に神経を集中させており、そして、それを言う。
「交渉決裂……残念ね」
紗矢華は奥歯を噛む。
斬る。
人々を守るため、不可欠な犠牲であれば、それが雪菜のクラスメイトであろうと容赦しない。
そういう風に思考を形成するために、いつもより数秒かかった。雪菜にも言ったが、こういった情に囚われぬよう切り離すことが、一番の難事であると紗矢華は思い知った。
思考と感情を切り離す。
ただ、障害を断つ。
「悪いが。さっきのように反撃をしないわけにはいかないぞ」
「おかまいなく。こちらも容赦するつもりはないから」
舞威姫は、ひとつ、深呼吸して、
「それに、あなたのようなタイプにとって、私はきっと天敵よ」
銀人狼は、その姿を消した。
ヴァトラーの懐にさえ潜り込んだゼロから最高速へ至る急加速。彼が師事していた中国拳法は、その挙動を相手に見せないことを突き詰めていくものだ。達人となればその震脚は歩くのと変わらない自然さで、クロウも直前まで予備動作を悟らせないだけの技量はあった。
だが、それが動く前に、紗矢華の行動は終わっていた。
獅子王機関の舞威姫は、霊視によって一瞬先の未来を見て行動する。獣人種の移動速度よりも紗矢華の方が先手を打っているのだ。
「
その限度を超えた呪的身体強化で、瞬間的にだが、獣人種の脚力を上回る爆発的な加速。
「私の<煌華麟>の能力はふたつ―――そのうちひとつは物理衝撃の遮断」
紗矢華の剣が切り裂くのは物質ではなく、それを支える空間の繋がりだ。
どれだけ速い攻撃も、
どれだけ強い衝撃も、
空間の断層を超えてダメージを与えることはできない。<煌華麟>が薙いだ空間は、その一瞬だけ、絶対無敵の防御障壁と化すのだ。
クロウが逃げようとした地点より先回りし、その眼前に見えない壁で進路を阻む。
「そしてあらゆる衝撃を防ぐ障壁は、すなわちこの世で最も堅牢な刃も同然。私の剣舞に斬れないものはない―――!」
真っ向から振り落とされる長剣に、盾に構えたその強靭な爪。
生体障壁でコーティングされ、一層に強化された鉤爪は鋼鉄の壁だろうと掘削し、砲弾が直撃しようと砕けない。
「―――」
噴き出る血しぶきを、他人のもののように銀人狼は見た。
次の瞬間、防御したはずの十指の爪が砕かれて、胴体が縦に寸断されたかという激痛。
止まらず、舞威姫がさらに迫る。
次は横薙ぎ。
今度こそ、回避も防御もならぬ渾身の一撃。いかな獣人の身体とて、その剣の前には容易く両断されよう。
(そう、あなたは雪菜が犯してしまった失点のひとつ。だけど、ここで私が切り払えばそれもなかったことになる!)
あの子は優しいから―――だから、自分は躊躇わない。
少なくとも人のカタチをした―――していたモノを殺すことについても、少女は最早葛藤しない。彼女の覚えた戦闘技術は、彼女の身に着けた戦闘技術は、そういうレベルに達している。
だから、銀人狼は言う。
「オマエ、なんか無茶しすぎだ」
空振った。
その言葉に動揺して、紗矢華が目測を誤ったわけではない。
床が急に持ち上がったのだ。
「!?」
大きく、揺れる。
豪華客船と呼ばれるクラスでは滅多にないことだったが、船である以上は揺れる。
ただし、これは海の、波によるものではなくて、“ひとりの踏込によって起きた”揺れだ。
中国武術の身体運用で、霊視にすら悟らせないその震脚。一歩も動かずして、立ったままに見せかけながら、しかと床を踏み抜いた。
その人間にはかなわない人外の全力で。
いくら舞威姫の呪的身体強化をしようと、足場が揺れていてはまともに動けない。
それも相当無茶な強化なため、持続力はなく瞬発的にしか働かず、それも見事に不意を突かれた。
そして、こちらは攻撃のための踏込は済んでいる。
「一回は、一回だ」
銀人狼の掌打が、無防備な紗矢華の胸に放たれる。
胸の中心に刺さった杭のような銀人狼の拳の痛みに、紗矢華の意識が消えかかる。
そして、飛んだ。中身のない空気人形のように、自分の身体が飛んでいるのがわかる。
空中に大きく打ち上げられて、紗矢華は背中から床に落ちた。
そして、なお胸に残る拳の衝撃。
「っ、………!」
満足な呼吸はできず、胸部が陥没したとしか思えない痛みに、視界が点滅する。
目から火が出るとはまさしくこのこと。
恐ろしく気の練り上げられた痛打は、数秒経ってもまったく薄れず。
声も出せず無残にあえぐ紗矢華の胸には、今も拳大の、杭の感覚が残っている。
「紗矢華さんっ!」
姉のように親しい元ルームメイトが打ちのめされて、雪菜に動揺が走る。
剣巫としてではなく、元の少女としての顔が出る。
これで、獅子王機関の包囲網は崩れた。それを逃さず、クロウは床を蹴って跳躍。阻む者はいない。古城は苦い顔をしてそれを見送り、ヴァトラーは楽しげな顔で拍手を送ってる。そのまま空中へ。高さは、およそ10m。空中で身を捻り、強風を受けながら頭から海へ垂直落下で飛び込んだ。
その様子をデッキの下から見ていた人影は、大きく口元を歪め、
「あの状況で剣巫と舞威姫から逃げおおせるとは。流石は、我が盟友の血を引くだけのことはある」
つづく