断っておくが、鎮守府の敷地内に何匹かの猫がいることは誰もが知っていた。
普段の生活や軍事的な行動中に見かけることはあまりないが、何も珍しい生き物ではなかった。
我々の前に現れたのは一匹のサビ猫だった。
その猫が夏の陽気を物ともせず、すました顔をして(日なただというのに!)、工廠の入り口に座っていたのがそもそもの始まりだった。
そう、この物語はそういうところから始まる。
その時、私がここに来てからおよ5日が経つであろうという頃合いだった。
この鎮守府によろよろと老体を引きずりながら着任し、私の他には小さな駆逐艦が一隻いるだけという信じがたい事実を知らされてから5日が経っていた訳だ。
しかし、それはどうでもいい事に思えた。
というのも、他所の鎮守府も同じようにして始まったということを今では知っているからだ。
初めに秘書艦がいて、私がいて、それから猫がいた。
報告書の上でつま先を揃えて、大国の兵隊のようにきちんと整列した文章とは違う、掛け値なしに無駄な物語。
それでいいと思った。
そうでなくては人は物語を語ったりはしないし、私がもし何かを語るのだったら、きっとこのような、取るに足らない話が良いのだろう。
私は艦船の建造過程が最終段階を迎えるという伝えを電話越しに秘書から受け、冷房のよく効いた執務室から炎天下の中へと繰り出していたところだった。
「64、か」
容赦なく照りつける太陽と、風ひとつ無い午後の空気の中で、私はどういう訳か自分の年令を口に出してみる気になった。
64年――長い年月だ。
何かについて語り始めるには歳を取り過ぎていたし、誰かによって語られるにはまだ早すぎる歳だった。
そういうのは多分、私が今より数倍も軽くなって、重く、しゃちほこばった石の下に、丁寧に保管された後でなくてはならない。
何はともあれ、私はまだ生きていた。しかもこの鎮守府の提督だった。
やることはまだあるし、やれること全てが「それは無理な話だよ、ばあさん」と否定されるまでは、幸運な事にまだ幾ばくかの猶予があった。
高熱を地表に向かって叩きつける太陽が一瞬、ゆっくりと流れてきた積乱雲の切れ端の裏に隠れた。
時を同じくして、私は建造工廠の入り口に辿り着き、その前で香箱を組んでじっとしている猫を見つけたのだった。
猫だ、と初めに私は思った。
そのさび猫は四肢を体のうちに上手にしまい込んで、日差しの中でのんびりしているようだった。
ずいぶんと人馴れしているようで、その猫は私が近づいていっても何食わぬ顔でそこに有り続けた。
私がその場で突っ立って足元にいる猫を見つめていると、工廠の中から早足で秘書がやってきて、入り口で立ち止まった。
彼女は入り口の陰になった場所を見つめていた私に首を小さく傾げ、その癖、何をしているのか尋ねないで、もじもじしながら私が何か言い出すのを待っていた。
「猫さ」
私は言った。
ねこ? と秘書は首をかしげた。
「猫だよ。驚く無かれ、我々人類と違って四本の足で歩いたり、姿勢を維持したりするあの噂に聞きし動物さ――まさか、見たことがないなんて言いやしないだろうね」
私があきれると、もう一度彼女はねこ? と繰り返した。
それからすぐさま声を上げた。
「ああ、分かりました! 猫、ですね。いきなりだったので、よく分からなかったのです」
彼女はごめんなさいと付け足して頭を勢い良く下げた。
いかにも子供らしい、継ぎ目のない出し抜けな動作だった。
「そこにいるのですか?」
「よりにもよって日なただよ。暑さなんて生きる上で考慮に値しないよとでも言いたいのかね、この顔は」
私がそう言うと、秘書は工廠の扉に体を寄せて、内側からひょっこりと顔を出した。
すぐ下に相変わらず座り続ける猫を見つけると、彼女は「わぁ」と顔を輝かせた。猫は突然現れた彼女の顔に向かって、「にゃあ」と声を上げた。
これが私と、このちっぽけな秘書艦の電と、一匹のサビ猫との出会いだった。