制限時間:30分
車のドアを開くと、冷たい空気がひやりと肌を伝った。水辺特有の湿った匂いが鼻をつく。早朝だからか鳥のさえずりのほかには聞こえる音は無い。私は大きく息を吸った。
地元にある湖は、あまり人が近寄らない。普通車で不自由なく来れる程度には整備されているのだが、少し昔にこの辺りで殺人事件があった後は、ジョギングやドライブでここを訪れる人は殆どいない。私としては煩く喋るおばさん共がいなくなった事は喜ばしい。
軽く深呼吸。体の中につめたい空気が入ってくるのを感じて、少し溜め息。朝のこの数分は嫌いではない。凛と張り詰めた空気は、朝の目覚めにちょうどいい。うっすらと霧が出ている中を、私は散策し始めた。
ほぼ毎日来ているから、特に目新しい発見があるわけでもない。けれど、体を軽く動かすのはいい気分転換になる。
「……ん?」
ふと、視界に見慣れないものが映った。それは、少女だった。真っ白なワンピースを着た、白い長髪の少女だ。ただ湖のほうを見て佇んでいるその姿は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
私がゆっくりと近づくと、彼女はまるで分かっていたかのようにこちらを振り向いた。息を呑むような、透き通った白い肌。アニメか絵画の中から出てきたような少女である。同姓である私でもすこしどきりとしてしまった。
「……こんにちは、お姉さん」
消え入りそうな声で、彼女は喋った。それだけなのに、透き通った声は綺麗に私の鼓膜を響かせた。
「……おはよう。はじめまして、かな」
不思議な雰囲気に呑まれそうになりながら、私は言葉を紡ぐ。少女はにっこりと微笑んで、そうして右手を自然にこちらに差し出した。
「お姉さん。辛くない?辛そうな顔をしてるよ」
透明な声は私の心に通る。確かに最近は色々と大変だったが、それでも楽しい日々だ。辛いかといわれれば違うと返す。
「そうでもない、かな。大変だけど、楽しいよ」
私がそう言うと、少女はそうなの、と呟いた。少しだけ視線を下げて、まるで何かを耐えているような風に一つ、溜め息をつく。そうしてもう一度こちらを見つめた彼女は、にっこりと笑っていた。だけれどその綺麗な瞳には、どこか悲しげな感情を浮かべていた。
「……そう。そうなの。それはよかったね……うん」
何かを……自分自身を納得させるように、彼女は言った。私はなんだか見ていられなくて、すっと視線を外した。
「……気をつけて。貴方の傍には迫っている」
耳元で囁かれるような声。驚いて視線を戻すと、既にそこには誰もいなかった。
「……誰だったんだろう、あれ」
私は不可思議な気持ちを抱えて、車へと帰った。それからというものの、あの湖には行っていない。彼女はどうしているのだろうか。