科学の都市の大天使   作:きるぐまー1号

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ep.55 9月30日-9

 

 ――――浮上する。暗く冷たく、濃密な死の気配の漂う世界から、明るく温かく、命溢れる世界へと。

 

 全身、皮膚という膜の下いっぱいに重く凍える鉛を流し込んで固めたようだった身体。そこに熱い『芯』が取り戻され、少しずつ少しずつ冷え固まった鉛を融かしていく。それはまず身体の中心――――心臓の辺りから生まれ、そこから波打つように末端へと広がっていった。

 

 全身を苛んでいた過剰なまでの重力から解放され、ふわふわとした浮遊感に包まれながら、彼女は思う。暗く冷たかった世界で感じた、唯一の温かさを。強く、強く、抱きしめてくれた思い人の、何よりも力強く、何よりも喜びをもたらしてくれた言葉を。全ての絶望を塗り潰してくれた、甘やかな口づけを。

 

 そんな思考がもたらす淡い熱が、彼女の浮遊感をさらに加速させていく。

 

 心の、世界の、在り様が変わって見えた。楽しいことなど決して多くはない、――――むしろ、辛いことの方が多かったけれど、今はただ、早くあの街に戻りたい。

 

 どこまでも、どこまでも、いっそ永遠に続くのではないかと思われた、熱に浮かされた様な浮遊感。しかしその時は、唐突に終わりを迎える。

 

「――――ッ、ゲホガホゲホッ!!」

 

 急に気道が大きく開き、開いた口から大量に空気が流れ込んできた。ずっと喉がその動きを怠けていたせいか、思い切り(むせ)る。ひんやりとして湿った空気だ。しかしそれは、暗く冷たい死の世界のそれとは似て非なるもの。雨の匂い、街の匂い、わずかに残る鉄臭い血の匂い。――――それらが渾然一体となって、圧倒的な現実感と共に彼女の脳を刺激する。

 

 ぼんやりとしたままだった彼女の意識が改めて覚醒した。まぶたを引き上げる力が取り戻され、彼女はその目をゆっくりと見開く。その目に、雨に濡れ夜闇に佇むビル街が映った。――――そして、彼女を優しい目で見下ろす思い人の姿も。

 

「――――よう。おはよう、絹旗」

 

 勇斗の優しい声が彼女の耳に届いた。その心地よい響きが彼女の心を満たしていく。どうしようもなく甘い疼きと、言い知れないほどに絶大な安堵と喜びの気持ち。そんな感情の波が、がないまぜとなって絹旗を呑み込んだ。

 

「――――はい。おはようございます、勇斗さん」

 

 頬が朱に染まる。目の奥が熱い。お姫様抱っこされた格好のまま、絹旗は潤んだ瞳で勇斗を見上げる。その視界に正面から勇斗の姿を捉え、幸せそうに、嬉しそうに、彼女は目を細めた。

 

「……これは、夢なんかじゃないですよね?」

 

 その目の端から、透明な雫が零れ落ちる。

 

「逆に聞くけど、これが夢に見えんのか?」

 

 いっそ気障ったらしくも見える笑みに口元を歪め、勇斗は抱き上げていた絹旗を地面に降ろした。そして空いた右手で、その指で、絹旗の顔を伝った涙を優しく掬い取ってくれる。再び圧倒的な感情の波が絹旗の全身を満たし、それに突き動かされるまま、絹旗は勇斗の胸に飛び込んだ。

 

「…………これがもし夢なら、超リアリティ溢れる夢ですね」

 

 両腕を勇斗の背中に回し、強く抱き付いたまま離れない。くぐもった声のままで彼女はそう応えた。そんな様子の絹旗を穏やかな眼差しで見つめ、勇斗は優しく梳くように彼女の頭を撫でてくれた。

 

 ――――どれくらいそのままでいたのだろう。数秒か、数分か。ともかくしばらくしてから、絹旗は再びくぐもった声で、

 

「…………勇斗さん」

 

「……何?」

 

「………………、………………、」

 

「……どうした?」

 

「…………、…………大好きですっ!!」

 

 意を決したように、叫ぶように、そんな言葉を叩き付け、背中に回していた手を首に回し直して、そのまま口づける。

 

「んむっ!!??」

 

 驚いたような声が聞こえたけれど、それは無視した。少しそのまま間を置いてから顔を離す。余裕たっぷりそうにしていた勇斗の顔が、驚愕と恥ずかしさで紅潮していた。

 

「…………確信しました。超現実みたいですね」

 

「…………どんな確かめ方してんだよ。心臓に悪すぎるわ」

 

「……で?」

 

「……『で?』って?」

 

「むぅ……。……だからぁ、返事をください。()()世界で聞きましたけど、()()世界で、改めて、聞きたいです」

 

「……」

 

 勇斗が1つ、息を吐く。そこに込められたのは、どんな感情だったのだろう。

 

「…………………………俺も好きだ。絹旗のことが、何よりも」

 

 顔を真っ赤に染めながら、それでも真摯に真っ直ぐに、勇斗はそう告げる。絹旗はそれを聞いて、大輪の向日葵のようなそんな明るい笑みを浮かべて、もう一度勇斗の胸に飛び込んだのだった。

 

 

 

 

 

▽▽▽▽

 

 

 

 

 

「…………そういえば勇斗さん」

 

「ん?」

 

 砂を吐きそうなやりとりがあってから数分ほど間が空いて、ちょっと落ち着いた頃合だった。絹旗がふと口を開く。

 

「さっきのあの女の姿が見えないんですけど、どうなったんですか?」

 

「あー……、それなあ」

 

 そんな絹旗の言葉に、勇斗は決まりが悪そうな顔を見せた。普段の勇斗はあまり見せないような表情だ。絹旗ももしかすると初めて見たかもしれない。それくらいレアな光景だ。

 

「…………()()()()()んだよね」

 

「ええ……?」

 

 そんな表情の勇斗から放たれたのは、これまた勇斗にしては珍しいセリフだった。

 

「そんな顔すんじゃねえよ。仕方ねえだろ。一応はボッコボコに叩きのめしたんだぞ。……でも、万が一のための逃走用の術式を何かしら組んでたみたいでさ。間に合えばいくらでも妨害のしようはあったんだけど、そっちばっかり見てるわけにもいかなくて」

 

 何だかこう、言い訳をされているような気がする。

 

「…………」

 

「……おい、そんなジト目を向けんじゃねえよ」

 

「……だって、()()()()()()()をされたのに、それを引き起こした張本人よりも優先度の高いようなことなんてあるんですか?」

 

「無い」

 

 あまりにあっさりと、少し喰い気味にすら思える速さで勇斗は絹旗の問い掛けに否定の意を返す。

 

「だったら……」

 

「……と、言いたいところだったんだけど」

 

 思わずツッコミを入れようとした絹旗の声を遮るように、勇斗は言葉を重ねていく。

 

「……まあ正直なことを言わせてもらうと、油断しちゃってたっていうのはあるかな。絹旗も息を吹き返してたし、テネブラも……あ、ちなみにこれ、あの女の名前ね、しばらくは目を覚まさないように完全に意識を吹っ飛ばしてたからさ。でも一番の原因といえば……」

 

 言葉の前半部はいささか軽いノリで放たれていた。「てへぺろ☆」よろしくな雰囲気を感じ取るのも無理はないくらいに。――――しかし後半、一度言葉を切った勇斗の顔には遊びなど欠片もない、真剣極まりない表情が浮かんでいたのだ。

 

「……この街全体、学区単位どころか文字通りこの学園都市の全体で進行してた、AIM拡散力場の()()な動きのせいかな」

 

「……AIM拡散力場の、異常な動き。……ですか」

 

 それに釣られて、絹旗の表情もまた引き締まる。AIM拡散力場の観測能力に長け、自在に操る能力者(せんもんか)直々に放たれた『異常』というフレーズ。日常会話の中で乱発されるそれとは含む意味の重さが大きく変わってくる。もちろん、あまり好ましくない方に。

 

「そうそう。こんだけの広範囲で、()()()()()()()()()()、力場が動くなんて普通は無い。こんなのは明確に自信をもって『異常』と言い切れるよ」

 

「……それは」

 

 一体何を引き起こすんですか? と問い掛けようとして、絹旗は気づく。地震における初期微動のような、ほんのわずかな振動に。地面が揺れているわけではない。空気が揺れているわけでもない。ただただ微弱な、何を媒質にしているかもわからない不気味な振動が、周囲を震わせている。普通ならきっと気づかなかっただろう。もし気づいていたとしても、『何でもないもの』として意識の外に締め出していただろう。

 

「……そろそろかな」

 

 その正体に目星がついているのだろうか。勇斗は立ち並ぶビル街のある一角を――――その向こうにある『何か』を見つめて、

 

 ――――唐突に、絹旗をその胸に抱きすくめた。

 

「え、なっ!?」

 

「舌噛むから口閉じて」

 

 いきなりのことに一瞬で彼女の顔が真っ赤に染まりそうになるが、染まり切るよりも早く、

 

 ――――閃光。半瞬遅れて、轟音と衝撃。

 

 さながらスタングレネードが炸裂したかのように、莫大な光と音が一体となって荒れ狂った。目隠しをされるように正面から抱きすくめられ、回された手で耳をふさがれ、――――それでもかなりの衝撃が走る。

 

「飛ぶよ」

 

 頭の上から勇斗のそんな声が聞こえてきたときにはもう、彼女の体は浮遊感に包まれていた。重力が消え、内臓から何から全てが浮き上がるようなあの感覚。――――荒れ狂う爆音の壁の向こう側で、何か大きなものが破壊される音と、ガラスが砕けるような甲高い音が連続する。

 

「な、なにがっ!?」

 

「今の衝撃でビルの外壁と窓ガラスが崩れたんだよ。直撃喰らったら、ただ死ぬだけじゃ済まないし。俺1人ならともかく、絹旗にケガさせるわけにもいかないし」

 

 さらっと恐ろしい言葉が聞こえてきたような気もするが、それに対する意味のある反応を彼女が見せる前に、

 

「――――っと」

 

 勇斗の短い呟き、そして彼女の足が再び地面を捉える。自分の体を支えてくれる頼もしい地面の存在に、絹旗は思わず安堵の溜息を吐く。――――いやもちろん、自分の体を抱きしめて支えていてくれた勇斗が頼もしくないと言いたいわけではない。普段は地に足をつけて暮らしている人間にとって、『空』という場所はアウェー過ぎるというだけだ。

 

 閑話休題。

 

 勇斗が抱擁を解く。未だに閃光と爆音の余韻が残る中、絹旗は周囲を見渡した。――――どうやらここは、街中のどこかにある立体駐車場の屋上らしい。数台の車が止められていることに気づく。――――だがしかし、それ以上に彼女の視線を縫い止めたものがあった。正確に言えば、駐車されている車など比較対象にすらならなかった。暗かったはずの街に、莫大な光量を発する『ソレ』は顕現していたのだ。

 

「――――てん、し?」

 

「……なるほど。そう来るわけか」

 

 何故かわからないけれど、全貌など見えてこないけれど、ふとその『天使』というフレーズが湧いてくる。呆然と呟く絹旗と、何やら納得したように吐き捨てる勇斗。そんな2人の目線の先に顕現していたのは、巨大な水晶で形作られたクジャクの羽のような、鋭い物体だった。ここから『光源』までの距離は――――およそ1キロほどか。であればそこから推測するに、あの刃のような羽は、最大のもので全長100メートルほどに達しているようだ。そしてそんな巨大な羽が無数の連なりを作り上げ、そよ風にそよぐようにゆっくりと優雅に動いていた。場違いなほどに優雅に羽ばたくその姿は、まさしく天上の存在にふさわしいと言えよう。

 

 ――――そこでふと、刹那の思索に沈んでいた勇斗が、唐突に顔を上げた。その表情には焦りとかすかな恐れが浮かんでいるようにも見えた。

 

「――――()()()

 

 何が? と聞く猶予は与えられなかった。勇斗の言葉が終わるとすぐに、それは放たれたからだ。

 

 翼と翼の間で、雷のそれにも似た放電光と放電音が舞い、そして、――――閃光が世界を塗り潰した。

 

 息が止まりそうになるほどの圧倒的な光量の正体は、莫大な力が込められた雷光だ。神話の世界で神々が振るう天罰すらを思い起こさせるその一撃は、のたうつ蛇のような動きを見せながら遥か遠く――――学園都市の外目掛けて飛んでいく。

 

 その雷光の着弾を、2人はたまたま高層ビル群の隙間から見ることができた。視線の先、遥か彼方の地平線で、着弾点から何かが幾重にも吹き上がっている。数十キロもの距離が開いているにも関わらず、それは容易に観測できてしまっていた。

 

 遅れて、衝撃波と化した爆音が2人に叩き付けられる。とっさに勇斗が支えなければ、絹旗の軽い体は吹き飛ばされてしまっていたかもしれない。それほどの衝撃だった。

 

「い……今のは……?」

 

 絹旗の体を支えたまま、しかし勇斗は絹旗の言葉に応えることはなかった。その代わりに、

 

「とりあえず、行ってくる」

 

「行ってくる、って、どこへですか? ……まさかあの、『天使』のところですか?」

 

「……ま、そこも含めちょっと色々とね」

 

 苦笑を浮かべつつ、勇斗はそこで言葉を切って、絹旗の背後に目線を移す。

 

「……というわけで、よろしくお願いします先生」

 

「任されてあげよう。君の頼みだしね?」

 

「!?」

 

 唐突に、彼女の背後から聞き慣れない男性の言葉が聞こえてくる。振り返ってみれば、あたかも暗闇から滲み出てきたかのように、半身を暗がりに融け込ませたまま、白衣姿の男性がそこに出現していた。いつの間に下層から上がってきていたのか。足音や気配は全く感じられなかった。

 

 ――――この男性には見覚えがある。大覇星祭の期間中だけで2回も入院する羽目になった勇斗のお見舞いに行った際に、彼の担当を受け持っていた医者ではなかったか。カエルに似た顔の凄腕の医師。その凄腕故に、ついた異名は『冥土帰し(ヘブンキャンセラー)』……だったか。

 

「……さっき連絡した通り今は蘇生してピンピンしていますけど、つい先刻まで心臓を潰されて死にかけていた――――死んでいた身です。念のため精密検査をお願いします」

 

 カエル顔の医者に向かって、勇斗は絹旗の事を指し示しながら、絹旗自身にも聞こえるように、そう言った。

 

「大丈夫。もう病院車は確保済みだしね?」

 

 応えて、医者は口元を吊り上げる。

 

「君も一度精密検査を受けておいた方がいいんじゃないのかい? 君も全身を串刺しにされた挙句に心臓を潰されたんだろう?」

 

「……そうしたいのはやまやまなんですけど、そうは言ってられなくなったんで」

 

「ふむ……そうみたいだね?」

 

 ちらりと、医者は『天使』を見つめ、訳知り顔で頷いた。

 

「なら、全部終わらせてから来るといい。今の君なら、それくらい余裕なんだろう?」

 

「……まあ、はい」

 

 ちょっとした逡巡を見せたものの、勇斗は医者の言葉にしっかりとした頷きを返す。

 

「君が戻ってくるまで、君の彼女の健康と()()は保証しよう」

 

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 そして勇斗は、絹旗に向き直った。

 

「……というわけで、絹旗は留守番ね。俺はちょっと仕事してくるよ」

 

「え、なら私も……」

 

「いいから少し休んどけ。倒れてた時間は俺よりも長かったんだし、体にダメージが溜まっててもおかしくないだろ」

 

 勇斗は笑う。

 

「ちょろっと目障りな奴らをボコって、あの『天使』を()()()、すぐ戻ってこれると思うよ。多分絹旗の検査の方が時間かかるんじゃないかな」

 

 ニヤリと、口角を吊り上げるような、悪い笑みだ。

 

「……『助ける』?」

 

「その辺の話も、戻ってきてからだな」

 

 そして勇斗は、絹旗と医者に背を向けた。その背中から水晶の青(クリスタルブルー)の翼が音もなく広がっていく。――――と、そこで、カエル顔の医者が勇斗を呼び止めた。

 

「そういえばさっき、君たちの友達のシスターの子がここを飛び出していったんだけどね? 今この街は色々と危ない。まずはその子の面倒を見てあげてくれないかな?」

 

「……インデックスが? わかりました。まずはそっちからどうにかします」

 

 そう答え、何かを探るようにしばらく目線を動かして、

 

「――――あそこか」

 

 そう一言。そして、

 

「じゃ、行ってくる」

 

 一度優しく絹旗の頭を撫でて、――――彼女が顔を上げた時にはもう、勇斗の姿は掻き消えていた。

 


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