私の着任日より前から積み上げられていた段ボール箱――我が信頼すべき先人達――、こいつらの荷ほどきがようやく一段落した。本来、私や艦娘の仕事では決してないはずの引越し作業を、総勢3名という多くない人数でやっつけるのは骨が折れる事だった。秘書艦の電と先日新しく加わったもう一人は、健気にも執務室という陸地で全身をフル稼働させて段ボールをことごとく開封し、床や窓や壁の埃を一掃し、家具の梱包を八つ裂きにした。時折り“新入り”が自分の名前を絶叫(!)して、
「不当だグマァァ!」
と、身の上を呪いながら、ここに来て初めての“任務”に従事する姿は胸にくるものがあった。つまり、前述した「八つ裂き」という言葉は正にそんな彼女の、仕事への取り組み方を“あけすけ”に表現したものに過ぎないのだった。
こうして梱包材を四方に撒き散らしてうっぷんを晴らしながらも、それでも仕事を着々とこなしていく球磨型軽巡洋艦の1番艦「球磨」。
荷物を運んでいる最中に、適当に放っておいた空のダンボール箱に足を踏み入れてしまい、中の梱包材を四方に撒き散らしてしまいながらも、それでも仕事を着々とこなしていく暁型駆逐艦の4番艦「電」。
そして年齢を言い訳にして口だけを動かすことに腹を決めた、提督である私のチームワークは早々にして素晴らしい威力を発揮した。
私が指示を出して、あと二人が頑張る――ようするにこれだけだ。込み入った作戦なんていらないのだ。これだけで我々は充分やれる。そしてこの力は本来、海上で発揮するべきものであって、陸の上の執務室であげるべき“戦果”ではなかったというだけの話だった。
最後の荷物である机を電と球磨が最後の力を振り絞って配置し終えた時、もう日は暮れかけていた。作業に没頭しすぎていて電灯はまだつけていなかった。窓から差す強い西日がうっとおしかったが、換気のために窓を開けているせいでカーテンが閉められない。
私は部屋の中心に立って、ぐるりと部屋を見渡し、家具のひとつひとつをじろじろ見定めた。……上々だ。私は机が背になる所で転回をやめ、「パチン」と指を高らかに鳴らした。
「お見事! 今日はこれで終わりさ。二人ともごくろうさん。今夜はゆっくり休みな――冬の熊のようにね」
これをきっかけに、電はへなへなと机の側面にもたれて座り込み――球磨は机の移動が完了した時点で、既にうつ伏せで大の字をかたどっていた。私は彼女たちの方に向き直って、風呂にでも入ってくると良いさ、と言った。
「特にそっちの――」
私は、倒れたままでいる球磨のそばに近寄ってしゃがみこむ。
「――ここで倒れてる、軸から外れた車輪みたいな子は今日のMVPだ。風呂上がりに皆で労ってやろうじゃないか、ねえ?」
それを聞いた秘書艦は球磨に声をかけて起こしてやろうとしたが、それには及ばずといった様子でのそりと起き上がった。長い時間を掛けてようやく立ち上がった彼女はふらりふらりと危なっかしい足取りになりながらも、心配そうにオロオロする電と一緒に執務室を出て行った。
二人が出て行った後、私はデスクチェアに腰を沈めて軽く深呼吸をした。それから机に置いたガラスの小瓶を開けて、レモンキャンディを取り出して食べた。ようやく落ち着いた心地がして、今度は長いため息が出た。
私はきちんと整頓した執務室をゆっくりと眺めてみた。素晴らしい眺めだった。
むき出しの床張り、
日の光を受けてくすんでしまった赤いドレープカーテン、
6人姉妹のお下がりよりも見栄えの悪いボロのクロスを召したこのプレジデントデスク
――どれもケチのつけようのない見事なものだった。
私は、実はこの部屋は200年からずっとこの状態だったのだと言われても、すんなり納得してしまいそうな気さえした。そこのくるみ材の柱時計は200年前から寸分の狂いもなく時を刻み続け、四方を囲む伽羅色の壁紙は200年分の足音とタバコの匂いと火鉢の明かりを吸い込み続けたのだ。語りかければさぞユーモア溢れ、ペーソスの効いた訓話が拝聴できよう。
私は長く深い溜息を吐いてから電気を付けるために席を立った。入り口にあるスイッチに手を伸ばす途中、振り返ってもう一度部屋を見やった。夕日に照らされて光る執務室――きれいなものだった。それは心地良い懐かしさを感じさせるものだった。家具が古くとも、これはこれで悪くないのさ、私はそう思った。
だが私は胸の奥に奇妙なざわつきが混じっていることに気がついた。私ははっとした。きちんと備えられた家具は薄闇 の中にありながら、窓先に広がる海と夕日の最後の残照を浴びて鈍く輝いている。また一方ではくたびれた輪郭が、にじみ出るように闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。それらと同席する曖昧で複雑な、謎めいた陰影が床や壁に幾重にも折り重なって、至る所に深遠を生み出していた。
その明暗はまるで部屋全体が陶酔のただ中にあるようだった。綿のように柔らかい夢心地の間にほんのわずか、たった一瞬だけ聞こえるこの世の最も深い所から発せられる声に耳を傾けてしまった――そんな焦燥にも似た感覚だった。私は自分がどこかひどく場違いなものに思えてならなかった。この違和感の正体を私は推し量ろうと床のある一点を凝視した。“戻ってくる”――私は無意識のうちにそのような不明瞭な言葉を思い浮かべていた。
私はまたはっとした。それから……いや、もうやめよう。何てことはない――これは何てことはないことなのだ。
私は電気をつけて、机の上の瓶からまたレモンキャンディを出して口に放った。それから窓を閉めてカーテンを閉めた。書類を眺めながらデスクに座っていると柱時計が時間を告げた。「ポッポゥ」――6時だった。私は書類を片付けて食堂に行った。執務室のドアを開け電気を消す直前、私はまた部屋をじっと見つめた。パチンと乾いた音を立て明かりが消える。そこには何もなかった。完全な暗闇と静寂があるだけだった。私は「ふん」と軽く発して、廊下に出た。「“何てことはない”のさ!」と私はひとりごちた。
「やっぱり、家具を新調すべきだね! 司令官が老人、そいつがいる部屋もまたボロボロときたもんじゃ、お先真っ暗じゃないか。ふん、何てことはないのさ」
“何てことはない”――それもそのはずだった。なぜなら私は、あの胸のざわめきの正体を知っていた。
夕食をすませた私は、食堂の長いテーブルの端の方に腰掛けて、コーヒーを飲んでいた。ひどい味だった。風味はハリケーンに巻き込まれたおんぼろ納屋のように、抽出過程でものの見事に吹っ飛んでいき、舌触りの不快なことは、まるで舌の上をナメクジが這ったように最悪なものだった。私はいよいよ癇癪を起こしそうになったが虚しい気分が強まるだけなので、やめておいた。
「どうしたクマ?」
皿洗いを終えた(余談だが、今日の皿洗いの当番は彼女だ。そして明後日は私だ!)球磨が横から私の顔を覗き込んできた。
「まるで舌の上にナメクジが住み着いてるみたいな顔をしてるクマ」
「まさか! 冗談じゃない」と、私は否定した。
「自分で口に放り込んだのさ」
ふむふむと、球磨は芝居がかって頷いた。
「どんな気分クマ?」
「最悪さ」
「でもそのコーヒーを入れたのは提督クマ」
「だから最悪なのさ」
なるほど、と彼女は頷いた。そして顎に手を当てて大げさに唸ってみたり、頭のてっぺんから突き出した一房の髪を縮めたり伸ばしたり(!)しながら厨房に向かっていった。
10分ほど経って彼女はマグカップを2つ持ってきて、私の向かいの席に座った。「試してみるクマ?」と彼女がそのうちのひとつを私に勧めた――コーヒーだった。私はそれを受け取った。
「そういえば、電の姿が見えないが」
コーヒーを一口啜った所で、私は思い立った。
「何処に行ったか知ってるかい?」
「猫熊」
私は緩慢な動作でマグカップを傾け、ゆっくりとコーヒーを味わった。広い食堂にカップを置く音が小さく響く。こうやって綺麗に並べられたいくつもの長机と、ゆうに100人分を超える椅子とに囲まれていると奇妙な感じがした。しかしそれはある種の空間的な倒錯の類ではなく、純粋な開放感だった。
私はコーヒーをまた一口飲んでから、しばらくその感覚に身を委ね、ようやく意を決して「猫熊?」と苦い顔で球磨を訝しんだ。ちょうど両手でマグカップを口元に持ってきていた彼女は「そうクマ」と頷いた。
「なんだいその生き物は」と私が尋ねると彼女は眉を曇らせ、口を三角にした。
「え……まさか知らないクマ……? 四本の足で歩いたり、跳んだりするヒゲの生えた小さい動物クマ――」
私はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆然としてしまった。
「猫かい」
「猫クマ」
「勘弁しておくれ、私はてっきりパンダか何かかと思っちまったよ!」
私がそう言うと、彼女も察したらしく肩をすぼめて呆れてしまった。
「猫熊じゃなくて猫クマ」
「もういいもういいったら――それで、その猫がどうしたって?」
「電は建造ドック――だっけクマ? どうみても倉庫か何かにしか見えないクマ。“べんぎじょー”そう呼んでるクマ?――とにかくそこで、こっそり猫に夜ご飯の残りをあげてるクマ」
「なるほどねえ」
「サビ猫クマ」
そう聞いて私は5日ばかり前の、初めて建造を試してみた時に見かけた猫のことを思い出した。
「ああ、あの――」
「その猫クマ」
球磨は相槌を打った。彼女はマグカップに両手を添えて、中のコーヒーをじっと見つめていた。
「きっと飼いたいって言いたいんだクマ。でもダメって言われるのを電は知ってるクマ。それは怖いことだクマ」
そう言って彼女はカップの中身を飲み干した。私のは既に空だった。私が口を開こうとした時、背後から声が聞こえた。電だった。
彼女は食堂に入ってきて私の横で会釈をした。
「まだここに残ってたのですね――球磨さんも」
電がそう言うと、球磨は自分の名前を朗らかに発して(!)返事をした。……私はもうどうするか決めていた。しかしその前に言っておかなくてはならないことがあった。
「ちょうど良かった。二人に話がある――いいや、そのままの姿勢で聞いてくれてかまわないさ」
二人は言われた通りにしたが電がまるでつま先から電流でも通ったような、非常にコミカルな仕草でぎょっとして身体を強張らせるので、私はまた馬鹿馬鹿しくなった。運命の日が来たのです――そう聞こえたような気がしたが、気にせず私は続けた。
「話はまず球磨にふたつ、次に電にひとつある。まず球磨だがお前さんには食後のコーヒーを淹れる役割を与える。理由は単純明快で――ようするにお前さんの淹れたコーヒーは旨い。よって任せる――分かったね?」
球磨は複雑そうな表情で自分の名前を発して(!)了承した。
「それともうひとつは、今後一切――いいかい? 今後一切だ! ――決して、絶対に、断固として、我が建造ドックを「見かけから連想される言葉」で呼んではならない! あれは「建造ドック」であってそれ以外の何物でもない。ましてや――ええい、とにかく呼ぶんじゃない! いいね?」
私の剣幕に気圧された球磨は、小さく自分の名前で返事をした。
「よし、それでいい。次は電だ。お前さんは――お前さんは明日じゅうに動物用のカゴを見繕って執務室に置きな。ここにいる全員で面倒を見ることにしよう。それなら負担にならないだろうし――まあ、とにかくそうすることだ! 以上、解散!」
私はきょとんとする二人の艦娘を尻目に、つかつかと足早に自室へ戻っていった。
その翌日、執務室には早速カゴが用意され猫がやってきたが、用意されたカゴは私が想定していた所謂“ケージ”ではなく、ただの縁の浅い籐のバスケットだったので、仕方なく小さな椅子を窓辺に用意してその上にバスケットを置くことにした。