3月20日の昼下がりに、ユキノとヤマオカは三浦半島で一泊をする意向を示し合った。言うまでもなく、元々は日帰りの筈だった。しかしユキノもヤマオカも、まるで予想だにしない現実を受け止め切れずにいた。何の覚悟も無く、待ち侘びていた再会にしか気が向いていなかった二人には、時間が必要だった。
夏季の繁忙期はともかく、3月中旬のこの時期は観光客も僅かで、宿泊先はすぐに見付かった。ところがアスカの祖父母に宿泊の旨を伝えると、祖父母は柊家で一晩を過ごしてはどうかと勧めた。田舎暮らしの老夫婦らしい突飛な提案に対し、ユキノとヤマオカはどうしたものかと躊躇いつつも、結局は誘いに応じた。アスカの五年間を知るには、好都合だった。
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東部の海岸沿いにあるコンビニエンスストアは、観光シーズンを迎えれば浮き輪やビニールシートといったレジャー用品が陳列され、店内は季節感で溢れる。閑散期である今現在の利用客はほとんどが近隣住民で、夏めいた雰囲気は感じられない。専用駐車場には、ヤマオカのレンタカーだけが停まっていた。
「ありがとうございました。またご利用下さいませ」
ユキノが会計を済ませ、商品が入った袋を手に店外へ出る。ヤマオカとアスカは一足先に表に出ていて、ユキノに気付いたヤマオカが電子キーでレンタカーのロックを開錠する。支店に連絡は入れてあり、レンタル期間は明日までに延長されていた。
「一通り揃いましたか?」
「ええ、一応は」
当初は日帰りのつもりだったユキノとヤマオカは、当然宿泊に要りようの物品を何一つ用意していなかった。そこで二人は一旦柊家を後にして、先ず北部にある駅界隈のホームセンターへと向かった。続いて海岸沿いの通りにあったコンビニエンスストアを訪ね、取り急ぎの買い物を終えたのが今。買い出しにはアスカも同行していた。
「あの子達は、アスカと同じ小学校の子かしら」
視線の先には、コンビニの軒先に座る少年らが複数人。全員が携帯型ゲーム機の操作に夢中で、ユキノの視線にも気付いていない。
「そうだと思う。四年生か五年生かな。何度か小学校で見たことがある」
「小学校はどの辺りにあるの?」
「もっと北。車で行けばすぐだよ」
アスカの記憶から、ユキノとヤマオカは消えていた。五年前の災害と死別は認識している一方で、アスカにとって二人は見知らぬ他人も同然。亡き両親の友人だと聞かされていたアスカは、特に人見知りをする様子も見せずに振る舞っている。ユキノの取り留めのない問いにも、朗らかな声で受け答えをしていた。
「夕食までまだ時間があるわね。マスター、もう戻りますか?」
現時刻は午後の17時過ぎ。18時には柊家に戻り、盛大に振る舞われるであろう夕食に舌鼓を打つ。荷物を整理する時間を考慮しても、まだ幾何かの余裕がある。
「そうですね……近くを散歩でもしましょうか。夕暮れ時の海浜を歩くのも、一興でしょう」
「フフ、賛成です」
ユキノがアスカの前に立ち、身を屈めて視線を合わせる。アスカの手には、ヤマオカが購入したペットボトル飲料が握られていた。
「アスカは、この辺の道を知っているのよね」
「知ってるよ。夏になるといっぱい人が来るの」
「そう。なら、私達を案内して貰えるかしら」
ユキノの提案に、アスカは首を縦に振って応える。ヤマオカが一旦店内に戻り、少々の時間なら駐車したままでも構わないという店側の許可を得てから、三人が横並びになって歩き出す。まだ日は暮れていないものの、空は夕暮れ色に染まりかけていた。
「今は少ないけど、夏はこの辺りに車が沢山停まるんだよ」
「有料駐車場ね。想像が付くわ」
三浦半島東部の海岸には、二車線の国道沿いに縦長の有料駐車場が設置されており、歩道は更に海浜側にある。歩道に立つと、風が運んでくる潮の香りで肺が充たされ、視界一杯の砂浜が広がる。晴天時の対岸には、千葉県の南房総半島も薄らと映る。変化に富んだ海岸線を散策するだけでも充分に楽しめる、観光地の一つが眼前にあった。
アスカは小走りで海浜に駆け下り、立ち止まると、真っ直ぐに海を見詰め始める。その背中を、ユキノとヤマオカが見守っていた。
「何だか不思議な気分です。家族三人で旅行に来たような感覚があります」
「ふむ。それは貴女が美魔女という設定ですかな」
「祖父と二人の孫娘のつもりで言ったのですが……」
「好意的に受け取って下さい。貴女はそれ程大人びている、ということです」
雑談を交わしながらも、お互いの胸中は穏やかではない。ユキノは歩道と海浜を隔てる小堤防に肘を付いて、携帯していたサイフォンを取り出す。
五年前に公表、市場に出回り始めたサイフォンは、従来のスマートデヴァイスとは一線を画した多機能端末として、多くのユーザーから熱狂的な支持を受けるに至っている。アスカが手にしていた『サイフォン4S』も、今年になって発表された最新モデルであり、他ユーザーからすれば大して珍しくもない。
しかしアスカは『五年前』のあの日から人知れず、肌身離さず今日まで二台のサイフォンを使い続けている。その事実を知る人間は、この場に居る三人のみ。
「どうしてあの時、アスカにサイフォンを渡したのか。何故マスターから充電機器を取り寄せて、あの子に託したのか。今となっては、もう分かりません」
「ユキノ君……」
公園に降り立ったアスカの姿が、自然と思い出される。アスカにとっては両親の遺品であり、二人が己の身を挺して護り抜き、戦い抜いた証でもあるサイフォン。通話機能やwebは使えず、物を知らない少女にとっては何の用途も成さない。アスカに託したという行為にも、明確な意図は無かった。
ともあれ、ただ一つの事実だけは変わらない。今年で十二歳を迎えるばかりの少女が、単身で異界化を収束させた。サーチアプリを使い、ゲートを顕現させ、迷宮に繋がる扉を閉ざした。未だ理解し切れていない数々を別としても、既にアスカは裏の世界に染まっている。母親のように戦いたいと、アスカは淀みなく言い切ったのだ。
「こんなことになるなんて、思ってもいませんでした。私は…………間違っていたのかしら」
声が尻すぼみになり、遠方から届く波の音に溶け込んでいく。するとヤマオカはユキノの真横に立ち、彼女と同じ色を浮かべながら語り出す。
「私も貴女と同じですよ。レイカ君とアスマ君が残したあのサイフォンは、本来結社側が回収する筈だった物なのです。ユキノ君も、おかしいとは思わなかったのですか」
「……じゃあ、マスターが?」
「はい。元職場の伝手を頼って、偽りの報告を入れました。二人のサイフォンは、3月15日に大破してしまい回収不可能だったと」
「私も同罪ですよ」と、ヤマオカは付け足した。
結社において異界と深い関わりを持つ者は、不慮が生じた際に結社側から迅速な対応が為される。表沙汰にしてはならないデータや物品は回収され、誰の目にも触れずに全てが『無かった』と置き換わる。レイカとアスマのサイフォンはその最たる一例だったのだが、ヤマオカの工作によりサイフォンはアスカの手に渡った、という裏の経緯があった。
「同罪、ですか」
ヤマオカは敢えて『罪』という表現を用いた。予期のしようがない成り行きと言えど、現実は変わらない。五年前が正しかったのか、それとも間違っていたのか。事の是非も、当人以外には定めようがない。全ては今、少女の意志に委ねられる。ユキノはサイフォンをスプリングコートのポケットに入れて、真っ直ぐに前を見据えた。
「マスター。アスカのこと、気付いていますか」
「勿論です。少々複雑ではありますが、ね」
小さな階段を下ってアスカと同じ海浜に立ち、アスカの背後に歩み寄る。ユキノに気付いたアスカは振り返り、神妙な面持ちのユキノとは対照的に、子供らしい首を傾げる仕草を見せる。
「ねえアスカ。少し話をしましょうか」
「話って、何?」
「猫を被るのも疲れるでしょう。『本当の貴女』と話したいと言っているのよ」
途端に、アスカの表情が変わった。年相応の幼さやあどけなさが、潮風と共に消え去る。代わりに浮かんだのは、余りにも似つかわしくない色。密度が濃く、他者を拒絶してしまいそうな危うい雰囲気を、外套のように身に纏う。アスカは静かに口を開いた。
「私からも改めて、お聞きしたいことがあります。貴女達は私を知っているようですが、以前にもお会いしたことがあるのですか?」
何もかもが変貌していた。肉親にさえ見せたことのない、もう一人の柊アスカが立っていた。裏の世界に触れたアスカ自身も、二人を使い分けることで、表と裏を両立させていた。
「覚えていなくても無理はないわ。でも今重要なのは、私達じゃない。貴女が歩んできた五年間にある。聞かせて貰えるかしら」
「……今の質問以外にも、聞きたいことが沢山あります」
「いいわ、答えてあげる。貴女が洗いざらい話した後にね」
後方では、先程までゲームに没頭していた少年らが無邪気に笑いながら、自転車に乗ってコンビニを離れていく。埋めようのない距離の間に、ユキノは立っていた。
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五年前の3月15日から、私を取り巻く世界が変わった。同じ景色が、まるで異なる色に映った。
自分が普通ではないことに気付いたのは、小学校に入って間もない頃だった。神那川という新天地での学校生活は、相応に謳歌することができた。授業で新たな知識を身に付け、校庭を無邪気に走り回り、オルガンに合わせて歌い、祖父母が暮らす家に帰る。変化は緩やかで、似たり寄ったりの毎日が続いていく。
実に小学一年生らしい生き方だと思えた。そんな風に己を客観視する子供は、自分一人だけだった。それだけでも、自分が異質なのだと思い知らされた。何が自分を変えたのかと考えて、思い当たるのはあの日。3月15日だけだった。
「お祖父ちゃん。『異界』って知ってる?」
「イカイ?猪飼のことかい?」
「ううん、そうじゃなくって……」
両親の死に様と3月15日の出来事は、鮮明に記憶していた。地獄の底から這い上がり、私の全てを奪い去っていった無数の悪魔達。両親のみならず、多くの人間が殺された。まだ幼かった私でも、現実離れをした現実を辛うじて受け止めていた。
けれど、誰一人として覚えていなかった。両親と『誰か』が口にしていた聞き慣れない単語を、誰も知らなかった。テレビ番組や新聞では、震災被害の爪痕や復興状況だけが連日報道される。やはり自分はおかしいのだと、気付かされる日々。
「アスカちゃん、何を見ているの?」
「……あれ、見えないの?」
「あれって……え、どれのこと?」
ある日の公園に、『揺らぎ』があった。白くもやもやとしていて、神々しくもあり禍々しい何か。すぐに異界の二文字が連想された。肌で感じ取っていた。しかし私以外の目には映らず、誰も答えてはくれない。
手掛かりらしい手掛かりは、二つの『サイフォン』。震災直後の記憶だけはおぼろげで、誰が私に預けてくれたのかすら分からなかった携帯端末は、家を留守にしてばかりだった両親が残してくれた、数少ない遺品だった。それだけは理解していたし、二人がサイフォンを駆使して不思議な術を使っていた記憶もある。外国語しか表示されない画面上に必ず鍵があると信じて、私は一つの決意を固めた。
「私、英語を勉強したい。英語を読めて、話せるようになりたい」
私を溺愛していた祖父母は、快く私の意思を汲んでくれた。電子辞書や教材を買い込み、幼児向けの英会話スクールに通わせてくれた。
頭痛に悩まされる日々が始まった。米国人のクォーターと言えど、英語に触れたことはなかった。祖父母が寝静まった頃合を見計らって学び、授業中に隠れて学び、寝る間を惜しんで英語に没頭した。自分が異質だというどうしようもない現実は、最早取るに足らない些細なことだった。
「これは、ライトノベルか何かかい?」
「はい。作者が米国人なんです。でもここの表現が、よく分からなくって」
「驚いたな……君はこんな物を読んでいるのか」
理解に届かない部分は、英会話スクールの講師を頼った。初めは単語を別のそれに入れ替えたりと、最新の注意を払っていた。しかし英語で綴られたライトノベルという建前は功を奏し、小細工を弄しなくとも不審に思われることはなかった。そんな日々が、二年間続いた。
次第に英語力も向上し、私はサイフォンのアプリを理解していた。異界の何たるかを知り、両親が背負っていた数々を知り、結社の存在を知った。ソウルデヴァイスや術式を知った。そしてお母さんのエクセリオンハーツと、適格者という稀有な才を持つ自分も。そう考えれば、全ての辻褄が合ったからだ。
「ゲート、顕現」
三年生に上がった初春、私は初めて異界に触れた。フェイズ0を維持していた公園の揺らぎは、フェイズ1へと変貌を遂げていた。私は両親のサイフォンを手に、顕現させたゲートを潜り、異界に踏み入った。
エクセリオンハーツの使い方も、自然と理解できていた。身体能力の向上値は予想を遥かに上回り、私は風を切って異界を駆け抜け、グリードを斬った。脅威らしい脅威は見当たらなかった。両親が対峙したグリムグリードやエルダーグリードに比べれば、恐怖感すら抱けない。多少の手負いは、術式を使えばすぐに癒えた。
「今日は随分と遅かったのね、アスカ」
「スクールが長引いちゃったの。心配掛けてごめんなさい」
英語の学習を続けながら、時折発生する異界化を治める日々が始まった。三浦半島は地脈の流れが不安定な影響で、異界化の頻度が高い傾向にあった。月に一件あるかないか程度の件数は、安定した地と比べて数倍から十数倍。私はその全てを治めて回った。場合によっては祖父母を術式で寝かせ、周囲の人間の記憶を上書きして、深夜帯に行動する場面もあった。
あの頃から、私は生き甲斐を覚えていた。自分が特別だという傲りは無く、他者を見下していた訳ではなかったけれど、充実していた。お母さんのエクセリオンハーツを振るい、お父さんのサイフォンを使う瞬間が堪らなく愛おしくて、私はいつだって笑っていた。
(私は―――)
『普通』の仮面を被るという選択肢も、残されてはいた。学校の成績は勿論、英語力は年齢に関係無くスクール内でも秀でていたし、その気になれば小学生という枠組みを超えて、神童と持て囃される。私を引き取り育ててくれた祖父母への、恩返しにもなる。
でも私は選びたかった。適格者の才を継ぎ、エクセリオンハーツとサイフォンを継いだあの日から、私の生き方は決まっていた。私にしかできない、何よりも胸を張って生きていける唯一の道。たとえ誰かを踏みにじり、蹴落としてでも歩みたかった。
「お母さん、お父さん」
だから待ち続けた。私を見い出してくれる存在を、ずっと待ち望んでいた。その瞬間は、唐突に舞い降りた。私はもう迷わない。迷ってなんか、いられない。
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収穫を間近に控えた大根畑に挟まれた路上を、ヤマオカが運転するレンタカーが走り抜ける。あと五分もすれば柊家に到着し、何も知らない老夫婦が出迎えてくれる。
「……成程ね」
助手席は空で、アスカとユキノはお互いに若干の距離を取って後部座席に座っていた。語り終えたアスカは無表情で、流れ行く薄暗い風景を眺めている。ユキノは前方を向いたまま、アスカに言った。
「それで、私達に聞きたいことって?」
「言わずとも分かるでしょう。私は今まで、異界を知る人間と会ったことがありませんでした。貴女達お二人が初めてです」
ヤマオカの眉が僅かに動くと同時にハンドルが切られ、車が柊家の敷地内に停まる。案の定アスカの祖父母は玄関先に出ていて、車を降りたアスカが小走りで駆け寄って行く。
「おかえり、アスカ。楽しかった?」
「うん。みんなで海辺を散歩してきたの」
屈託の無い笑みからは、何の邪念や裏も感じられない。それが却って心苦しく、ユキノの胸が締め付けられる。先程まであった筈の余裕が消え、頼りなさげなユキノの肩に、ヤマオカの手が置かれた。
「ユキノ君。貴女が背負うべきではありません。それは彼女の物です」
「レイカ……レイカなら、どうすると思いますか」
「無論、止めるでしょうな。想像に難くない」
あり得ない前提は、何の用も成さない。選び取るのはアスカであり、二人は導くことしかできない。下すべきは、死と隣り合わせの世界に、愛する我が子を送り届けるに等しい決断。
「応えてあげましょう。都内の研究施設に、適格者としての素質を見極める設備があります。私はアスカ君を、そこへ連れて行く所存です」
「……私も行きます。行かせて下さい」
ユキノは大アルカナのタロットカードを取り出し、右手で無造作に一枚を引き、裏返す。魔術師の正位置。未知の世界、無限の可能性、その一歩目。踏み出す意志は、揺るぎなく。
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翌日の3月21日、日曜日。震災から立ち直った東亰都内を見てみたい。珍しいアスカの我がままを聞き入れた祖父母は、ヤマオカとユキノにアスカを預け、今朝方に三人を見送った。向かった先は、大手製薬会社が管理をする研究棟。当然それは表向きの顔であり、実際には適格者や異端者、霊能の力を考究し、デジタル化を図る施設だった。
ヤマオカの専門外の施設ではあったのだが、隠遁した今も尚、偉大な技術者の名の影響力は大きく、一人の少女を調べて欲しいという唐突な申し出も、事前の申請無しに承諾された。ユキノも同行する形で、アスカの身に宿る力の測定が開始されたのが、約二時間前だった。
「アスカ、暇そうですね」
「無理もありません。そろそろ二時間が経ちます」
ユキノとヤマオカが待機をする一室の頭上には複数の液晶パネルがあり、その全てに別角度のアスカが映っている。白色の病衣のような衣服を着たアスカの頭部、腕、胸部は測定機器とケーブルで繋がれており、満足に身動き一つ取れそうにない。
「お待たせしました」
やがて白衣姿の女性が、書類の束を携えて室内に入って来る。女性はデスクチェアーに腰を下ろして、眼鏡の位置を直しながらパネル上のアスカを食い入るように見詰めた。
「ここまで苦労をしたのは初めてです。彼女には拘束術式を使わせて頂きました」
「拘束術式?」
「ご安心を。物騒な術式ではありません」
ユキノが聞き返すと、女性は最新モデルのサイフォンを取り出して説明を始めた。
適格者としての素質の大部分は、個人が宿す霊力の絶対量によって左右される。測定には専用の機器が用いられるのだが、霊力量が一定の基準値を超える場合、測定に支障を来す恐れがある。その際に併せて利用されるのが、外部から霊力を抑える術式。結社内では拘束術式の名で呼ばれている、魔導術式の一つだった。
「拘束術式は霊力を抑えるだけではなく、蓄える術でもあります。ひと度術式を解放すれば、溜め込んだ霊力を力に変えて放つことができる。理論上は可能ですが、使い手は極一部と聞いています」
「成程。柊レイカも、拘束術式を使っていたという訳ね」
「え……彼女を、知っているのですか?」
ユキノの中で、ずっと引っ掛かっていたこと。3月15日の、あの瞬間。レイカとアスマが行使した自己犠牲の術式は、己の身と膨大量の霊力とを引き換えにして、グリムグリードが統べる群れを焼き払った。あの力が長年に渡り蓄積された霊力だったとするなら、合点がいく。
「言っていなかったかしら。アスカはレイカの娘よ」
「あの子が……そうでしたか。言われてみれば、面影がありますね」
「それで、測定結果を聞かせて貰える?」
ユキノが問うと、女性は恍惚な笑みを浮かべた。研究者として、未知の領域に触れた瞬間の高揚と躍動感は、当人にしか理解し得ない。その最大限を噛み締めながら、女性は紙面上に記された数値をペンでとんとんと叩きながら言った。
「信じられません。あの柊レイカにも、二重の拘束術式が必要でしたが……今の彼女には第一、第二、第三拘束術式を発動しています。測定史上、五指に入る才能です」
「……そう」
女性曰く、測定値を左右する要素は複数あれど、先天性が大部分を占める。言わば持って生まれた才。遺伝的性質との関連性は幾度となく議論の的になる一方で、立証するに至ってはいないのだが、柊レイカとの血縁を考えれば、新たな見地を得られる可能性もある。
「執行者候補としては充分過ぎる測定値です。まず間違いなく、前線での実動特化型となり得る素材です」
「……また聞き慣れない単語が飛び出したわね」
「それについては私から説明しましょう。引退した身ではありますが、結社内の動向は私もある程度把握しております」
女性に代わり、ヤマオカが語った。元来執行者には、あらゆる裁量と権限が与えられ、自由判断や行動が認められていた。だからこそレイカはアスマの協力の下で単独行動を始め、その甲斐もあって東亰震災の前兆を察することができた。
しかし組織として見た場合、行き過ぎた自由と個人への依存は逆効果を生む。東亰震災についても、レイカやアスマ個人の見解に過ぎないという引っ掛かりが上層部の判断を遅らせ、後手に回る事態に繋がってしまった。そこで結社は体制の見直しを図り、執行者についても総合的な能力の他に、それぞれが特化した一面を考慮し、組織の一員として扱う方針を固めた。
「それが五年前の再編です。あらゆる局面への対応力と共に各個人の長所を磨き、上層部が配置を決める。要は組織化と適材適所ですな」
「レイカも多忙を極めていましたけど、それはそれで上層部から扱き使われてしまいそう」
「いずれにせよ、話は彼女が執行者の一人として認められてからです」
「……執行者になるには、やはりそれ相応の物が求められるのですか?」
ヤマオカは一度瞼を閉じ、ゆっくりと頭上のパネルに映るアスカを見上げてから答える。
「第一本部、第二本部がある英国と米国に、専用の施設があります。候補者は二年間の訓練期間を経て、正式に執行者の資格と名を与えられる。アスカ君も、例外ではありません」
「二年間……ですか」
「はい。向こうの年度と合わせて、毎年9月に候補者が集められます。アスカ君が渡米するとするなら、早ければ半年後になるでしょう」
「あら、何故米国に?英国にも訓練施設はあるのでしょう?」
「食文化が合いません。ストレスが溜まってしまいます」
「ああ、成程。深刻な問題ですね」
苦笑いを浮かべ、ユキノは一年前の海外旅行を想い起こす。単身で仏国を訪ね、ルーブル美術館、モンサンミッシェルといった観光地を転々とした旅路は、やはり苦労も多かった。十二歳の少女が、米国の見知らぬ地に。既に決意は固くとも、不安だけは拭えない。
「訓練施設はペンシルバニア州のピッツバーグにあります。良い都市ですよ」
ユキノがサイフォンを操作し、ピッツバーグをキーワードに画像検索をする。画面上には、ピッツバーグのダウンタウンを上空から捉えた、見事な一枚が映っていた。
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翌月の2010年4月。満開の桜が咲き乱れ、花びらが春風に美しく舞う季節に、アスカと祖父母、英会話スクールの講師を交えた面談が開かれた。教育における多様な価値観から、低年齢層の海外留学は広く知られている。一般的な形式は夏や冬休みを利用した短期留学で、アスカもサマースクールと呼ばれる、短期語学研修プログラムを希望していた。ホームステイ滞在先は英会話スクールの講師から紹介され、アスカが通う小学校側も含めて、既に話は進みつつある。アスカの熱心な説明と態度に、祖父母は当初戸惑いを覚えながらも、桜が散り散りになる頃には、しっかりとした理解を示していた。
当たり前だが、その全てが偽り。結社の工作だった。サマースクール終了後には一時帰国するものの、現地での生活に魅入られたアスカは、そのまま米国のプレップスクールに飛び込み、二年間を過ごすという建前で、執行者候補としての訓練に専念する手筈。日本のみならず、適格者の才を見い出された候補者は、着々と世界中から集結しつつあった。
そうして―――半年が過ぎ、新しい夏がやって来る。
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2010年8月の日本は、記録的な猛暑に襲われていた。全国各地で猛暑日が観測され、とりわけ8月は『観測史上最も暑い一ヶ月』として大々的に報道され、気象庁も三十年に一度の異常気象という見解を示した。8月29日の日曜日も例外ではなく、成田国際空港のゲート前に立っていた柊アスカは、ミネラルウォーターを一口飲み、ふうと溜め息を付く。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。向こうに着いたら、連絡するね」
アスカに同行するのは、やはり結社側が手配した人間。生真面目そうなスーツ姿の女性は、何度も頭を下げて「アスカを宜しくお願いします」を繰り返すアスカの祖父母に辟易しながら、額に汗を浮かべている。ユキノとヤマオカは遠目から、その様を見守っていた。
「いよいよですね、ユキノ君」
「……はい」
事はまだ始まっていない。年齢に関わらず、訓練は過酷を極めるであろうこと、執行者候補に求められるものは、ユキノも理解していた。裏の世界で生きる術を身に付ける日々の中で、根を上げてしまう者もいる。では脱落者はどう扱われるのか。日常に戻ることは、許されるのだろうか。想像するだけでも胸が締め付けられる。
やがて時刻が午前11時を過ぎると、アスカはユキノとヤマオカに軽く会釈をし、踵を返して歩き始める。成田発の国際線は米国のシカゴを経由して、ペンシルバニア州ピッツバーグ国際空港へと繋がる。約十六時間に及ぶ旅路が、全ての始まり。
「本当に……外見だけは、レイカそっくりなんだから」
今更な呟きを漏らしながら、ユキノはかつての自分を想い起こす。憎しみと復讐心ばかりに駆られて、空っぽの日々を送る自分。安心していい。気の済むまで誰かを恨み、絶望に暮れればいい。いつの日かきっと、誰かの行く末を案じ、愛する時がやって来る。
願わくば、柊アスカにも。孤高や過ぎた使命感は、いずれ彼女を縛り付ける。その枷を解く人間が、どうか現れますように。そう願って、止まなかった。