制限時間:一時間
「紹介しよう。彼が君の新しいパートナーだ」
薄暗い部屋の中で、スーツ姿の男はそう言った。デスクに座った彼の脇に立つ一人の男を手で指しながら。
「……よろしく頼むぞ」
彼は端正な顔立ちの割りに渋い声でそう言った。私はそれに無言で頷く。仕事は一人では辛いが、馴れ合うつもりはさらさら無い。
それが、今から一週間くらい前の話だ。
彼は有能だった。私の言う事は大抵聞いた。話を聞かないときはそれ以上に有効な解決策を彼が持っているときだった。
彼は寡黙だった。元々話す気のなかった私の隣では、彼は無駄な口をきく事は無かった。それは重苦しい静寂だったが、癇に障る喧騒よりは随分ましだった。
今では彼はすっかり私の隣で黙っているのが日課になり、私は彼の隣で黙って手を動かすのが日課になっている。今まで体を動かす仕事ばっかりだったので、書類仕事というものは新鮮に思えた。読み書きは元々できた。下層出身の人はまず読み書きができないという言語の壁に悩まされるのだそうだ。確かに前に私の周りにいた人々は……“彼”も含めて簡単な読み書き程度しかできなかった。暇にかまけて言語を習得した私は幸運で変わり者だったが、それが今こうして役に立つとは思ってもみなかった。
無言で珈琲を出す今の相棒は、典型的な上層出身の男だそうだ。とはいえ私の噂を知らないそうだし、世俗に関して妙に疎いところを鑑みると、箱入り息子な所はあるかもしれない。この仕事に就いてはじめての仕事が私の相棒役であるそうで、随分と……不幸で不運な男だ、と少しだけ同情した。
「……おい、少しいいか」
「何かしら」
「トカゲ……どういう意味だ?」
彼は訝しげな顔で、私にそう訪ねる。……雑談は初めてだが、初めからこういう面倒な話題を選択してくる以上、相棒は“彼”ほどコミュニケーション上手ではない事を物語っている。
トカゲ……それは、下層出身の私が奇跡的に上層に住んでいる理由そのものだ。
この世界は格差社会だ。生まれが全てを決める世界。今更おかしいだの何だのと喚くつもりはない。私は這い上がった。一人の男を犠牲にして。
下層の人間を踏み台にして成り上がった女……私は“尻尾を切ったトカゲ”と揶揄され、蔑まれた。結局、上でも下でも人間と言うものは変わらないのだ。どっちにしろゴシップ好きで、人の弱みを話題にする。
「……私の、昔の話。知りたいかしら」
試すように目を向ける。彼は……目を逸らした。聞きたくはないのか、聞く気がないのか……。まあどちらにしろ、話す必要はなさそうだ。
私は書類に目を戻す。彼も呼び出しを受けたそうで、一言断って部屋を出て行った。部屋の中には私が一人残される。耳が痛くなるほどの静寂を、ペンを走らせる筆記音で紛らわす。珈琲はブラックだったが、彼は淹れるのが下手なのだ。妙に薄い。
トカゲ……。最近は外に出る事も少なくなって、私はその名を聞くことが少なくなっている。昔は仕事で出会った人にはもれなく呼ばれたし、悪いときは道を歩いているだけで声を掛けられたときもあった。それに比べれば、外にすら出ない今のほうがまともな生活だというのも変な話だが事実だ。
それで傷つく私は、いつになっても“彼”を忘れられていないという事なのだろう。確かにこの世界は気に入らないし、いつか転覆させてやろうと思っている事は否定しない。だがそれでも、この世界で生きていくうえで私にはその肩書きが切っても切れない関係であり、その上で生きていく為には“彼”を忘れなければいけないのだろうことも否定できない。
“彼”は私の頭の中での一等地に、堂々と自分専用の区画を作ってしまった。どこまで行っても私について回ってくる。そうして彼に気を取られている限り、私は孤独になる。私の隣には“彼”以外の居場所が無くなる。
今の相棒である彼だって、役職上相棒であるが、心が通っているなどとはお世辞にもいえない。私の周りを“彼”が占めてしまっているから、他の誰かが入り込むこともできはしない。
「……おい、いつまで呆けてるんだ。仕事だ。外だぞ」
「仕事……?なんで私たちに」
「知るか。だが、人探しだ」
いつの間にか部屋に帰ってきていた相棒がそう言う。外に出る仕事など何ヶ月ぶりだろうか。
「話題の“姫君”様が行方不明……。面倒そうな話ね」
相棒から道すがらに渡された書類には、明らかな面倒事が書き込まれていた。“彼”ならばノリノリで受けるのだろう……。また、私は孤独になる。
隣に人はいる。けれど、彼は私を孤独から解放する事は無い。それでいいのだ。
孤独に囚われたまま、私は日々の糧を稼ぎに足を動かす。やがて来る未来は、いまだ見えない。