私のことならお気になさらずに――とは言われても、彼女には普段から世話になっている。せっかくの機会なのだから、何らかの形で感謝の意は伝えたい。
もちろん、在籍している艦娘たちは、等しく掛け替えのない存在ではある。とはいえ、鳳翔さんには秘書艦という形でこれまで尽力してもらってきた。ゆえに、このようなときくらいは彼女の嗜好に合わせたいものなのだが……。
『いえいえ、何も差し上げずにお返しだけ、というのもおかしな話ではありませんか』
電話口の彼女は、いつもの調子で笑っている。こんな楽しそうに辞退されては、こちらとしても押すに押せない。
「わかりました。それでは、鳳翔さんは少し早いですが、キリの良いところで上がってください。私は寄るところがありますので、少し遅くなります」
出張の間に溜めてしまった執務については、今夜から着手するつもりだ。それはおそらく、一晩で片付く仕事量ではないだろう。しかし、いま帰還しては、鳳翔さんまで自分も朝まで仕事に付き合う、と言い出しかねない。彼女は、そういう
幸い、ちょうど野暮用も抱えている。寄り道で時間を潰し、彼女が退勤した頃に戻った方が良いだろう。
『了解しました。ただ――』
彼女の声には多分な憂いが感じられる。何か困っているのかと思ったが、それは、彼女自身のことではなかった。
『……季節柄、街は何かと物騒ですので、気をつけて戻られて下さいね』
どうにも、社交辞令と呼ぶには重すぎる。心配症な鳳翔さんの気遣い……であってくれれば良いのだが。
***
彼女はああ言っていたものの、夕暮れの街はいつもと何ら変わらない。我々が守ってきた平和な景色を見ていると、自分の仕事が誇らしくなってくる。きっと、彼女が言っていたのは、春が近づいてきたから浮かれている者が多い、というだけのことだったのだろう。何しろ、今日は三月一三日――ホワイトデーの前日なのだから。
艦娘は、兵器とはいえ女性でもある。そんな彼女らを多数抱えた鎮守府のバレンタインデーは、それはもう大変な賑わいだった。私も多種多様なチョコレートをいただいてしまい、それらは今も食べきれていない。しばらく甘味に困ることはないだろう。
とはいえあの数ともなると、
どうやら彼女には、執務机がチョコ菓子に埋もれることは予見できていたらしい。それで、自分からの進呈は辞退してくれたようだ。とはいえ、彼女だけをお返しから外す……なんてことはあり得ない。むしろ、一番日頃のお礼を伝えたい相手なのだから。
鳳翔さんは、どちらかというと和風の甘味を好む節がある。ということで、私は目についた和菓子屋に立ち寄ってみた。ショウケースには色とりどりの品々が並んでいる。だが、こんなに種類が多いのでは、うーむ……決められん!
鳳翔さんは、いつだって私の好みに合わせてお茶菓子を用意してくれていた。いまになって彼女に合わせようとしても、残念なことにどれにすれば良いか見当もつかない。今後は、もっと彼女のことを知っておく必要があるだろうな。業務に関することも、そうでないことも。
悩んだところで答えは出そうにない。ならば無難に、小倉餡を包んだ一口饅頭にしておくか。十二個入り、ということなら……十箱も買えば足りるだろう。余った分は、来客用のお茶請けにでもすればいい。
店員に頼んで鎮守府の方まで送り届けてもらうよう手配していたところ……何だ? 背後に奇妙な気配が……三つ、いや、四つか。店の外から私の動向が監視されている気がする。
ここは、下手に動くわけにもいかない。背中で慎重に不審者たちの出方を窺っていると……ヒソヒソと小さく話し合っているのが聞こえてきた。
(司令官、随分たくさんのお饅頭買ったわね)
(でも、誰の分なのです?)
この声は、どうやら雷と電のようだ。ということは、残りの
(多分、暁のじゃないかしら。司令官にはチョコレート四〇個あげたから)
(ハラショー……ちょうど三倍返し)
……ま、待て。何だその計算は。確かに暁からは大きな袋に詰め込まれた大量のチョコをもらいはしたが……それを三倍にして返せ、というのか!?
そんな馬鹿な話が通るわけがない! 通るわけは……ないのだが……
「……す、すいません。もう十箱追加していただけますか……」
これには店員さんも驚いている。私だって得心がゆかない。とはいえ、ここで彼女の期待を裏切り、今後の戦闘に支障を来しても困る。彼女たちは心を持たない鉄の兵器ではないのだから。
十箱ともなれば、彼女
会計を済ませて振り向くと、暁型四姉妹の姿は既に無い。何だか、後ろめたさによる幻聴だったような気さえしてくる。鳳翔さんへの恩を、饅頭一つで誤魔化すつもりか……と。それが二つになったところで、あまり変わりはないのだが。
やはり、こういうときは仕事に没頭するべきだろう。翌朝までにできる限り仕事を減らしておいてこそ、鳳翔さんに報いることにもなるだろうし。
私は鎮守府への帰り道を急いでいたが……む、そこに見えるのは隼鷹か。何やら真剣な眼差しで酒屋を覗き込んでいる。声を掛けづらい雰囲気なので、静かに後ろを通りすぎようとしたのだが――
「いいなァ、三〇年モノ!」
突然の大きな独り言に、思わず私は立ち竦む。が、彼女は未だ背を向けたままだ。私に話し掛けているのか、そうでないのか。これでは対応に困ってしまう。
彼女が凝視しているのは、どうやらあの洋酒らしい。結構値が張るようだが……私も一度は飲んでみたいものだ。もしかしたら、彼女は銘柄を覚えておこうとしているのかもしれない。ならば邪魔にならないよう、ここは静かに立ち去っておくべきか。
と、一歩を踏み出したところで、さらなる独り言が発せられる。
「
あの……だと……!? 間違いない。たったいま確信した。彼女の発言は明らかに私に向けられている。実際、彼女からはそのようなチョコレートを頂いていた。あの高い香りと深い苦味はとても印象に残っている。とはいえ、まさかそんな高級食材を使用していたとは……。
「一〇年の三倍は……おおっと、三〇年かぁ!」
要求されている。あからさまに要求されている。しかし……金額は三倍では済まないぞ!?
「ピッタシだなぁ……ウン、ナニかの運命みたいに!」
作られた運命にしか思えないが、隼鷹は自分勝手に納得している。結局彼女は私の方には見向きもせずに、
と、思っていたのだが……!?
建物と建物の間の路地に入ったばかりの隼鷹が、踵を返してこちらを見ている。ビルの陰から顔を半分出して、こちらに睨みを利かせているようだ。彼女はもう一人芝居を打ってはいない。私たちは人目も憚らず、しっかりと目と目で通じ合っていた。
これではもう……言い逃れもできない。明日、饅頭一つを渡したところで、彼女は納得しないだろう。幸い、鎮守府には酒好きな艦娘も多数いる。その間でシェアしてもらう、ということで……納得しよう。私からの臨時ボーナスである。
私は隼鷹に背を向けた。彼女が恋い焦がれる高級酒を買い付けるために。鋭い熱視線は今なお私の首筋に注がれている。それは、私が現物を購入するまで、私の焼き続けるのだろう。
何枚もの諭吉を吹き飛ばす高額商品を購入したところで……今日はもう疲れてしまった。仕事は待っているのだが、最近は敵勢力も落ち着いているし、多少滞らせても問題あるまい。今日は寝て、明日から頑張るか……と気分を入れ替えようとしたところで……私の足がギクリと止まる。
あー……いや、私とて後ろ暗いことをしているつもりはない。とはいえ、立て続けに吹っかけられてきたばかりである。艦娘たちの姿が目に入っただけで、つい警戒してしまった。
冷静に考えてみれば、無闇に疑っては失礼に当たる。この際、堂々と声をかけてしまおう。
「望月に三日月、それに弥生か。どうした、こんな道端で」
「あー……司令官かー。おっつー」
「私たち、シールの交換をしていたんですよ!」
三日月たちが食べているのは、ウエハースのお菓子ではあるのだが、手にしているのはそれだけではない。何やらキャラクターの絵柄が印刷された正方形の紙切れのようだが……これには自分にも見覚えがある。
「あー……そういえば、私も一枚持っていたか」
「そりゃーそーでしょーよ。だって、あたしがあげたじゃん」
望月から……ああ、アレか。バレンタインだから、と一つお裾分けしてもらった気がする。
「司令官、誰が出たんですかっ!?」
どうやら、このお菓子は食用というよりシールに対するオマケのような扱いらしい。こちらを見上げて尋ねる三日月は、私のシールばりに目をキラキラと輝かせている。
「誰が、と言われても……よく覚えてないな。何とかポセイドンとか、そんな……感じの――」
ざわ……と、
「もしかして……鬼神大帝ポセイドン、とか……?」
お、おい……望月がこんな真剣な目をしているのは初めて見るぞ!? もしかしたら、そのような名前だったかもしれない。が、よく思い出せない。
「机のペン立てを確認すれば――ガッ!?」
「ペン立て!? まさか……貼っちゃったんですか!?」
温厚な三日月が胸ぐらを掴むほどとは……! しかも、そんな涙目になられては、私が酷い男のように見られてしまう。何やら、道行く人々からも遠巻きに責めるような視線を向けられているし。わ、私は女性を泣かせるようなことなど何も……!
「そ、そもそも、シールとはそうやって使うものだろう!?」
貼らないのであれば、粘着性を持たせる必要などないのだから。しかし、彼女たちからの同意はない。むしろ、刺し貫くような殺気を返されている。そして、中でも一際鋭いものは……
「……怒ってなんか、ないよ」
いや、怒ってるだろ! 日頃から表情の硬い弥生ではあるが、その憤りは私にもはっきりと伝わってくる。
なので、彼女は言い直した。
「ううん、怒ってる。弥生だって、怒るときは、怒る」
待て、貴艦の怒るとき、というのはココなのか!? もっと他にあるだろう!
三者三様の感情が、いま一つに纏まった。憎悪である。提督たる私に対して、確たる敵意を向けている。しかし、一度貼ってしまったシールは剥がしても元には戻らない。とはいえ、彼女らとの関係は何としても元通りに修復する必要がある。
そのための和解案が、望月の方から提示された。
「……三倍返しだな、司令官」
また出た! ここでは三倍……何を要求されるんだ……!?
「超神光誕爆雷シーザー」
弥生がボソっと聞き慣れない名を呟く。おそらくシールのキャラクターのことだと思うが。
「ポセイドン様の三倍レアなシールです! 今日中に何としても用意してもらいますからね!!」
様って……。いま、三日月のヤツ、ナチュラルに様付けで呼んでたぞ!? 何だか、司令官たる私よりも敬われてないか、そのポセイドン様ってのは。
私には理解しかねるが……どうやらあのシールは彼女らにとって深海棲艦との戦いよりも大切なものらしい。それを台無しにしてしまったのだから、非は私にある。シールの罪は、シールで償うしかないのだろう。
そんなわけで、先ずは一箱買ってみた。一袋、ではなく一箱、である。
「…………」
「…………」
「…………」
「ところで……ウエハースの方はどうするんだ?」
ポリ袋の中に無造作にポイポイと放り込まれていく様は、見ていて何とも物悲しい。
「…………」
「…………」
「……あげる」
と、言われても……一箱五〇袋と聞いている。そんなにいっぱい食べられないぞ。
途中で目当てのシールが出てくれればそこで手が止まると期待していたが……さすがは三倍レアか。最後の一つまで残さず開封されてしまった。その上で、この悪態である。
「ぐえぁー! シーザーどころかポセイドンも出やしない!」
「きっと、どこぞの司令官が粗末に扱ったから、その祟りですよ」
「怒ってる……絶対に海龍神も、怒ってる」
金額自体はもう一箱買ったところで大した出費ではない。とはいえ、剥き出しになったウエハースチョコは保管に困る。鳳翔さんに知られたら……怒られるだろうな。
「三倍返し……」
「三倍……」
「…………」
六つの瞳に睨まれては……う……ぐ……。
「解った……もう一箱だけ、だぞ」
こちらが折れたにも関わらず、彼女たちの要望に妥協はない。
「次で、出ると思ってる?」
「次で、出るといいですね」
「出るまで……お買い上げ……」
私から二箱目を受け取った彼女らは堂々と店の軒下に座り込み、箱を囲んで開封作業に着手している。戦況は……極めて不利だ。一先ず撤退して、彼女らの機嫌については後々考えることにしよう。
彼女らが手元に集中している隙に、さり気なく店から離れようと試みるが……ギンッ、と三名から睨まれてしまった。目的の一品を手に入れるまで絶対に逃さない、という圧力をヒシヒシと感じる。まさに店のチョコを全部買い占めるほどの勢いだ。いや、それでも出なければ、二軒目、三軒目、と……!?
もはや手段を選んではいられない。暇を持て余しているので売り物でも見て回るかー……といった雰囲気を装いつつ店内へ。これには、彼女らも目くじらを立てたりはしない。だが外からの死角に身を潜ませたところで直ちに窓の方へ駆け寄り、勝手にガラリと開けさせてもらった。
「あっ、お客様、そちらは締め切りとさせて――」
レジ係の女性に咎められたが……ええい! ここで怪しまれては立ち行かない。
「私はこういう者でしてッ!」
懐から印籠のように身分証を取り出し突きつけた!
「まぁ! 提督さんなのですか!?」
私のような立場の者が駄菓子屋に買い物に来るのも珍しいことなのだろう。何にせよ、固まってくれているのは助かる。いまのうちに任務を遂行してしまおう。
「このことは、他言無用で頼む。特に、表の三名には」
一方的に用件を押し付けると、私は窓枠を乗り越えた。壁の先は路地裏であり、彼女らを含めて人目はない。賑やかな街の光から逃げるように、私は暗がりの方へと駆けてゆく。艦娘たちの蔓延るこの街に、私が安心できる場所はないようだ。
これはもう、一旦遠くまで逃げるしかないだろう。ホワイトデーさえ過ぎれば……あとはどうにでもなるはずだ。今日明日を何とか凌ぎ切って、それから何食わぬ顔で帰還しよう。
夜の雑踏の中を早足に駅へと向かってゆくが……アレは……まさか!?
「あらぁ~? 提督ぅ、こんな時間にどちらまでぇ?」
何だかこの状況で最も見つかってはならない相手に見つかってしまったような気がするぞ……!?
「た、龍田こそ……どうした? 夕飯でも食べに来たのか?」
街中ゆえに武装は解除しているが、それでも何かと禍々しい。早く話を切り上げたいところだったのだが……彼女の目的は、こともあろうに私だった。
「えーっとねぇ。明日はホワイトデーでしょぉ? 提督を見逃さないようにぃ、いまのうちから探してたのぉ❤」
み……見逃さにように、って……。これにはもう、嫌な予感しかしない。何しろ、こうも立て続けに三倍返しを強いられ続けてきたのだから。
彼女から受け取ったお手製のチョコは、天龍との合作だと聞いている。と、いうことは……つまり……?
「
それで済むならまだマシな方だったのだが、彼女はニヤリと
「そんなこと言わないわよぉ。ただねぇ……」
婦人モノのハンドバッグをゴソゴソと漁り、出てきたものは……婦人には到底似つかわしくないものだった!
「湯煎してるときに天龍ちゃんが指を火傷しちゃってねぇ……だ・か・らぁ……」
スプレー缶サイズのバーナーからボゥンと物騒な炎が爆ぜる。それは、まるで闇夜を焦がす太陽のようだ。普通の市販品ではこのような火力は出ない。明らかに違法改造された重火器である。そんな物騒な着火口を澄ました笑顔でこちらに向けて――!
「指の三本くらい焼かれてくれる? 三倍返し、ってことでぇ❤」
にっこり微笑みにじり寄ってくるが……どう考えても指だけじゃ済まないだろ!? 三本、ではなく三
私は彼女に背を向けたりはしない。むしろ、逆――身を低くして、その懐へと潜り込む!
「あら――?」
逃げようとしていれば、後ろから無慈悲に焼き焦がされていたことだろう。しかし、予想外の反撃に、龍田は虚を突かれたようだ。
「あらあらぁ?」
流れるように彼女の左腕を掴んで引き寄せ、身体を反転させながら左肘を彼女の脇の下に差し込む! そこから腰でその上半身を跳ね上げれば――
「いやんっ❤」
軽巡洋艦の
「提督に反意あり! これより強行捕縛作戦に移る!」
「ミッションコード“トリプル・サーフ・ケーキ”発動! 各自、配置につけェ!!」
どこからともなく号令が響き、聞き慣れた声たちが牙を剥く。この様子だと、龍田は尖兵だった、ということか。おそらく、既に駅も制圧されていることだろう。只ならぬ気配に民間人たちもどよめき始めているが、まだ混乱はしていない。
いまは一刻も早くこの場を離れなくては……! 私は頭を低くして雑踏の中をすり抜けていく。どうしてこのようなことになってしまったのか……などと考える余裕は、私にはない。
***
もう何時間逃げ回ってきただろうか。こんな夜更けともなると、道を征くのは私と、私の身柄を拘束しようと網を張っている艦娘たちくらいのものか。
彼女たちも艤装を解けば、多少運動能力の長けた生身の人間と変わらない。陸上における作戦行動となれば、私の方に分があるようだ。
とはいえ、いかんせん敵の数が多すぎる。水辺を避け、土地勘のある場所を渡り歩いてきたが、そろそろ限界が来ているようだ。見知った地域は完全に押さえられ、かといって鎮守府に帰ることもできない。こんなゴミバケツの中に潜んでいては、袋のネズミも同然だ。
そっと蓋を押し上げて、私は隙間から外の様子を窺う。開けた大通りの方を眩いサーチライトが通り過ぎていったようだ。ここも、安全とは言い難い。長居しているわけにもいかないだろう。
しかし……一体どこへ行けば良いというのか。気づけば、私は夜も眠らぬ繁華街に追いやられている。店々には夜間営業の光が灯り、身を隠すことすらままならない。何より、無思慮に動いては道を誤り、袋小路へと迷いこんでしまうだろう。
それでも……ここでじっとしているよりマシかもしれない。私は意を決して……音を立てないようにポリ容器の中から這い出した。そして、周囲に警戒しながら、一歩、また一歩と足を忍ばせる。
しかし……
「ようやくいらっしゃいましたね」
物陰から女性に呼び止められて、私の背筋は一気に凍りつく。逃げるアテもないのでは、無闇に駆け出すこともできない。とはいえ、立ち止まったままそちらに振り向く勇気もない。
「提督のことですから、最後にはこの辺りに行き着くんじゃないかと、ずっと待っていたんですよ?」
その優しい声色が、いまは一番恐ろしい。彼女が敵に回ってしまったら、私には、もう……!
「ほ、鳳翔さん……
逃げても無駄だ。彼女に敵うとは思えない。それでも大人しく投降する度量もなく、ズリズリと少しずつ間合いを離していく。すると……クスクスとからかうような笑い声が聞こえてきた。
「何を返すんです? 私は
それを聞いて……プツリ、と緊張の糸が切れた。私の身体から力が抜けて、もう立ってもいられない。私はアスファルトに膝を突き、肩越しに声の主を仰ぎ見る。夜のビルの谷間は明かりが乏しい。それでもはっきりと視認することができた。薄紅色の着物を纏い、いつもと変わらぬ微笑みを湛えている秘書艦の姿を……!
「ほ、ほ……鳳翔さん……!」
フラフラと立ち上がり、感極まってつい甘えてすがりそうになってしまったが……彼女は顔をしかめてひょいと後退る。
「提督……臭いますよ。一体どこで何をしていたんです」
子供を窘めるような目つきで諌められてしまった。汗まみれ、泥まみれに加えて、ゴミに埋もれて生臭い。こんな身体で飛びつこうとは、我ながら失礼だったか。
「一先ず、お身体を流した方が良さそうですね。安心してください。お部屋は取ってありますから」
彼女はビルの非常口のような扉を開けて、薄暗い廊下へと入っていく。きっと、ここはホテルか何かなのだろう。私のために潜伏場所まで用意してくれているとは……さすがは鳳翔さんだ。まさに命の恩人といえよう。
どうやら彼女は、何となくこのようなことになるのではないかと予感していたらしい。
「提督の出張中、みんな盛り上がってましたからねぇ……」
当の本人である私が不在だったことも良くなかったのだろう。膨れ上がる妄想は歯止めも利かず、誰もが三倍のお返しに夢を馳せてしまったようだ。
「ともかく……日付が変わるまでは、ここで大人しくしていてくださいね」
そう言われても……これは何だか落ち着かないな。床面積の殆どは巨大なダブルベッドに占められており、ここはまさに……夫婦の寝室、といった雰囲気である。鳳翔さんはすぐに帰ると思うが、独り残されては少し寂しく感じてしまう。
「い、いや……執務もあるし、何とかして鎮守府に――」
「今日はお休みです♪」
指先で唇をちょんと突かれては、私にはもう何も言えない。
「くれぐれも、部屋の外に出ようとしないで下さいね。誰かに見つかっては危険ですし」
鳳翔さんに言われるまでもなく、私には他に行き場所もない。この一室に立て篭もる以外に、今日を生き延びる術はなさそうだ。
「わかりました……。私が不甲斐ないばかりに、ご迷惑をお掛けします……」
きっと、仕事に戻れば書類の山が待っていることだろう。それに秘書艦を巻き込んでしまうのは、実に申し訳ない。私が深々と頭を下げると、鳳翔さんは何やら慌て出してしまった。
「そっ、そんなに緊張なさらずに、私も、そのー……初めてですし。……おかしいですかね」
ふふふ、と穏やかな微笑みを向けられては、そんなことないですよ、としか答えようがない。改めて言われなくとも……突然部下たちを敵に回すなどという悪夢は、最初で最後であって欲しいところだ。
「それでは……先ずはシャワーを浴びてきて下さいな。私、お布団で待ってますから……❤」
少し失念しかけていたが、私の身体は酷く汚い。すぐにでも身奇麗にすべきだろう。
しかし……布団で待っている、というのも妙な言い回しである。確かに、部屋では布団が幅を利かせていたが、わざわざそこを強調することもなかろうに。そもそも、私を部屋に案内した時点で、鳳翔さんがここに残っている理由もない。まだ何か言い残したことがあるのだろうか。
首を傾げながら浴室に入ってみると……ビジネスホテルにしては異様に広い。洗い場には空気で膨らませたビーチマットが立てかけてあるし……何だ、あの椅子は。座面が大きく窪んでいる。
内装の一つひとつが面妖な雰囲気で、まるで見知らぬ世界に来てしまったようだ。しかし……鳳翔さんがいてくれるのなら何の心配もない。鳳翔さんから何かを迫られるはずもない。何故なら、彼女からは何も貰っていないのだから。
やれやれ……『タダより高いモノはない』とは言いながらも……どうやら今回ばかりは、タダが一番安価に落ち着いてくれそうだ。