その1
T-34/85の操縦席で、エリカは不安な夢から目覚める。
起き抜けに、くしゃんとくしゃみをひとつ。
(なんでこんなに肌寒いのよ……)
そう考えながら両腕を身体に寄せたところで、着ているのがノースリーブのワンピースだけだったことを思い出す。
自分たちが、逃げ場のない小高い山の頂に追いつめられていることも。
季節は八月の終わり。
あと十日ほどとはいえ、まだ夏休みの最中なのに、戦車の中は妙に冷え込む。
ふもとから聞こえてくるのは、あいかわらずの音声。
昨晩、一行が山の頂上にたどり着いた前後から、敵の砲撃はぱたりと止まった。
入れかわりに始まったのが、投降を呼びかける放送である。
いわく、悪いようにはしないから投降しろ。
人道的に扱うことを約束する。
こっちに来ればあたたかいごはんがある。
おまえらの父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ。
自由の女神は破壊された――等々。
(よくもまあ、飽きないもんね)
黒森峰でみっちりしごかれてきたエリカには、その程度の感想しかない。
頂上にいるエリカですら、うるさくて何度も安眠を妨害されたというのに、下で包囲している連中は、あれを至近距離の大音量で絶え間なく聞かされているのだ。
とんだ爆音上映である。
(ここで待ちつづけていたら、もうやめてって、あっちの方が投降してきたりしないかしら)
エリカにはまだ、そんな冗談を考えるだけの余裕がある。
心配なのは、むしろ別のことだ。
本来の予定では、この時間にはもう、黒森峰に戻っているはずだった。
それがこんな、どことも知れぬ山の中で、プラウダ戦車に取り囲まれて一夜をすごす羽目になるとは。
おまけに、いつケリが付くのかもわからない。
隊長は心配しておられるだろうか――
そうひとりごちたところで、そうではなく、もしかして心配してほしいのだろうか――という考えが心に浮かんで、エリカは複雑な気分になる。
ついでに妹の方の顔まで思い出してしまったから、ますます気分が悪い。
(ええい、もう。どうしてあなたが出てくるのよ)
エリカの脳内ランキングにおける、昨日の今日で絶対に思い出したくない人物堂々のワーストワン、西住みほが、どうして。
いや。
本当はわかっている。
いま自分が置かれている状況のせいだ。
この状況が逆境だからだ。
だから、戦力的に十分とはとてもいえない大洗女子を率いて、圧倒的に不利な状況を何度もくつがえしてきた彼女のことを、つい考えてしまう。
#
(……こんな場所でくよくよ考えていてもしょうがない)
エリカは操縦席前のハッチを開けて、外に出る。
まず視界に飛びこんでくるのは、青い空。
眼下には、緑の平野と、それを埋め尽くすように布陣した濃緑の戦車たち。
セミの鳴き声が、拡声器の割れた音声に混じって、下から登ってくる。
ここは山の頂上にほど近い、緑の斜面。
T-34/85は、掘り返した赤土に車体を半分埋めるようにして、扇状にひろがった敵に対して、ほぼ正対に構えている。
右側面、すこし離れた場所に、同じように斜面に車体を埋めたKV-2がいる。
継続のトラックとアンツィオのCV33が停車しているのは、より頂上に近い後方。
ひらけた斜面は、T-34/85とKV-2が監視しているこの方角のみ。
残る三方向は、頂上からふもとまで、太い樹木が密集した森林になっており、戦車でも容易に登攀できない。
たき火のある頂上へ向けて坂道を登ってゆく途中で、CV33とすれちがう。
上部ハッチから上半身だけ出したアンツィオの隊長が、片手に双眼鏡を握ったまま、天板に突っ伏して寝息を立てている。
見張りの途中で力尽きたのだろう。
黒のリボンと緑の縦巻きツインテールが、天板にもたれてへんにゃりひしゃげているのが、どことなく不憫だ。
中で寝返りを打った気配。
残りの二人も車内にいるらしい。
#
火のそばにいたのは、カチューシャひとりだけだった。
前夜にも増して、不機嫌な表情。
倒木に腰かけて、片腕でほおづえをついている。
「ほかの子たちは?」
おはようと挨拶するのがなんだかむずがゆかったので、かわりに尋ねる。
返事がない。
「まだ寝てるの?」
もう一回尋ねる。
やはり返事がない。
ふくれっ面のまま黙っている。
……変な子。
昨夜、西住みほの戦術を真似したことが、そんなに気に入らないのかしら。
頂上の森のそばに置かれた継続のトラックや、斜面のKV-2を見回してみる。
どちらも静まりかえっている。
みんなまだ寝ているのか。
無理もない。
あの後、一行は、見張りを立てて交代で仮眠することにした。
だが、あの馬鹿みたいなプロパガンダ放送が夜通し続いたせいで、全員うまく眠れなかったのだ。
後方で妙な音がした。
ずべべっと、滑った音。
直後に、ずごんと、なにかが金属に当たった音。
ふり返ると、CV33の上部ハッチから、アンチョビの姿が消えていた。
(……どんだけ寝相悪いのよ)
あきれて見ていると、妙にあわてた様子でハッチをよじ登ってきたアンチョビが、下の方を指さしながら、エリカとカチューシャに向けて叫ぶ。
「おい、誰か来る! こっちに近づいてきてるぞ!」
#
「ええ?!」
エリカは走って、斜面の下をのぞき込む。
うるさいプロパガンダ放送は、いつの間にか止まっていた。
履帯に荒らされたスロープを登ってくるのは、サイドカー付きの軍用バイク。黒森峰のコピー品だ。
運転しているのは、エキシビションにも出ていた金髪碧眼のプラウダ生。
名前はたしか、クラーラ。
そして、サイドカーに座っているのは――
「ブリザードのノンナ!」
エリカの声に、カチューシャがびくりと体を震わせる。
「白旗を揚げてる。交渉だな」双眼鏡を覗きながら、アンチョビ。
「降伏勧告でしょ」と、エリカ。
「だから、同じだろ?」
エリカはカチューシャをふり返る。
「ねえ、使者が来てるわよ。あなたに会いたいんだと思う」
「いやよ」
座ったまま、カチューシャはおびえたように体を引く。
「わたしは会わない。エリカ、あなたが会えばいいじゃない」
「私が会ってどうするのよ」
皮肉でもなんでもなく、本心である。
当事者でもなんでもなく、一〇〇%純粋に巻きこまれただけで、事情なんてまったく知らない私が、会って何を話せというのだ。
そうだ。
まったく知らない。
さんざん戦車で追い回されて、危険なデカブツに狙い撃ちされて、こうやって山の上に逃げ込んで、包囲されて、一晩ろくに眠ることもできなかったというのに――
「あなた。いったいどうして逃げてるの」
さすがに質問する権利くらいあるはず。
そう思って尋ねると、カチューシャは居心地悪そうに視線をそらす。
「言いたくないわ」
「あのね――」
それじゃ通らないでしょ、と言おうとしたとき。
CV33から降りてきたアンチョビが、背後からエリカの肩を叩く。
「まあ、いいじゃないか。きっと言いたくない事情があるんだ」
あなたはそれでもいいかもしれないけど――と、エリカは反論しようとする。
体を寄せたアンチョビが、エリカの耳元で囁く。
「プラウダの事情だ。下手に首をつっこまない方が身のためかもしれんぞ」
それは―― たしかに。
プラウダ。
鉄のカーテンの向こう側を漂う、謎につつまれた学園艦。
生徒会の重要メンバーだったはずの生徒が、とつぜん行事に登場しなくなり、まるでそんな人物最初からいなかったかのように記録から存在を抹消される、それがプラウダ。
公式な発表がなされないため、生徒総会の挨拶の順番や、体育祭の貴賓席の並び順から権力の動向を推しはかるしかない、それがプラウダ。
そして、部活動での成績をあげるため、選手に最新の科学技術を駆使した人体改造をほどこしているという噂が絶えない、それがプラウダである。
「それなら交渉に出てよ。こっちは事情がわからないんだから」
エリカは言う。
カチューシャは逃げ場を探すようにあちこちを見る。
「じゃあ…… じゃあ……」
「じゃあ、何よ」
下手に口をはさんだのがまずかった。
視線がかみ合った瞬間、プラウダの少女は立ち上がって、エリカを指さす。
「じゃああなた、カチューシャを肩車しなさいよ!」
「はあ?!?!?!」
意味がわからない。
肩車とはなんだ。
なぜここで肩車が出てくる。
プラウダの政治用語? いや、それとも。まさか。
「肩車って、あの肩車?」
「そう。その肩車」カチューシャがうなずく。
「私が? あなたを??」
「いやなら出ないわよ。帰ってもらってちょうだい」
カチューシャが小さな胸をそびやかす。
いやいや。待って。
何その強気。
何その自信。
交渉に出なかったら、一番困るのはあなたじゃないの?
ぽんと、アンチョビがエリカの肩を叩く。
「いいじゃないか。してやれよ、肩車」
「なんで!」
「だっておまえ、肩車ひとつで交渉に出てくれるんだぞ」
「じゃあ、あなたがしてあげなさいよ! 頭の左右にふたつ、持ちやすそうなハンドルが付いてるじゃない!」
「いやー。そうしてやりたいのは山々なんだが」
「あー。そーよね。そーですよね。下手に引っぱって取れたらまずいものね」
「取れるわけあるか! 地毛だ!!」
#
結局、エリカはカチューシャを肩車して、ノンナとクラーラが待つバイクのそばまで坂を下りてゆく羽目になった。
カチューシャは得意顔。
なにが嬉しいのか、エリカが担いだ両脚を気ままに振りまわしている。
バランスが崩れたら泣くのは自分なのに。
(無心よ、エリカ。無心になるの)
エリカはさっきから、それだけを心の中でくり返している。
まさか自分が、プラウダの政治闘争に立ち会う羽目になるなんて。
傍観者とはいえ、考えるだけで気が重い。
それに……
正直に言うと、あの黒髪の子は、ちょっと苦手だ。
エリカはバイクのそばにたどり着く。
クラーラと並んで立っていたノンナが、サイドカーの中から袋を取り出す。
「お腹がすいたでしょう、カチューシャ。食べ物を持ってきましたよ。それからお薬も」
「いらないわ」
見えないけれど、頭上でカチューシャがぷいと顔をそむけた気配。
「機嫌をなおして、帰ってきていただけませんか。みなが動揺しています」
答えはない。
「カチューシャ、あなたを信頼する同志たちですよ」
また返事なし。
何か言えばいいのに――と思いながら、なんの気なしに視線をめぐらせたとき。
私は気づいてしまった。
え、なに。
怖い。
こわいこわいこわい。
あのノンナって子、なんでずっと私を見てるの。
話しかけてる相手はカチューシャでしょ?
それなのに、視線がずっと私に向いている。
上にいるカチューシャじゃなくて。
間違いない。
絶対に私を見ている。
怒っている……ようには見えない。
非難するようでもないし、悲しんでいるようでもない。
ただ、感情の読めない瞳を、ずっと私に据えている。
据えたまま動かさない。
それが怖い。
未曾有の恐怖に震えるエリカの頭上で、カチューシャがようやく口を開く。
「いやよ。ノンナが何を言っても、絶対に帰らない」
ノンナがため息をつく。
「帰らないって、ずっと山の上にいるつもりですか」
「それもいいかもね。冬までここで過ごすわ。スキーにちょうどいい山だもの」
「そんなこと無理だって、自分でもわかっているでしょう、カチューシャ」
「じゃあ、その前にどこかへ行く」
「どうやって? この山は完全に包囲されています」
「集まったプラウダの戦車を、すべて行動不能にする。楽勝だわ」
「この二輛で、ですか?」
ノンナがはじめてエリカから視線を外して、斜面上のT-34/85とKV-2を見やる。
今までカチューシャの下で凍りついていたエリカが、荒い息をつく。
「そうじゃなかったら、包囲を突破して逃げ出すわ」
「自他の戦力を正しく見積もることのできない指導者に勝利はありませんよ、カチューシャ。どちらも絶対に不可能です」
「正しく見積もってるわ。その上で言ってる」
「あら」
ノンナがふたたび視線をカチューシャの側に向ける。
より正確には、カチューシャの下のエリカに。
エリカの身体がまた硬直する。
「それだけ自信があるなら、試してみますか?」
「望むところよ」
「条件は?」
「戦闘区域を定めましょう。勝利条件は、区域内の相手の車輌をすべて行動不能にするか、わたしの乗っている車輌が区域外までの逃亡に成功するか」
「殲滅戦とフラッグ戦を合わせたようなルールになりますね」
「戦車道の試合じゃないわ。だから、戦車以外の使用も可とする」
ノンナが細い眉を上げる。「そういえば、そちらにはトラックがいましたか」
「ただし、こちらは人数が少ないから、乗り換えを許してもらうわ。白旗が上がる前に車輌から脱出できた人員は、別の車輌に乗り換えてもよいこととする」
「いいでしょう。そのかわり、こちらからも条件を」
「どうぞ」
「こんな状態が長期化してしまったら、のちのちの士気に関わります。期日を定めましょう。今日を含めて三日のうちに勝負がつかなかったら、こちらの勝ち。三日目の夕方になっても状況が膠着したままだったら、カチューシャには無条件で降伏してもらいます。いかかですか?」
「文句ないわ」
「では握手を」
長身のノンナと、エリカの肩に乗ったカチューシャが、作法にのっとって丁重に握手をかわす。
「では、帰ります。われわれが下の陣地にたどり着くまで、攻撃はなしですよ」
「そんなことするわけないでしょ」
カチューシャが強がる。
だが、ノンナが食料の入った袋を持ち上げると、あっ、と小さく声をもらす。
「どうしました、カチューシャ?」ノンナの声に、からかうような響きがある。
「な、なんでもないわよ!」
「そうですよね。試合をするとなれば、私とカチューシャは敵同士。敵からの施しを喜んで受け取るような指導者は、プラウダにはいませんものね」
「言うまでもないわ! 持って帰りなさい!!」
#
しばらく後。
バイクを運転して坂を下りながら、クラーラはサイドカーのノンナに尋ねる。
「大丈夫なのですか?」
「なにがです」
流れる光景を眺めながら、ノンナはなぜか鼻歌を口ずさんでいる。
「このことがよそに知られたら、問題になるのではありません?」
「すでに昨夜のうちに、戦車道連盟に届けを送ってあります。エキシビションの内容が、プラウダの理想とする戦車道にそぐわぬ不出来だったので、急きょ予定を変更して、校外で大規模な演習をしてから帰ることにしたと。問題にされることはありませんよ」
「同志たちには、なんと?」
「あなたたちが試合でだらしなかったので、カチューシャが怒ったと言っておきましょう。あなたたちを鍛えるため、心を鬼にして敵の役に徹しているのだから、全力で挑まない者はシベリア送りだと」
ハラショー、とクラーラは相づちをうち、それから小さく首をかしげる。
「カチューシャさまは、本当に勝つ気でいらっしゃるのでしょうか? それとも強がっておられるだけ? とても勝てるような状況とは思えません」
プラウダの陣地には、無傷の戦車が十輛以上控えている。
山上に陣取ったカチューシャからは、それが見えているはずだ。
だが、カチューシャの側で戦力と言えそうなのは、T-34/85とKV-2くらい。
残る車輌がCV33とトラックでは……
てんでお話にならないように、クラーラには思える。
「どうでしょう。私にもわかりません」と、ノンナ。
「でも、あなたは楽しそうに見えます、同志ノンナ」
クラーラが指摘すると、ノンナがちらりとほほ笑む。
「……そうですね。カチューシャのことだから、本当に勝つ計画を立てているのかもしれません。油断していると足をすくわれますよ」
「
そんな会話をロシア語で交わしつつ、ふたりは坂を下ってゆく。