拭えない違和感。
どうやら、この世界は前に私がいた世界とは別のものであるらしかった。
「あっ、兄さん。見て、ほらっ、あそこでお魚さんが泳いでるっ!」
妹の楽しそうな言葉に従って、歩いていた橋の上から川を眺める。すると、透き通るような綺麗な水の中で確かに数匹の魚がゆらゆらと泳いでいるのが見えた。
優雅に泳ぐ魚たち。
それを見て、はしゃぐ子供たち。
こういう所は、前と寸分違う事は無いのだけれど。……いや、こんなにも変な形をした魚と落ち着きのない可愛い妹は恐らくいなかっただろうし、そいう点で言えば違う事ばかりかもしれない。
お魚さんだー!と一人はしゃぐ妹を視界の端に留めながら、私はこの世界に新たに生まれ落ちてから7年たった今日までの日々を思い返していた。
霧隠れの里。
山間に位置し、その領土は常に深い霧が覆い隠してる場所こそが私の過ごしている場所だった。
そう、此処は現代日本ではなく、かと言えば昔の日本というわけでもなく、近世の日本をモチーフとした日本によく似ているしかし、全く別の平行世界みたいな場所であった。
衣服は近世に見られる着物が中心であるが、建物の中にはコンクリート出来たものもあったり、金網もあったり等独自の発展を遂げている。
そして、前との最大の相違点は「霧隠れの里」と呼ばれているように、この場所に住む者は基本的に全て忍であるという事であった。
忍が統治し、忍が暮らす街。
勿論、この場所以外には前世と同じような普通の人間が暮らして普通の人間が暮らすような街もあるのだけれど。
私の住む場所は、残念ながらそうではなかった。
「ねえ、兄さん。どうしてお魚さんは陸で過ごせないの?」
「それはね。魚と人間では文字通り住む世界が違うからさ」
「文字通り?」
「ああ、ごめん。難しい言葉遣いだったね。要するに、人間が川で暮らせないと同じように、魚も陸で暮らせないんだ」
「ふーん、なんかよく分からない」
「そう内分かるよ、豊姫も」
そう、忍と人間とでは住む世界が全く違う。そして、私達かぐや一族とそうではない者達も。
「……豊姫」
「ん? なあに?兄さん」
「今日は別の道を通ろうか。いつも同じ道では詰まらないだろう」
「うん。兄さんの好きな道で良いよ!それに付いてく!」
「よし。なら決まりだ。そら、行くぞっ」
「わっ、ちょっと待ってよ兄さん」
豊姫の小さな手を引っ張って、私は普段通っている道とは別のルートで薪を拾いに森へと行った。
かぐや一族の敷地から少し出た場所にある小さな森。
そこに向かうまでいつも通る大きな歩道には、今日は一族ではない者達が歩いていた。
脳裏に過るのは「化け物」と罵りる言葉と共に、投げられた石。
この世界では平等という言葉が程遠い存在のように感じる。
「遅かったな、君麻呂」
豊姫との薪割りを終えて、家に帰った私を待っていたのは父オキナの冷たい眼差しであった。
「すいません、道中少し道に迷ってしまって」
「ふん、まあ良い。それよりも、明日のお前の中忍への昇格任務。忘れてはおらぬだろうな?」
「勿論です。父上。この君麻呂、かぐや一族の名に恥じぬよう、精一杯邁進させて頂く所存です」
「ならば良い。道場へ来い。今日はお前に特別な術を教えてやろう」
「はい。分かりました父上」
父はそう言って、先に一人道場へと向かっていた。
その姿を確認した私は、自身の後ろへ父の厳しい視線から隠れるようにして縮こまっていた豊姫の方を振り向く。
「ほらっ、もう大丈夫だって」
服の袖にしがみ付いている小さな腕を優しく離して、怯える妹に笑顔を向ける。
「う、うん」
今度は手を握ってくる豊姫は、どうやら父の事が苦手であるらしかった。
まあそれも仕方ない事ではあるか。
私たちの父、かぐや翁は人に誤解を与えやすい種類の不器用な人間である。
常に仏頂面であるし、基本的に笑わない。
そして忍という職業柄か、自身の子とはいえ小さな子供とコミュニケーションコミュニケーションを取るのが余り得意ではないのだろう。
少し厳しい人間ではあるけれど、基本的に家族を思える優しい人だと私は思っているが。
「ほら、俺は父さんと所に行ってくるから、母さんと仲良く留守番出来るね」
「うんっ」
病に倒れてからというもの、ほぼ寝たきりになっている母の元へ駆けていく豊姫の後ろ姿を少し眺めてから、私はいつもの道場へと向かう。
「今日教えるのは我らかぐや一族に代々伝わる特別な術だ」
「父さん?」
扉を開けた先に見えたのは、背中越しに語り掛けてくる父の姿だった。
元々低い声の持ち主である父であるけれど、今回はそれに増して何処か発せられる言葉が低い。
「早熟だったお前なら既に気付いていた事だろうと思うが、我らかぐや一族は多数の忍の一族が集まっているこの霧の里の中でも最も特異な存在だ」
父の言葉に、私は化け物共と恐怖と憎悪を織り交ぜた瞳で見てくる里の連中を思い出す。
それは私が初めて里の外に出た時からずっと覚えていた感情で、純粋な混じりけのない悪意というものを知った瞬間でもあった。
人はああも、一度たりとも会話をしたことのない人間の、しかも子供の姿をした者へあれ程の悪意を抱けるのだろうか。
「我らかぐやの歴史を詳しく話すと長くなるが、かぐやとはその血に塗られた歴史から里の外だけでなく、霧隠れの中でも敵対心を持たれる事は少なくない」
父が振り返って、私の目を見た。
「それは何故ですか?」
「……血継限界。我らの能力を多くの人間はそう呼ぶ」
「けっかいげんかい?」
「そうだ。我らはその能力を使って戦争時、大勢の人間を殺してきた。そしてそれは何も他国の人間だけではない」
「それが、かぐやの血塗られた歴史……」
私は忍でありながら、未だ人を殺したことはない。
それは勿論、そうなる任務を出来るだけ避けた任務を命じてくれた父の配慮もあるだろうが、結局の所は私自身による人を殺す事への忌避感。ざっくり言えば人を殺すのが恐ろしい。そんな感情からどんな相手も捕縛で留めておいた結果だ。
忍世界に於いて、人を殺せない奴は出来損ない扱いされる。
今は未だ上手く隠せてはいるが、それも時期に隠せ通せなくなるだろう。
結局の所、里の中で弱まりつつあるかぐや一族の発言力を少しでも保ち続ける為には、一族の代表でもある父の息子である私には選択肢はない。
だから、如何しても躊躇する暇が無いほどに人の命を刈り取れる武器が必要だった。
そして父はその私の思いに薄々気が付いていたのだろう。そうでなければ、このタイミングでのかぐや一族の能力についての説明は都合が良すぎる。
どんな顔をすれば分からなくなった私に、父は言った。
「君麻呂、覚えておけ。戦場では人を殺す事に躊躇った連中から先に死んでいく」
重苦しい雰囲気が場を支配する。父の目は本気だった。彼は言っているのだ。このままでは、お前はその甘さから遠からず死ぬと。
「……はい」
精一杯の見栄を張って出した返事は自分でも分かる程、震えている。
そう簡単に割り切れる事ではない。しかし、そうするしかないのもまた事実であった。
「分かったのならば良い。さて、では君麻呂よ。私の腕を見ろ」
先程までの重たい空気を振り払うべく、父は服の袖を捲りながら割かし大き目の声を発する。
その言葉に従うままに彼の腕を注視した。
「っ」
すると、驚くべき現象が父の右腕に生じた。なんと信じられない事に、父の腕から骨が飛び出てきたのである。
驚く一方で、積年の謎が解けた心地好さに浸る私に父は言った。
「これが、かぐや一族に代々伝わる秘術、屍骨脈(しこつみゃく)だ。我らはこれで世界にその名を刻んだ」