申し訳ないのですが、今回は短めです
かつて愛した男がいた。
その男しかいなかった、というのもあるけれど、確かにその男は魅力的で。
幾度も交わり、多くの子を産んで、最後に彼女は焼け死んだ。
死の国から連れ戻そうと、再び会いに来てくれた男に彼女は涙した。
けれど男は。
彼女の成れの果てを受け入れることは、無かった。
*
歴史学。過去の文献や技術を読み解き、歴史の”事実”を追求する学問である。そしてーーこの男、相良 日向(さがら ひなた)もまた、そんな歴史学の魅力に取り憑かれた一人だ。
そしてその歴史学の魅力を若者たちに伝えるためーーーなどという崇高な理由ではなく、ただ気づけば大学の教授をしている。
まともに聞く気の無い学生たち相手に面倒臭い講義をした後、この大学唯一の楽しみであるカレー定食を食べるために食堂へ向かう、それだけの毎日だ。
「相良教授!」
ふと、自身を呼ぶ声に足を止めた。この大学において歴史学を専攻している学生はそう多く無い。加えて相良は講義数も少なく、その存在を知らない者もいるほどだ。
そんな相良に声をかける人間など数が知れている。案の定、相良の講義を熱心に受ける少数派の一人だった。
「ああ、碓氷くんですか。どうかしました?」
図書館で借りたのか、『日本の偉人100選』『日本神話』『古事記』など日本史関連の書籍を何冊も抱えている。包帯でぐるぐる巻きになった右手が扱いづらそうだ。
相良の講義でレポートなどを出すことはない。他教授からの課題の質問だろうか。答え甲斐のあるものを相良は期待する。
しかし青年が口にしたのは、仮にも大学生らしからぬ幼稚な問いかけだった。
「相良教授は、日本史の中で有名な人物と言えば誰が思い浮かびますか?」
「……はい?」
思わず聞き返す。言い方が悪かったのかと、相手は再び同じ質問を口にした。
「えっと、世間一般の人にも知名度の高い日本の偉人て誰だろうと思って…史実的なことでなくてもいいんです。とにかく知名度といえばこの人、みたいな」
その道の専門家、とも言える大学の教授に聞くようなことでないのは本人も承知なのか、燈は煮え切らない様子である。だが、相良は学生に教鞭を振るう立場なのだ。教え子からの質問を無下にするわけはなかった。
「そうですね。有名どころ、といえばやはり織田信長あたりではないでしょうか。彼を題材にしたゲームや映像作品も多いと聞きます。”日本人”に限定して良いならば、彼を超える人物はいないのでは」
燈は、意外にも真面目に答えてくれた相良に驚いているようだった。
数秒の沈黙が流れた後、燈は申し訳なさそうに口にする。
「すいません。答えてもらった後で申し訳ないんですけど、戦国武将は無しで。ああいうの、我が強そうだし」
「我が強そう?」
「あ、いや、えっと。こっちの話です」
慌ててごまかす燈。相良は気に留めず続ける。
「武将は無し。ならば坂本龍馬などでは無いでしょうか?彼も"我が強そう"ではありますが」
そう言って相良はニコリと笑った。揚げ足を取られた燈は苦笑いで返すしかない。
「やっぱりその辺ですよね…すいません、ありがとうございました」
燈はそう言って頭を下げると、元来た道を引き返して行った。
話は本当にそれだけだったのか、と相良は拍子抜けするが大して気にすることもなく、再び歩き出す。
「ああ。そういえば貴方も、なかなか有名な方でしたね」
空に独り言を呟いて、静かに微笑みながら----
*
「あ、おはようございます。また会えましたね」
真凍 春(しんとう はる)にとって、町内会のゴミ捨て場で”彼”と交わすこの挨拶は、朝のルーチンワークだ。
「あ、おはようございます。また会えましたね」。数年間、この挨拶を欠かしたことは一度もない。
なぜか。”彼”との関わりがそれしか存在しないからだ。
多くを望めば、この朝の挨拶すらできなくなってしまうことを、春は知っている。”彼”は魔術師で、彼女自身も魔術の家系だ。下手に関われば、どうなることか。
無論、彼女がそれで満足しているわけではない。今現在できる最大限の関わり方が、ゴミ捨て場での挨拶。気が狂いそうになる程の歯痒い思いに、春は耐え続けた。
もっと彼と喋りたい。もっと彼を知りたい。もっと、もっと、もっと。彼ヲ、ワタシノモノニ。
そしてその歪んだ願いがーーーーーようやく、叶う。
きっかけは令呪だった。朝、ベッドから起き上がったときに感じた右手の痛み。二本の柱の間に渦を描く円の紋章が甲に浮かび上がっていたのだ。
父親に見せると、飛び上がらんばかりの喜びようだった。
「喜べ春。お前は新たな歴史の一員となるんだ」
教えられたのは魔術師の戦争。所有者の願いを叶える万能の願望器、”聖杯”を勝ち取るための
「そこには”碓氷”も参戦する。奴ら”管理者”が令呪を得ないはずがないからな」
警戒を促すという意味で発せられた父の言葉は、天啓となって彼女に伝わる。
--"彼"も出るのね?
逸る気持ちを抑え込み、春は"いつもの通り"ゴミ捨て場へ。彼にも令呪が宿っていることを祈りながら向かう。
「あ、おはようございます。また会えましたね」
いつも通り挨拶を交わした時、動揺を表に出さなかったのは奇跡に近い。
右手に厚く巻かれた包帯。一見、怪我でもしたのかと心配したが、ゴミ袋を投げたのは右だった。
端から見ればたったそれだけの動作だ。しかし彼女は確信する。
同時に歓喜した。これで彼と話ができる、彼を知ることができる、彼を支配することも---
焦るな。焦るな。焦るな。春は自分に言い聞かせる。平穏を装って、自身の通う高校へ歩き出す。
焦るな。焦るな。焦るな。足の運びが勝手に早まっていく。気持ちが抑えられない。口元には笑みが浮かんでいた。
やがて早歩きは駆け足に変わり、春はローファーの足音を響かせ通学路を走った。
踵がアスファルトに当たる心地よい音を住宅街に響かせ、真凍 春は駆けていく。
空には有明の月が浮かんでいる。
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