1944年の夏。カンカン照りの太陽は滑走路の地面を焼き、湿った空気は肌にいやに纏わりつく。そんな真っ昼間のとある日、飛び方論議から今の戦争の論議まで幅広く酒の肴にしながら、俺は上官である菅野氏と共に酒を呷っていた。
『俺達がやってることが正しいか?そんなもん判るかよ。俺達は命令に従い飛ぶだけだ。それを間違えんな。…まぁなんだ。悩むのは貴様の勝手だがな…死に急ぐなよ?』
「心得てますよ。私は死にたくありませんからね」
『はっ…ふてぶてしさは相変わらずかい。ま、貴様はこれから一航戦の看板背負うんだ。気合入れろよ』
「はいはい…それをいったら貴方もこれから第201海軍航空隊へ行くのでしょう?また破天荒なことをして回り困らせないで下さいね?」
『うるせぇよ。馬鹿野郎、この野郎』
そう言った上官、菅野さんはグラスをこちらへ差し出していた。
『ま、戦争が終わってまだ生きていたら呑もうや』
「ええ、ぜひ。貴方と呑むと楽しくて仕方が無い」
『そりゃこっちの台詞だ』
チン、とグラスを当てる音が響く。懐かしき前世、私が死ぬ1年前の1944年の暑い夏の事は忘れることはない。ただ心残りがあるとすれば、菅野さんと呑む約束を果たせなかったことだろうか。
そして今の世になって資料を読み漁れば、菅野さんも行方不明となり、未だに未帰還という話だ。私がいきのこっていたとしても、どちらにしろ、約束は果たせなかったのだ。
◆
現代の夏。暑さはあの時と全く変わらない。カンカン照りの太陽は滑走路のアスファルトを焼き、湿った空気は肌にいやに纏わりつく。
---相変わらず面れぇことしてんなぁ---
「…ん?」
「彩羽、どうしました?」
一瞬聞こえた懐かしい声に私は計器から目線を離し、コックピットから外を見る。視線の先には、濡鴉の髪が美しい女性が一人立っていた。だが、こちらの視線に気づいたのか、視線をこちらから外すと女性は背中を向けて家族と思わしき子どもの元へと歩みを進めていた。
「いえ…懐かしいものを見たような気がしたもので…」
「気になるのなら展示飛行を後に回しますか?私が先に飛んでもいいですよ」
「大丈夫です。母さん。そこまで気になるものではありませんから」
私はそう言って、改めて計器を見つめていた。だが、頭のなかには未だあの人の言葉が聞こえてきていた。
---平和な空で飛びやがって、気持ちよさそうじゃねーか。ズルいぞ。馬鹿野郎、この野郎---
「煩いですよ菅野さん。いいじゃないですか、俺は常々、そう言っていたはずですよ」
アノ女性は振り返らない。当然だ。気のせいだ。私はそう思いながら、エンジンをスタートさせ、滑走路へと機体を進めていた。だが---
約束は守らなければ。手元に置いていた携帯飲料を掲げる。そして。
「…乾杯。あの夏の約束は果たしましたよ。さようなら」
◆
零戦が羽田の滑走路から飛翔する。通常よりも機首を高く上げたそれは、他のどんな機体よりも、一番早く空高く登っていく。だが彼女の飛び方の特徴として、不思議と失速をしないのだ。他のどんな軌道をしていても、機体は安定する。それが彼女であり、彼女が零戦の飛行士の中で最も素晴らしいと言われる所以だ。
「あの零戦、まさかとは思ったが…○○、やっぱりお前の飛び方だよ。全く、全く変わっちゃいえね」
それは、在りし日の光景。在りし日の零戦。彼女が彼であった時代に肩を並べた者であれば、一発で彼だと判る飛び方であった。
「はん…なんだよ、お前もこっちに来てたのか。空馬鹿め」
彩羽の乗る零戦を見ながら、女性は濡鴉のような髪をかきあげる。そして、持参していたジュースを手に取り、空へと掲げていた
「…乾杯。酒じゃねーが、呑むっつー約束は守ったぞ。…つーかよう、空で戦うよりテメーにはその空で泳ぐ姿の方がお似合いだよ。正直言うと、帝都の空を飛べるなんてちーっとばかし羨ましいが…」
眩しそうに空を飛ぶ零を見る。ソコには、彼が現役時代であった時のように、羽から雲を引いて旋回する零の姿があった。
「本当に貴様には呆れるよ。気持ちよさそうに飛ぶじゃねーか。現役の頃に、俺が生きていた頃に、その腕を見せろってんだ。
言葉とは裏腹に、気持ちのよい笑顔を浮かべる女性。そして、空を飛ぶ零に背を向けると、家族の元へと足早に戻っていった。
「お母さん、どうしたの?」
「ん。ちょっと懐かしいものを見たのよ。ね、零戦ってどう思う?」
「んーとねんーとね!かっこいい!」
「そうよね、かっこいいわよね!」
息子を見ながら穏やかな笑みを見せる女性。そして、子どもには聞こえない小さな声で、零戦へと声をかける。
「前世とはこれで決別だ。じゃあな、○○。てめぇもこの世を楽しめや」
---そちらもお元気で----
彼女の耳には、彼女の眼には。零戦がそう語ったように聞こえたという。そして翼を畳んだ荒鷲は、未だに空を飛び続ける荒鷲を見守り続けるだけの存在となる。
これは、古の時代に空を駆け巡った荒鷲達の、なんでもない日々の一コマである。