3月14日、夕刻。東亰都心上空では珍しく小雪が舞っており、気象庁の予報では明日にでも積雪の恐れがあるとされ、都民が季節外れの空模様に頭を抱える中。九重神社の神職を務める時坂ソウスケは、境内にちらつく風花を仰ぎながら、一人の杜宮学園生を出迎えていた。
「急に呼び出すような真似をしてしまい、すまんのう」
「いえ、今日は部活動もありませんでしたから。気になさらないで下さい」
昨年末に助勤として採用されたサナエは、月に複数回不定期で九重神社の鳥居を潜っている。出勤日は週単位でソウスケが決めており、サナエの学業や部活動に支障が出ない範囲で管理をしていた。しかし3月14日の今日に限って、サナエは突然呼び出しを受けていた。昼間に彼女の携帯電話を鳴らしたのも、ソウスケ本人だった。
「ちぃとばかし、この老いぼれに手を貸して欲しくてな。構わんかね?」
「勿論です。それで、今日は何を?」
「蔵から有りっ丈の結界霊具を出して貰いたい。簡単な仕分け作業じゃよ」
「結界霊具、ですか」
「左様。おぬしならば一目で分かるじゃろう」
サナエが採用された背景には、彼女が心身清浄な女性だという点の他に、ソウスケの目に留まる程の秘めたる才があった。ソウスケが申し出た業務も、サナエにとっては造作も無い荷運びに過ぎなかったのだが、サナエにはその意図が読めないでいた。自分を呼び寄せてまでして、何故突然霊具を。サナエが問うよりも前に、ソウスケは瞼を閉じながら口を開く。
「少々、不吉な予感がするのじゃよ。申し訳ないが、今はそれしか口に出せぬ」
「……ソウスケさんが言うと、当たってしまいそうですね」
「思い違いであって欲しい物じゃな。どれ、儂は今から護符を拵えるとしよう」
暫くの間、放課後の部活動よりもこちらを優先した方がいいかもしれない。サナエはそう胸中で呟きながら、境内の離れにある蔵を目指して歩を進めた。
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―――同日同時刻、都内の某ビジネスホテルの一室。
「ねえ、レイカ。レイカってば」
「ん……え、何?」
ユキノの呼び声に、遠退き掛けていたレイカの意識が鮮明さを取り戻す。レイカが慌てて後方に振り返ると、気遣わしげな面持ちのユキノが、両腕を組ながらレイカを見下ろしていた。
「はぁ。敢えて言わなかったけど、無理をし過ぎだと思うわ。ほら、鏡。ひどい顔よ」
「……そんなにひどい?」
「四十手前って感じかしら」
「うわぁ。聞きたくなかったわ……」
容赦が無いユキノの比喩に、レイカの表情が一層曇っていく。レイカはやれやれといった様子でノート型の端末を閉じて、小さなスタンドミラーの中を覗き込んだ。
ユキノの指摘は尤もだった。先月の初めから単独で行動を開始したレイカは、息を付く暇も無い多忙に満ちた日々を過ごしていた。異界化の頻度は右肩上がりで高まり続け、それに伴う分析やデータの取り纏めといった作業にも多大な時間を要する。ユキノやアスマと協同して事に当たっているとはいえ、レイカ一人の負担だけが増加の一途を辿っていた。
「増援が来てくれるって言っていたけど、それはいつの話になるのよ?」
「今週中には都内に集まると思うわ。でも増援の指示を受けた面々は、それぞれ国内で散らばって行動していたから、すぐには難しいのよ」
アスマが見い出した都内における異界化の法則性は、先週末に漸く上層部の間で知れ渡る結果となった。二足歩行動物の歩調と酷似した異界化パターンは、その異様さと緊急性により、警戒レベルを二段階引き上げるまでに至っている。現時点で東亰都内に待機している執行者はレイカ一人だが、加えて三名の執行者、そして末端の実動部隊員らを都内に呼び寄せ、事に控える方針となっていた。
「本当に漸くね。執行者って、みんなレイカみたいに年中働いているわけ?」
「場合によるわ。執行者にはあらゆる権限と裁量が与えられているのよ。組織から独立した存在だから、今回のように独自の判断で動くことができるの。要は本人次第ね」
現状の体制は一長一短だと、レイカは考えていた。自由な判断と行動が許されている分、己が取れる術も多岐に渡る。しかし時折組織としての脆弱性が露見されるケースもあり、今回の異変もその一つ。末端から報告を入れて判断の是非を仰いでも、実際にアクションへ移る速度が余りに遅い。だからこそ警戒レベルを上げても、厳戒態勢が整うまでに費やす時間が多過ぎるというのが、レイカの正直なところだった。
「でも近々大きい変革があると聞いているし、直に私も組織の一要員として扱われるわ。直属の上司から指示を受けて行動するようになるってことね」
「ふーん。よく分からないけど、どの道レイカは少し休んだ方がいいと思うわ」
「疲れている自覚はあるわよ。でも、私はまだ……っとと」
一旦会話を中断し、着信音を鳴らすサイフォンを手に取る。画面上にはアスカを預けている夫の実家、レイカにとっては義両親が暮らす家の固定電話番号が表示されていた。レイカは一抹の不安を抱きながら、通話を繋げる。
「はい、レイカです」
『もしもし、レイカさん?今話せるかしら』
「ええ、大丈夫ですよ。何かありましたか?」
『実はねぇ……今日の朝から、アスカちゃんが部屋から出てきてくれないのよ』
「あ、アスカが!?」
良好な関係を築き合ってきた義母の言葉に、レイカは悲鳴に近い声を上げた。
アスカが塞ぎ込んでしまった原因は、今日に始まった話ではなく、積もりに積もった精神的ストレスにあった。国内を飛び回るレイカの職業に、親族はしっかりとした理解を示している。母親として娘に注ぐ愛情も同様で、レイカの負担を少しでも和らげてあげたいと考え、義両親も喜んで孫娘の面倒を買って出ていた。
だが七歳を迎えたばかりのアスカ自身も、レイカと同じ葛藤に苛まれていた。母親を困らせたくない一心で自我を抑え、数々の欲求を飲み込んで生きてきた。近日中に家族で動物園へ行こうというレイカの提案は、アスカの幼い感情を繋ぎ止める拠り所でもあった。しかしそれすらもが、一向に叶う気配が無い。気丈に振る舞い続けてきたアスカには、もう限界だったのだ。
『レイカさんのお仕事が大変なのは分かっているの。でも、今のあの子を見ていると……』
「そんな……アスカ」
全部、私のせいだ。母親としての自分と、執行者としての自分。両者の間で我を忘れそうになったレイカの肩に、そっと小さな手が置かれる。通話をしながらレイカが振り返ると、ユキノはひどく不器用な笑みを浮かべていた。
「会いに行けばいいじゃない。動物園は無理でも、顔を合わせるぐらいなら何の問題も無い筈でしょう」
「で、でも」
「異界化の一つや二つなら私が治めればいい話だしね。それにこれ以上無理をして倒れでもしたら、どうせ私が扱き使われるに決まってるわ。そんなの御免よ」
「ユキノ……」
七年前に両親を失った過去を持つユキノだからこそ、家族の温かみを知っていた。彼女に背中を押される形で、レイカは一母親としての決意を固めた。たった一つの我が儘に、口出しをする者はいなかった。
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翌日。レイカは生活拠点としていたホテルの最寄駅、西武新宿線の花小金井駅を目指し、軽自動車を走らせた。周辺にあったコインパーキングに駐車をして、徒歩で駅北口のロータリーへ。レイカが駅に到着したのと、彼女の家族二人が駅構内から歩き出てきたのは、ほぼ同時のことだった。
「お母さんっ!」
「アスカっ……!」
レイカは人目も憚らず両膝を付き、飛び込んで来たアスカを胸に抱いた。背中に両腕を回して抱き止め、頬擦りをして、上着越しに感じる愛娘の体温を噛み締める。一ヶ月間以上耐え忍んできたのは、レイカも同様だった。お互いを慰め合うよう、想いを確かめ合うようにして、二人は目元を腫らしていた。
「ごめん、ごめんね、アスカ。お母さん、駄目なお母さんだったよね」
「ううん……私もごめんなさい。おじいちゃんとおばあちゃんに、私ひどいことを言った」
「謝らないでアスカ。もういい。もう、いいから」
レイカが目元を拭って立ち上がると、アスカを実家から連れ出してきたアスマが歩み寄って来る。レイカは少しだけ申し訳なさそうな笑みを浮かべて、久方振りとなる夫の顔を見詰めた。
「ごめんなさいアスマ、急に無理を言ってしまって」
「当然のことをしたまでさ。単に家族で出掛けるだけだろう?まあ、生憎の空模様だけどね」
「フフ、そうね」
昨日の予報通り、東亰都内は3月としては異例の、実に十八年振りとなる本格的な積雪に見舞われていた。雪に耐性が無い都内の交通網は乱れに乱れ、アスカとアスマも本来なら一時間以上早く到着していた筈が、時刻は既に昼時へと差し掛かっていた。
ともあれ、家族三人の再会が叶ったことに変わりはない。レイカはアスカの首元にあったマフラーを一旦解き、しっかりと巻き直してからアスカに言った。
「ねえアスカ、お父さんの肩に乗る?今日ぐらい恥ずかしがらなくてもいいのよ」
「ううん、今日はお母さんがいい。お母さんの方が高いもん」
「アスカ……僕の悩みをさらりと言わないでくれ」
「あら、気にしていたの?そんなこと初めて聞いたわよ」
「矮小な男の下らないプライドってやつだよ。いくぞ、アスカっ」
「うん!」
取り留めのない会話を交わしながら、アスマがアスカの両脇に手を入れて持ち上げ、小さな体躯をレイカの肩に乗せる。レイカが立ち上がるやいなや、アスカはレイカの頭にしがみ付き、屈託無く笑った。頭上から聞こえてくる無邪気な声に、母親としての喜びがレイカの胸一杯に広がっていく。
「さてと。アスカ、お昼は何が食べたい?」
「えっとねー。今日は―――」
―――そして、時計の長針が38分を示す位置に移動した、その時。唐突に、地面が揺れた。
「「っ!?」」
ドクンと、レイカとアスマの鼓動音が高らかに鳴り、お互いの顔を見合わせる。揺れは自体は微弱な物で、道行く通行人も大して動じてはいない。しかし二人の脳裏にはまるで別次元の、最悪の可能性が過ぎっていた。
「れ、レイカ。今のは、まさか」
「いけないっ……みんな、伏せてっ!!」
レイカは周囲の人間らに大声で叫んでから身を縮め、アスマもレイカの肩からアスカを降ろし、胸に抱いて地に伏せる。この程度の微震で、何て大袈裟な真似を。通行人の頭上に疑問符が浮かんだ直後、災厄の牙は豹変した。
「きゃああぁあ!?」
「動くな、アスカ!」
地鳴りと共に、一気に揺れが増大する。地殻変動の結果ではない、時空間それ自体の震動。虚空震が全てを揺らし、地殻を歪ませて地震本来の姿を現す。まるで異なる二つの震域は、異常なまでのエネルギーを生み出し、関東地方全土を揺れ動かす。真面に立っていることすら儘ならず、周囲からは続々と悲鳴が上がっていた。
(この震動は……!)
地面の上で弄ばれながら、レイカは全てを察した。先月から立て続けに発生していた異界化、アスマが導き出した法則性、そしてこの虚空震。全部が繋がっているとしたら。もしあの異界化が本当に、途方も無く巨大な魔人の足跡だったのだとしたら。魔人は今、この東亰に降り立った。この震動は―――魔人の、足音だ。
「お父さん、お父さん!」
「大丈夫だよ、アスカ。大丈夫だ」
やがて長時間続いた震動は収まりを見せ始め、狂い掛けていた平衡感覚が正常を取り戻していく。地鳴りが止み、周囲へ一時の静寂が訪れる。レイカが恐る恐る顔を上げると、アスマの腕の中で目を真っ赤にしたアスカの顔が目に飛び込んでくる。
「う、うぅ、ううっ」
「アスカ、怪我は!怪我は無い!?」
「心配無いよ、アスカは大丈夫だ。それより……大変なことになった」
「……ええ、そうね」
アスカを抱きながら、アスマが駅周辺を見やる。レイカも彼に続いて辺りの様子を見渡すと、既に震災の爪痕は至る所に刻まれていた。
遠方の道路上では、衝突し合った自動車が見るも無残な姿に変わり果てている。避雷針と思しき金属製の柱が落下したのか、路上に深々と突き刺さったそれは、通行人の一人を貫いてしまっている。反対側の築年数が古そうなビルはガラス窓が複数ヶ所割れていて、足元には鮮血に染まった人間らが蹲っていた。駅の構内からは、取り乱した乗客らが次々に外へ飛び出し始めていた。
震動の収束にほっと安堵を覚えたのも束の間、徐々に喧騒や悲鳴が広がっていく。無慈悲な震災の二文字を突き付けられるのと同時に、レイカとアスマは意識をして冷静さを保ちながら、全く別の方向に思考を働かせていた。
「レイカ。今の地震は、虚空震なのか?」
「おそらくね。私も初めて経験したけど、ここまでの虚空震は聞いたことが……ま、待って」
すると突然、色相が変わった。部屋の照明を落とした際、室内に暗闇が落ちるのと同じタイミングで、常夜灯のオレンジ色に照らされるように。辺りが、緋色に染まった。
「何、だ。あれは。一体、何なんだ」
上空に、紅色が広がっていた。雪が舞っていた筈の冬空には、夕焼けとは異なる禍々しい紅しかなかった。常軌を逸した怪現象に誰もが声を失っていると、今度は段々と視界がぼやけ始める。色を帯びた霧は、レイカにとって身近な異世界にしか存在しない筈の毒。現実世界に、異界特有の瘴気が立ち込めようとしていた。
「神話級グリムグリードっ……間違いないわ、もう時間が無い!」
虚空震が生じた時点で、どれだけ目を背けようが現実は変わらない。神話級グリムグリードだけが引き起こすとされる現象が起きてしまった以上、下手を踏めばこの東亰は、この日本は壊滅の危機に迫られる。抗うことができる人間も、今都内には僅かしかいない。
「アスマ!」
「ああ、分かっているよ。こうなったら二手に分かれて行動しよう」
言葉少なのやり取りだけで、お互いが取るべき行動は理解し合っていた。これが通常の震災なら、避難区域とされる施設や場所に被災者を誘導し、救助が必要な者には手を差し伸べるのが通常の対応だ。しかし超々規模の異界化に襲われた今、目指すべき所は侵食が届かないという一点。少しでも瘴気が薄く、異界化の侵食度が低い地への避難が何より優先される。
だが事はそう簡単に運ばない。あらゆる二次災害の危険性を度外視して、行動しなければならない。負傷者の応急手当は後に回し、助かる見込みの無い者は放置して、たとえ行く先が火の手に包まれていても進むざるを得ない。あらゆる残酷の極みを尽くしながら逃げ道を示すことでしか、状況は打破できないのだ。
「お、お父さん、お母さん」
二人にとっての問題は、アスカをどうするか。他の避難者に託すか、それとも自分達の手で護りながら避難誘導に当たるか。二人が選んだのは、後者だった。
「大丈夫よアスカ、心配しないで。アスカはお父さんと一緒に行きなさい」
「何処にも行っちゃイヤ、お母さん。私、イヤ」
「大丈夫。絶対に帰ってくるから。お昼ご飯は後にしましょう」
レイカは一度アスカを抱いた後、振り向きざまに走り出す。自分を呼び止めようとするアスカの声が段々と遠退いていき、それでもレイカは、立ち止まらなかった。
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神話級グリムグリードによる異界化は大地震のみならず、様々な自然災害を伴う。瘴気、火災、寒波、竜巻。杉並区の一画にある公園では、落雷による被害で木々が燃え、住民らは混乱の渦中にあった。
「漸くお出ましか。随分と待たせてくれたものだな」
しかし雪村キョウカは、嬉々としてソウルデヴァイスを握っていた。地上へ降り立ったエルダーグリード、スーパーグリードの大軍勢。対異界部隊『アングレカム』の一隊員としてではなく、独断による先行で都内に待機していたキョウカは、逃げ惑う住民の盾となり、ガンランスの矛先をグリードに向けていた。
被災者の生死に関心は無かった。戦地でしか生きる実感を抱けない彼女にとって、全てがどうでもよかった。己の生命さえもを投げ出して、キョウカは引き金を絞った。
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地震が発生した直後。商店街を形成する老舗の一つ、伊吹青果店から飛び出した伊吹リョウタは、現実離れをした異常現象について行けず、泣き喚きながら縋るように父親の背中を追った。災害が生じた際の避難区域として指定されている杜宮学園を目指し、父親や他の住民らと共に歩き始めたリョウタは、道中に立ちはだかった怪異に対し、涙を流すことさえできないでいた。
「あ……あ、うぁ?」
「下がってろリョウタ!化物の一体や二体、父ちゃんが何とかしてやらぁ!」
妖精型のエルダーグリードは、彼らを嘲笑うかのように弧を描いて飛び回り、逃げ道を遮断していた。軌道は段々と狭まっていき、やがてグリードが父親の眼前に降り立つ。一人息子だけは、絶対に護り抜く。父親としての硬い覚悟と意志は、まるで予想だにしない方角から実を結んだ。
「―――疾っ!!」
仕込杖による居合術。ヤマオカが放った一閃はエルダーグリードを真っ二つに斬り裂き、脅威は一瞬の内に光へと姿を変え、消滅した。刃を杖に納めたヤマオカは、優しげな笑みをリョウタらに向けて、避難先の変更を促す。
「ここは危険です。すぐに九重神社へ向かって下さい」
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事前に設置されていた結界霊具により、九重神社の周辺には堅牢な結界が張られていた。邪悪な存在のみを拒絶する障壁は、街中から避難してきた住民らを保護し、巫女であるサナエは避難者に笑顔を振りまいて回っていた。
「さ、サナエさん。私達、どうなっちゃうの?」
「大丈夫ですよ、トワちゃん。ここにいれば安全です」
「お、おい!結界が破られるぞ!?」
避難者の一人が声を荒げると、恐怖は一気に伝播した。サナエはトワに声を掛けた後、結界を越えようとするグリードの下にゆっくりと歩を進め、赤樫製の薙刀を構える。九重神社の神職を担うソウスケは、疾うの昔に出払っている。この場の全てを任された巫女としての務めを果たすべく、サナエは怪異に薙刀の切先を向けた。
「杜宮学園薙刀部先鋒、サナエ。参ります」
抗う術を持つ者達が、各地で立ち上がる。護る為の戦いは、総力戦の様相を呈しつつあった。
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虚空震は変わらずに発生し続け、余震として東亰を襲っていた。これ程の規模の異界化に見舞われる中で、単なる避難誘導に果たして意味が、効果があるのだろうか。そんな躊躇いを脳裏から叩き出しながら、レイカとアスマは紅い空の下を四方八方に走り回った。目に付く住民を異界化の浸食度が低い北方へ誘導し、二人が合流を果たしたのは、震災発生から約一時間後のことだった。
「レイカ!」
「アスマ、アスカっ……良かった、無事だったのね」
たったの一時間が一日のように感じられ、レイカは再度アスカとの再会を噛み締め、我が子を抱いた。無言で縋り付いてくるアスカの無事に胸を撫で下ろしたレイカが、アスマと状況を確認し合う。
「そこやかしこでグリードと対峙したわ。アスマ、そっちは?」
「同じさ。僕の術式でどうにかなる程度の雑魚に過ぎなかったけどね」
「予想通り、厄介極まりない事態ね……外部との連絡は取れた?」
「駄目だ、繋がらない。でも直に応援が駆け付けてくれる筈だよ。それまでの辛抱だ」
震災としての被害は未だ進行中で、二人は既に多数の死傷者を目の当たりにしていた。しかし最たる脅威は、怪異のよる直接的な被害に他ならない。だからこそ現状を外界へ報せる連絡手段は頼みの綱でもあったのだが、後続の実動員が被災地入りをするのは時間の問題だった。事実、結社やゾディアック側の警戒態勢は最高レベルにまで引き上げられており、異界に対する抵抗力の全てを総動員している真っ只中。グリードへの対抗手段は、東亰都内に集結しつつあった。
「僕らは避難誘導を続けよう。アスカ、もう少し頑張れるかい?」
「うん。私、大丈夫」
「いい子ね。アスマ、車を使いましょう。近くに停めてあるから―――」
―――もう幾度目になるか分からない、虚空震。震度自体は微弱だったのだが、身体を僅かに揺らされる程度の震動と共に、周囲がざわついていく。途端に宙空へ複数の亀裂が生じ、内部から発せられた底無しの殺気に、全身を射抜かれたかのような錯覚を覚える。レイカとアスマは自然と手を繋ぎ合わせ、強く強く握った。
「レイカ、絶対に諦めては駄目だ。気をしっかりと持ってくれ」
「当たり前でしょう。アスカ、お父さんの後ろに隠れていなさい」
「う、うん」
暗い地獄の底から現世に顕れた、悪魔達。無数のエルダーグリードと、それらを統べるグリムグリード達。手に余るでは済まされない脅威が、三人を取り囲むようにして亀裂から這い出てくる。アスマは数々の術式が刻まれたサイフォン握り、レイカがエクセリオンハーツを顕現させる。二人が身構えていると、悪魔達の背後から、一筋の光明が襲った。
「『棘』よっ!!」
包囲網の一画が、地面から聳え立った巨大な棘により貫かれる。完全に虚を突かれたグリードらは光と化し、その向こう側から宙を舞って飛び込んで来る少女の姿に、レイカは胸を弾ませた。
「ゆ、ユキノ?」
「ユキノ……成程、この子が君の協力者か」
「やれやれ。やっと見付けたと思ったら、最悪の場面に出くわしたみたいね」
異変の中心地を占術で予見していたユキノは、制服姿のまま単身で行動を開始し、レイカらの下に駆け付けていた。既に制服は使い古した雑巾のように朽ち果てていて、身体中に刻まれた生傷が、道中で遭遇した脅威の数々を思わせる。ユキノはちらとアスカを見てから、大アルカナのタロットカードを左手に構えて言った。
「随分と母親似ね。レイカそっくりよ」
「よく言われるわ。さあ、全員で切り抜けるわよ!」
「アスカは僕に任せてくれ。この子を護りながら、術式で君達をサポートする!」
地獄の悪魔達が、問答無用に襲い掛かる。時刻は午後の13時を過ぎようとしていた。
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時坂ソウスケは、レイカ達の交戦地から左程遠くない場所にいた。霊能者として卓越した力を揮う彼の術は、護符や霊具により増幅され、数多の災厄共を葬り去る。人知れず戦い続けていたソウスケは、一つの死別に立ち会っていた。
「その娘は、おぬしの伴侶かね」
「……将来を、約束していました」
事切れた女性の亡骸は、最早ただの肉塊に過ぎない。最期を迎えた女性を、佐伯ゴロウは腕の中で抱き続けていた。悲哀が深過ぎて、ゴロウは涙を流すことができなかった。傍に在ることが当たり前で、共に生きていこうという誓いが今更過ぎて、彼女の身に一体何が起きたのか。ゴロウには、分からなかったのだ。
「残酷な言動を許して欲しい。今は一人でも多くの者が、立ち上がらねばならない時じゃ。見たところ、覚醒したばかりのようじゃが……儂と共に、来てはくれんかの」
ソウスケの言葉に、ゴロウが無言で首を縦に振る。最愛を地面に寝かせ、ゴロウはそっと唇を重ねた。別れは、血の味に満ちていた。
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確固たる意志の下で呼吸が重なり合った三人の力は、悪魔の軍勢を圧し返して、しかし無傷ではいられない。レイカにユキノ、とりわけ身を挺してアスカを護り続けたアスマは、鮮血に染まっていた。一生物の傷を負いながらも、アスマは術式と己の四肢を盾にして、怪異の牙を跳ね返していた。
「ブリザード、ピアス!!」
やがて断罪の刃が最後の一体を貫き、空を駆けたレイカが地上へと降り立つ。レイカにユキノも満身創痍ではあったのだが、降り掛かった災厄の全ては光となって消え失せた。相容れない存在との一時間に渡る攻防の果てには、現実世界で生きる者だけが立っていた。
「アスマ!?」
「お、お父さん、お父さん……!」
「心配、無いさ。掠り傷だ」
レイカが力無く座り込んだアスマに駆け寄り、サイフォンを操作して治癒術を発動させる。一方のアスカは護られるばかりの無力さを嘆きながらも、傷だらけになった父親の身体に触れることができず、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。そんなアスカの胸中を悟ったアスマは、大きな右手をぽんとアスカの頭に被せ、優しさに満ちた声を掛ける。
「そういえば、まだ聞いていなかったね。アスカ、お昼は何が食べたい?」
「え……で、でも」
「遠慮しなくていい。言ってごらん」
「……また、オムライスが食べたい」
「そうか。全部終わったら、三人……いや、四人で食べに行こう」
勝手にその一人として数えられたユキノは、満更でもない様子で小さく笑った。七年前に離れ離れとなった両親を想い起こし、家族と血の尊さを改めて噛み締めたところで―――『災厄』は、再び訪れる。
「「っ!?」」
先程とは比較にならない、眩暈を覚える程に巨大な殺気。数も脅威度もまるで異なる怪異の大軍が、もう目前にまで迫っている。これから何が起きようとしているのか、アスカでさえもが生存本能を以って、肌で感じ取っていた。ユキノは身を震わせながら、いち早く叫び声を上げた。
「駄目よ、こんな……駄目、逃げて!!」
レイカとアスマが、傷の痛みを抑えて反応する。アスマはアスカを強引に抱き上げ、レイカとユキノが後方に気を配りながら地を駆け始める。対峙して敵う筈もないことは、口に出さずとも全員の理解に及んでいた。
「レイカ、車は何処だ!?」
「あの交差点を右よ!」
逃げの一手を選択した四人は、アスカが停めた軽自動車を目指して走った。既に周囲には人気が無く、無人と化した二車線の道路上を渾身の力で走り抜ける。背後からはSS級に匹敵するグリムグリードが大勢の下僕を伴いながら、四人の脚力を凌駕する速度で迫っていた。
やがて交差点を右折し、更に路上を進んでいく。すると頭上に不気味な紋様が浮かび上がり、突如として漆黒の槍が雨粒の如く降り注ぎ、四人を襲った。アスマとレイカは、呻き声を上げた。
「ぐああぁあ!?」
「あぐっ……!!」
竹のように太い二本の槍が、アスマの右上腕とレイカの左前腕部を貫き、路上へと突き刺さった。槍により地上へと射止められた二人の足が止まってしまい、少女達の悲痛な声が周囲に木霊をする。
「お父さん、お母さん!?」
「そんな……嘘、でしょ」
身の毛がよだつ悍ましい光景に、ユキノは両膝から力が抜けて立っていられなくなり、地面に座り込んでしまう。一方のアスカは踵を返し、母親の腕を貫く槍を両手で握り、力を込めて揺らした。槍を抜きたいという一心で、揺らした。両親を、助けたかった。
「駄目、よ。やめて、アスカ」
「いや、いや!いやだ、イヤだ!!」
「痛い、のっ。離して、あっ……アス、アスカ」
「いやあ!!いやだいやだイヤだイヤだイヤだぁ!!」
槍が動く度に傷口を抉られ、血飛沫がアスカの顔を真っ赤に染める。苦痛の余り意識が飛び、しかし苦痛が再度レイカの意識を呼び覚ます、残酷の繰り返し。自分が何をしているのかを理解できないアスカは、泣きじゃくりながら槍を揺らし続けた。到底現実として受け入れ難いやり取りを前に、ユキノは吐き気を堪えながらどうにか立ち上がって、アスカを両腕で槍から引き剥がす。
「離して、離してよ!!」
「れ、レイカ。私、私……わた、しは」
グリードの大軍は、既に四人を完全に取り囲んでいた。四方八方を塞がれ、最早逃げ道らしい逃げ道が無い。眼前にまで押し迫った明確な『死』に、ユキノの身体は動かない。地べたに座りながら、腕の中で暴れ続けるアスカを抱き締めるユキノには、レイカとアスマの表情が理解ができなかった。絶望しか見当たらない状況に立たされた今。二人が笑みを浮かべる意味が、ユキノには分からなかった。
「ねえ、ユキノ。貴女のご両親は、最期まで懸命に戦ったの。この間、話したわよね」
「な、何よ。それが、一体どうしたの」
「ご両親の術式、借りるわ。私達のサイフォンには、あの術が刻まれているから」
あの術。ユキノは両親から授かった符術の中から、レイカが言わんとしている術を探し出す。それはすぐに見付かった。決して触れてはならない禁じ手であり、しかし脈々と受け継がれてきた禁呪。ユキノは首を何度も横に振りながら、アスカの悲鳴を超える声で制止をする。
「駄目よっ……駄目!!そんな、馬鹿な真似はやめて!!」
「ユキノ。一つだけお願い。アスカを、護ってあげて」
「やめてって言ってるでしょ!?」
ユキノとアスカに構わず、アスマがサイフォンを片手で操作し、結界の術式を展開する。ユキノとアスカの二人を覆った結界の中で、ユキノは己の感情を忌んだ。止めようとしているのに、身体は変わらずに動こうとしない。止めたいのに、本当に自分はそう感じているのだろうか。生き延びる為に、このまま流されてしまいたいと願う自分が憎くて許せないのに、許してしまう。
分からない。私は今どうすればいい。七年前の真実を明かし、新たな生き方を示してくれた大切な女性が、選ぼうとしている。最愛の一人娘を託されて、私はどう応えればいい。もう、時間が無い。
「私はっ……!」
ユキノの迷いを余所に、結界の中で彼女に抱かれるアスカへ、レイカとアスマは再度笑顔を向けた。最期の最期まで人として、アスカの親として在りたかった。ただ、それだけだった。
二人の姿に、ユキノも覚悟を決めた。鬼のような感情を押し殺して、選択をした。
「……っ……『壁』よ」
二重に結界を張ったユキノが、背後からアスカを抱いていた右腕の位置を変えて、アスカの口元へ強引に当てる。
「んー!?んんぅ!」
ユキノの思惑通り、アスカは己を拘束する者の腕に容赦無く噛み付いた。その痛みがユキノにとっては贖罪であり、もっと強く噛めと言わんばかりに押し当てる。アスカがこれから目の当たりにするであろう光景を彼女が耐える為にも、必要な措置だとユキノは考えたのだ。
「レイカ。君に出会えて、本当に良かった」
「私もよ、アスマ。さあ、私からやるわ。構わない?」
「ああ。好きにするといい」
レイカは右手に握っていたエクセリオンハーツを構え、一つ深呼吸を置いた後、刃を自身の左腕に振り下ろす。己を射止める槍のせいで身動きが取れないでいたレイカは、左腕を切断することで解放され、地面に這い蹲った。最早止血をする意味も、残されてはいなかった。
「んんぅ!?んん、んんぅっ!?」
ユキノの右腕に刺さっていたアスカの歯が、より一層深々と突き立てられる。ユキノは渾身の力を込めてアスカを背後から抱きながら、腕の痛みを噛み締めた。左腕でアスカの視界を遮ろうにも、暴れ回る少女の力が強過ぎて、抱き止めることしかできなかった。
レイカが残された力を振り絞り、アスマの右腕目掛けてエクセリオンハーツを振るう。上空の緋色が、深みを増した。アスカの目に、ユキノの目元から感情の証が止め処無く流れ出ていく。ユキノはアスカの耳元で、繰り返し同じ言葉を並べた。
「ひどいよね。恨んでいい、恨んでいいの。私を、恨んでもいいから」
「んん!?んんううぅ、うう!!」
「だから貴女は生きるの。お願いよ、生きて。お願い。生きてっ……アスカ」
「んううぅっ!!ううう!!むうううぅぅっっ!!!」
切実な想いを込めて、ユキノはアスカを抱き続けた。やがてユキノは、最期の光を見た。己の魂を燃やし尽くし、全てを霊力に変えて邪を祓う、禁断の術技。瞬間、地上が光に照らされる。その中心で、ユキノはアスカの未来を想っていた。