県大会決勝を終えた天江衣は、その翌日、これまで一度も入らなかった今は亡き祖父の書斎に足を踏み入れた。
祖父のことについては、幼いころの記憶では、衣にとっては畏怖の存在であったからか、近寄りがたく、記憶も殆ど無かった。
その男は、怪物と言われていたからである。
両親を失い、友人を失った頃、衣は祖父を意識し始めた。
祖父も自分のように孤独だったのかと思うようになった。その頃に一度、天江は祖父の書斎の扉の前までには行った。
しかし、その扉から発せられる邪気のような何かが、やはり彼女を怯えさせ、結局は入らず仕舞いだった。
アカギと打ったことにより、衣はまたも祖父を思い出した。
しかしそれはこれまでとは違い、より明確なヴィジョンとして彼女の意識の中に現れた。決勝戦後半、まるでその祖父の力が自分に宿ったかのような麻雀は、彼女の祖父に対する恐怖を興味という形に変貌させた。
書斎の中は特に変わったものではなく、入ってみれば何ともない部屋だった。しばらく誰も入っていなかったものだからか、書物にせよ、机にせよ、椅子にせよ、殆どのものに埃がたまっており、1センチ以上も積っているところもあった。
衣が動くたびに埃が舞い、彼女はむせながらも部屋の中を見回った。
机の上には黒い長方形の箱があり、その中には麻雀牌があった。その麻雀牌は透明のガラスで出来ていた。そのシンプルなデザインと、発せられる冷たい空気に衣は魅せられた。
彼女はその牌について、部屋の外に待機していた鈴木という『黒服』に聞いた。(書斎は黒服の許可を得て入室している)。なお、鈴木は元『白服』だったが、訳あって現在は『黒服』である。
鷲巣麻雀のこと、アカギのことを知った彼女は自分の部屋にそのガラス牌を持って帰り、部屋の中でそれをじっと何時間も何時間も見続けた。
それは毎日続き、個人戦にも出ず、その日も部屋で一人その牌に触れていた。
彼女はその牌を見て、触れることでその牌の持つ歴史を感じていた。そしてある日、普通の牌がガラスのように透けて視えるようになった。彼女はそれを、運命と思った。
◆
南四局一本場 親 衣 ドラ {①}
アカギ 39500
福路 13400
久 14900
衣 32200
東家 衣 配牌
{一三七①③1113東南北白発}
これから八巡、衣が取る7つのツモ牌は、{2}、{二}、{①}、{①}、{1}、『黒牌』、{①}。
勢いは継続されており、テンパイだけなら{1}ツモの時点でテンパイ。衣には嶺上牌も当然見えており、嶺上牌は{発}。四枚目の{①}をツモった後、暗槓をし、嶺上開花でアガる。それが最速のルート。
牌が透けて視える。最初はそれは海底牌だけであったが、後に海底と同じ牌、同じ種類牌の四枚中一枚、四枚中二枚、と視える範囲は次第に伸びてきた。
現在は四枚中三枚の牌及び、海底牌と同じ種類の牌が透けて視えている。
満月の夜ならば、全ての牌が視えるのかもしれない。
しかし、福路は四局で、アカギは一局でその能力を看破した。
合理性よりもむしろ、感覚を重点に置いて打ってきた衣にとって、嫌でも合理的に打つことを重んじられるこの一人鷲巣麻雀が慣れたものでは無かったのもあったが、アカギはともかく、福路美穂子の対応力に関しては完全にイレギュラーだった。
異能が、またも異能を持たぬ者に苦しめられる。
福路への連続の振り込み、そして彼女が弱まったのは、祖父もこうだったのか、と祖父の経験を追体験している思いになったからである。
一人だった彼女も、そしてその祖父も異能であり、孤高の存在であった。
彼女が望んだものは、奇幻な手合い、同じ異能の類だった。相手が異能なら、自分と同族であり、友人が出来るということであり、そして負けても納得もできるし、理解もできる。
しかし、彼女を追い詰めたのは異能ではなく、異能を持たぬ者。納得も、理解も出来ない上に、まるで世界の理の外の現象のようで、それは彼女を凍えらせるものだった。
局は進んだ。
「ふぅ…ようやくね………」
六巡目、北家、久からリーチが入る。イレギュラーはもう一人いた。イレギュラーはそのテンパイやリーチという行為ではなく、その待ちである。
北家 久 捨て牌
{西東⑦2④横二}
「止めたのはいいが、アガれるのか?そんな待ちで…」
衣は言った。彼女の目から久の待ちは{一}単騎。{二}、{三}、{四}、{五}を持っている形に{一}をツモり、{二}を切ってのリーチだった。つまり悪待ちである。
止めた、というのは同巡すでにアカギも張っており、その待ちが{一}、{四}というのが、衣には視えていたからだ。
南家 アカギ 手牌
{一二三四②③④234中中中}
捨て牌
{北白八九8⑧}
「あら?天江さんには次の私のツモ牌でも視えているのかしら?未来は誰にも見えないものよ?」
衣は戦慄した。その言葉そのものではなく、その言葉が事実であったことに。
久の次のツモ牌は、視えない牌、つまり『黒牌』だった。
感覚よりも目で見える事実よりも正確な『予感』は、その牌が四枚目の{一萬}であることを示していた。
(このままでは…ツモられる…なら…)
「チー!」
東家 衣 手牌
{一二三①①①111123発} チー {二} 打 {発}
↓
{二①①①111123} チー {横二一三}
捨て牌
{北白七③東南}
{発}
(ずらさなくては。嶺上開花でのアガリはこれで無くなるが。これで奴のツモ、つまり{一}を喰いとれる。それに、このツモがずれたことで、その次の衣のツモは…{三}。純チャンドラ3で止め、衣の勝ちだ)
「ククク…だがな天江…、事はそう単純じゃないぜ…」
イレギュラーはもう一人…。そしてもう一人…。
「ポンします」
その声は対面、福路美穂子のものだった。衣の打{発}を鳴いた。そして打{8}
(しまっ……)
衣の思惑は鳴かれないこと前提である。それにも関わらず『生牌』の{発}を切ってしまったのは、彼女の焦りもあるが、彼女の視点では福路の手牌の二枚の{発}の内一枚は『黒牌』だったこともある。
(私は、まだあきらめないわ。華菜)
西家 福路 手牌
{七八九九⑦⑧⑨999} ポン {発横発発}
捨て牌
{②6白東南中}
{8}
(待ちは{六}、{九}…。けど、逆転には三倍満のツモが必要。この面子にもう直撃が出来るとは思わない。高めでもまだ発、チャンタ…足りない。鳴くのは悪手…でも…相手は『視える』天江さん。視点移動から、彼女は恐らくこの局は『アガリへの』最速ルートを通れる。普通に打ったら…間に合わない)
久にツモ番が回った。全ての鳴きが無ければ、このツモは衣のツモ牌。衣の視点では黒牌だった牌。それを手にした久は顔を歪ませた。
(リーチかけちゃってるから…切るしかないわよねぇ…)
切った牌は{9}。
「カンします」
福路は{9}を鳴き、嶺上牌をツモる。
その牌は、衣の計画では衣がツモるはずだった{発}。当然のようにこれもカンした。
そして二枚目の嶺上牌は{⑨}。福路は小考の末{⑦}を切り、テンパイを外した。
西家 福路 手牌
{七八九九⑧⑨⑨} 加カン {発
(この手…まだ終わらない…)
福路の予感は的中した。開かれた二枚の新ドラ表示牌は二枚とも{8}。つまりカンした{9}がごっそりドラとなった。
(これでドラ8…もし、テンパイにとっていたら高めチャンタ、発、ドラ8で倍満止まり。逆転できないでいた)
またも、久の番が回ってきた。通常ならこれはアカギのツモ牌。{九}。またもツモ切るしかなかった。
(裏目!?……いや違うわ!)
「ポンします!」
間髪入れずの福路の鳴き。打{⑧}。
西家 福路 手牌
{七八⑨⑨} ポン {九九横九} 加カン {発
そして久のツモ…。本来なら福路のツモ。今度は{⑨}。
(まるで清澄の副将さんね)
「ポン!!!」
福路はまたも鳴き、打{八}。もはや危険牌などの概念は彼女には無かった。
彼女が待った牌は、衣には視えていない黒牌であった。
西家 福路 手牌
{七} ポン {⑨⑨横⑨} ポン {九九横九} 加カン {発
(これで、トイトイ三色同刻ついて数え役満確定!華菜……)
だがこの行為は、久の和了に貢献するものでしかなかった。
衣には久がツモる『黒牌』が解っており、久はもう和了ってしまうのだと知っていた。
久の次のツモは、彼女がリーチした時点で彼女がツモるはずだった牌。衣の予感した牌だった。
久はその牌の腹を指でなぞり、ニヤリと口を歪ませた。そして牌を右手の親指の爪の上に乗せ、コイントスの要領で牌を宙に飛ばした。
「ツモ!!!」
手牌を倒し、落ちてくる牌を右手でキャッチし、卓に叩きつけた。
「リーチツモ三色同刻三暗刻ドラ4!」
北家 久 手牌
{一三四[五]五五五[⑤][⑤]⑤[5]55} ツモ {一}
リーチ ツモ 三色同刻 三暗刻 赤4
「これではまだ倍満…だけど、裏が一個でも乗れば、私の勝ちよ…」
(アカギ君に、初めて勝つ……か)
もはや久の二着以上は確定しており、勝負は、アカギと久のものとなった。
緊張の中開かれた裏ドラ表示牌は、{六}…{⑧}…{白}…。
ドラは乗らず、竹井の手は4000・8000の一本場で止まり、決着がついた。
南四局一本場終了
アカギ 35400
福路 9300
久 31200
衣 24100
「あーあ。一発ツモなら逆転だったか…。アカギ君。これも計算の内かしら?」
「ククク……さあな……」
(惜しかった…のかな…。負けちゃった…。でも…諦めなかった。それだけでも、その思いだけでも…)
「華菜…ありがとう」
「え?なんでですか?それより惜しかったですよキャプテン!気にしないでください。たまたまですって。実力なら、キャプテンの方が全然上でしたし!」
「ううん…。私もまだまだ、って思えたわ。この合宿に参加して…よかったわ。こういう経験が出来て…」
「どうしてですか?」
「伸びるってことよ。私もまだまだ…フフフ」
久はアカギと、福路は池田と談笑する中、衣は考える。
異能も異能を持たざる者も、そんなものは本当は無いのではないか。
境界などはなから存在しないのではないか。
異能だから違う、持たざる者とは付き合えない。
そんなものは……ただの思い込みだったのかもしれない。
そのとき、衣は心の中の何かの枷が外れたような気がした。
そして、その表情は自然と柔らかくなり、アカギや、福路たちの輪の中に入った。
―もう壁はない
―天に地に、希望があふれているみたいだ