制限時間:一時間
誰でも良かった、なんて。そんな定型文を並べる位だったら、いっそどこまでも自分を正当化して、極限まで自己中心的な理屈を組み立てて欲しい。私は崩れ落ちながらそう願った。
事の発端は実に突発的なもので、それ自体は数十分前に遡るだけだ。私は一人の男と会った。彼はたまたま電車で私の隣の席に座ってきただけだった。そのときは私もきっと彼も、お互いのことをまったく知らなかった。
「今日は暑いですね」
そんな何気ない一言で、私は彼の存在を認識した。普通、見ず知らずの人には話しかけないものだ。私はそういう認識で生きてきたから、唐突に起こった出来事に、
「え、ええ。そうですね」
と、どもりながら答えることしかできなかった。それでも返答があって嬉しかったのか、彼はにっこりと笑った。顔はそこそこ好青年然としていたから、面食いというわけでもない私でも少しどきりとしてしまった。
「今日、このあと少し、お暇ですか?」
その言葉を聞いて、私は状況を理解した。ああ、ナンパか、と。こんな公衆の面前で……それも電車の中でアプローチしてくる人がいるとは思わなくて、少し驚いた。私はこれまでそういう浮いた話はまったく無かったから、その言葉に惹かれるものを感じた。別に重要な用があって外出しているわけではなかったので、その誘いを受けることにした。
「……ええ、まあ」
少し控えめな返答を聞いて、彼は笑みを深くした。その顔はしてやったり、といった顔に見えなくも無かったけれど、逆の立場だったら私もそういう顔をしていただろう。見逃す事にした。
「本当ですか?よかった。それなら、このあと少し僕に付き合ってもらえませんか?」
私はその意を含んで返答していたつもりだったが、そこまでは伝わらなかったようだ。確かに首肯すると、彼は再び満足そうな顔で笑った。
彼とのデートは、そこそこ退屈しないものであった。遊園地に行ったりとか大掛かりな事は何一つ無かったけれど。カラオケしたり、ウィンドウショッピンウしたり。路地裏のちょっと気取ったカフェでお茶したり。彼はナンパしたわりに、下品な言い方になるが……“体目当て”ではなかった。カラオケボックスにいるときもそういう素振りを見せずに少し懐かしい名曲を元気良く歌っていたし、デートを通してそういう雰囲気を出そうとする気配も無かった。だから私は彼のことがけっこう好きになっていたし、メールアドレスくらいなら教えてもいいかな、なんて思っていた。
すっかり日が沈んだ頃。私も彼も少し遊びつかれて、涼しい夜の町を歩き回っていた頃。彼は急に私の手を取って、路地裏へと駆けた。大した抵抗もできずに連れて行かれたそこは、暗い闇が支配する路地裏だった。
ああ、結局こうなるのか、なんて私が思っていると、彼は私の手を離して、こちらを向いた。
「あの……こんな事を聞くのもなんですけど、どうして僕の誘いを受けてくれたんですか?」
なんて言うのだ。有無を言わさず嬲られるのかと身構えた私だったが、彼のその言葉に少し拍子を抜かれた。
「……特に理由はない、かな。今日は暇だったし。そこにこんな優男が誘ってきたから、受けてみてもいいかな、なんて思っただけ」
むしろ私を誘った理由が聞きたいくらいだ。別に特段可愛いというわけでもない私をナンパした訳が。
「それよりも、さ。なんで私を誘ったの?」
私がそう聞くと、彼はあからさまに動きを止めた。そしてポケットに入れた右手をそのままに、左手で私の右腕を掴んだ。
「……誰でも、良かったんです。でも、中々機会が無くて。こうしてやっと巡ってきた」
私がその言葉の意味を頭で理解する前に。
どすり、と衝撃。
「僕の快楽の為に、今日はありがとうございました」
僅かに震えた声。フリーの左手で彼の右手を触ってみると、何かを握っていた。それは私の体に繋がっていて、呼吸をする脈動に合わせて動いていた。
「……え?」
そうして、私は地面に崩れ落ちた。何の納得も得られぬままに。
地面に倒れた私は、彼が立ち去っていく音が聞こえた。彼はきっと自分の快楽の為に、どこまでも身勝手な理由で私を刺したのだろう。そんな風に考えられる位には、私は妙に冷静だった。
誰かが私の体を起こす。暗くてよく見えない。なにやら喚いているみたいだけれど、それも不思議と聞こえない。
暗い。静か。こんな安らかなものなのか。私はその悠久の暗闇に、意識を溶かした。