今年もよろしくお願いいたします
生まれた時から何も無かった。自由も、尊厳も、意志でさえも。何も無かったが故に、なんでも入った。彼は、巨大な容器のようなものだった。自らは何も持ち合わせないからこそ、外部からのものはなんでも受け入れた。
彼に感情というものはなかった。感情というものを知らなかった。それを出す場が与えられていなかったから。喜びも、悲しみも、憎しみも、何も無かった。だから彼は、今の自分の胸がズキズキと痛む理由も、息が詰まるような閉塞感に襲われる理由もわからない。
「なんなんだ、これは」
そう、声に出してみる。自分の口で喋っている感覚は全く無い。今の自分の口から出ている音といえば、下品な笑いと悪態ばかりだ。しかしなんとなく、今のセリフは確かに自分のものなのだろう、と人ごとのように考えながら彼は目の前の”景色”を見続けていた。いや、見せられ続けていた。
目の前に広がるのは死体の山。聞こえてくるのは阿鼻叫喚。普通の人間が見るならば、地獄という二文字で表現することすら生ぬるいような光景が、映画のスクリーンのように広がっていた。嫌悪感は感じなかった。感じているのかも知れないが、今の彼にそんな感情を自覚する術は何もなかった。
「これは、俺がやっているのか」
違う。俺じゃない。叫ぶような声が聞こえた。それが自分のものだと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
「そうか、俺じゃ無いのか」
それならば違うのだろう。他ならぬ自分が言っていることなのだから。そう思ってまた見続けた。
彼は思考しない。言われたことを、ただ額面通りに受け取って飲み込むだけだ。外部からの入力を一方的に受け入れ続ける、機械のような存在。それが土御門 零観という人間だった。
生まれた時から自由はなかった。零観は、平安時代に活躍した陰陽師、安倍晴明に端を発する一族に生まれた。魔術回路が減退し、一族消滅の危機に瀕していた土御門家にとって、零観はまさに天恵だった。冬木の地で行われた聖杯戦争を模した春日聖杯の製作には、土御門も多少は手を貸している。零観は、いわば来るべきその日に向けた、兵器として育てられたのだ。
生まれた時から尊厳はなかった。祖父である嘉昭から施された
生まれた時から尊厳はなかった。彼には戸籍がない。この世に存在していながら、書類上では世間に認知されない。それも偏に”聖杯戦争”のため。学校での教育、他者との関わり。そんなものは不要だと祖父は切り捨てた。
いつしか当たり前のことだと思うようになった。それは外の世界を知らないから。いつしか感情を失った。もはや、それを表現することに意味がなかったから。魔術以外に何も知らず、何もできない”彼”は、そうして今に至る。
”ナニカ”に、バーサーカーに体を乗っ取られて、彼は初めて外の世界を見た。自分と家族以外の人間を見た。その光景は常に血で染まっていたし、泣き叫び、恐怖に歪んだ表情で埋め尽くされていた。彼はそれが普通のことなのだろうと思った。人間が”死ぬ”ということも知らない彼は、肉塊となった”人間”を見て、あぁ、俺もこういう形になったりするのかな、とそんなことを考えたりもした。
だが、そんな無知もすぐに終わる。1日も過ぎれば、いつしか異変に気がつくものだ。彼は目の前で起こる光景が普通ではないことを、理解し始めた。
「これは何かが違う」
その疑問----最も、そんな感情すら彼には自覚することは不可能だったが、胸のわだかまりのようなものが確固たるものに変わったのは、病院でとある人間を刺す光景を見た時だった。
その人間の名前は知らない。ただ、いつものように刀で人間を刺していく”作業”の途中に現れた。
「何やってんだよ」
人間はそう言った。零観がいつも見ている、恐怖に歪んだ顔だった。
「俺の妹に何してんだ」
いもうと。さっき刺した人間は此奴にとって”いもうと”というモノなのか。彼はなんとなく理解した。
「お前は俺が殺す、初めての人間だ」
自分の口が、そう動いたことを覚えている。
「ころす?」
それはなんだ、と自分に問いかけた。もちろん答えなど出ない。ただ、いつもやっていることでは無いのだな、と判断した。
その人間は動かなくなった。自分の肉体が、俊敏な動きで刀を突き刺したからだ。崩れ落ちた身体を掴み、ずるずると引きずって建物を出て行った。いつもと変わらない行動だ。唯一変わったことといえば、人間を”持ち帰った”ことだろうか。これが”ころす”なのか、と彼は考えた。
その頃には、もうバーサーカーは下水道、地下の世界を拠点としていたから、人間はそこに運ばれた。
「素晴らしい!!!!!」
自分の口がそう叫んだ。自分に向けて語りかける、いつかの祖父の声を思い出した。
「さて…」
そう自分の口が動くと、おもむろに人間を振り回し始めた。彼には疑問しか生まれなかった。これは何をしているのだろうか。
「俺は、此奴は一体何をしているんだ」
手を離す。人間が壁に激突する。その光景は、彼が”見たことのない”ものだった。頭痛のようなものを感じた。脳が理解を拒んでいる。
「俺は、こんなことをされた記憶はない」
今までのことは、多少なりとも覚えがあった。さすがに肉の塊にされたことはなかったが、祖父のいつもの行為の延長にはきっとそれがあるのだろう、と自己完結していた。自己完結でき得るものだった。
だが、こんな光景は体験していない。振り回され、壁に叩きつけられるなど。ここで初めて零観は「これは変だ」という確信を持った。これは違う、という認識だ。
何も知らないが故、何も分からないが故、自分が体験したことのない光景に彼は戸惑った。”これは人間がされても良い、しても良い行為なのか”と初めて自分で考えた。わからないから自分を当てはめてみる。しかし、目の前の光景に自分の経験は当てはまらない。誰がどう見ても異常なことだ。彼の目の前で行われていたことに、彼がされていたことに、何一つ”普通”のことなどなかったというのに。
黒い海のような空間の中で、目の前に広がるスクリーンから映し出されるように広がる光景を、彼は初めて”見たくない”と思った。それがどこから生まれた考えなのか。この考えは”正しい”ものなのか。それを教えてくれる人間は、零観の前には未だ現れない。