制限時間:二時間
座席に座った私は、ポケットから携帯音楽プレイヤーを取り出す。電車に乗る時には、決まって音楽を聴いている。
ゲームのBGMのように、世界が音楽で彩られる。私はこの感覚が好きだ。カナル型のイヤホンから流れ出す音楽が、私だけの世界を作り出してくれる。
一つ、二つと駅を過ぎる度、一つ二つとまた、音楽も変わる。それぞれの駅で流れる音は違い、乱雑に突っ込まれた雑多なジャンルの音楽たちが機械的なランダムで選ばれる。こういうのをシャッフルというのだったか。機械に疎い私にはよく分からないが、どこでも手軽に、周りに迷惑をかけずに音楽を楽しめるこの機械の発明は、人類史上に残るものだと勝手に考えている。
目的の駅で私は電車を降りる。プラットホームを歩き、自動化された改札をくぐると、そこで丁度次のトラックへ。RPGみたいだ、なんて心内で苦笑する。町から出てフィールドに。今ならランダムエンカウントするかもしれない。向こうから近づいてくるからシンボルエンカウントか。画面切り替わりの効果音のごとく響くキャッチーなセールスマンの声を聞き流しながら、私は路地裏の扉を開いた。
「いらっしゃい……ああ、みーちゃん。いらっしゃい」
確かに挨拶は大事だ。二回言うのも悪くない。カウンターの奥から駆けてきたお姉さんに軽く会釈をして、私はいつもの窓際の席に座る。
ここは丁度日光が当たって、ぽかぽかして気持ち良い。路地裏の癖にやたら日照条件だけは良いこの店は、私の行きつけである。
「はい、珈琲。今日のはちょっと自信作」
テーブルの上にいつものように物を置き始めたころに、丁度よく届く珈琲カップ。オリジナルブレンドは苦すぎず、私好みの味だ。作業を中断して一口含むと、香り高い珈琲の味が口一杯に広がった。うん、美味しい。
言葉代わりに微笑むと、お姉さんは嬉しそうにはにかんだ。これで彼氏が一度も出来たことがないそうだから驚きだ。私が男なら今ので落ちてる。
カップをどかし、手提げ鞄から新しい紙を取り出す。それには均等に五本の線が引いてあって、私はそれに沿って点を打つ。
たったそれだけ。それだけで、私の頭の中に流れる飾りっ気のない素朴な音が、真っ白な紙の中で流れ出す。
何分くらい経っただろうか。ふと顔を上げる。カフェはぽつぽつと席が埋まり、お姉さんも少し忙しそうにお客さんを対応している。珈琲を一口。もうぬるくなっているけど、やっぱり美味しい。
今日はもう終わりにしよう。日が傾いた空を見て、そう決断する。随分増えた紙束を整えてクリアファイルに入れて、それを鞄に突っ込む。残りの珈琲を一気に飲み干して、私は席を立った。
「ねぇみーちゃん。今日はさ、ちょっとだけ時間をくれないかな?」
お会計の最中に、突然お姉さんがそんなことを言う。私は少し戸惑って、でも今日と明日は予定がないから、笑顔で頷く。
「ありがとう。ちょっと早めに店じまいするから、もう少しだけ待っててね」
それから、しばらくして。いつもは日が落ちきってから店を閉めるのだが、今日はまだ少しだけ日が差す頃に店は閉まった。閉店後の店内には、私とお姉さんだけがいた。持参した携帯ゲームをしていた私は、ちょうどボスを倒すかどうか、といった頃に肩を叩かれる。顔を上げれば、そこにはお姉さんがいつものエプロンを外していた。
「あのね。いつもみーちゃん、そこでピアノの楽譜を書いてるでしょ。だからさ、私、ちょこっと練習してみたの」
カフェの隅に置いてあるピアノ。前は埃が積もっていた気がしたが、いまのそれは立派に楽器としてそこにあった。
彼女は椅子に座る。慣れた手つきで布を取り、確認するように鍵盤を軽く叩く。そして。
「……!」
流れ出した曲は、私にはとても聞き覚えのある曲。いや、曲と呼ぶのもおこがましいような音遊び。
作曲のセオリーも何もない、音を繋げただけのもの。でも、お姉さんのどこかぎこちない演奏と相まって、私の中の記憶が刺激される。
―――ああ、この曲は。
「……えへへ、どうかな。みーちゃんの初めて書いた曲。……あれ、どうしたの?」
だってそれは。
少し困惑するようにこちらに来たお姉さんは、ポケットからハンカチを取り出して私の目元を拭った。
言いたいことは沢山ある。でも、私の口からは何も出ない。だから、私は。
拍手。たった一人のスタンディングオベーション。元プロピアニストの演奏に、私は一人で感動した。