「ケイー、起きろー」
アミナの声と共に始まる朝。新しい『日常』が始まってから、もう何度目の朝だろう。
「ん…重い…」
いつも乗っかかってくる彼女の体重は、以前より重くなっている気がする。健康で、しっかりと成長してくれているのだろう。そう思うと安心する。前の彼女の体重は、あまりにも軽すぎた。
「コラー、ケイ、女の子にそんなこと言っちゃ駄目じゃないか。アミナちゃん傷ついちゃうぞ?」
台所の方からは、味噌汁の匂いと共に桂木さんの声。この日常が始まってから、彼女も朝と晩来るようになった。いいよって言っても、強引に来る。アミナにろくな飯も食べさせていないんだろって。確かにそれを言われると返す言葉も無いし、実際に助かっている。
「そうだな…すまないアミナ。だけど、上に乗らなくても、声で起きれるよ」
「チガウ。起きないから乗ってる」
「そうか?」
「そうだよケイ。ここ最近寝坊助状態で、アミナちゃん苦労してるんだぞ?」
そう言いながら、桂木さんは朝飯の乗ったお盆をテーブルに乗せて、座った。僕も身体を起こした。
アミナ、桂木さん、そして僕。食卓を三人が囲む朝。外の音や食器の音、一言二言の何気ない会話。静かに時は流れていく。こんな朝が訪れるなんて、以前には想像も出来なかった。
「そろそろ時間じゃない?」
桂木さんがそう言うと、確かにそうで、僕とアミナは学校に行く準備を始めた。
「ちょっ…ここじゃなくて向こうで着替えてよ!」
これまでの慣れで、ここで服を脱ぎ始めた僕に対して桂木さんは言った。
「あ…ご、ごめん」と僕は謝る。
「アンタ…ワザとやってるでしょ…」
「そ…そんなこと」
そんな問答をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ…もう来てしまった。ごめん。もうここで着替える」
と言って僕は早々に着替え終えた。
「バカ……」
と彼女はそっぽを向いて、アミナの着替えやら準備やらを手伝った。
準備を終え、玄関に向かいドアを開けると、辻垣内先輩が待っていた。
「すみません。お待たせしました」と僕は謝罪をいれた。
「構わないが…随分と騒がしいな。外まで聴こえていたぞ」
先輩は飽きれたように微かに笑って僕達を見る。
「ちょ…先輩っ、何を言ってるんですか!」
桂木さんは慌てたように、何かを否定するようにそう返した。
「顔が赤いぞ桂木」
「………。さあ!行きますよ、もう!」
桂木さんは顔を伏せ、僕とアミナの背中を押して玄関から出した。
「まったく…羨ましいものだな」と、そう先輩がボソッと呟いたのが聴こえた。
アミナには学校に行ってほしいと前から思っていたが、それが実現できるのは遠い話だと思っていた。しかし、事情を知っていた辻垣内先輩が力を貸してくれて、手続きやら何やらを済ませてくれて、アミナは学校に通うことが出来るようになった。学費も、彼女の家が受け持ってくれている。アミナの送り迎えは、先輩の家の者が行ってくれている。何から何まで、先輩と、先輩の家の方には頭が上がらない。
彼女の家は、複雑な事情によって学校に通えない子供や、親の居ない子供を預かったりしている。アミナだけが特別というわけでは無い。先輩はたまにその子供たちと麻雀を打ったりしていて『先生』『師匠』などと呼ばれている。
「毎回、家まで来てくれてありがとうございます。しかし、先輩までいつも来てくれるなんて…」と僕が聞くと
「通学路が重なっているからな。ついでだ」と彼女は返す。
実際、送迎の車は二台以上持っており、途中からの徒歩も考えれば若干の遠回りになっている。ただ彼女自身、アミナが気になっているのかもしれない。これまでの人生の過酷さで言えば、アミナは正真正銘の地獄を生きてきた子だ。誰だって心配になる。
アミナの通っている小学校では留学生だけでなく、特殊な事情を持つ子供も珍しくは無く、特に変わって見られるということも無く、友達も出来、楽しくやっているそうだ。
「いってきまーす!」
車に乗るアミナを見送る。学校はアミナの方が先に終わるから、僕が帰ったら、今度は「おかえり」と言ってくれるのだろう。そして僕は「ただいま」と返す。それが今の日常。もしかしたら、これが『完成』なのかもしれない。幸せと言う名の完成。人生の墓場。終着点。
これは、この日常は、竜さんが僕の代わりになってくれたことで成り立っている。
病院でその話を聞いた時は、嫌だった。竜さんには感謝している。あの決勝だけでなく、僕とアミナのために打ってくれた。ただ、僕の手の届かない所で僕のことを勝手に決められたことには納得がいかなかった。あの場所は地獄ではあったけど、でも僕が自ら選らんで居た場所でもあった。
けど、アミナのことを想うと、今のアミナの笑顔、偽りの無い笑顔を見ると、これで良かったのだと思うしかなかった。アミナは、僕が勝負の場に居ることを、地獄に居ることを望んではいなかった。そこには居てはいけない、命が大事、普通が一番と何度も言っていた。
その通りだ。
そうであるべきなんだ。
何度も自分に言い聞かせた。
これ以上ないものを手にした。これはもう、失ってはいけない。失いたくない。
なのに……
何故だ……
ボクはおかしいのか?
狂っているのか?
狂気の世界にいないと落ち着けないのか?
普通の世界の何がいけない。これで良いじゃないか。
人は必ず死ぬ。ならその墓場は、より良い方が良いに決まっている。
ボクのいるこの墓場は、最高のものである筈なんだ。
だけどなんで……
こんなに苦しいんだ………
―――
――――
―――――
「ロン…12000だ」
あ……
「ぬるいぞ…ケイ」
部活。
まだ続けている部活。
鉄壁先輩に、振り込んでいた。
「珍しいな。お前がこんなにもあっさりと振り込むなんて」
同卓している辻垣内先輩が言った。
「いや、最近はこんな調子だ。夏の大会以降、だんだんと集中力が下がって来ている」
確かに鉄壁先輩の言う通りだ。感覚が、前には確かにあった感覚が、無くなっている。
「そんなんじゃ、清澄の須賀君にはとうてい及ばないな」
鉄壁先輩の口から出た名前、学校…清澄…。
「須賀クンと言えば、確か個人戦男子の部で優勝した方でしタネ」
同じく同卓していたダヴァンさんが言った。
僕以外の三人はもう三年。麻雀そのものを引退するわけでは無く、雀士としての未来は普通に存在はするのだが、それでも来年の夏が存在するわけでは無い。こんな僕と打ってくれていることに、僕は情けない気持ちになる。申し訳なく思う。
「ああ。彼は強かった」
「決勝は赤有りのルールがかなり彼を味方した展開になっていたな。去年のルールだったら鉄壁が勝っていただろうが」と辻垣内先輩は言うが
「いや。去年のルールでも僕が負けていたと思う」と鉄壁先輩は否定した。
「彼の麻雀にはスタイルが存在しない。局面に応じて戦い方を変えることが出来る。清澄で言うなら、傀のように流れを掴んだかと思えば、竜のように流れ無視の鳴きからの和了も見せるし、アカギのように予想外の一打をすることもある」
「それは手ごわいでスネ。私も戦ってみたかったデス」
「メグ、彼は団体戦に出ていないから、メグが団体戦に出ていたとしてもどの道当たることは無かったぞ」
そう。清澄の須賀京太郎は団体戦には出ていなかったが、個人戦で恐ろしい力を発揮していた。団体戦に彼がいれば、清澄にとってはかなり楽な展開になっていただろう。向こうにも向こうの事情があるのだとは思うが、奇妙には思えた。
「個人戦と言うと、そろそろあの大会の時期も近付いてきたな」
辻垣内先輩が言った。あの大会?
「ああ、そうだな。もしかしたら彼なら、参加したとしたら優勝も出来るかもな」
「あの…あの大会…って」
僕は聞いた。
「ん?今年は桜輪会主催だから、君は聞かされていると思っていたが…」と辻垣内先輩は言ったが、すぐに訂正した。
「いや…君はもう関係ないんだったな……すまない」
「いえ…。お気になさらずに。それより、大会とは…」
「【洋上麻雀大会】だ」
鉄壁先輩が説明してくれた。
無法地帯、異常地帯で行われる、億という額が飛び交う裏の大会。インハイ、インカレ個人戦優勝者のみ無条件で参加できる。よってインハイ個人戦優勝者の須賀京太郎、宮永咲には参加資格が与えられている。
「そんな大会に、何故一般の人間が参加できるのですか?」と僕は聞いた。
「これは僕も夏の大会で知ったんだけど、団体戦決勝まで勝ち残ったメンバーや、個人戦優勝者ともなるともう…『普通の人間』として見られないらしい」
鉄壁先輩が言うに、洋上麻雀大会は『単なる裏の大会』では無く、【ある組織】の『実験』も関わっているらしい。だからこそ、力のある個人戦優勝者は無条件で参加させている、らしい。ただ、それなら団体戦優勝校のメンバーも参加資格が与えられるかと思うと、そうでも無く、謎の多い大会だ。
部活が終わり、気が付いたら僕は職員室に向かっていた。
職員室に入ると、視線の先にはD・D。僕は、何をしているんだろう。
D・Dの隣には女性の外国人教師が居た。確か名前は、アレクサンドラ・ヴィンドハイム。アレックス先生、サーニャ先生と生徒からは呼ばれている。今年度から物理を教えている。彼女は今、D・Dと何やら話している。
「それじゃ、よろしく頼むよ」とD・Dは話を切り上げ、アレックス先生は席を立った。
彼女は僕の横を通り、ちらとだけ僕を見、そして職員室を後にした。
「そして…君は来ると思っていたよ。そろそろね」
D・Dは僕に向けて言った。彼には、何もかもわかっているようだった。
「先ほどは?」
ただその前に、アレックス先生と話していた内容が、少し気になった。
「ああ。少し先のことになるけど、長野の清澄の方でちょっとしたイベントがあってね、私は他に予定が入ってるから、彼女に代わりに行ってもらうことになった、という話だよ」
「清澄で?」
「それよりも…【洋上麻雀大会】、出たいんじゃないのかね?」
核心だD・Dが言ってくれたそれは、今の僕の中の核心だ。
「はい…」
と僕は答えた。答えはそれしかなかった。
アミナと桂木さんと、そして僕がいる部屋。
三人は食卓を囲み、たまには雀卓も囲んでいる。
そこにある、アミナと桂木さんの、偽りのない笑顔。
この日常は、竜さんの犠牲によって手に入った日常。
ボクは…
「一つ言っておくよ。今の君は、間違いなく幸せだ。たとえそれが他人から与えられたものだとしても、それは変わることは無い。君の行為は…間違った行為だ」
「はい…しかし…」
「『納得』したいんだね?」
そう……
ボクはまだ……その結末に『納得』していない。
墓に入るというのなら…もし許されるのなら、自分の意思で納得して入りたい。
たとえ納得できなかったとしても、納得出来るかもしれないチャンスがあるというのなら、それに飛び込みたい。
「…わかった。君が望んだ結末になるのかは保障しないが…、大会日までに参加費の20億を稼げるアルバイトを教えよう」
「アルバイト?」
僕が来ることは予想していたにしても、20億と言う無理難題の解答がアルバイトだったのは意外で、正直驚いた。
「私はそんなに金を『持っている』わけでは無いからね。資金は自分で集めなさい」
「そんなバイトが…あるんですか?」
「鷲巣が今週末、誠京を殺りにいくから、その手伝いをすると良い。鷲巣は私に『あの世』…【オーバーワールド】で借りがあるし、まぁ私の方から話はつけておくよ」
「借り…【オーバーワールド】?」
「話せば長くなるけど、一言で言ってしまえば、今の若い彼がこの世で生きているのは、私のお陰だからね。
D・Dから聞かされた話は御伽噺にしか聞こえないと思われてもおかしくない内容だったが、鷲巣巌が異常な強さを持っており、彼の力なら大金などあっさりと手に入れるだろうというのは間違いなく、僕は彼の『手伝い』をすることに決めた。
アミナと桂木さんには、近付いている学祭での麻雀部の発表の準備のため、学校に泊まっていく、という嘘をついて、僕は鷲巣巌と共に、誠京に行く。
辻垣内先輩には話を合わせてもらうことにした。
「気持ちは分からないでもないが、君は間違いなく、間違っている」
彼女にも言われた。
「わかっています…。ただ僕は『納得』出来るかもしれないチャンスに、飛び込みたいだけです…。これ一回きりです。もし海の上で納得が出来なかったとしても、もう後悔はありません。僕は今の、この『墓場』を受け入れます」
「そうか…。止めはしないが、だが、アミナはお前の嘘を近いうちに見抜くだろうな。今回はともかく、海の上に行く前には、彼女と一回、話しておく必要が出てくるはずだ」
「嫌われるかも…いや…捨てられるかもしれませんね……僕が彼女に……」
「そう悲観的になるな。もうアミナは、お前を損得のみの対象とは見ていない。悔しいことだがな…」
先輩の表情は柔らかかった。ただ、それはどこか儚さをも含んでいるように見えた。