「はっ、はっ、はっ…はぁ………」
駅までの道をひた走るその途中、精神的な疲労と肉体的な疲労で燈は思わずへたり込んでしまう。
まだ足を動かすのも一苦労だ。壁にもたれかかる。ふと自分の手を見ると、ぶるぶると震えていた。甲には、未だ役目を負っていない令呪が刻まれている。
「こんなもの…」
こんなもののせいで、と言いかけてやめた。今日、大学で自分が死にかけたのは間違いなく自業自得だ。
令呪が宿ったということは、つまりもう聖杯戦争の参加者として選ばれているということである。それはどんなに拒もうとも事実なのだ。もはや英霊を召喚しようとも、しなくとも、いずれ自分は殺される。
「やるしか無いのか…」
呆然と呟く。未だ燈は心が決められずにいた。聖杯戦争は、その名の通り殺し合いだ。自分が死ぬことなど、そう簡単に認められるわけはない。
「死にたくない…死にたくないんだ。……でも」
参戦の決心、ではない。覚悟を決めたところで、死ぬ恐怖は無くならない。燈が決めたのは"人を殺す"ことだ。
自分が殺されるというなら、その前に全員を倒す。そんな無謀とも言える考えを、彼は自らの中で確立させた。
自分は死ぬことが怖い。殺されるのも嫌だ。ならば、その前に全員を殺す。この時点で彼もまた、聖杯の力に毒されているとも言えた。
「
ギリ、と拳を固く握りしめる。反対の手で令呪を撫でた。ゆっくりと立ち上がる。手の震えはもう、収まっていた。
「やってやる。勝って、勝って、勝って。僕は生きるんだ…」
歯を食いしばって、重い足を引きずるようにして歩いていく。一歩ずつ、踏み出すごとにその決意は固まっていく。彼の表情は、今まで見せたこともないような鬼気迫るものとなっていた。時折すれ違う人々が、何事かという目をして過ぎていくが、彼は気づかない。
そして、彼の中の眠れる魔術回路がその時目覚めたことも、自覚は無かった。
*
目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。暗く、巨大な、神殿のような場所。目の前には祭壇。立っている人間が二人、祭壇に寝かされている人物が一人。将悟はそれを、祭壇へと続く階段の下から見上げていた。
「あら、目覚めたみたいよ」
「意外と早かったですね…肉体の強さだけは本物ですか」
立っている二人は、琴音とランサーだった。こちらに視線を向けてきた彼女たちに、将悟は叫んだ。
「お、おい。お前ら!! ここはどこなんだ、何をしている!」
まるで三下だ。もはや山内 将悟は、山内 将悟であってそうではない者になっていた。髪も服も乱れ、顔はやつれ、自信に満ち溢れた以前の姿とは程遠い。
「何って…あんたの死にかけサーヴァントを介護してあげてるんでしょうが」
「あまり癇癪を起こすものではありません、ランサー。彼は目覚めたばかりですよ」
「そうだけど…男二人を抱えて飛んだ私の身にもなりなさいよ」
不貞腐れて、ランサーは”行っていたこと”を再開する。将悟がそちらへ視線を向けるのは自然なことだった。彼はその先の光景を見て、目を見開く。
「な、な、な!! お前ら俺のサーヴァントに何を!」
祭壇に寝かされていたのはセイバーだったのだ。そしてその胸にはなんと、一本の槍が突き刺されている。槍を握っているのはランサーだ。ランサーが槍を動かすのに合わせて、セイバーの体は死にかけの魚のように跳ねる。
慌てふためく将悟に嫌気がさしたのか、琴音はため息をついた。階段を降りて、将悟へと近づいてゆく。そして。
「面倒な人…」
すぅ、と。緩やかな動きで将悟の額に人差し指を当てた。将悟は抵抗しない、いや、できないのだ。指一本、身動きひとつ取れはしなかった。
「今、あなたのセイバーを治しているんです。彼は予想していた以上に強い…”駒”にはピッタリですから」
”拘束”の魔術。高位の魔術師ならともかく、一般人である将悟には強力だ。まるで石像にでもなったかのように彼は固まっている。琴音は話を続けた。
「彼にかけられた不癒の呪いは神の呪い。容易に溶けるものではありません。ですから特別に、ランサーの力を使っているのです」
ランサーの力。先ほど容易には解けないといった”神の呪い”を、ランサーは解くことができるというのか。言葉にはできなかったが、視線から察したのか琴音は微笑む。
「”解く”というと正確ではないですね。体をつくり替えるんです。今あるセイバーの肉体は捨てて、新しくするのですよ」
不癒の呪いのメカニズムは、魂に直接傷をつけるというものだという。「傷をつける」ではなく「元々そういう傷があった状態にする」のだ。サーヴァントならば、魂に相当するのは霊格である。その表面につけられた傷を、傷ついていない場所まで削る。玉ねぎの皮むきのようなものだ。傷が付いていたのであれば、傷が付いていない実の部分まで周りごと剥いで仕舞えば良い。
「な、あ」
かろうじて声が出る。そんなことができるというのか。あの槍は、ランサーは。
「本当にそんなことができるのか、と言いたげな顔をしていますね。安心してください。彼女は”国産みの母”。英霊一人の命など、玩具と大差ありません」
その言葉がどのような意味を持つのかは、魔術師ではない、一般人である将悟にも理解できた。国産みの母などと呼べる存在はただ一人だろう。知る人ぞ知る英雄、などではない。神話の存在だ。そう、神話の。
「な、か、神は…」
絞り出すようにして声を出す。そう、神だ。聖杯戦争において、霊格の高すぎる存在である”神霊”を呼ぶことは不可能であるはずなのだ。逆に言えば、”神霊”を呼べてしまうほどの力が存在するなら聖杯など必要ない。そう、読んだ古文書にも載っていた。選ばれるのは、”英雄の座”に登録された者のみであると。
「ええ、呼べませんよ。神の身を持つならね。でも彼女は”もはや神ではない”んです」
「な…!!」
将悟は思い出した。
「もう、神じゃない……」
そう呟いた将悟に、彼女は囁く。
「正解です。よくできましたね。でも…」
もう一度、彼女は将悟の額に指を当てる。優しく、自らの子に触れるが如く。
「それを知ったところで、無駄なんですけどね。あなたはもう、ここにいた記憶なんて思い出すことはないんですから」
蠱惑的で、甘美な囁き。耳に響く妖艶な声とともに、将悟は自分の意識が薄れていくのを感じた。不思議と嫌な子ことはしない。ただ、そう、眠いのだ。まどろんで行く。抗うことはできなかった。いや、抗おうとも思わなかった。
普段ベッドに横たわるのと同じ、それ以上の心地よさを感じながら、彼は深い眠りにつく。
*
負の記憶がある。それは憎しみだ。
誰に向けるでもない、否、向けることができない憎しみ。
誰が悪なのか、など。誰が元凶なのか、など分かりはしない。そんな行き場のない憎しみはいつの時代にも生み出される。
ところで、人の感情は時に”力”となる。
時には不可能を可能にし、逆境に打ち勝つ助けとなるだろう。
時には他人に影響を与え、導いていくものにもなるだろう。
そして時には、感情が集まり、”ナニカ”を生み出すこともあるだろう。
ところで、付喪神という存在がいる。
長年大切に使われてきた物が霊性を宿し、意思を持つようになった存在だ。
彼らは、大切に使われてきたからこそ霊性を宿したのだろうか。
否、そうではない。
彼らは長年使われてきただけだ。それだけで、霊性は獲得されたのだ。
”大切”に使われずとも、人に使われ続ければ霊性は宿る。”古いもの”というのは、それだけで力を持つ。
負の感情を持って、長くつかわれるものなど、そうはない。
だが、0ではない。
数多の英雄たちとともに、戦場をかけてきた武具はどうだろう。彼らに殺された者たちの感情は、どこへ行くのだろう。
「正義の対義語は悪ではない。また別の正義だ」
と、誰かは言った。
殺された者たちも皆、己の”正義”を信じていたのだ。英雄に殺され、”悪”とされるまでは。
「なあ、教えてくれよ。俺は。”俺たち”は。その無念を、憎しみを。一体誰にぶつければいいんだ?」
深い夜の中で。狂戦士は一人、闇に問う。