2010年3月 再会
2010年の3月20日、土曜日。東亰都千代田区の一画を占める私立女学園では、一般的な小学校とは異なる空気の中、卒業記念ミサが開かれていた。卒業生らは併設された教会に集い、六年間の旅路に感謝し、祈りを捧げて祝福に与る。瞬く間に過ぎ去った日々を想いながら、新たな光に向かって歩を進め始める。その一日目。
フォーマルなスーツ姿の雪村キョウカは、女学園の敷地内を走っていた。腕時計と前方を交互に見て、焦燥を振り撒きながら走り続ける。
(まだ、間に合う)
女学園本校舎の入り口付近では、多数の保護者で賑わいを見せていた。キョウカは苦虫を噛み潰したような面持ちで集団を見やりながら、内の一人の女性に声をかける。
「あの、すみません。お尋ねしたいことが」
「あ、はい。どうされました?」
「卒業記念ミサは、もう終わってしまったのですか?」
外見が三十代半ば程度の女性だった。女性はキョウカの言い回しや表情で、彼女の心境と事情を察した。やや心苦しそうな色を浮かべて、キョウカの問いに返す。
「ミサ自体はもう終わっていますね。一時間程前でしょうか」
「そう、でしたか」
「ですが私の中では、まだ続いているんです。最後の取って置きが残っています」
「え?」
怪訝そうな表情で、キョウカは女性の意味深な返しを考える。ミサ自体は終わったのに、終わっていない。
「保育園の卒園式でもそうでした。式が終わって、正門の前で娘を待っていて……お友達と一緒に保育園から出てきた娘は、私を見付けた途端、屈んだ私の胸に飛び込んで来たんです」
キョウカは己の身に置き換えて、想像をした。一歩前に進もうとしている『あの子』が、満面の笑みで駆け出して、抱き止める。思わず顔が綻び、女性も微笑みで応じた。
「気付かない内に、とっても大きくなっていたんだね。もう子供じゃないんだねって感じる一方で、やっぱりまだまだ子供だなって、そう思ったんです」
「……それが、取って置きですか」
「フフ、はい。もう六年生ですから、あの時のようにはいかないと思いますけど。貴女もここで、出迎えてあげて下さい」
女性は一度声を切り、改めてキョウカの出で立ちを見詰めた。その視線の意味を、キョウカもすぐに理解した。
今日は2004年から始まった六年間を振り返り、そして前途を祝す日でもある。卒業生の両親、或いはその何れかが我が子の晴れ姿を見守る一方で、それが叶わない子もいる。今年で二十二歳となるキョウカを前者とするには、余りに若過ぎたのだ。
「今度は私がお尋ねする番ですね。卒業生のご姉妹、ですか?」
「いえ、私はお嬢さ……菊組の、北都ミツキの保護者代理、といったところです」
「あら、ミツキさんの?あらあら、そうでしたか。貴女があの子の」
キョウカは女性の反応を見て、目を丸くした。北都の知名度や影響力、クラス内におけるミツキ個人の存在感は、キョウカも隅々まで知るところではある。しかし女性の様子から考えるに、そのどれとも異なる、特別な意味合いを込めてミツキの名を口にしたように思えた。女性は笑みを深めて言った。
「私は同じ菊組の、エリカの母です。ミツキさんから、あの子の話を聞いてはいませんか?」
「あ……フフ、勿論。存じています」
多くを口にせずとも、お互いに分かち合っていた。キョウカがミツキから聞かされる日常や学園生活の中で、エリカという友人の名は何度も耳にしたことがある。エリカに至っては、母親の関心を大いに惹く程に熱く、繰り返し北都ミツキを語っていた。
クラス委員長と副委員長、成績、稽古事、共有した時間。数々で繋がった二人の絆は、枚挙に暇がない。初対面という感覚も、薄れていた。
「いつもミツキがお世話になっています。一度ご挨拶をしたいと常々考えていました」
「こちらこそ、ですよ。ミツキさんの晴れ姿、ご覧になりますか?」
「え……ミツキの?」
女性は鞄の中から小型のビデオカメラを取り出し、撮影した動画の一部を再生して、画面をキョウカに向ける。教会神父より祝福を受けるミツキは、年相応の幼さと共に、女性としての美麗さを纏っていた。自然と視線が釘付けになった。
「今日だけではありません。エリカはミツキさんと一緒にいることが多いので、動画や写真は沢山残してあります。ずっと貴女にお見せしたいと思っていました」
「わ、私に、ですか?」
父方の祖父である北都セイジュウロウは勿論、日々多忙の限りを尽くすキョウカも、多岐に渡る業務を担う。その全てを熟す上で、優先順位を誤るわけにはいかない。ミツキの身辺の世話を任されている一人として全うしたくとも、叶わない場面も多い。
今日も駄目だった。間に合わなかった。手が届かなかったと諦めた筈の一枚が今、女性の手の中にあった。
「ミツキさんと何度かお話をしたことがあるんです。彼女にとって、貴女がどういった存在なのかも。私は理解をしているつもりですよ、雪村キョウカさん」
「そ、そんな。私はただの、使用人で―――」
言いかけたところで、キョウカは口を噤んだ。女性の目が、全てを物語っていた。それはミツキが抱いている想いへの、裏切りだと。キョウカは観念した様子でぎこちない笑みを浮かべた後、女性の勧めでお互いの連絡先を交換し合った。
「動画や画像のデータを、今度送って差し上げます。受け取って頂けますね」
「ありがとうございます。本当に、何とお礼を言えばいいか」
「気になさらないで下さい。あ、来ましたよ」
すると正面玄関の方から、二人の少女がキョウカらの下に向かって歩いて来る。
節目を迎えた卒業生は、誰もが感極まっていた。エリカは取り澄ました表情の裏に、こんこんと湧き出る筆舌に尽くし難い愛情と感謝を。ミツキは先ずキョウカの姿に驚きを見せてから、屈託の無い眩さを以って、キョウカを照らした。不覚にも胸が詰まりそうになり、声が震えて言葉にならない。
「バイバイ、エリカさん。中等部でも、また同じ組になるといいね」
「望むところですわ。今度は私がクラス委員長を務める番ですわよ」
やがて母娘がその場を去り、キョウカとミツキが向かい合う。ミツキはキョウカの足に縋るように寄り添い、彼女の左手を握った。キョウカもそっと握り返し、二人だけの時間と世界を共有する。
「申し訳ありません、お嬢様。こんな時間になってしまい……また、寂しい思いをさせてしまいました」
「ううん。お姉ちゃんが来てくれただけでも、私は嬉しいから。謝らないで」
幾度となく繰り返されてきたやり取りの後、二人は手を取り合いながら歩き始める。しかしそれも、今日まで。
複数の意味合いで、ミツキは変わる。卒業ミサを境にして、変わる。ミツキを取り巻く環境、キョウカの立ち位置、お互いの距離感。変わりたいと願い、進言をしたのは、ミツキ自身だった。
「お姉ちゃん。今日からっていう、約束だったよね」
「お嬢様……本当に、宜しいのですか」
「いいの。私は私だもん。お祖父ちゃんの力になりたいの」
人は歳を重ねるに連れて、幼少期の己を忘れ、子供の内面を見失う。子供は子供なりに、様々な感情を巡らせて考える生き物だ。大人が何を望み、期待しているのかを察して、身の振る舞い方を決める。しっかりとした思考回路を持っている。理不尽に気付くことができる。我を抑える術を、自分を知っているのだ。
ミツキも理解していた。北都セイジュウロウの孫娘、今は亡き長男夫婦の一人娘としての自分を知っていた。その為に積んできた教養があり、知識がある。幼さを言い訳にできる時間は少ない。だからミツキは周囲に先んじて、甘えてばかりの己の殻を破る、脱却の決意を固めていた。
「キョウカさん。お祖父様にも直接お会いして、ご挨拶をしておきたいです。お祖父様にも話は通してありますから、車を回して頂けますか」
「畏まりました。昼食はどうなさいますか?」
「軽めの物をお願いします。余り喉を通りそうにありません」
「……お嬢様」
「はい?あっ」
言葉は不要だった。正門から外へ出る一歩手前で、キョウカはミツキを抱いた。そっと頭を撫でながら、五年前の誓いを脳裏で反芻する。
―――私の全てを、彼女に捧げたい。
誰かの幸せが、己の幸せに直結する幸せ。胸に刻み、キョウカはミツキと共に歩き出す。
今日この日を境に、キョウカはミツキの姉代わりではなく、彼女の専属秘書に。ミツキは北都グループの北都ミツキとして生きていく。お互いに一定の距離を保ちながら、二人は女学園の敷地側から正門を潜っていた。
__________________________________________
東亰震災が発生してから半年後。日本政府が策定した五カ年計画は、既に全体の九十五パーセントが終了している。様々なインフラが震災前よりも強化され、懸念されていた仮設暮らしの長期化も無い。被災者の受け皿となる災害公営住宅は滞りなく整備されて、震災からちょうど五年目となる今月に入り、仮設住宅は都内から姿を消した。
だが震災以前と比べれば、東亰都内で生活する都民の数は激減した。五年が経過する今も尚、二割以上の元都民が避難先での生活を余儀なくされている。3月15日が多くの人間の生活拠点を変え、人生を捻じ曲げた事実は否めない。
「ふうん。駅も随分と様変わりしたのね」
ユキノもある意味で、震災により人生の岐路に立たされた人間の一人だった。しかしユキノは己の意志で東亰を離れ、近畿地方の某私立大学が定める美術系学科へと進んだ。掲げた夢と改めて向き合い、実現する為に必要だと考えての進学だった。
「……ただいま、レイカ」
四年間の課程を終えた今、ユキノは再び東亰の地に降り立った。かつて柊レイカがそうしたように、ユキノは杜宮駅前の広場から、賑やかな街並みを見下ろしていた。
__________________________________________
震災以降、レンガ小路には売却済みの物件がある。一等地と呼べる立地にあった個人経営の雑貨店は、震災被害による影響で売りに出され、居抜き店舗と化していた。何者かに譲渡済みという噂はあれど、新店として開業する気配が無い。人々の関心が薄れ、無人の店舗が風景の一部となった頃になって、漸く大掛かりな改装工事が着工された。
「うんうん。中々順調じゃない」
ユキノは満足げに頷きながら、竣工を間近に控えるアンティークショップ『ルクルト』の看板を見詰めていた。開店予定日は来月の4月1日。開業に必要となるポスターやチラシ、webサイト等は全てが自前。大学在籍時より練り続けていた構想、夢が、もう手の届く場所にある。じんわりと、胸の奥が滲んだ。
―――骨董や古美術品が好きなのよ。行く行くは独立して、個店を開業する。それが夢だった。
一人ではない。二人の夢だった。単に亡き者の背中を追い求めた訳でも、勿論ない。同じ世界に身を置いて、視線を共有したかった。その果てにユキノは、柊レイカが想い描いていた道を選んだ。契機に過ぎない一方で、揺らぎようのない意思があった。
「すっごいねー。まるで外国のお店みたい」
「シオリは外国に行ったことないだろ……」
「コウちゃんだってそうでしょ。私は本で見たことがあるもん」
ユキノが瞼を閉じて回想をしていると、背後から複数の声が上がる。十代前半と思しき少女は、俄然興味深そうに目を輝かせてルクルトの外装を見詰め、対する少年はぶっきら棒な声を漏らしていた。ユキノは二人へ振り返り、髪を耳にかけ直す仕草をしながら、少女に聞いた。
「どうも、こんにちは。貴女は近所に住んでいる子?」
「こんにちはっ。私とコウちゃんは、東にある住宅街から来ました。隣同士なんです」
「そう。このルクルトは来月から開くのよ。だからもう少しだけ、待って貰えるかしら」
「お姉さんは、このお店を知っているんですか?」
「ええ、勿論。私のお店だもの」
「わあ、すごいすごい!」
少女が声を弾ませる一方で、ユキノの関心は既に少女ではなく、少年に向いていた。ユキノはつまらなそうな面持ちの少年の前に屈み、顔を近寄せた。少年は思わず一歩退き、戸惑いの声を上げる。
「少年、私の目を見て」
「な、何だよ。近い、近いって」
「いいから少しじっとしていなさい」
両手で頭部を固定し、半ば強引に視線を重ねる。瞳の更に奥を見据えて、少年の内側を覗き込む。
ユキノは少年の魂を垣間見た。表情や態度とは裏腹に、爛々と力強く燃え盛る焔の色。惚れ惚れとして見入ってしまいそうになるのを堪えて、立ち上がる。この場限りの一期一会とするには余りに惜しく、ユキノは少年の肩に手を置いて言った。
「ねえ少年。小遣い稼ぎをしたくなったら、私の店に来なさい。喜んで迎え入れてあげるわよ」
「お小遣いって……それって、アルバイトってやつか?子供には無理だよ」
「今、何歳?」
「十一歳。来月から六年生」
「ならあっという間じゃない。私の言葉、忘れないでね」
やがて少年らはルクルトの周囲をぐるりと歩き回り、ユキノに挨拶をしてその場を去って行く。ユキノは右手を小さく振って見送り、二つの背中を見詰めていた。
「もう、コウちゃんったら。六年生になるんだから、ちゃんと敬語を使わなきゃ駄目だよ」
「だって驚くだろ、あんなことされたら。苦手だな、あの人」
「そうかなぁ。すごく綺麗な人だと思ったけど」
「ばーか。中身の話だよ、中身の」
聞こえてるわよ、の一言を飲み込んでいると、少年らと擦れ違う形で、反対方向からゆっくりと歩を進める初老の男性が目に留まる。ユキノは男性の顔に浮かぶ線の数と頭髪を見て、あっという間に過ぎ去った四年間の歳月を実感する。皺と白髪が増えていた。変わったのは。杜宮の街並みだけではなかった。
「お久し振りですね、ユキノ君。四年振りになりますか?」
「ええ、高校を出て以降ですから」
そして、変わらない物もある。二人は少女との再会を待ち望んでいた。
__________________________________________
ヤマオカは今朝方に借りたレンタカーの助手席にユキノを乗せて、東亰都世田谷区の南部を目指して車を走らせた。玉川インターチェンジを起点とする第三京浜道路に入ると、すぐに県境を越えて神那川県の川崎市に。
カーナビが示す目的地は、神那川県の東南端に位置する三浦半島。四年前から柊アスカと彼女の祖父母が暮らす地は、杜宮市から九十キロメートル程離れた海岸沿いにあるのだ。
「来週から春休みに入ると聞いています。変わらずに元気でやっているそうですよ」
「4月から六年生、か。あの少年と同い年なのね」
「少年?」
「いえ、こちらの話です」
ユキノは首に吊るしていた紐状のグラスホルダーに手を伸ばし、ブランド物のサングラスを着け、無機質な道の先を見やる。第三京浜道路は国内初の六車線有料道路であり、車の流れは今日も良好に保たれている。雲一つ見当たらない快晴に照らされた片側三車線は、運転に縁が無い人間にとって爽快感があった。
「それにしても、随分と雰囲気が変わりましたな」
「同感です。五年も経てば、変わるものですね」
「ユキノ君、私は貴女の話をしているのですよ」
「は?」
ヤマオカが微笑むと、手入れが行き届いた口髭が僅かに揺れる。
「お美しいの一言に尽きます。私のような老いぼれには、それ以外の形容が思い付きません」
「あらあら。この場合、私はどう返せばいいのかしら?」
「お上手ですね、とでも言って頂ければ幸いです」
続いてユキノがサングラスを外して、艶やかな笑みを浮かべた。
ユキノ自身、客観的な視点から自覚をしていた。猫のような小顔は品が良く、緩いウェーブの長髪が華やかさと女性らしさを感じさせる。シンプルな白のカットソーとベージュ色のフィッシュテールスカートは独特の瀟洒さを演出し、モデルのように長い手足を強調する。優艶妖美。四年前にはあった幼さは皆無で、二十二歳にはとても映らない。
「貴女のような女性を隣に乗せていると、年甲斐も無く胸が弾みます。まるで―――」
まるであの、柊レイカのよう。口に出すよりも前に、ヤマオカは口を噤んだ。判断が付かなかったからだ。首を傾げて覗き込んでくるユキノに気付かない振りをして、ヤマオカはコホンと咳払いをする。ユキノは再度正面を向き、戯笑をして言った。
「私も学んだんです。商談や取引を進める上で、色香は何よりの術になり得る」
「成程。既にルクルトは、その戦利品で溢れ返っているという訳ですか」
「今度、壱七珈琲店の雰囲気に合う物を選んで差し上げます。是非ご検討を」
「それは有難い……話は変わりますが、ルクルトについて、大学のご友人には何と?」
「伝手を当たって、下働きとして採用されたと話してあります。卒業と同時に開業するだなんて、流石に大っぴらには言えませんから」
無理もない、とヤマオカは返す。
ユキノは大学在籍時、一介の女子大生として振る舞い、事実周囲と同じ目線に立ち、同じ環境に身を置いて生活していた。学生らしく学業やアルバイトに励み、時に羽目を外して戯れに興じつつ、慎ましい日々を過ごしてきた。そんなユキノの夢は、遠い将来に個人店を開業することだと、友人らはユキノ本人から聞かされていた。
だがユキノには、巨額の富があった。幼少時より異界化に触れ続けてきたことで、膨大な異界物質を溜め込んでいた。東亰震災を境目に換金相場は高騰し、ジェムひとつ取り上げてもポンド当たり一万ドル。卒業と同時に開業が叶った背景には、異界という裏の世界が存在していた。
「今ではスッカラカンです。これからはルクルトの店主として、真っ当に生きていくつもりです」
「それがいい。貴女ならきっと、沢山の幸せを掴み取れる筈です」
「……どうも」
ユキノは素っ気無く呟き、右の掌を見詰める。
タロットカードを媒介とした符術。代々家系で継いできた、異端の力。女児一人しか孕めない縛り。全てを無かったことにして生きていくのは容易い。生き方は、己の意志に委ねられる。決断に迫られない安寧と静穏の日々の果てに、ユキノは未だ決め倦ねていた。私は本当に、こちら側の世界で、生きていいのだろうか。
_________________________________________
保土ヶ谷インターチェンジから有料道路横浜新道を南下して、一般道に降りてから更に南へ。三浦海岸沿いの大通りに出ると、僅かなウィンドウの隙間から潮の香りが鼻孔を突いてくる。初春を控える季節に海岸を歩く観光客は疎らな一方で、夏が待ち遠しいという先走った感覚を抱かせた。
「この辺りは磯遊びで有名な観光地だそうです。景色もいい。夏に来てみたいですな」
「また連れてきてくれますか?」
「もっとお若い男性にお声掛けを。年寄りと一緒では面白くないでしょう」
「あら、マスターは充分素敵ですよ。ちなみにお幾つで?」
「今年で六十になります。さて、目的地はそろそろですよ」
カーナビに従って海岸を離れ、複雑に入り組んだ細道を走る。内陸部に入ると、風景は一変した。見渡す限りの畑とあぜ道。周囲を走る車は見当たらなかった。
「これは……大根、かしら」
「ちょうど収穫時のようですね。しかし、見事な一枚です。さぞや空気も美味しいでしょう」
「ええ。心が洗われる気分だわ。アスカはこんな土地で暮らしていたのね」
三浦半島は神那川県内でも屈指の農業地域。温暖な気候は農作物の栽培に適し、眼前では大根の葉が黄緑色の巨大な絨毯を形成していた。雪を被った富士山が見下ろす様は情緒に溢れている。柊一家が暮らす真新しい一軒家は、広大な畑に挟まれた道路の道沿い。黄緑色のど真ん中にあった。
「結社なりの気遣いかしら。庭も広いし、至れり尽くせりね」
「まるで駐車場ですな。ユキノ君、ご連絡をお願いします」
ユキノは手渡されたヤマオカのサイフォンを使い、柊家の固定電話を鳴らした。応じたのはアスカの祖父だった。駐車場所を問うと、案の定空いているスペースへ適当に停めて構わないと返って来る。約二時間振りに土を踏んだ二人は、澄み切った空気で肺を満たし始める。
「本当に素敵な所。でも、地脈が荒いわね。欠点過ぎる欠点だわ」
「やはりそうでしたか……気のせいであって欲しかったのですが」
「同感です」
車を降りた瞬間、二人は肌で感じ取っていた。遥か地下深くを流れる霊子の流れが、荒々しい。こういった土地では、得てして異界化が生じ易い。突然安定することもあれば、前触れ無く流れが乱れるケースもある。詳細な原理や根本要因は明らかではないものの、統計的に正しいとされる裏の常識だった。
やがて作業着姿の老夫婦が、ユキノとヤマオカを出迎えた。近所にある畑の一画を借りており、昼時となった今は、夫婦二人で昼食の用意をしていたのだと言う。ユキノがアスカの居場所を尋ねると、祖母が答える。
「このあぜ道を進んだ先に、小さな公園があるんです。アスカはそこで遊んでいると思います」
「なら私が呼んで来ます」
「え?いえいえ、あの子には携帯電話を持たせていますから、今連絡を―――」
「いいんです。行かせて下さい」
ユキノは足早にあぜ道を歩き始める。視界には祖母が言った公園は映らない。徒歩では時間が掛かりそうだと感じ、それでもユキノは脇目も振らず、足を動かし続けた。
(アスカ―――)
もう覚えていないかもしれない。ユキノの名を忘れているのかもしれない。だから何だ、と胸中で吐き捨てる。聞いてみたいことは山ほどあった。何でも構わないから、声が聞きたい。一目見るだけでいい。生き別れの妹を想う姉のように、ユキノはハイヒールに泥を付けながら歩いた。
刹那。背筋に、悪寒が走る。
「え……」
異界化。一気に固有の感覚が研ぎ澄まされる。視界がぐらぐらと揺れて、理解が追い付かない。しかし距離から考えるに、最悪の可能性が脳裏を過ぎる。
「あ、アスカ!?」
叫び声を上げると同時に、ユキノは駆け出した。無我夢中で走った。道中に躓いて転倒しそうになり、ユキノはハイヒールを脱いだ。足の裏で小石と泥を背後に飛ばしながら、両腕を振って走る。既に右手には、肌身離さず携帯していたタロットカードがあった。
「はぁ、はぁっ」
次第に道幅が広がり、あぜ道がコンクリートの路面に変わる。その道沿いに、小さな広場があった。古びたブランコしか見当たらない園内には、誰の姿も無い。在ったのは、フェイズ1を示す色を帯びたゲート。両開きの門を模した別世界との境目。弱々しく光るブランコが、特異点となっていた。
「アスカ、アスカ!何処にいるの、アスっ……!?」
突然、ゲートが揺らいだ。テレビ映像にノイズが混じるようにゲートが乱れた後、園内が一際強い輝きで照らされる。思わず右腕で遮ると、次第に光が収まっていく。ユキノは目を細めて前方を見やる。
アスカが立っていた。厚手のパーカーと可愛らしいスカート姿の、柊アスカだった。
「アス、カ?」
アスカの手には、サイフォンが握られていた。アスカはふうと一息を置いてから、右手のサイフォンをパーカーのポケットへ。続いて左手の一台を、慣れた手付きでホルダーに収める。左足に着けられたホルダーは、五年前にユキノが見繕い、アスカに贈ったベルトホルダーだった。
ユキノは恐る恐る、一歩ずつアスカに歩み寄って行く。先に口を開いたのは、アスカだった。
「お姉ちゃん、誰?」
失意は無い。覚悟をしていたからだ。ユキノはハッとした表情で歩調を早め、アスカの眼前で屈み、問い質す。
「あ、アスカ。貴女は今、何処から……今、何をしていたの?」
「えーと。お姉ちゃん、異界化を知ってる?」
「ええ、知ってるわ。だから答えて」
ユキノが頷くと、アスカは背後の一点を指差す。フェイズ0を示す揺らぎ。危険が去った一方で、現実世界との接点が保たれた状態。
「この辺りは地脈が不安定で、よくフェイズ1に戻っちゃうの。だからその時は、私が異界化を収束させてるんだよ。それにこの公園以外でも、たまに異界化が起きるの」
「ま、待ちなさい。アスカ、何を言って」
「だって、そう書いてあるから。ほら」
アスカはホルダーからサイフォンを取り出し、人差し指を数回スライドさせて、画面をユキノに向ける。ユキノがアスカに託した二つのうち、父親のアスマが所持していたサイフォンだった。異界用のアプリを起動した画面上には、フェイズ0の何たるかを論じる文面があった。再度アスカが操作をすると、地脈の揺らぎと異界化頻度の関連性。その全てが、英語だった。
「これを、読めるの?」
「うん。日本語に訳して、全部覚えちゃったもん」
「じゃあ、どうやって……どうやって今、異界化を収めたって言うの?」
「お母さん」
「え?」
「エクセリオンハーツ。お母さんの剣だよ。術式もいくつか使えるよ」
アスカはぽんぽんと、レイカのサイフォンが入った上着のポケットを叩く。ユキノはすぐさまアスカの内側を覗き込んだ。レンガ小路で少年の魂に触れたように、アスカの瞳を見詰めた。
純粋な蒼があった。凛とした蒼色の焔は冷厳に燃え揺らいで、ユキノの目を捕えて離さない。身体が震え、声も震えてしまう。
「そ、そんな。じゃあアスカは、ずっと……ずっと、レイカの、剣で」
「レイカ?お母さんを、知ってるの?」
ユキノがレイカの名を口にするやいなや、アスカの雰囲気が豹変する。屹然とした表情で、アスカはユキノに向き合った。
「私、お母さんになりたい」
「アスカ……」
「お母さんの剣で、お父さんと一緒に戦いたい。お姉ちゃん、教えて。ねえ、教えてよ」
アスカの両手で肩を揺らされながら、ユキノの思考も揺れ動いていた。どうやって英語を。何故術式が使える。どうしてエクセリオンハーツが。アスカの身に、一体何が起きた。
何もかもが理解に及ばない中で、ユキノは己に問う。ただの一点だけを、問い質す。
(私は―――)
何故あの時、サイフォンをアスカに託したのか。
何故専用の充電機器を預けたのか。
私は何を望んでいたのか。
私は、正しかったのだろうか。
アスカを胸に抱きながら、ユキノは何度も何度も繰り返す。再会は、ひとつの始まりを告げようとしていた。