我輩はレッドである。 作:黒雛
レッドとラティアスが事案待ったなしの男から逃走を始めて、早くも半刻が過ぎようとしている。
以前、人間が全力疾走できる時間はおよそ八秒が限界と聞いたことがあるのだが、人間よほどの危機に陥ると身体リミッターが外れるらしい。既に横腹がかなり悲鳴と激痛を上げているのだが、構うことなく全力で走る。
もちろん、逃走劇のお約束となっている転倒なんて絶対しない。全力で走りながらもキチンと足元に気を遣い、這うように左方面から伸びている木の根を飛び越えた。森の中は視界が悪く、逃走するのに最適な反面、同時にこういうアクシデントに見舞われやすく、見つかってしまうと完全犯罪になり兼ねないデメリットも存在する。
ハイリスク、ハイリターン。
反抗できる力を持たないレッドにできたのはこれだけだった。一定距離を走ると軌道を変更し、茂みをかき分けながらジグザグに移動する。一直線に走り続けるよりはよっぽどマシだろう。
しかし、いい加減身体が限界を迎えていた。八歳の少年が半刻も走り続けたのは充分立派な偉業なんじゃないだろうかと思いつつ、振り返る。そこには男の姿も男が使役するポケモンの姿もなく、安堵の息をこぼした。
眼前にある大樹の後ろに回り込み、息も絶え絶えにラティアスの身体に手を置いて話しかける。
「ラティアス、こっからはお前だけで逃げろ。もしもの場合に備えて、俺が時間を稼ぐ」
恐怖に縮こまっていたラティアスは目を見開き、左右にかぶりを振った。
「この先はグレンタウンに続く海だ。“こうそくいどう”を積んで海の上を突っ切れば、さすがにあの男は追いつけない。ポケモンが人を乗せたまま全力で空を翔けられるわけがないんだから」
ポケモンが全力を出して飛翔すると人間は確実に振り落とされる。人を乗せたポケモンと乗せてないポケモンじゃ、かなりの差ができてしまうのだ。
「だから――」
ラティアスはかぶりを振り、しがみつこうとする。それを彼女の身体に置いた手を、腕を伸ばし、つっかえ棒にして阻止をする。
「お願いだから聞き分けの悪いことを言わないでくれ。時間がないんだ」
だけどラティアスは聞いてくれなくて、
「いい加減にするんだ。また傷つきたいのか……!?」
少しだけ声が荒くなってしまう。
そのことに驚いたのか、傷つくというワードが原因だったのかラティアスは僅かに怯んだ。
「もう傷つくのは嫌だろ? だったら、やることは一つしかないんだ。俺やナナミさんのことは忘れて、野生に帰るんだ。きっとそれが、一番なんだよ」
だから――
「迷うな! さっさと逃げろ!!」
レッドは大きく息を吸い込み、目頭が熱くなるのを感じながら一喝した。
ラティアスの金の瞳から一筋の涙が伝う。呼吸は嗚咽に変わり、滂沱となった涙をレッドに見せつけながら――ラティアスは背を向けて森の中に消えていく。
肺に溜まった空気をすべて吐き出すように深い吐息をつき、レッドはずるずると大樹に背を預けて座り込んだ。
「これで、良かったんだよな……」
下唇を噛みしめて、目を閉じる。するとこの数日間の記憶が次から次へと浮上した。
たった数日間だったけど、今まで生きた人生の中でもっとも濃い数日だったのは確かだ。暖かく、賑やかで笑みが絶えない日常だった。
すべてラティアスがくれたものだ。
昨日まで当たり前のようにあった光景はもう手を伸ばすことさえ叶わない。
目の奥がとても熱い。噛みしめる下唇を解くと涙腺が決壊してしまいそうだった。わんわんと泣きじゃくってしまいそうだった。
だけど、それは後回しにしないといけない。
目尻に溜まった涙を拭い、レッドは立ち上がる。
もう一踏ん張りだ。この死線をくぐり抜けることができたら、一日中泣いてやろう。
足を軽く左右に振り、歩き始める。ラティアスが逃げた方角からおよそ九十度の方角に歩を進めながら、ここまで来た道に目を向ける。
遠くからガサガサと茂みを突っ切る音が、徐々に近づいて来る。ドクンドクンと跳ねる心音を抑制するように胸に手を当てる。
最後の茂みを飲み込むようにしてレッドの目に映り込んだのは、紫色のゲル状の巨体――べとりと地面と同化するように現れた――ベトベトンだ。
ぅぉぁぁ……とレッドは呻いた。
この近辺にベトベターやベトベトンの生息地はない。
ベトベトンの背後から件の男が姿を見せる。レッドの攻撃がよほど腹に据えかねたらしく、ギラギラと血走った目をこちらに向けて、
「行け、ベトベトン。あのクソガキを捕まえろ!」
逃げ出そうと駆け出したレッドだが、ベトベトンはその鈍重な見た目を裏切る速度でレッドに追いついた。ゲル状の身体を変幻自在に変化させ、レッドを捕縛する。
内心で舌打ちをする。囮になるつもりだったのに、この体たらくはどういうことだ。
ベトベトンは男に懐いているのか、鼻の曲がるような悪臭はしなかった。しかし微妙に生暖かいソレが身体に張りつくのは生理的に受けつけなかったが。
「やっと捕まえたぜ。手間をかけさせやがって、このクソガキが!」
幽鬼のような足取りで歩み寄った男は、途端に激情を滾らせてレッドの顔を殴りつける。帽子が脱げ落ちた。プツリと唇が切れて一筋に赤が伝う。
男は帽子をグリグリと踏み躙り、なおも拳を持ち上げる。
「なんだぁ、その反抗的な目は!? オラ、オラ、オラァ!」
ガン、ガン、ガンと何度も何度も男はレッドを殴る。
「痛いか? 痛いよなぁ。けど、まだ殴りたりねーよ、クソガキ。俺の流儀は、やられたらやり返す――十倍返しでなあ!」
殴る。
殴る。
激情を吐き出すように、そして激情が薄くなると今度は陶酔染みた狂喜を滲ませ――激昂していた男はいつの間にか唇を三日月につり上げていた。
ベトベトンがレッドの身体を締めつける。男を睨みつけていたレッドの顔が苦痛に歪むと男は更に狂喜する。
「本音を言うとこのままぶち殺してやりたいところだが、お前には聞かないといけないことがあるからな。今はこのくらいにしておいてやるよ」
レッドの髪をぐいと掴み、強引に面を上げさせる。
「お前が逃がしたあのポケモンはどこに行った? あいつは俺の獲物だ」
「………………」
「ベトベトン」
ギリギリギリ! と締めつける力が強くなり、レッドは呻いた。
「まだまだベトベトンの力には余裕がある。こいつが本気を出したらお前の全身の骨を粉砕するどころか血肉すら押し潰すことも可能なんだぞ。怖いだろ? バキバキに骨を砕かれたくはないだろ? もう痛いのは嫌だろ? 解放される手段はたった一つだけだ。――あのポケモンはどこへ行ったのか教えろ」
粘着質な声音で再び問いかける。
ベトベトンの力が緩む。あのままじゃとても返答できないと理解したのだろう。
「さあ!」
脅迫する男にレッドは力なく笑い――言う。
「誰が言うか、このブサイク。pixivレッドさんを見習え、バーカ」
「このクソガキィ! そんなに死にたきゃ、ぶっ殺してやる! ベトベトン、“どくづき”!」
ゲル状の一部が鋭利な針に変貌する。その先端から滴り落ちる液体はじゅわりと地面を溶かした。
挑発したのは失敗だったかなぁ、とレッドは他人事のように思った。激痛のあまり感情が麻痺をしたのかもしれない。
脆い人間の身体だ。毒により力尽きるより早くその一突きで即死することになるだろう。
後悔の念がないのは、きっと、ラティアスが無事逃げることができたから。
針が飛来するのを最後に、レッドは観念して静かに目を閉じた。
――ドォン!
「ぎゃはあっ!?」
ブサイクのブサイクな悲鳴。
目を開けると、目と鼻の先に“どくづき”により形成された鋭利な針がピタリと止まっている。そして、その向こう側にある光景を認めたとき、レッドは激しく動揺した。
ラティアスがいた。
逃げたはずのラティアスが――いた。
男に思い切り体当たりをぶちかまし、ひょろりとした長身痩躯の身体はボールのように転がった。
硬直するベトベトンの隙をつくように、ラティアスはレッドを奪い取り、その背中に放り投げてその場から逃げ出した。
茂みや木々を一気につき抜け、距離を稼ぐ。見晴らしの良いところに抜け出すと、ラティアスは停止した。
「バカ! なんで逃げなかった!?」
ラティアスの背から降りたレッドは堪らず叫んだ。
しかし返ってきたのはラティアスの頭突きだった。互いに額と額がぶつかり合い――そして二人して悶絶する。
なにを、と顔を上げたレッドにラティアスは怒る。
レッドがびっくりするくらい怒っていた。そしてラティアスは目聡く、レッドが仕舞っていた“モンスターボール”の存在に気づくと、エスパータイプの超能力でさっと奪い取った。
もはや止める暇もなく、ラティアスは自ら“モンスターボール”の中に入ってしまう。抵抗などあるわけもなく、“モンスターボール”は静かにラティアスを捕獲した。
その――あまりにあっという間の出来事に、レッドは痴呆のように呆然と“モンスターボール”を凝視している。“モンスターボール”の中ではラティアスがしたり顔で得意げに笑っていた。
「ッ」
正気に戻ったレッドはラティアスをボールから出した。
「どうして」
「――――――」
真っ直ぐな瞳に見返されて、レッドはその続きを述べることができなかった。
静謐な瞳は静かに物語っている。レッドに語りかけている。
たった、たったの一言だけを、瞳に乗せていた。
――本当にわからないの?
どれだけ駄々を捏ねられようと屈するつもりのなかったレッドの決意は、その、たった一言に打ち壊された。
余計なものを一切省いた、飾りも理屈のない想いに勝るものはない。
雷のような衝撃が全身を駆け抜け、身体が震える――そして理解した。
自分がラティアスを求めていたように、ラティアスも自分のことを求めていたのだ。
理解し、悟り、そして涙と一緒に笑みをこぼした。
「バカだなぁ、俺」
ラティアスにも、あの男にもぶつけた言葉だけど一番バカだったのは間違いなく自分だったのだ。
「お前の幸せは、ここにはないと思った。野生の――人のいないところにしか本当の幸せはないと思った。けど、違ったんだな」
コクリとラティアスは満足げに頷いた。
「一緒にいたい――そんな自分の想いを一方的に押しつけるのはどうかと思った。聞くのが怖かった。お前の幸せはそうじゃないと首を振られるのが怖かった。だから勝手にお前の本当の幸せは別のところにあると思った」
だけど、そんな想いが、そもそも一方的だったのだ。
本当にラティアスの幸せを願うなら、怖くてもラティアスに聞かなければならなかった。
彼女がどうしたいのか。なにを願っているのか。
勇気を出して、しっかりと聞き届けないといけなかった。
「結局俺は、自分のことしか考えていなかったんだな……」
呆れるほどに自分勝手で、見放されておかしくないほどの愚行だった。
それなのに、ラティアスはこうして戻ってきてくれた。
万感の想いを閉じ込めた涙が滂沱と流れ落ちる。
ラティアスは、ぺロリと頬を伝う涙を拭うように舐めた。レッドは振り切れた感情のまま嗚咽をこぼして、
「ラティアス」
その金色の美しい瞳と目を合わす。
「ずっと一緒にいたい。ずっと、ずっと」
余計なものをすべて省いた、素直な気持ちをぶつけた。
◇◆◇
どうやらあの男の執念は並々ならぬもののようだ。しつこくラティアスを捜索していたことから大体想像はついたが、さすがにうんざりする。
男はベトベトンを引き連れて、再度二人の前に現れた。
ラティアスに体当たりをされた際に骨が折れたのか、左の腕はだらんと垂れていた。ざまあ。
そして当の本人は完全にブチ切れていた
血走った目はもう真紅一色に染まっている感じで、ますます狂人に磨きがかかっている。
自分をこんな目に合わせたラティアスもすっかり憎しみの対象に入ったらしく、憎悪にまみれた瞳で叫ぶ。
「殺せぇ、ベトベトン!!」
ベトベトンが野太い地響きするような声を迸らせながら、身体を大きくしてこちらを飲み込もうとする。
レッドは一言、ラティアスに指示をした。
「“サイコキネシス”」
「バカが! 俺のベトベトンは“サイコキネシス”一発じゃ――」
そう、確かにエスパータイプの技は毒タイプに効果抜群のダメージを齎せるが、ベトベトンというポケモンは特防に優れた種族だ。たった一度だけ弱点を突かれたくらいで落ちるほど柔な身体はしていない。相手が低レベルなら尚更だ。
しかし――その一撃の元にベトベトンは屈することになった。
「なっ――」
「当たり前だ」
驚く男にレッドが言う。
「アンタがここに来るまでに、ラティアスはひたすら“めいそう”を積んでいた。いくら相手がベトベトンだろうと一撃で屠るには充分すぎる火力を、今のラティアスは持っているよ」
ギリ……! と奥歯を噛みしめた男は次のポケモンを取り出そうとしたが、それより早くラティアスの念力が男の動きを封じ込めた。
なんとか動こうと必死にもがく男に、レッドは歩み寄る。
「アンタは言ったよな。俺の流儀は、やられたらやり返す、十倍返しだ――って。なら、今度は俺の流儀を教えておこうと思う。だって、不公平だもんな」
レッドは視線を男の股間に向ける。すると男の表情は目に見えてわかるほど青褪めて。
「やられたらやり返す! やられてなくてもやり返す! 百倍返しですが、なにか!?」
今度こそ、完全に、容赦なく、レッドは棒ではなく玉を潰すことにのみ集中して――蹴るべし!
やはりというか、男は悲鳴を上げることもできず白目を剥いて、ぶくぶく泡を吹いて気絶した。
そして、レッドは最愛のパートナーと心の底から笑い合うのだった。
◇◆◇
それから数日後、レッドが朝食を作り終えて調理器具の洗い物をしている頃に、その少女は起床した。
新雪のような純白の長髪に、鮮やかな金色の瞳。瑞々しい柔肌を包むのは、まるでサンタクロースのコスプレ服のようで――全体的に白と赤を基調にした、百十センチあるかないかの小さな小さな少女だった。
レッドは少女がキッチンの向こうにあるリビングに来たことを足音で察して、声をかける。
「遅いぞ、ラティ」
しかし、そんなレッドの声を聞かず少女――ラティはレッドに突撃した。
すりすりと頬擦りをしてくるラティに、レッドは手を拭い水気を除いてから、よしよしと頭を撫でる。おはよう、と挨拶をするが少女から返答は来ない。
まあ、わかりきっていることだ。
擬人化するまでは可能でも人語を話すことはできない。
しかし代わりに首から吊り下げているスケッチブックを開き、ラティ――ラティアスは『おはよう!』と書いたページを見せてくる。
そしてニコリと無垢に笑うのだ。
ラティアスというポケモンは他のポケモンが持ち合わせていない特別な能力を持っている。
それは人間に化けるという能力だ。この能力を使用して、ラティアスはラティという少女に化けて過ごすことで人に抱いている苦手意識を少しずつ改善しようと思ったのだ。この作戦は中々に功を奏しているようで、未だ一人で外出することはできないが、レッドやナナミ以外の人とも接することができるようになっていた。唯一の欠点は声帯機能がなく、喋れないことだが、この問題はスケッチブックを持たせることでほぼクリアした。
その可憐な容姿と無垢な性格が相俟って、ラティは中々の人気者になっていた。そう、むしろレッドがおまけになるレベルで。
ラティアスの苦手意識が改善されるのも時間の問題だ。
レッドとラティアスは食卓に座り、食事を開始する。
レッドは器用に箸を使用しているが、ラティはフォークを逆手に握り、拙い動作で食べている。おかげで口元が汚れたり、テーブルに落ちたりするのだが、これは慣れの問題だ。
「………………」
レッドはジッとそんなラティの様子を眺める。
パクリと食べて喜色満面の笑みを咲かせる顔を見ていると、なんだか胸が温かくなってくるようだった。
少し己のキャラと違う気がするが、それはそれで悪くない気分だ。
「………………?」
レッドの視線に気づいたラティアスが小首を傾げる。二つあるスケッチブックの一つ――テンプレ用と表紙に記されている方をパラパラとめくり『どうしたの?』と書いたページを開いた。
「いや、なんでもないよ」
『本当?』
とページを見せるラティアスに「まあ、敢えて言うなら」と言って、少し恥ずかしそうに、
「ただ、これからの日常が楽しみなだけだよ」
するとラティアスは満面の笑みで応えてくれた。
『うん!』
きっと、今日も素晴らしい日常になる。そして明日も、そんな日常が続いていくのだ。
家族ともパートナーとも呼べる彼女の笑顔を見つめて、小さな幸せを噛みしめる。
当たり前の日常に感謝して、その当たり前の日常をくれた彼女の笑顔を目にするたびに愛しさが募って、昨日より素敵な今日を生きる。
レッドはテーブルの脇に置いている“モンスターボールに”目を向けた。
生命を背負う、そのボールを見て――嗚呼、最後まで背負いきってやろうじゃないか、と覚悟を決める。
そうして、レッドは“ポケモンマスター”の道を一歩だけ踏み出すのだった。
ラティアスの擬人化は賛否あるかもですが、当初より予定していた展開でした。
映画でも漫画でも擬人化してましたし、問題ないよね!
ですが、ラティアス以外は絶対に擬人化させるつもりはありません!
あと、ちょっと過去話に修正を。
以前は技名をポケモンに仕込むと執筆しましたが、ポケモンの言語は未だ解明され切っていないので、そのポケモンがどんな技を覚えているのか人は未だ把握し切れていない――という設定に変更しました。まあ、あまりに気にしなくて大丈夫です。
そして主人公のうじうじタイムは終了しました。
次回より、基本的に頭のネジが完全に外れた問題児路線をひたすら驀進します。