制限時間:一時間
この部屋に閉じ込められてから、もう何週間が経っただろうか。飛び出してきた車に撥ね飛ばされ、気がついたらこの部屋にいた。それからろくに体を動かせないまま何週間もこのままだ。たまに部屋に来る見知らぬ人々は口々に私を心配するけれど、彼ら彼女らが誰で何のために私を見舞っているのかはまったく分からない。医者らしき男の話によれば、いわゆる記憶喪失……外傷による逆行性健忘というやつらしい。つまり事故にあった私は、それまで会った人の顔を軒並み忘れている。どうしても思い出せないので、三日目辺りに私は思い出すのを諦めた。何度人に会っても、何度声を掛けられても、何度説明をされても私には面と向かっている親しげな誰かが誰だか分からない。そんな日々である。一人の女性……私の母親を自称する彼女は毎日のように私に会いに来るけども、私には彼女が親であるという記憶はない。いつかそう言い放ったら泣かれてしまったけれど、何かの小説に書いてあった時のように胸が痛むとか、頭痛がするとか、そういう症状は何一つとして起こらなかった。
何か……何か一つでも思い出せたら、この終わりの見えない暇な生活に終止符が打たれるのだろうか。それすらもよく分からないまま、私はただただ無為に時間を過ごしていた。
こんこん、と。横開きの扉がノックされる。私がどうぞ、と声をかけると、扉はゆっくりとスライドし、一人の男が部屋に入ってきた。
言い表す為の的確な言葉すら思い浮かばないような、凡庸な容姿の男だ。彼は私の顔を見るなり残念そうな顔をして、ベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた。
「……たぶん君は、僕の事は覚えていないんだろうね」
話を聞いているのだろう、私の事情を知っているようである。私はゆっくり頷く。名前も印象も、出会った事さえ覚えていない。
「だから僕は、自己紹介から始めようと思う。いいかな」
首を傾げる彼の姿は、生まれて初めて、私の心に何かを訴えた。永久凍土のような記憶の闇の中に、懐中電灯のようなか細い光。そんな程度のものだけれど、確かに私の中の何かが刺激された。
「……どうぞ、ご自由に」
何も考えずとも、口が勝手に呟いた。まるであの質問にはこう答えるものだと、目覚めたときから決まっていたかのような自然さで。
「……君は変わらないね、あのときから。記憶喪失になっても、なんにも」
彼は勝手に懐かしそうな顔で私を見る。それが少しこそばゆくて、私は顔を逸らした。……彼が入ってきてから、どうにも調子が狂う。
「まずは、名前。僕の名前は――」
そんな風に始めた彼の自己紹介は、初めて聞くはずなのに何かが被る。私の中に引っかかる。一つ、一つ要素が明かされていくたびに、旧知の事実のように私の中でピースが嵌っていく。親族でも埋められなかった心の空白に、彼という見知らぬ誰かが居座っていく。
「あとは……そうだね。趣味は――」
「――読書」
「……そう。それも――」
「――108円のペーパーバック」
「ジャンルで言うと――」
「――探偵物……。なんで……」
私が知っているのだろう。
「よく覚えてるね。嬉しいよ」
彼はふんわりと特徴的に笑う。ずば抜けて格好いいわけじゃない。それでもその顔は不思議と私をひきつける。目が離せない。
「……少し暑いね。窓開けようか」
彼はおもむろに立ち上がって、カーテンで遮られた窓を開いた。途端に涼しい外の風が、私の頬を撫でた。カーテンがふわりとはためいて、彼の顔を明るく照らした。
――そうだ。どうして私は忘れていたのだろう。
「……ありがとう。いつも」
彼はいつでも私の隣にいてくれた。彼はいつだって私の味方でいてくれた。彼は――
「どういたしまして」
こうして笑って、私を見るのだ。
それから私は順調に回復した。それまでの氷河期が嘘のように次々と記憶が蘇り、一週間後にはすっかり過去を把握していた。無くしていたのは過去の人に関する記憶だけだったそうだ。不思議なものだが、そういう忘れ方をする人も時にはいるのだとか。
今日、私は中古の本屋の値札が付きっぱなしの本を開いていた。内容は典型的な探偵小説で、登場人物の一人に記憶を失った少女が出てくるのだ。今となっては彼女に普通以上の共感の念を抱きながら文字を追うことに没頭していた。
こんこん、と扉が叩かれた。その音、テンポ。今となっては聞きなれた彼だ。
どうぞ、と声を掛ける。扉が開くと、涼しい風が吹き抜けた。気持ちのいい秋の日だ。