制限時間:一時間
「大丈夫ですか。お荷物持ちますよ。遠慮はいりません」
階段の前で、そんな風に老婆に声をかける男が一人。きっちりしたスーツ姿で、手にはビジネスバックを持ち、小綺麗な革靴を履いている。
彼はこの辺りでは有名人だ。朝方、いつも決まった時間に同じ道を通って出社する。その道中で困り事があれば、誰よりも進んで手を貸す。そんな底抜けの善人である。
階段に困る老人がいれば、荷物を持ち。道に迷う外人がいれば、リスニング教材もかくやという綺麗な英語で、完璧に案内をこなし。目の見えない人が歩いていれば、手を引いて案内をしてやり。見返りを求めない行動は不審者に見られることも少なくないが、彼はいつでもニコニコ笑顔で親切を押し売りするのだ。
「あら、おはよう。持ってくれるの?助かるわぁ」
老婆も喜んで彼に荷物を預ける。私はそのさまを、後ろの方から眺めていた。彼の出勤時間帯は、ちょうど私の登校時間と重なるのだ。もはやこういう光景も見慣れたものだ。
男は嬉々として鞄を持ち、老婆と談笑しながら階段を上っていく。私はなんとなく後ろをゆっくりと歩いていく。
ふと、男の手が気になった。いち会社員にしてはやたら豪華な手元だ。たぶん何百万とするだろうダイヤの指輪が嵌まっていた。手首には少しゴツめの腕時計……これもまた高級品のような風貌である。
もう結婚しているのだろうか。しかし彼はどう見積もっても20代後半である。昨今の晩婚化には似合わないし、何より薬指に指輪をしていない。
彼の仕事場は私が通う学校の二つとなりのビルである。それは何度か見掛けたことがあるから間違いない。しかしそこは寂れた雑居ビルである。高給取りがいるような場所ではない。
そんな風に、探偵っぽく男を観察していると、階段の上に着いたようである。彼はにこやかに老婆に鞄を渡し、上機嫌に去っていった。
私も学校に行こうと歩き出すが、老婆の隣を通ったその時、ぼそりと彼女は呟いた。
「……あら?私イヤリング忘れてきちゃったかしら……」
……きっと気のせいである。私の中で、彼の笑顔が真っ黒にくすんだ。
翌日。そのまた翌日。何度も彼の姿を見た。いつも通りに親切を押し売る彼は何の遜色もない。そんな変わらない彼の姿を見て、やはり私は怖くなる。
仕事のわりに豪華な身形。やたら機嫌のいい日に限って、誰かの荷物に触れることのできる親切をしている……ように見える。
疑心暗鬼が過ぎるのだろうか。私は何度も考えるが、しかし答えは出ないままだ。
「おや、何かお困りですか?」
そんな風に道行く人を助ける彼を見ていると、そんな考えも馬鹿らしく感じてくるのであった。