融はゆっくりと辺りを見回した。
そこかしこから奇妙な形の岩が突き出した、薄暗い洞窟だった。遠くで水が滴る音がするのみで針山も鬼もいない。他の罪人もいない。
なんと寂しい場所だろう。
「あれだけ切れば、成る程、極楽浄土に行くべくもなかろう」
「たわけ。神の端くれのくせして人間に恋などするからじゃ」
「--弁慶よ、今なんと?」
「久しく見ぬうちに、ずいぶんとなまくらになったものよのお」
弁慶は掴んでいた薙刀を岩融に投げて返し、やれやれとあぐらをかいた。
「人の身に執着するなどやめておけ」
「執着など、まさか」
「上に戻れば修羅じゃ。お前の主は死に瀕しておる。されば、お前という存在自体どうなるか」
「死っ……!?」
がばと身を起こす岩融を横目に、弁慶は飲みかけの酒を地面に注いだ。水たまりは静かに広がり、座布団ほどの大きさになったところで止まる。
初め、その水面は黒々としていたが、ふいにきらめいて鮮明な風景を映した。
本丸だ。
辺りは暗いのに、その建物の周りだけ妙に明るい。馬に乗って暴れているのが誰だか分かる。
太郎太刀と次郎太刀が、正門を破ろうとする検非違使の軍勢を押しとどめているのだ。
しかし、2人の健闘むなしく、身軽な短刀や脇差はひょいひょいと飛び越え、本丸に侵入していく。
そして、燃える矢を放つ。
庭に控える太刀にも上がる火の手は止められない。
本丸はぱちぱちと火に包まれ始めていた。
「これは未来か?」
岩融の問いに弁慶は答えなかった。
「これは過去か?」
またも弁慶は何も言わない。
残るは一つ。
岩融はひざまずくように水面を覗き込んだ。
必死で目をこらすと、モモが桶を両手に台所から飛び出してきたのが見えた。敵と応戦する鯰尾めがけ一目散に駆けて行く。
なぜかはすぐに分かった。背に受けたままの火の矢が鯰尾の服を燃やそうとしていた。
モモはそのまま庭先へ飛び出そうとしたが、どこからか現れた燭台切に制止された。燭台切は叫ぶモモに構わず、桶を奪い、モモを部屋の中に押し込んだ。
今、モモはそこにいる。その火の中に。
あの小さな肩で主としての重圧に耐えながら。小娘であることも忘れ、皆を守ろうとして
「ならぬ。今行けば、おぬしは死ぬ」
「どうすれば帰れる」
弁慶は無感動な目をぎょろりと向けた。
「よいか。地上で死ねば永遠地獄に逆戻りぞ。そうじゃ、お前の恐るましろな世界じゃ。生者に執着すれば、終われぬ」
「……」
「俺とここにおれば刑期もあとわずかだ。されば」
あの恐怖から逃れたい、終わりたい、そう強く願ってきた。
ずっと弁慶と酒を飲み交わし、話をしてみたかった。
その願いが叶う機会が今なのだとしたら。
しかし、地獄の淵で見た、モモの姿は色褪せるどころか、より鮮明に岩融の目前に迫ってきていた。
「主の側におらずして、何の為の刀よ!」
岩融は突き動かされるように、鈍色の水面めがけて片腕を差し入れた。
ずぶずぶとその中に引き込まれていく。
引き込まれたところから感じる、身を焼かれるような熱さなんてどうでもよかった。
「たわけが」
その瞬間、向こう側で手をつかまれ、岩融は一気に引きずり込まれた。
最後に見えた弁慶の顔は、どことなく寂しげに見えた。