東亰ザナドゥ ―Episode Zero―   作:ゆーゆ

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3月15日 雪村京香

 

 

 自らが犯したきた過ちを、罪と認める時がきたとして。

 私は、赦されるのだろうか。

 

 血に塗れたこの手を、誰かが赦してくれるというのなら。

 私は、生きてもいいのだろうか。

 

 

________________________________________

 

 杉並区の公園でグリードの群れを葬り去った雪村キョウカは、思惑通りに事が運ばない状況に不満を募らせながら、崩壊した街中を歩いていた。先刻の戦闘以降、己の衝動を充たしてくれる脅威を求め彷徨っても、一向に顕れる気配が無かったからだ。目に留まるのは被災者しかなく、意に反した救援活動ばかりが飛び込んでくる。キョウカにとっては不運以外の何物でもなかった。

 

「やれやれ。期待外れもいいところだ」

 

 しかし舌打ちをして毒突きながらも、キョウカは我を抑えて、アングレカムの一隊員としての職務を全うしていた。それというのも、彼女は度重なる独断行動を咎められ、危うい立場にまで追い込まれていたのだ。軍人とは違う世界を生きる傭兵と言えど、規律に背く行動を取り続けては貴重な雇い主を失ってしまう。それに震災が発生してから約二時間が経過した今でも、救助を待ち望んでいる都民は何処にでもいた。不本意ではあったのだが、キョウカは渋々グリードの殲滅と人命救助、両者に重きを置きながら、瓦礫と化した建造物の隙間を潜り、生存者の捜索を続けていた。

 

「おい、誰かいないか。聞こえていたら返事をしろ」

 

 一定の間隔で声を張り、耳を澄ませるを繰り返す。すると男性と思しきか細い声が、遠方から僅かに届く。キョウカは頭上や足元に気を配りながら、声がした方に歩を進めた。

 

「……あれか」

 

 やがて辿り着いた先で、男性の頭部が視界に入る。小走りで駆け寄り、膝を付いて慎重に様子を窺う。三十代半ばか四十代前半と見られる男性は、額から少量の血を流しながら、瓦礫の下に蹲っていた。

 

「喋れるか。無理はしなくていい」

「君は……ああ、どうにかな」

「よし。今から何点か質問をする。一つずつ答え……ろ?」

 

 男性の容体を確認しようとした矢先に、キョウカはもう一人の存在に気付く。男性の腕に抱かれていた女性は、微動だにしなかった。見れば、地面には夥しい出血の跡があり、その出所は女性の首筋。とても魅力的に映る整った小顔からは、すっかり血の気が失せてしまっている。手遅れの三文字しか、感じ取ることができなかった。キョウカは敢えて、女性の顔を見詰めながら言った。

 

「美人だな。お前の連れか」

「妻だ。彼女は……彼女を、看てくれないか」

 

 確認する必要も無く、キョウカは首を横に振った。本来ならば男性の生気を繋ぎ止める為にも、可能性が残されているという偽りを以って答えるべき場面ではある。しかし手の施しようが無いことは、男性も理解していた。キョウカがどう応えようが、彼は分かり切っていた。キョウカもそれを察していたからこそ、不条理に満ちた現実を乗り超える生命力を、男性に期待した。

 

「そうか…………そう、か」

「いいか、よく聞け。今からお前だけでも助け出す。私の質問に答えろ」

「ああ。しかし、君は誰なんだ?」

「救助隊の人間だ。それ以上は聞くな」

 

 男性が置かれていた状況を、キョウカが一点ずつ確認していく。男性は震災が発生する直前、今は倒壊してしまった建物の傍を通行中で、震災と同時に瓦礫の下敷きとなった。彼の妻も同様であり、鋭利な何かで首を切ってしまった彼女は、もう一時間以上も前に息を引き取っている。男性も両足に圧し掛かる一部の瓦礫のせいで、身動きが取れないでいた。

 

「今から瓦礫の中の状況を見る。何か話したければ話せ」

「助かる。何かを話していないと、気が違いそうで……俺達の、娘の話でもいいか」

「……まあいい。好きにしろ」

 

 キョウカはペンライトを口に咥えて、男性を縛る瓦礫の奥部を覗き込む。男性の様子と合わせて判断するに、瓦礫の下敷きとなった脚部の外傷自体は大事無い。とはいえ一刻を争う状況に変わりはないのだが、現状の装備では男性を救い出す術が無い。増援を求めようにも、異界化の影響か通信機器はどれも使い物にならず、衛星電話でさえもが繋がらない。

 どうする。他の手立てを模索するか、民間人の助力を求めるか。それとも冷酷に徹して、グリードや他の生存者の捜索を優先するか。

 

(……考えるだけ、無駄か)

 

 どうだって構わないと、キョウカは感じていた。この状況が、男性の生死がどちらに転ぼうとも、キョウカにはまるで興味が無かった。

 ずっとそうして生きてきた。欲求と感情の間に境目は無く、食らいたければ食らい、本能の赴くままに眠る。性行為からは今一快楽を覚えられず、破壊的な衝動ばかりが込み上げる。精神疾患を疑われて診察を受けても、毎回正常と判断される。限りなく黒い自分を白とする人間を、白と黒にしか二分しようとしない他人にも、キョウカは関心を示さない。

 

「どうか、したのか?」

「いや…………何でもない。救出の、手段をっ!?」

 

 誤魔化しの返答を口にしようとした、その時。またもや地面が揺れた。これまでの余震に比べて一際強い揺れは瓦礫の山々を動かし、パラパラと頭上からコンクリート片が落下してくる。歪な音を立てて、積み重なっていた一部がゆっくりと崩れていく。

 

「ぐっ!?」

 

 頭上から落下しかけた瓦礫を、キョウカが咄嗟に両手で押さえる。地に膝を付いて踏ん張りを利かせ、首と肩を使い重々しい落下物を押し返す。次第に余震は収まっていき、二人を取り巻く状況はまるで一変していた。キョウカの左手には瓦礫の鋭利な部位が食い込み、腕を伝って流れ出た血液が、肘から男性の眼前に滴っていた。

 

「だ、大丈夫か?」

「問題無いっ……気にするな」

「しかし、出血が」

「気にするなと言っている。いちいち喚くな、耳障りだ」

 

 巨大な瓦礫は、キョウカという柱一つで支えられていた。もし体勢を崩せば、たちまちのうちに瓦礫はバランスを失い、今度こそ男性の命を奪いかねない。ソウルデヴァイスの力を使おうにも、小型のPDAを起動しないと顕現は不可能。媒介を通さずに顕現可能な例もあったのだが、キョウカにはその器用さが無い。一瞬の内に、あらゆる可能性が途絶えてしまっていた。

 

「直に救援が駆け付ける。それまでの辛抱だ……娘と言っていたな」

「え?」

「続きを聞かせろ。もう一度断っておくが、無理だけはするな」

 

 今のキョウカが取り得る手段は、男性の生気を駆り立てながら救援を待つこと。伴侶を失った今、こんな状況で我が子の話を持ち出すぐらいなら、その溺愛が生き延びる糧と希望になり得る。そう当たりを付けて、キョウカは男性の身の上話を促した。

 

「娘は、小学生になったばかりだ。今年の春から、二年生になる」

 

________________________________________

 

 男性の一人娘は今から八年前、初夏の季節に生を受け、健やかな少女に育った。天真爛漫な子供らしさと、若干年不相応な大人びた言動を併せ持つ少女は、ここからそう遠くない私立の小学校に通っている。成績は優秀の一言に尽き、クラスでも敵を作らない裏表の無さは、担任教諭も大いに助けられている。男性がひと度語り出すと、言葉は次々と並んだ。

 

「俺達には過ぎた子だ。将来はきっと、素敵な女性に育ってくれる」

「大した親馬鹿振りだな。聞いているこちらが小っ恥ずかしい」

「生き甲斐だからな。君には、子供はいないのか?」

「馬鹿も休み休み言え。まだ十七歳だ」

「十七……驚いたな。十七歳の女性救助隊員、か。面白い冗談だ」

 

 二十代と勘違いをされたことは、初めてではない。キョウカは似たような経験を何度も経験してきた。キョウカは肩の位置を僅かにずらし、圧迫感と痺れを和らげた後、苦笑を浮かべながら言った。

 

「しかし随分と盲目的な愛情だ。理解に苦しむ」

 

 そもそもの話、男性の少女が無事でいる保証など何処にも無い。既に亡き者となっている可能性があるにも関わらず、それに触れようともしない男性を、キョウカは内心でお気楽者だと感じていた。

 

「親は子を、愛するものだろう。君だって、そうやって育てられてきたんじゃないのか?」

「私は親の顔を知らない。物心付いた頃には、肉親は一人もいなかった」

「……それでも俺には、きっとそうだったと思える」

「我が子を忌み嫌う人間は腐る程いるだろうに」

「忘れているだけさ。愛情をな。君も子を産めば、分かる筈だ」

「男性のお前が言うのか?」

「ああ。人はそうやって、ずっと生きてきたんだ」

「……フン」

 

 男性の物言いに対し、キョウカは苛立ちを覚えると同時に、理解を示していた。ならば私は、人間ではないと言いたいのか。問い質したい衝動が込み上げる一方で、男性は己の言動を信じて疑わない様子で語り続ける。とどの詰まり、私は違う。家族の何たるかを知らずに今日まで生きてきた私は、人間ではなく猟犬。化けの皮を被った、何かだ。

 

「もういい。他の話をしろ」

「それなら……俺達の、娘の話を」

「ふざけるな。やめろと言っている」

「娘は、小学生になったばかりだ。今年の春から、二年生になる」

「っ……!」

 

 戯れに興じている訳ではないことを、キョウカは察した。男性は語り尽くした全てを、再度繰り返そうとしていた。最早思考が正常に働いてはいなかったのだ。キョウカの不安を余所に、男性は語りを止めようとしない。意識と無意識の間を行き来しながら、それでも尚我が子への想いを並び立てる。

 

「俺達には過ぎた子だ。将来はきっと、素敵な女性に育ってくれる」

「だったらっ……生き延びて見せろ」

 

 キョウカは渾身の力を込めて、瓦礫を支え続けた。二人の周囲では、季節外れの風花がしんしんと降り積もっていた。

 

___________________________________________

 

 一時間以上もの間、待ち望んだ救援は姿を見せず、代わりに男性の絶え間無い語りだけがキョウカの耳に入ってくる。上空では積雪が勢いを増し、気温も段々と低下の一途を辿るばかり。このままでは精神のみならず、残り僅かな男性の体力さえもが底を打ってしまうと、キョウカは焦りを見せ始めていた。

 キョウカ自身、限界が目前まで迫っていた。既に両腕の感覚は薄れ、度重なる余震が力を奪い去る。勿論、男性を見捨てるという選択肢は考えていた。戦場で他者の命を見限ることは、取るに足らない判断の一つに過ぎない。キョウカはそれを一応の保留にする形で、懸命に支え続けていた。

 

「俺達には、過ぎた子だ。君は十七歳だと言っていたな」

「ああ」

「ならあと十年も経てば、君のような美人に育ってくれる……ん。これは先程も話したか?」

「漸くか。もう七度目だぞ。聞かされる側の身になって欲しいものだな」

「そう、か……そうか。なら次は、君の話を聞かせてくれないか」

 

 男性は身体を僅かに動かし、視線をキョウカへと向けた。突然の申し出に、キョウカは白く染まった息をフッと吐き出し、つまらなそうに答える。

 

「聞くだけ無駄だ。話すことは無い」

「そうでもないだろう。君ぐらいの年代なら、色恋の一つや二つを抱えているんじゃないのか」

「馬鹿な。誰かを愛することなんて、私にできる訳がない」

「興味深いな。何故そう思う?」

「私はお前達とは違う。人を二分する世界からつまみ出された、外れ者だ」

 

 キョウカが吐き捨てるように言うと、男性は再度体勢を変えた。女性の首から流れ尽くしていた血液は冷え固まっていて、男性が身体を動かすと、張り付いていた衣服がバリバリと音を立てて、血の固まりが割れる。すると男性は血の気が無い女性の頬に、そっと触れた。白肌を撫でて、口付けをした。その空間だけが、どうしようもない絶望から隔絶されたかのように、静けさに満ちていた。

 

「女にとっての復活は、あらゆる破滅からの救いと更生は、『愛』の中にある」

「生憎だが、著名人の言葉を引用する人間は信用しないと決めている」

「意外だな。ドストエフスキーを知っているのか。妻が好きだったフレーズだ」

「お前は何が言いたい?」

「今の言葉が全てさ。いつか君にも、分かる時が来る……さあ、次は君の番だ」

「だから何のことだ」

「格言を教えてくれ。何でも構わない」

「……そうだな」

 

 ―――人生には、たった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡など無いかのような生き方。もう一つは、まるで全てが奇跡であるかのような、生き方だ。

 キョウカが引用した言葉に、彼女の意思は介在していない。寧ろ皮肉を込めて、キョウカは偉人が残したアフォリズムを引き合いに出していた。

 

「アインシュタインか。いい言葉だな。俺は、後者を選びたい」

「笑わせてくれる。こんな状況下の何処に奇跡がある。言ってみろ」

「目の前にあるさ。君だ」

「え?」

「君のおかげで、もう一度彼女を抱くことができた。今の俺にとっては奇跡だと、そう思える」

 

 不意に、小さな鳴き声が聞こえた。顔を上げると、キョウカの視線の先では、一匹の仔猫が歩いていた。首輪やハーネスの類は無く、体毛からは人の手が加えられた様子が窺えない。猫はゆっくりと歩を進め、やがてキョウカの足元で立ち止まる。

 

「来るんじゃない、危険だ」

 

 キョウカの忠告を余所に、仔猫は舌をちらつかせながら、キョウカの足にじゃれ付いた。頬擦りをして座り込み、身体を縮ませてゴロゴロと喉を鳴らす。飼い主に寄り添うような安寧が、足元に広がっていた。

 

「何だ……何なんだ、お前達は。訳が分からない」

 

 麻痺しかかっていた両手の傷が、じんわりと痛みを帯びていく。薄れていた感覚が意に反して取り戻されて、耐え難い苦痛が全身に広がる。疾うの昔に超えていた限界へと立ち返り、ぐらぐらと身体が揺れ動く。僅かでも気を緩ませれば、崩れ落ちてしまいそうなのに、力が入らない。

 すると女性を抱いていた男性が口を開き、キョウカは耳を疑った。

 

「もういい、行ってくれ」

「なに……何だと?」

「このままでは君も巻き込んでしまう。その代わりに、娘を探して欲しい」

 

 いよいよ精神に異常を来したか。キョウカが男性の様子を窺うと、またもや違った。絶望や諦めではなく、希望。男性の表情は、後ろ向きな負の感情の一切を抱かせない。

 

「娘を、あの子を探して、保護してくれ。あの子が通う学校は、ここからそう遠くない」

「やめろ。突然何を言っている」

「何処かにいる筈なんだ。俺達を置いて、娘を頼む」

「馬鹿を言うな、落ち着いて考えろ。自分が何を言っているのか、分かっているのか?」

「お願いだ。あの子を……どうか」

 

 説得力は皆無だった。震災が発生した際に小学校の中にいたのなら、少女が無事でいる可能性は高い。だが被災者の一人として、最悪の結末を迎えた可能性も否めない。知りようが無い状況下で、己の生存を投げ出してでも、この場を去れと男性は促してくる。キョウカは混乱の余り、体勢を更に崩してしまっていた。

 

「じ、冗談を吐いている暇があったら、助かる術を考えろ。いいな」

「……ぁ…………」

「おい。どうした、答えろ。何故黙っている!?」

「っ……」

「クソッ……ふざけるな!十八を迎えた娘を、拝むんじゃなかったのか!?」

 

 男性は答えない。つい今し方まで延々と語り続けていたというのに、呼び声に応じようとしない。僅かな呻き声を漏らすだけで、地に伏せたまま。一握りの希望さえもが潰え、行き場を失ったキョウカの感情が、怒声となって流れ出ていく。

 

「なっ!?」

 

 悪夢だった。グリードの咆哮は周囲に鳴り響き、キョウカの身体がびくりと跳ね上がる。後方から気配を感じた。明確な殺気を纏った複数の脅威が、異常な速度で接近してくる。あれ程待ち焦がれていた筈の敵が、最悪のタイミングで襲い掛かろうとしていた。

 

「こんな時に、どうしてっ……ふざけるな!!ふざけるなぁっ!!」

 

 腹の奥底から込み上げてくる、まるで身に覚えの無い感情の数々。胸がはり裂けそうになる想いや憤りと共に、キョウカは一心不乱に叫び声を上げて、立ち上がる。

 

「がああああぁぁああっ!!!!」

 

 人の身を凌駕した力は巨大な重しを持ち上げ、キョウカは瓦礫を右方へと落下させた。間髪入れずに前方へ飛び出し、身体を転がせて真後ろに振り返る。すぐさま小型の端末を使いソウルデヴァイスを顕現させ、既に目前にまで迫っていたグリードの群れに、ガンランスの矛先を向けた。

 

(―――っ!?)

 

 刹那。キョウカの視界に、男性の笑みが映る。その意味を考える時間は、迷いや躊躇いを抱く猶予すら、もう残されてはいなかった。

 

「バースト!!!」

 

 火力の全てを総動員させた一撃は、けたたましい爆発音を鳴らして、全てを燃やした。グリードを、瓦礫を、仔猫も夫婦さえもを燃やし尽くし、塵と化していく。降り積もっていた周囲の雪が徐々に溶け出して、上空の紅色と同じ炎が周囲を照らす。キョウカは肩で息をしながら、虚ろな目で炎を見詰めていた。

 

「はぁ、はっ……はぁ、は」

 

 何も変わらない。何も変わらない。今までと、何も変わらない。キョウカは燃え盛る炎の前で、何度も己に言い聞かせた。最善を尽くして、しかし手が届かなかった。遅かれ早かれ、こうなる運命だった。

 これまでと同じだ。戦場では一つの判断ミスが命取りになる。時に同僚を見捨て、他人を見限り、仮初の正義で言い訳をして、鮮血を正当化してきた。上司から目を付けられていた自覚はあれど、最前線での判断を咎められたことは一度も無い。正しい決断だったと認められ、そう信じて違わなかったからだ。だから何も変わらない。一つ、増えただけだ。

 

「お父さん。お母、さん?」

「っ……!?」

 

 振り返り、声を失った。炎が落とすキョウカの影の先に、少女が立っていた。呆然と立ち尽くす少女は、男性が抱いていた女性と瓜二つだった。

 

「お前は……」

 

 今わの際に浮かべた男性の笑みを、キョウカは漸く理解した。あの瞬間、男性が何を見ていたのか。少女が目の当たりにしてしまった、全てを。

 

「見て……いたのか?」

 

 少女は何も言わない。一歩ずつ歩み寄って行くキョウカに、少女は何も言わなかった。キョウカも口を開こうとせず、代わりに自分の右手を見詰めた。瓦礫により深々と刻まれた切傷は、彼女の手を真っ赤に染めていた。

 

__________________________________________

 

 キョウカは少女を連れてその場を離れ、街外れに設けられた人気の無い遊歩道に移動した。路上には街路樹が複数あり、その一本に背を預けて座りながら、煙草に火を点す。少女もキョウカの反対側に腰を下ろし、二人は大木を挟む形で、背中合わせの状態で佇んでいた。

 

「おい。怪我は無いのか」

「無い」

「そうか」

 

 キョウカは頭上に煙を吐きながら、揺ら揺らと舞い降りる風花を見詰めていた。火照った頬に雪の粒が触れる度に、体温が奪われる。背後の無言に居心地の悪さを覚えたキョウカは、何かを言わずにはいられなかった。

 

「お前はどうして、あんな場所にいた」

「行き先は聞かされていたの。あのビルには、何度か入ったことがある。みんなは危険だって言って止めたけど、どうしても、会いたかったの」

「……そうか」

 

 知らぬ間に、煙草の火種は消えていた。煙草をここまで不味いと感じた日は無い。『今日が初めて』が余りに多く、想いが定まらない。男性の言葉だけが、脳裏で繰り返される。

 キョウカが我を見失い掛けていると、少女はキョウカの目の前に立っていた。キョウカは呟くように、声を掛ける。

 

「何故お前は、何も言わないんだ」

 

 数秒の間を置いて、少女は答える。

 

「ひどいことを言いそうだから。だから、イヤ。言いたくない」

「……頼むから、何か言ってくれ」

「え?」

「分からない。分からないんだ。私には、分からない」

 

 キョウカは膝を抱えて、顔を埋めた。生まれて初めて抱く感情の正体が、キョウカには理解できなかった。痛覚がやけに鋭く、瓦礫を支えていたことで負った手の傷が、途方も無く痛む。間を置かず戦い続けてきたことで刻まれた傷が、一つ増えたに過ぎないというのに、痛い。痛くて仕方なかった。

 

「痛いの痛いの、飛んでけ」

「え……」

 

 不意に、体温を感じた。キョウカが顔を上げると、少女の小さな小さな手が、重なっていた。

 

「お、お前は、何を」

「私が怪我をした時、お母さんがいつもこうしてくれたの。痛いの痛いの、飛んでけって」

「やめろ……違う、違うんだ。私は」

「だって、痛そうだもん。痛いの痛いの、飛んでけ」

「……っ……やめて、くれ」

 

 段々と滲んでいく視界の中で、少女の手が己の紅に染まる。嘘のように和らいでいく痛みが、まるで異なる痛みを呼び起こし、胸に突き刺さる。

 

「泣かないで、お姉さん。泣いちゃイヤ。私も、泣かないから」

「っ……!!」

 

 止め処無く溢れ出る涙の理由を、キョウカは知りたかった。だからキョウカは、感情の赴くままに抱いた。縋り付くように、少女を抱いた。そうすることでしか、伝えることができなかった。

 

「名前を、教えてくれないか」

「ミツキ。北都ミツキ。お姉さんは?」

「……雪村、キョウカだ」

 

 出会いは、誰かの生き方を変える。紅く染まった空の下で、猟犬は血の尊さに絆されて。想いは、深く。

 

 

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