東亰ザナドゥ ―Episode Zero―   作:ゆーゆ

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3月9日 巨人

 

 重々しい瞼を開くと、ユキノは先ず肌寒さに身体を震わせた。普段夜を過ごすベッドとは違い、肌に触れているのは柔らかな毛布ではなく、硬めのシーツ。肌と掛け布団の間には若干の隙間が空いていて、そもそも何故自分がこんな体勢で眠っていたのかが分からない。見覚えの無い天井が、手の届かない遠い何処かに広がっているような錯覚に陥ってしまう。

 

「おはよう、お寝坊さん。もうお昼近いわよ」

「ん……んぁっ!?」

 

 ユキノは素っ頓狂な声を上げながら半身を起こし、室内を見渡した。セミダブルのベッドと丸テーブル、テレビデッキの足元には小型の冷蔵庫。デスクチェアーに座っていた柊レイカと、そして自分。ホテルの一室であることは、すぐに理解できていた。しかし昨晩の一時を境にして、記憶が不鮮明極まりない。ユキノは枕元のデジタル時計と窓枠から差し込んでいた陽の光を交互に見てから、傍らで微笑をしていたレイカに視線を移す。

 

「どうして、私はこんな場所に……ここは何処?」

「杜宮市内のホテルよ。私が貴女を担いで運び込んだの。重くて仕方なかったわ」

「私はあれから、ずっと眠っていたと言うの?」

「強力な術式を使ったから無理もないわね。あんな真似をしておいて、文句は言えないでしょう?」

 

 レイカの左手にあった複数枚のカードが視界に入ると、ユキノはハッとした表情で上着の中に手を伸ばす。昨日から着続けていた高校指定の制服に入れて、携帯していた筈の所持品。その内の複数点が見当たらない。術の媒介となる大アルカナのタロットカード二十二枚も、レイカの手中にあった。

 

「貴女のことは、一晩掛けて調べさせて貰ったわ。面白い力を使うのね。符術の一種かしら」

「それを返して」

「返すわよ。生徒手帳と携帯電話もね」

 

 ユキノはレイカがテーブル上に置いたタロットカードを手に取り、続けて生徒手帳と携帯を拾い上げる。起き抜けにレイカが言った通り、時刻は既に午前の11時半。丸半日間も無防備な状態で眠っていたことになる。にも関わらず、レイカは迷う素振りも見せずに、カードをユキノに手渡した。それが何を意味するのか、分かっている筈なのに。ユキノは釈然としない様子で、一旦ベッドの上に腰を下ろす。

 

「こんなことをして、一体何のつもりよ。訳が分からないわ」

「それはこっちの台詞だわ。貴女の口から直接聞かせて貰おうかしら。ユキノ、貴女は何者?」

「どうして貴女なんかに話さないといけないのよ。嫌に決まっているでしょ」

「勘違いしないで欲しいのだけれど、拒む権利なんて無いのよ。敗者は勝者に従いなさい」

「っ……」

 

 知らぬ間に出入り口を塞がれ、ユキノは身動きを取れないでいた。レイカの手にはサイフォンが握られており、単に座っているだけだというのに一切の隙が窺えない。執行者の真価は異界においてのみ発揮されると聞いていた筈が、昨晩もあの有り様。平坦な口調とは裏腹に、力量の程が見え隠れをして、動けない。ユキノは俯いたまま、静かに口を開いた。

 

「……源流は、大陸から伝わった符術よ。タロットカードを媒介として使い始めたのは、両親の代からと聞いているわ」

「成程ね。私からも、勤め先の説明をしておこうかしら」

 

__________________________________________

 

 十九世紀末の英国で、名を持たない隠秘学結社が創設された。中世より存在していた概念や枠組みから飛び出した、たった三人の思想により誕生した。結社はカバラを中心にして、当時ヨーロッパ圏で流行していた東洋哲学や錬金術、タロット占術に古典的な儀式魔術を複合させた新たな領域を生み出し、近代魔術という分野に旋風を巻き起こした集団だった。

 魔術とは有機体的所作からの脱却であり、現実社会に対する一つの解答と解釈でもある。魔術の世界に魅入られた者達は続々と結社へ身を捧げ、契約を誓った。二十世紀に入った頃には二百名以上の団員を擁するまでに成長し、拡大の一途を辿っていた。

 しかしそれらは表舞台にしか映らない、単なる器に過ぎない。創設当初から、結社は裏の顔を持ち続けていた。

 

「それが結社『ネメシス』としての、もう一つの顔よ。とある出来事を境い目に、ネメシスはこの世界における一大勢力として一気に膨れ上がった。その様子なら、ユキノも知っているのよね」

「異界化でしょう。七十年前のヨーロッパで発生したのが初だと聞いているわ」

 

 迷宮という形を取りながら現実世界を浸食し、異世界が顕れる。異界化は様々な都市伝説や常人には解決できない怪奇事件、大規模な自然災害として、世界規模で生じ始めた。同時に世界を統べる側に立つ人間達は、頭を抱えてしまう。人智を超える異世界が相手では、見を決め込んで後手に回るしか手立てが無かったのだ。

 一方で、抗う『力』は確かに存在していた。現実世界や人間社会では見向きもされない、陽の光が当たらない異能者、霊能者達の力。とりわけネメシスが誇る、近代史の裏側で生み出されてきた儀式魔術や術技は、グリードへの対抗手段として脚光を浴びた。異界を管理、監視下に置く組織として巨大化するに至ったのには、極々自然な趨勢があった。

 

「次第にネメシスは新たな形で編成され、世界規模のネットワークを構築し、近代化するに連れて今の体制に落ち着いた。異界に関わる人間なら、誰だって知っている裏の歴史ね」

「一つ抜けているわ。貴女達は『力』を集め始めた。世界中に存在する異端の力を求めたのよ」

「……否定はしないわ」

 

 一足先を往く結社の科学技術は、力の象徴でもある『適格者』を見い出すと同時に、より汎用性のある対抗力を模索し、全世界に手を広げた。ヨーロッパ圏内に伝わる近代魔術に収まらず、結社が集結させた術技はデジタルの世界に取り込まれ、今も尚研究が継続している。サイフォンはそれら全ての集大成であり、表と裏の両面を併せ持つ特異な存在でもあった。

 そしてそれこそが、ユキノがレイカを狙った理由。結社を家族の仇とする並々ならない怨恨は、ユキノの両親が見舞われた不幸にあった。

 

「私は……私達雪代家は、代々家系で符術と呼ばれる術を継いできた。千葉県の山奥にある人里離れた寒村で、静かに暮らし続けてきたの。貴女達が現れるまではね」

 

 雪代家の血を継ぐ者は、その身にたった一人の女子しか宿すことができない。符術の才は先天的に女子へ、そして契りを交した男性へと後天的に伝わる。ユキノの両親も同様で、雪代の血脈は断たれることなく、延々と繋がりを保ち続けていた。その末裔が、ユキノだった。

 

「七年前よ。結社に所属する人間達が、突然私達を訪ねて来たの。雪代家に伝わる符術に目を付けた結社は、多額の謝礼金の見返りとして、符術研究への協力を持ち掛けてきたのよ」

「……そう。貴女は、全て知っていたのね」

「この七年間で全部知ったわ。必死になって、裏の世界を知った」

 

 ユキノの両親は、結社側の提案を快諾した。決して金銭目的ではなく、雪代の血が人々の力になるのならという純粋な想いを胸に、二人は東亰都の研究施設へと移され、結社は研究に着手した。ユキノも都内で暮らしていた父方の伯父夫婦の下で、一時的に新天地で生活する日々が始まった。

 しかし新たな日常は、余りにも早く崩れ去る。都内に入ってから、一ヶ月後の出来事だった。

 

「何が『行方不明』よ。東亰都内の厳重な研究施設の中にいて、どうして行方知れずになるの」

「落ち着いて、ユキノ」

「黙って。私には分かってる。どうせ研究の過程で、何かしらの事故が起きた。そして結社はそれを闇に葬り去って、肉親である私にさえ真実を告げようとしなかった。どう、違う?」

「ええ、違うわ。真実はそうじゃない」

「貴女はっ……この期に及んで、まだ隠そうとするの!?」

「よく聞いて、ユキノ。今の貴女は裏の世界を知っている。知るべき立場にある。だから私がこれから話すことを、しっかりと聞きなさい」

 

 レイカは激昂しかけたユキノを宥め、語り始める。

 ユキノが全てを失った、あの日。東亰都内において観測史上七件目となる、一定の基準を超えた大規模な異界化が生じていた。発生地点は研究施設界隈の、住宅街の中心地。S級グリムグリードによる浸食度は異常値を示し、住宅街での発生という不運も相まって被害者が続出し始め、一刻も早い収拾が求められた。そしていち早く異界の内部に飛び込んだのが、二人の異能者だった。

 

「貴女は知らなかったかもしれないけれど、七十年前から雪代の家系は代々そうやって生きてきた。人知れず異界化を治め、民を異界の毒牙から守り続けていたのよ」

「母さんと……父さん、が?」

「だから結社側も、貴女達の存在に辿り着いたの。どうして貴女のご両親が研究協力の要請に応じてくれたのか、想像に難くないわ。でもあの日は、相手が悪過ぎたのよ」

 

 幾度も死線を潜り続けてきた身でも、たったの二人で対峙するには相手が強大過ぎた。グリムグリードとの死闘の果てに、異界化自体は収束に向かったものの、結社側の増援が駆け付けた頃には、全てが遅かった。二人は行方不明者として処理され、まだ幼いユキノにも同様の訃報が届いたのが、七年前。ユキノはそのまま伯父夫婦の下に引き取られる形で、故郷を離れるしかなかった。事の真相は結社側にあり、ユキノには知る術が無かったのだ。

 レイカが語り終えると、ユキノは声を失っていた。幾つもの感情が絡み合い立ち尽くすユキノに、レイカは続けた。

 

「貴女のご両親は勇敢に戦い、被害を最小限に留めてくれた。そして二人の術技は、しっかりと私達の力として現存している。今更かもしれないけれど、御冥福をお祈りするわ」

「嘘……嘘よ。そんなの嘘に決まってるわ」

「受け止めなさい。酷な言い方だけど、残された者は死と向き合って生きるしかないのよ」

「やめて。聞きたくない」

「こっちを見て、ユキノ。貴女はまだやり直せる」

「やめてって言っているでしょ!?」

 

 レイカが差し伸べた手を、ユキノが力任せに叩き落とす。受け入れるには、余りにも多くの歳月が流れ過ぎていた。ユキノには、受け止めようが無かった。

 

「七年よ!?私はこの七年の間、ずっと貴女達を恨みながら生きてきた。平静を装って日常を隠れ蓑にして、ずっとずっと耐え忍んできたのにっ……今更それを信じろって言うの!?」

「ユキノ、もう一度言うわ。貴女はまだやり直せる」

「違う、違う!貴女は私の仇よ。そうに違いないわ」

「なら昨晩の続きをしたいと言いたいの?やれるものならやってみなさい」

「っ……!!」

 

 ユキノは即座にタロットカードの一枚を取り出し、レイカの首筋に突き付ける。鋼と同じ強度を持つそれを僅かでも動かせば、長年抱き続けてきた願いは叶う。けれど、ユキノは目を腫らして睨み付けることしかできなかった。物悲しさで満ちた表情を浮かべるレイカは、ユキノから視線を外そうとせず、真っ直ぐに向き合い続けていた。

 

「ふざけないで。そんな覚悟も、無いくせに」

「ええ、無いわ。これでも一児の母親なの。家族を置いて先には逝けない。貴女がそのつもりなら、私は全力で抗って貴女を止めるまでよ」

「私はっ……私、は」

「重ねて言うわよ、ユキノ。しっかりと受け止めて、真っ当に生きなさい。ご両親の分まで、二人のように貴女は真っ直ぐに生きるの。私から言えることは、それだけよ」

「う……うぅ、うっ」

 

 たとえレイカが嘘偽りを吐いていたとしても、真実はどうあれ仇討ちは何も生み出さない。ユキノ自身、意識と無意識の境界線上で、何度も何度も己に問い質し、揺れ動き続けてきた。昨晩の殺意も本物だったのか、それさえ今のユキノには分からない。絶望と虚無に打ちひしがれながら、それでも胸中には両親に対する想いがある。己の身を省みず異界化に抗った二人の意志だけが、ユキノをギリギリのところで繋ぎ止めていた。

 

「チェックアウトは12時までよ。午後からでもいいから学校に行きなさい。保護者には夜遊びの限りを尽くしていたと伝えてあるわ。悪く思わないでね」

「うるさい」

「それと、貴女にはまだ聞きたいことが山程あるの。話は通しておくから、夜にまたこのホテルに来ること。食事ぐらい奢ってあげるわ。いいわね?」

「……もう、黙ってよ」

 

 呟くようにユキノが返すと、レイカは何も言わずに部屋を後にした。床に散乱したタロットカードは、ユキノが流した大粒の感情で濡れていた。

 

___________________________________________

 

 レイカが一時的に生活拠点として利用しているビジネスホテルには、小さなレストランが併設されている。宿泊客はプランに応じてサービスを受けることが可能で、外部からの訪問客も料金さえ支払えば通常のレストランと同様に利用できる。柊レイカが入り口に設置されていたベンチ椅子に座りながら新聞を読み耽っていると、エントランスホールからゆっくりと歩を進める、ダッフルコートを着た少女の姿に目が留まった。

 

「言い付け通り、来てくれたのね。少し意外だわ」

「貴女のせいよ。私にはもう、分からないの。何も残ってなんかいないわ」

「それはユキノ次第でしょう。過去はどうあれ、未来は変えることができる物よ」

「……お腹空いた」

「私もよ。食べながら話すとしましょうか」

 

 二人は店内の最奥にあるテーブル席に座り、周囲の利用客から距離を取った。レイカはグラスに注がれた冷水を一口飲み、改まった声でユキノに切り出す。彼女を呼び寄せたのには、複数の理由があった。

 

「先ず一つ目よ。貴女は私を尾行していたようだけど、どうして私が結社の人間だと分かったの?」

「私は力を持つ人間の霊力が見えるのよ。それに私にだって、私なりの情報筋がある。サイフォンはまだ結社の間でしか出回っていない筈だから、一目瞭然よ」

「成程ね。でも貴女は私が杜宮に来た時点で、先回りをしていたのよね」

「異界化が起きれば、きっと結社の人間が来ると思っていたわ」

「……待って。ユキノ、貴女は異界化を予知していたというの?」

「占術としてのタロットなら、両親にも負けてはいなかった。都内で異界化が頻発するようになってから、私はずっと罠を張って待ち続けてきたの。貴女が一人目よ」

「異界化が頻発って……だ、だから待ちなさい。一旦整理をさせて」

 

 ユキノのここ数日間の行動は、レイカにとって予想だにしない物だった。

 ユキノのタロット占術は、結社の異界化予測プログラムとは別次元の方角から、高い精度で異界化を予知することができる。ユキノは今月から都内で異界化の頻度が上がっていることに気付き、積年の恨みを晴らす絶好の機と考えた。異界化の発生地点で結社の人間を今か今かと待ち構え、網に掛かったのがレイカだったというのだ。

 

「でも関係無い人間が巻き込まれるのを、見過ごすことはできなかったわ。誰かが異界に飲み込まれたり、被害が出そうになったら、私が異界化を治めていたの。何度かそうしてきた」

「あ、貴女一人で、グリードと戦っていたというの?」

「初めて異界化を経験したのは十二歳の頃よ。それに異界では、ジェムも手に入るから。私は早く独りで生きていきたいの。向こう数年間の生活費程度は貯まっているわ」

「驚いた……プロ顔負けの働きじゃない。でもそれより、事態は予想以上に深刻のようね」

「深刻?一体何のこと?」

 

 レイカが単独で行動を始めたのには、都内における異界化の回数が増加の一途を辿っているという異常現象に起因している。その速度は緩やかである一方で、レイカは独自の勘所を働かせて、得体の知れない何かを感じ取っていた。そしてもう一つが、異界化の発生地点や深度。一見して無秩序に生じているようでいて、一定の法則性がある筈だとレイカは当たりを付けていた。これも論理立った理屈ではなく、執行者としての経験則に過ぎないのだが、ユキノの話と合わせて考えれば状況は一変する。

 ユキノがレイカとは異なるルートから異界化収拾を続けてきたとするなら、現時点で把握している異界化の情報にそのままユキノの分が上乗せされる。場合によっては、即座に上層部へ一報を入れなければならない。レイカは一旦店内を出て、エントランスに置かれていた都内散策用のマップを取り、店内に戻ってテーブル上に広げた。

 

「ユキノ、少しでも多くの情報が欲しいわ。貴女が立ち会ったっていう異界化を全て教えて。発生場所と日時、できれば異界その物の特徴もね」

「場所や日時は覚えていると思うけど、特徴って言われても……例えば?」

「瘴気が濃かったとか異界植物が多かったとか、何でも構わないわ。もしかしたら―――?」

 

 レイカが声を切ると、表情が変わる。ユキノも彼女に続いて、思考を過去から現在に向けた。二人が察したのはほぼ同時で、レイカはユキノの予知能力が本物であることを理解した。

 

「ねえ。これってかなり近いと思うわ」

「車を飛ばせば五分も掛からないわね。時間が無い、急いで向かうわよ」

 

 レイカは立ち上がりながら上着を羽織り、ユキノに同行を求める。当のユキノは戸惑いの表情を浮かべて、首を横に振った。

 

「ち、ちょっと待ってよ。どうして私まで?まだ何も食べていないのに」

「食事は後。異界化の収拾は何よりも優先される。執行者としての鉄則よ」

「だから、何で私がついて行かなくちゃいけないのよ?」

「一人よりも二人。それに貴女の力をもう一度見ておきたいのよ。ジェムも全部譲るわ」

「……ああもうっ、仕方ないわね」

 

 不満を漏らしながらも、ユキノはレイカの背中を追った。二人三脚の都内探索は、この日を境にして始まりを告げた。

 

___________________________________________

 

 2月16日をキッカケに、ユキノの日常に変化が訪れた。日中は高校生として過ごし、放課後や休日はレイカと共に都内を巡回する。レイカの申請により、彼女の正式な協力者として登録されたユキノは、結社側から霊具や支給品の類を受け取ることができるようになっていた。

 ユキノの伯父夫婦には、最近知り合った女性の仕事を手伝い始めたという形で、ユキノから伝わっていた。レイカは伯父夫婦の下へ直接出向き、二人もレイカの人となりに理解を示し、保護者の了承を得ることでユキノの行動時間を確保していた。

 何より、ユキノの雰囲気も変わりつつあった。僅かずつではあったのだが、段々と和らいでいくユキノの表情は、保護者として長年彼女を見守り続けていた伯父夫婦にとって、心打たれる変化だった。当の本人はまるで無自覚で、変わらずにレイカには頑なな態度を取り続けていたものの、奇妙な日常は続いていく。あっという間に、三週間の時が経過していた。

 

___________________________________________

 

 3月9日、水曜日。ホテルの一室でノート型端末のキーボードを叩くレイカの傍らで、ユキノはレイカの背中を見詰めていた。ユキノはリモコンを操作してテレビの音量を少し下げ、ベッドの枕を抱きながら静かに口を開く。

 

「ねえレイカ。一つ聞いてもいい?」

「何?」

「レイカはどうして、執行者になったの?」

 

 ユキノの何気ない問いに対し、レイカは手を止めずに答える。

 

「貴女と同じ高校生だった頃、異界化に巻き込まれてね。適格者として覚醒したのが、その時。駆け付けた結社の人間に誘われる形で、裏の世界に飛び込んだのよ」

「ふーん。じゃあ結婚はいつ?相手も結社の研究者だって言っていたけど」

「交際を始めたのがその二年後。籍を入れたのは執行者になってからね」

「執行者、か。他の道は考えなかったの?適格者だからって、死と隣り合わせの生き方をしなきゃいけない義務なんて、無い筈よね」

「どうしたのよ。今日は色々と聞いてくるのね」

「た、ただの気紛れよ。いいから早く答えて」

 

 レイカは悪戯に笑いながら端末を閉じ、冷蔵庫を開けて缶ビールを一つ取り出す。ユキノには瓶入りのジュースを手渡し、ユキノの隣、ベッドの上に腰を下ろす。缶の中身を半分程空けてから、レイカは天井の照明を仰いで瑞々しい過去を回想した。

 

「そうね。私は元々進学を希望していて、将来の夢が一つあったわ」

「夢?」

「骨董や古美術品が好きなのよ。だから美術系の学科に進学して、大手のアンティークショップに就職をするの。そして行く行くは独立して、個店を開業する。それが夢だった」

 

 アンティークショップを開くという夢は、現実には叶っていない。それどころか、表舞台ではなく裏。何もかもが異なる世界で生きていくという選択肢を選んだレイカの生き様は、まだ十代半ばを過ぎたばかりのユキノの理解に及ばない。ユキノは何も言わずに、レイカの声に耳を傾ける。

 

「未練が無いと言えば嘘になるわね。でも後悔はしていない。それだけは言えるわ」

「……本当に?」

「だって充分に幸せだもの。今はアスカが生き甲斐を与えてくれる。あの子がお母さんと呼んでくれれば、それでいい。貴女も結婚して家族ができれば、きっと分かるわよ」

「アスカっていうのね、レイカの子」

「私と夫の名前を捩ったのよ。アスマとレイカで、アスカ」

「私も同じよ。そう両親から聞かされたわ。ユキノは父さんと母さんの子だっていう証なの」

「フフ、今日は本当によく喋るじゃない?」

「いちいちうるさいわね。サイフォン、鳴ってるわよ」

「はいはい」

 

 テーブル上に置かれていたレイカのサイフォンは、着信主が夫のアスマであることを示していた。アスマはレイカが取り集めたデータを受け、彼女が言う『法則性』を見い出す為に、泊まり込みで分析をする毎日が続いていた。一人娘のアスカは両親の実家に預け、レイカ共々長期間顔を見ることすら叶わない、心苦しい日々でもあった。

 

『レイカ、今パソコンは使えるかい?』

 

 レイカが通話に応じると、アスマの声は明確な感情を帯びていた。取り乱した様子のアスマに対し、レイカは表情を強張らせてベッドから立ち上がり、端末のスリープモードを解除する。

 

「ええ、手元にあるわ。息が切れているけど、何かあった?」

『先ずはメールに添付したファイルを見てくれないか。話はそれからさ』

 

 アスマに従い、メールに添付されていたデータファイルをデスクトップに保存して、立ち上げる。パワーポイントで作成された資料は作り掛けもいいところで、一見しただけでは何も伝わってこない。レイカは表示形式をスライドショーに変え、首を傾げて疑問を投げ掛けた。

 

「ねえ、これは何の資料?」

『君がまとめてくれた異界化の発生時期、発生座標、異界内部のデータを複合させて、多次元的分析を試みたんだ。その過程で、酷似したデータを拾えてね』

「酷似した、データ?」

『順を追って説明するよ』

 

 マウスを操作して左クリックをすると、東亰都内を表す地図が画面上に映し出される。もう一度クリックをした後、今度は黒色の点が東部に表示された。再度マウスを叩き、二つ目の黒点。その位置関係から、点は過去に異界化が発生した地点を示しているのだと気付く。

 

「ねえレイカ、何よこれ」

「私にも何とも……アスマ、これをどう見ればいいのかしら」

『想像してみてくれないか。東亰都を三畳分ぐらいの閉鎖空間だと前提して、その中を歩くんだ』

「……もう少し分かり易くお願い」

『今言った通りさ。もう一度初めからいくよ』

 

 スライドショーを初めからやり直して、都内の地図を表示させる。

 

『いいかい、まずは一歩目だ』

 

 左クリック。先月末から発生している一連の異界化の、一つ目。

 

『二歩、三歩』

 

 二回目、三回目。レイカが治めた異界化の場所が、黒点となって現れる。

 

『四歩、五歩、六歩目』

 

 時系列に沿って浮かぶ黒点は、どういう訳か全て大きさが異なっていた。

 

『次に体勢が後方へ崩れて、右足で踏ん張る』

 

 続けて表示された黒点は一際大きく、その異界の深度が二百を超えていたことを思い出す。

 

『振り返って、反対方向に歩き出す』

 

 アスマの声とマウス操作と共に浮かんでいく黒点が、段々とレイカとユキノの脳裏に『何か』を連想させる。居る筈の無い存在、在る筈の無い存在が、両の足で歩いていた。無秩序のように見えて、秩序立っていた異界化。気付きようのない法則性は余りに身近過ぎて、到底受け入れることができない。しかし二人の目には、映ってしまっていた。

 

「ねえ、アスマ。酷似したデータって、まさか」

『二足歩行動物の歩調。極々限られた足場の中を歩き回った、足跡だよ。天候や風力に風向きといった外部要因を考慮すると、適合率はもっと跳ね上がる。率直に言って、悪夢だ』

「上層部には、報告してあるのよね」

『ああ。週末の月例会議で議題に上がるそうだよ』

「なっ……馬鹿なことを言わないで!!どうして上はすぐに動かないのよ!?」

 

 現実に存在している訳ではない。頭上に雲が被さる程の巨人が、この東亰都内を徘徊している筈がない。だが何かが起きようとしていることは明白で、最早一刻の猶予も無い。愛娘との約束を先延ばしにしてまでして掴んだ足掛かりを前に、何故週末まで待つ必要がある。レイカが怒気を込めた声を荒げると、アスマは努めて冷静に言った。

 

『前例が無い上に突拍子が無さ過ぎて、判断の是非を決めかねているのかもしれない。僕はデータの信憑性を説き続けるから、君達もくれぐれも注意して欲しい。焦りは禁物だよ』

「こんなことって……アスカ。アスカは、どうしているの」

『父さんと母さんが看てくれている。動物園、心待ちにしているってさ』

「……そう。約束、守れそうにないわね」

『仕方ないよ。僕達が選んだ生き方だ』

 

 苛立ち、焦燥、葛藤。多くに駆り立てられて我を忘れるレイカの背中が、ユキノの目にはひどく小さく映ってしまう。運命の刻は、もうすぐそこにまで迫っていた。

 

___________________________________________

 

 平日の水曜日、終電が発車した深夜帯の杜宮駅前には人気が無く、真冬の北風が寒々しい音色を奏でている。駅前広場の中心に立っていた少女は煙草に火を点し、深々と紫煙を吐き散らしながら、静寂が訪れた杜宮の街並みを見下ろしていた。

 

「……そろそろか」

 

 柊レイカに続き、東亰都内で生じ始めている異変を嗅ぎ付けた人間は、複数人いた。杜宮市内に降り立った少女は、若干十七歳の身でありながら、ゾディアックが有する対異界部隊『アングレカム』のエースの座に君臨していた。彼女が揮うガンランス型ソウルデヴァイスの火力は、これまで数多のグリードを焼き払い、貫いてきた。

 戦場でしか生きられないと、少女は信じて疑わなかった。物心付いた頃に血縁は途絶えていて、人間らしい人間味を知らない。戦うことでしか生きる意味を見い出せない。隊員として現地に派遣されるまでもなく、この地が戦場へと変貌することは、猟犬の嗅覚が教えてくれる。待ち望んでいた物が、ここには在る。

 

「化け物共が。雁首揃えて待っていろ」

 

 吸い切った煙草を右足で踏み消し、吐き捨てる。雪村キョウカは、杜宮の闇に溶け込んでいった。

 

 

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