即興短編集   作:遠名 彬

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お題:官能的な小雨
制限時間:一時間


晴耕雨読

俺は窓の外を見た。小雨がぱらついている、薄暗い日中だ。買い出しに出て行った同居人は帰ってくる気配を見せない。仕方なく、机の上に載った小説に手を伸ばした。

薄汚れたブックカバーを着けられたそれを、もう何百回と読み返した。かなり昔に亡くなった知人が書いたものなのだが、不思議と飽き性な俺が何度読んでも飽きることの無いほどに内容が面白い。あの老獪で底意地の悪い男が書いたとは思えないほどに優しく、繊細で、奥ゆかしい言葉の羅列は、到底自分には真似のできないものだ。何度も何度も読み返すが、未だに彼を越えられる気がしない。

確か、いや間違いなく、この小説の中も、こんなふうなぐずついた小雨が降る日だ。どうしようもなく沈んだ雰囲気で、物語は進んでいく。

 

思えば、この場所に居を構えたのはどうしてだろうか。分かりきった、それでいて何度見ても驚かされる文字を目で追いながら、俺は過去に思いを馳せる。実家で小説書きを目指していた俺は、地元の書店で売っていた一冊の本と出会った。それは古本屋の中で何冊幾らという風に投売りされていたものだったのだが、その内容に俺は心底驚いた。

どうしてこの本がベストセラーになっていないのか。そんな疑問が渦巻いた。作者はどことも聞いた事の無い無名の作家であった。しかしその本は、これまでに出会ったどんな本よりも、それこそ後世に名を残したほどの高名な作家を優に凌駕していた。自分の書いていた文章が児戯に見えるほどのその衝撃は、確かに俺を都会へと誘った。

そうして俺は、この都会の端に移り住んだ。通っていた大学を辞め、親に猛反発されながらも都会を目指した。

 

出版社に脅迫紛いの電話をかけて件の執筆者を突き止め、平日の昼間に乗り込んだ。ボロっちいアパートだった。

玄関前でチャイムを鳴らすと、静かにドアが内に開いた。チェーンロックに阻まれて突入する事はできなかったが、確かにその男の顔を見た。

彼は老人だった。傍目で七十は数えるだろう年季の入った顔立ちで、目付きが悪かった。おんぼろのアパートに住んでいる癖に身形だけはきっちりしていた。

あんたがこの本を書いたのか。俺は衝動に任せて尋ねた。昔の俺は血気盛んだったから、それこそ殺すかのような勢いであったに違いない。しかしその爺は怯えもせず、小バエでも見るかのような目で俺を見るのみだった。

そうだ。一言だけそう言った。響くような低音だった。まるで数年間誰とも話していないような、そんな声だった。

 

それから、俺は毎日その爺の元に通った。彼は嫌々ながらも俺をもてなした。今思えば随分と迷惑な小僧だっただろうが、俺はもう気にしていない。彼もこの世にはいないのだ。

 

数年後、爺は死んだ。悪性のガンによる心臓発作だった。ただの一度も健康診断に行かなかったそうで、死んだときには既に末期ガンであったらしい。

きっと彼は分かっていたのだ。自分がもうすぐ死ぬ事を。結局俺に物書きとしてのいろはは教えてくれなかったが、あの日々は俺の中でしっかりと糧となっている。

 

文庫本とは思えない、書き散らされた後書きを読み終えた俺は、少し伸びをした。ふと外を見れば、曇り空にところどころ日が出てきていた。

ちょうどその時、部屋の扉が開いた。入ってきたのは一人の少女。一応、同居人である。傘をたたんで、セール品が詰まったビニール袋を軽々と台所に放った。

またその本を読んでたの?などと可愛らしく顔を傾けて聞いてくる彼女の相手をしていれば、すぐにでも日々は過ぎていく。未だに入稿予定の原稿案はまっさらだ。雨の日を舞台にしてみようかと、脳内のメモ帳に追記した。

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