東亰ザナドゥ ―Episode Zero―   作:ゆーゆ

9 / 9
2010年9月 執行者

 

 ペンシルバニア州。かつては米国におけるルネッサンス都市と呼ばれた街の西部、センターアベニューに面したアパルトメントの手前で、アスカはサイフォンを片手に周囲を見渡していた。

 案内役の女性が同行したのは、ピッツバーグ国際空港まで。最低限度の会話しか交わさなかった上に、与えられた情報は滞在先の住所のみ。若干十三歳の少女に対するあまりに酷な対応を、アスカは冷静且つ前向きに捉え、漸く目的地へと辿り着いていた。

 

(二階の……最奥)

 

 キャリースーツを両腕で抱えて二階へと上がり、一室の前で一息付く。手渡されていた鍵を回して扉を開けると、予想だにしない光景が眼前に広がった。

 

「え―――」

 

 室内中に漂う生活感。こもった空気。覚えのない匂い。

 部屋が違ったのかと考え、一歩後ずさって確認しても、部屋番号は合っていた。そもそも開錠できたのだから、間違いではない。だとすれば、目の前のこれらは、以前に住んでいた人間の私物だろうか。それにしては物が揃い過ぎている。

 

「え、誰?」

 

 訝しんでいると、中から透き通った声が聞こえた。振り向いた先には、整った顔立ちの女性が立っていた。

 出で立ちはショーツ一枚のみ。首にはタオルが掛かっていて、ショートボブの毛先からは雫が滴っている。一目見て湯上りと察したアスカは、しかし立て続けの想定外に対して声を出せず、身動きを取れないでいた。

 

「あー、はいはい。そういえば今日だったっけ。すっかり忘れてた。どーぞ、入って」

「……えー。その」

「あれ。英語、通じてる?」

「大丈夫、です。はい」

 

 アスカを余所に、合点がいった様子の女性がタオルで髪の水気を取りながら、手招きをして中へ入るよう促してくる。硬直から解かれたアスカは、すぐにキャリースーツを室内に押し込み、扉を閉めた。

 

「こんな恰好でごめんね。話は聞いてるわ。今日からここで暮らすルームメイトでしょう?」

「ルームメイト?」

「……嘘。もしかして、聞いてない?」

 

 思考を日本語から英語に切り替えて、再度女性の声を反芻する。

 ルームメイト。自分以外の誰かとの共同生活。考えてみれば、滞在先が都心のアパルトメントという一点しか書類には記載されていなかった。状況から察するに、肝心な何かを知らされていなかったのではなかろうか。

 アスカが頭を抱えていると、女性は大きな欠伸をかいてから続けた。

 

「重ねて悪いけど、こう見えて死ぬほど疲れてるの。冗談抜きでね。詳しい話は後回しでいい?」

「あの、はい」

「オーケー。自己紹介ぐらいはしておくわ。あたしはエリ。母親が韓国人で、父親が日本人の日本育ち」

 

 発音をカナ文字で表せば『イェリ』。若干迷いつつ、アスカは女性の名を『エリ』と認識した。

 

「柊アスカです。昨晩日本を発って、こちらへ」

「アスカね。日本人の女の子って聞いてたけど、何となく、ふわあぁ……。あ、ごめん」

「……クォーターです。母方の祖母が米国人なので」

 

 二度目の欠伸に遮られながら、アスカは身の上を簡単に語った。

 言われずとも、重々しい疲労感は見て取れた。表情はまるで徹夜明けのそれで、健康的で引き締まった体躯とは対照的に、顔色が優れない。今にも倒れてしまいそうだ。

 

「貴女の部屋はそっち。届いてる荷物は入れてあるから、あたしの部屋以外は好きに使って。お腹が空いてたら、冷蔵庫を適当に漁ってね」

 

 改めて室内を見渡すと、全体的に小奇麗な印象はあった。小物の数は多いけれど、清掃は行き届いているようだし、私室も用意されている。同居という予想外に目を瞑れば、取り急ぎの生活環境に問題点は見当たらない。

 

「あー、もう限界。十七時頃には起きるから、それまでゆっくりしてて。初日だし、一緒に行ってあげる」

「待って下さい。貴女も、なんですか?」

「何の話?」

「ですから、ネメシスの。執行者候補生」

 

 無言の肯定。エリが手をひらひらと振りながら私室へ向かうと、直後にベッドが軋む音が扉越しに鳴った。アスカはぽかんとした表情を浮かべて、何とはなしにエリが指差していた冷蔵庫を開けた。

 

「……何かしら、これ」

 

 小瓶のアルコールが数本と、食べ掛けのアメリカンチャイニーズ。箱ごと冷蔵保存されたピザは乾燥していて、どうしたって食欲をそそらない。

 アスカは首を傾げながら、呆然として冷気を垂れ流していた。

 

___________________

 

 

 下は紺色のジャージ、薄手のシャツの上からパーカーを羽織る。運動用のスニーカーも準備済みで、所持品は必要最低限。時差ボケの影響か、やや浮ついた感覚はあるけれど、体調に問題はない。

 アスカが身支度を整えながら意気込んでいると、同様の出で立ちをしたエリが部屋の扉を開けた。

 

「おはよ。既に準備万端って感じね」

「おはようございます」

 

 パーカーからサイフォンを取り出し、現時刻を確認する。

 行き先はピッツバーグ大学の構内。今から向かえば定刻には十分に間に合う。道順も確認してあるし、何より先人がいるのだから迷いようもない。

 

「随分と落ち着いてるわね。聞きたいこととか、色々あるでしょうに。アスカって何歳?」

「十三歳です。お聞きしたいことは山ほどありますが、お疲れのようでしたので」

「ああ、そうだっけ。ちなみに近隣の住民には、知人の子供を一時的に預かるって言ってあるから、それらしく振舞ってね。他の設定は好きに考えていいわよ」

「はあ」

 

 近所付き合いにはまるで興味が持てない。余計な手間は増やしたくないし、一切不要だ。

 アスカが気のない返事をすると、エリは苦笑をして続けた。

 

「お察しの通り、あたしはアスカの一年先輩。去年の同じ時期に、執行者候補の一人としてこの街に来たの」

「なら、早ければ一年後には正式な執行者に?」

「随分と気が早いのね。そう願いたいわ。さてと、そろそろ出るわよ」

「はい。宜しくお願いします」

 

 執行者候補生としての訓練初日。アスカは両手で頬を叩いて、エリの背中を追った。

 

 

 

 

 

 それから二人は、自動車を使って大学に向かった。駐車場は大学教員や学生と同じく有料ではあるが、エリは利便性を優先して駐車許可証を定期購入していた。

 助手席で交通の事情を聞かされていたアスカは、早期の自転車確保を頭の片隅に留めつつ、エリの話に耳を傾ける。

 

「教授?」

「勿論、本物の大学教授じゃないの。訓練施設が大学の地下にあるから、便宜上そう呼ばれているだけ。その人が訓練を取り仕切っている男性よ」

「教授……どんな方なんですか?」

「外見は不気味。何ていうか、宇宙人みたいなヒトね。歳は四十代ぐらいだと思うわ」

「よく分かりません」

「後のお楽しみよ」

 

 宇宙人。のっぺりとした小顔の男性を想像しながら、アスカは自身の小さな右手を見詰めて、エリに言った。

 

「もう一つ、聞いてもいいですか」

「答えられる質問ならね」

「私よりも若い候補生は、いますか?」

 

 己が置かれた立ち位置を再確認するための問い。エリは聞くまでもないだろうといった面持ちで、ハンドルを切りながら答える。

 

「いる訳ないじゃない。あたしが知る限り、最年少よ」

 

 想像に難くはなかった。良くも悪くも、自分の異質さは理解していた。

 母親の背中は、今も脳裏に焼き付いていた。執行者の何たるかは、両親との死別を以って心身に刻まれていた。執行者候補としての自分は―――あまりに、若過ぎる。

 

「堂々としていなさい。あたしが今言えることは、それだけよ」

「……ありがとうございます」

 

 せめて心と意志だけは、誰よりも。固い信念を胸に、アスカは爛々とした怜悧な光を、瞳に灯していた。

 

___________________

 

 

 ピッツバーグ大学。地元民からは『Pitt』 という愛称で親しまれ、分野によっては世界的な名門校の一つではあるが、日本では大して一般的ではない。

 しかし裏の世界においては、とりわけ際立った存在。極々一部の者だけが知り得る、執行者候補生の訓練施設は、『学びの聖堂』という名の本校舎の地下に設けられていた。

 アスカとエリは地下に降りてすぐに一旦分かれ、アスカが向かった先は、新たな候補生が集う一室。古びた様相の講堂には、既に三十名超の人間が控えていた。

 

(……流石に目立つわね)

 

 溜め息を付きながら、空いている座席に腰を下ろす。意思とは無関係に集まってくる視線に白を切りながら佇んでいると、一人の白人男性がアスカに続いて、出入り口の扉を開けた。

 途端に静寂が訪れる。しんと静まり返った室内には、男性が履いた革靴の音だけが響き渡る。

 宇宙人というエリの形容に、アスカは納得した。深い眼窩から放たれる光は鋭く、頬がこけていて、血の気が少ない。息を飲んで見詰めていると、男性―――教授は名乗りもせずに、開口一番に言った。

 

「今更多くは語らん。我々の任務は、この場に集いし者達を篩に掛けることだ。それ以上でも以下でもない。ゆめゆめ忘れるな」

 

 教授は淡々とした口調で、手元にあった用紙に記された文面を読み始める。

 執行者候補生としての訓練を受ける上での、事前説明。本来であれば書面での同意が求められる内容の一方、隠匿性を重んじて、口頭説明の形が取られていた。

 形式的な表現が続く中、教授が最後の一文を告げると、静かなどよめきが走った。

 

「訓練開始後、事情により訓練の継続が困難となった候補生について、異界化に関わる一切の『記憶を消去』し、追放する……以上だ。何か質問は?」

 

 記憶の消去。術式の存在を知る者すら限られており、教授の声に全員の理解が追い付かない。

 一方のアスカは、全く別の点に思考を向けて、億そうともせずに利き手を上げた。アスカの挙手に気付いた教授が、無言でアスカを指差して質問を促すと、アスカはその場に立って言った。

 

「申し訳ございません。英語の速度に付いていけず、第三項の後半部分を聞き取ることができませんでした。今一度ご説明頂けますか」

 

 アスカの物言いに、他の候補生は唖然とした。

 執行者候補としての訓練初日、第一声で言うことがそれか。半ば呆れて二人の様子を窺っていると、教授がやや間を置いた後に答える。

 

「いいだろう。その度胸は評価してやる。だがその調子では専門講義は絶望的だぞ。必要な物は自分で身に付けろ」

「肝に銘じます」

 

 アスカが座り直すと、教授はアスカの要望通り、第三項の文面を再度音読した。

 そして再びの静寂。質問者ゼロを肯定的に受け取った教授は、アスカを除いた候補生全員を置き去りにして、告げた。

 

「今日は初日だ。地上の運動場を使い、軽めの鍛錬とする。五分後に集合しろ」

 

___________________

 

 

 日付が変わり、早朝の午前八時。

 バスで帰路に着いたアスカを迎えたのは、一足先に部屋に戻り食事を取っていた、ルームメイトのエリだった。

 

「おかえり、アスカ」

「ただ……いま」

 

 アスカが掠れた声を漏らすと、今にも倒れてしまいそうなアスカの身体を、エリが受け止める。エリは身を屈めてアスカに肩を貸し、ソファーへ座るよう促した。

 

「お疲れさま。まるで一年前のあたしね」

 

 初日にアスカらが課せられた内容は、走ること。ただひたすらにグラウンドを走らされ、夜通し走り続け、朝を迎えた。あまりに単純且つ過酷な一日目。既に二名が脱落の意思を示し、候補生の資格を剥奪されるに至っていた。

 そして最年少のアスカも然り。体力の全てを根こそぎ奪われ、立っているのも儘ならない状態に陥っていた。

 

「食欲はある?帰りにホットドッグを買っておいたわよ。あたしのおススメ」

「胃が受け付けません」

「なら果物とか。買い置きのシリアルもあったと思うけど」

「もう、いいです」

「満身創痍ね。先にシャワーを浴びた方がいいわ」

「……休ませて、下さい」

 

 アスカはソファーに寝そべり、極度の疲労に身を任せて瞼を閉じた。目も当てられないアスカの姿に、エリは過去の自分を連想しながら、アスカの額にそっと手をやった。

 

「シャワーは浴びること。それに少しでも食べておかないと、明日に障るわ」

 

 エリは旬を迎えたカリフォルニア産のグレープフルーツを手に取り、小振りのナイフを使って切り始める。甘酸っぱい香りがアスカの鼻に入ると、ほんの僅かな食欲を生んだ。

 

「気をしっかりと持つことね。初めの数週間は地獄を見るけど、良くも悪くも段々と感覚が薄れていくから」

「エリさんは……一年間も、こんな生活を?」

「エリでいいわ。話はまた今度にしましょう」

 

 ゆっくりと身体を起こしたアスカはパーカーを脱ぎ、深呼吸をして冷静さを掻き集めた。

 覚悟はできているはずだ。亡くしてしまった両親の何某を引き継いで、私は生きている。だから私は、ここにいる。

 まだ何も始まってはいない。執行者への道のりは二年間に渡る。幸いにも、その内の半分を経験した先人が隣にいる。彼女に倣い、身を焦がせばいい。

 

「何か聞いておきたいことはある?」

「……エリの話を、聞きたいです」

「それもまた今度」

「一つだけ、教えて下さい」

 

 志を共にする女性に、アスカは言った。エリの覚悟を確かめておきたかった。

 

「どうして、エリは……執行者に?」

 

 直後に、エリの手が止まった。エリは一度グレープフルーツを皿の上に置いて立ち上がり、窓枠から差し込む朝陽を浴びながら、英語ではなく、敢えて日本語で言った。

 

「妹がいたの。生きていれば、ちょうどアスカぐらいの歳だった。それだけの話よ」

 

 言葉は短く、頑なな意志は重く。アスカは小さく、笑った。

 

___________________

 

 

 エリとの共同生活と共に、執行者候補生の一人としての日々が始まりを告げた。

 肉体的な鍛錬は毎日のように強いられた。軍事訓練を思わせる過酷な内容は、殊に十三歳の少女であるアスカにとって、耐え難い苦痛に他ならなかった。

 

「年齢や性別、出身の違いは考慮しよう。だが執行者の何たるかを、今更説く必要もあるまい」

「じ、重々、理解しています」

「プラス十周だ。足りない物は己の意志で埋めろ」

 

 しかしそれも、訓練の一部に過ぎない。候補生に求められる知識も膨大であり、フィジカル面と並行して、長時間の座学が課せられていた。

 しかもその全てが、ナチュラルスピードの『英語』。教科書の類はなく、板書すらされない。並々ならない独力により英語に通じていたアスカでも、少しの気の緩みが聴き損じに繋がる。

 

(言葉の壁、か)

 

 異界学という、表舞台には上がらない総合科学。戦時中に端を発した異界化の歴史。近代魔術と分析科学の複合。現実と虚構の境い目を水平に辿るには、言葉のハンデは深刻な重荷だった。

 それらはアスカに限った話ではない。日を追うごとに脱落者の数は増加の一途を辿り、一ヶ月が過ぎた頃には、当初の半数にまで減っていた。

 順調に篩から落とされる者達を尻目に、アスカは走り続けた。その先に光があると信じながら、懸命に。

 

___________________

 

 

 十月某日。複数の屋台が並ぶ路上に設置されたテーブル席に、貴重な休日を謳歌するアスカとエリの姿があった。

 

「美味しい?」

「……ぅぇ」

「だから言ったでしょ。この辺りの屋台が出す日本料理に期待する方が大間違い。ちなみにどんな味?」

「酸っぱくて辛くて粉っぽい。うどんの要素は小麦粉だけです」

「見たまんまね……」

 

 日本食とはほど遠い味付けに苦悶の表情を浮かべたアスカは、屋台の店主を気遣うことなく即刻箸を置いた。一方のエリは向かいの席で、チーズがたっぷりと乗ったホットドッグに舌鼓を鳴らしていた。

 

「意地を張ってないで、この街の生活に馴染むことね。美味しい物だって沢山あるのよ。これ食べる?」

「……いただきます」

「でも何だかんだ言って、よくやってると思うわ。あたしの代の最年少は十五歳の男子だったけど、三日間も持たなかったし。正直に言って、アスカも同じなのかなって思ってた」

 

 たかがひと月、されどひと月。心身共に付いていけず、根を上げる者が続出する中、必死に食らい付こうとするアスカの姿は、教授を含め複数人の教官役の目に留まっていた。先んじて一年間の訓練を経ていたエリにとっても、本音を語れば予想外のことだった。

 

「評価の方は芳しくありませんが。けれど私には、脱落者の心理が理解できません」

 

 当のアスカには、分からなかった。何故そうも安易に投げ出してしまうのか。その程度の覚悟で、執行者という結社の象徴的存在を望んだのか。薄志弱行にもほどがある。

 問い質してみたいと感じつつ、脱落者との面会は禁じられていた。記憶消去を受けた者と接触してはならないという取り決めも、事前に教授から告げられていた。

 

「それには同感ね。自分から逃げ出すなんて馬鹿みたい」

「……以前に話してくれましたけど。エリの、妹は」

「東亰冥災」

「え?」

 

 突然告げられた過去。思いも寄らない繋がりに驚きを隠せないアスカに対し、エリは悪戯に笑って続けた。

 

「なーんてね。噂で聞いてたのよ。アスカもあの震災がキッカケだった口でしょ?」

「それは、はい。もしかして、エリも?」

「ええ。自分が適格者だって分かったのも、その時」

 

 エリは遠い目をして語り始める。

 五年前の三月十五日。アスカと同様に東亰都在住だったエリも、被災者の一人だった。震災の被害自体は軽度だったものの、地上に降り立った怪異の手によって、最愛の妹を失っていた。適格者の可能性を見い出されたのも、同時期。

 適格者としての素質は、異界化に見舞われて初めて覚醒するパターンが最も多い。東京冥災のような超規模の異界化は、少なからず新たな人材の発見を伴う。あらゆる意味で―――多くの生き方と運命を、変える。

 

「……ん、そろそろ時間ね。少し早めに行ってゆっくりしましょう」

 

 物思いに耽っていたエリは話を区切り、意識をして表情を緩めて立ち上がった。

 

「ピッツバーグスティーラーズ、でしたっけ」

「米国の文化を理解するには、アメフトが一番。とりわけこのピッツバーグは、アメフトと大学の街なの。昔は鉄鋼業で栄えた中心地だったから、チーム名も『スティーラーズ』。病み付きになるわよ」

「日本のプロ野球のようなものですか?」

「比較にならないわよ。国民的娯楽ね」

 

 今一興味を惹かれないでいたアスカの腕を取って、エリはピッツバーグの象徴であるスタジアムに向かって歩を進めた。

 対するアスカの胸には、一つの懸念が生まれ始めていた。エリの目に、私はどう映っているのか。誰の面影と重ねているのだろうか。私には、応えられそうにない。

 

___________________

 

 

 ―――翌年の三月中旬。半年間の時が過ぎた頃、訓練内容にも変化の兆しが表れていた。

 座学はより専門的となり、加えて翌週以降は、適格者としての本格的な戦闘訓練が予定されていた。候補生の数も落ち着きを見せ始め、アスカも現地での生活環境や言葉に順応しつつあった。

 そうして迎えた、三月十五日。アパルトメントに戻ったアスカは、肩に積もった雪を払いながら、部屋の扉を開けた。

 

「おかえり。今日も遅かったわね。何かあった?」

「調べ物があったので。エリもまだ起きていたんですね」

「前に録画しておいた試合を観てたのよ」

 

 アスカは帰り道に買った夕食をテーブルに置き、ソファーに座るエリの隣に腰を下ろして、テレビの画面上に目を向けた。

 二ヶ月前に行われたプレーオフ。フィールド上で屈強な選手達が繰り広げる、猛々しい戦い。エリはアメフトの試合観戦が趣味と言っていいほどに熱中しており、アスカも強引に付き合わされることが多かった。

 しかしエリの表情は晴れなかった。どころか、暗い影が落ちているように映ってしまう。アスカが首を傾げていると、エリは画面上を見詰めたまま、静かに言った。

 

「ねえアスカ。最近アメフト界で注目を集め始めてる騒動があるんだけど、知ってる?」

「……『CTE』。慢性外傷性脳症のことですか」

「ええ。新聞でもよく目にするようになったわね」

 

 アメフトの事情に疎いアスカでも、知るところではあった。

 慢性外傷性脳症。通称CTE。激しいタックルや接触が多いアメフトは、度々脳震盪のような脳への障害を引き起こす。それは一時的な物である一方、反復したダメージは少しずつ蓄積していき、後年になって深刻な症状を引き起こしてしまうケースが数例報告されていた。

 

「今週に入ってまた一人、過去のスター選手が亡くなったわ。彼も『自殺』だった。まだ五十代前半なのに、段々とおかしくなっていく自分に耐え切れず、精神を病んで錯乱した末にね」

「そのようですね。私もニュースで見ました」

 

 勿論、同様の疾患は他のスポーツにおいても問題視はされていた。しかしアメフトにおいては、これまで全くと言っていいほどに見向きもされていなかった。アメフトに身を捧げたかつての選手達にとっては、身に覚えのない悪夢だった。

 

「選手達は、何も知らされていなかった。こんな魅力的な試合が、どれ程の悲劇を生み出すのか。危険性や可能性の、何もかもを。リーグ側は、その全てを隠蔽していたのよ」

「……エリ?」

 

 感情を帯びたエリの声に、アスカは困惑した。エリの言わんとしていることが分からなかったからだ。リーグ側の対応に憤慨しているように見えて、実際は違う。アメフトとは異なる、何か。

 

「でも、あたし達は違う。執行者の任務は、常に死と隣合わせよ。それを知っていて尚、あたし達は己の意志でここにいる」

「はい。私も、同じです」

「アスカも言ってたけど、あたしも脱落者の心理が理解できないのよね」

 

 アスカの脳裏には、自然と今日の日付が過ぎっていた。

 三月十五日。六年前の今日、何もかもが変貌した。そしてそれは、隣に座る女性にとっても同じ。

 

「あたしの妹は、目の前で貪られた。四肢を押さえられて、腹部を裂かれて、生きたまま食い散らかされたの。あの子の悲鳴が、今でも耳から離れない」

「……そうでしたか」

「痛い、痛いよって。助けて、お姉ちゃんって。最後には、あっあっあって。六年が経った今でも、鮮明に覚えてる……忘れちゃ、いけないのよ」

 

 アスカの身体を、エリはそっと抱いた。喪った物を埋めるように、優しく抱いた。

 アスカはエリの感触を全身で感じながら、彼女の胸の中で、冷静さを以って己を見詰め直していた。

 私は一体、何者なのだろう。

 私達は、何処へ向かっているのだろう。

 

「その感情は、復讐心ですか」

「どうかな。自分でも、よく分からない」

「逃避、なのでしょうか」

「アスカはどう?」

「私も分かりません。でも間違ってはいないと思います。ですが、これだけは言っておきます。私は貴女の妹さんではありません」

「……ごめんね、アスカ。でも今だけは、赦して」

 

 何れにせよ確かなことは、私達は結局、こんな生き方しかできないということ。後戻りはできない。為すべきを為していると信じ、盲目的に生きていくしかない。

 運命に翻弄されて、与えられて然るべき物を奪われて、それでも私達には、これしかないのだ。

 あの日に、全てが変わった。私達も変わった。たとえこの生き方に、何の救いがなくとも。そこに僅かな光を見い出して、歩み続けるしかない。その光こそが―――執行者という正義に、他ならないのだから。

 

 

 

 

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