合同合宿中とて四六時中麻雀を打っていたわけじゃない。
風呂上りに丁度いい場所にそこそこ広めの卓球ルームもあって、そこでは池田さんと井上さんが打っていた。それを見ていた東横さんと加治木さんがやり始め、それからどんどんと人口が増えていって卓球大会、という流れだ。俺とアカギも参戦した。
中学の時ハンドをやっていたし体力には自信があったが、二回戦目でアカギに負けたのは屈辱だった。これくらいは勝ちたかったが、あいつは何でも出来るようだ。アカギは決勝までいって龍門渕さんと打っていた。
暇になった時間、俺は壁際の長椅子に座ってカツンカツンとやかましい卓球台の方をぼうと眺めていた。そうして暫くしていたら、隣に原村さんが座った。どきっとしたが、俺が麻雀を始めたきっかけの人であり、何より綺麗で浴衣で胸が大きい。緊張したのは当然だった。なるべく平静を装って、俺は彼女にどうもと頭を下げる。原村さんも応じてくれた。
彼女は一息ついて、「卓球って、疲れますよね」と言ってきた。「そりゃスポーツですから」と俺は返した。視線は自然と胸の方にいったが、直ぐに前に戻した。心臓に悪い。その挙動が急すぎたか「どうかされましたか」と気を遣わせてしまった。しかし心配してもらったのは悪くなかった。アカギに感謝。
めったに訪れない機会だったから、俺は原村さんに言った。自分が麻雀を始めたきっかけはあなたにあった、と言うことを。さすがに街頭ディスプレイに映った原村さんに一目惚れ、とまでは言えなかったため若干嘘が混じっていたが。そしたら彼女は目を細めた。「本当ですか?」と疑いの目。確かに、俺の麻雀は彼女とはかけ離れている。だけど、環境が環境だった。清澄高校のメンバーは、みんなおかしな麻雀を打つ。影響を受けない方が無理ってもんだ。
彼女は「確かに、みなさん変な麻雀を打ちますね」と言った。でも俺は、それでも原村さんの麻雀には憧れがある。風越の麻雀部にいたら、進んで原村さんに麻雀を教わりにいっていただろう。と言ったら、少し彼女は赤くなった。
「でしたら…」と彼女が言ってから、自然と会話は麻雀にシフトしていった。合宿中のあの時のあの打牌はどうしてそう打ったのか、とか、こうこうこういうケースだとこう打てば受けがどれだけ広がる、とか、和了率だけでなく打点、鳴きのタイミング、リーチに入る基準、期待値の話。
「須賀さん!?」と彼女は驚いた表情でこっちを見た。太ももに落ちた滴で、自分がその時泣いているのを知った。あまりにも感心してしまっていたからだろう。こんなにも麻雀の話をしたことなど無かったからだ。あいつ等は殆ど喋らない。理論など知ったことかとめちゃくちゃな麻雀を打つ。そんな中での牌だけが数少ない対話の手段であって、麻雀の話を、声を、会話を通してすることが、これほど良いものだったなんて知らなかった。
俺は原村さんが好きだったし今でも好きだ。だけど、麻雀の事がここまで好きになっていたなんて、自分でも驚いた。俺は卓球大会が終わるまで、試合そっちのけで原村さんと話した。好きな男性のタイプだとか、麻雀以外の趣味だとか、もっと色々聞くべきことがあったのだろうが、全部、全部麻雀の話だった。
◆
龍門渕高校麻雀部の部室とて、常に麻雀が行われているわけでは無い。寧ろそうで無い時間帯の方が長く、土曜の朝など、各々が別々の事をしている光景が基本である。純は新聞を広げ、智紀はノートPCをいじり、透華は落ち着かない様子で部屋を歩き回っている。
彼女達は朝食も部室で取り、この部室は彼女達の家の如くである。その朝食を運んでくるのが、メイドのはじめと歩、そして執事のハギヨシである。
「とーか、気持ちは分かるけど」とはじめはテーブルに彼女の分の朝食を乗せる。
この部屋には、普段いるはずのもう一人がいない。
「衣なら大丈夫だって。不安になるくらいなら行けばよかったじゃん」と純はパンを頬張りながら言った。
「20億なんて大金を私個人が使えると思って?」と彼女は返す。
「何とかなるんじゃねーの?ここお金持ちだろ?あるいは権力とか」
「限度ってものがありますわ!そもそも、ハギヨシが行ければこんなことには!」
「透華お嬢様、前も言いましたが、私はあの場所に行くことが出来ません。取り込まれてしまい、逆に衣様に迷惑がかかってしまいます」
「そんなオカルト信じることができまして?」
「しかし純君、新聞読む様がますますお父さんだね」とはじめが言った。
「朝刊読んでるだけで何でお父さんなんだよ。それに、普段はよまねーよ」
「え?お父さんっぽくなりたくて、そうしてたんじゃないんだ」
「これは違う、あの船の大会が本当に記事に載ってないかどうかって」
「あーなるほど。それで、載ってた?」
「いや…」
「こっちにも載ってない」と智紀も答える。
「週刊誌の方も読んでみたが、最近ジャーナリズムが信用ならなくなってきたなー」
と、純が言うのは、船の件のみでは無く、夏のインハイにおいて発生した、通常なら間違いなく発信されるべきであろうニュースをどのメディアも取り扱わなかったからだ。
「記憶にはあるのに、記録には残らなかったアレですわね」
副将戦に起きた切腹事件、同時に発生した会場隔離現象。非現実的な後者は100歩譲って公的記事に出来なかったとしても、前者の事件は一般的に取り扱われる内容である。それが、ネットを含めてどこも記事にしていないどころか、SMS、匿名掲示板等でもそれについて書かれることが無い。
「正確には、投稿出来ない」と、智紀は実践していた。書かれた内用が検閲を受けて削除される、と言うものでは無く、投稿が反映されない。夏以降そのことをメンバーは知っていたが、それを言われるたびに彼女達の空気は一瞬固まる。直感で、それ以上踏み込んではいけないと連帯感が生まれるのだ。
その空気を壊すように部屋の扉が開かれた。入ってきたのは鷲巣巌の部下、隼。
「あまり入り込まない方が良いぜ」と彼は言った。
「どういうことですの?」透華が聞く。
「その前に、衣様は無事、船に乗れたぜ」
彼の目的はその報告を彼女達にするということがその一つだった。
「ケイも付いているから心配はするな」と隼は付け加えるが
「そのケイ君だから心配なんだよ」と純が言った。
「あの事件のことを言うのなら、逆だ。つまりあいつは約束を何が何でも守る男ってことだ。衣様の事は死んでも守ってくれる」
「そう言うもんなのか?男って」
「純君がそれ言う?」はじめはくすりと笑う。
「俺は女だって」
透華は一息つき
「わかりましたわ。信じましょう。衣は彼にお任せしますわ。それと『入り込まない方が良い』とは?」
「そうだな。沢村さん。ちょっとパソコンかしてくれるか?」
「壊さないでくださいよ」
「わかってる。【lain】…コネクト・ワイヤード」と彼が言った瞬間、パソコンが独りでに動き始めた。
真っ黒な画面に高速でコードが打ちこまれていく。1分もしないうちに、智紀のものではない大量のフォルダたちが現れた。
「何なんですの!?これは」
「玲音に【オーバーワールド】…組織の方な、のデータベースにハッキングしてもらっている。リアルタイムで閲覧しているにも関わらず、足跡が残らない上にチェックに引っかからない」
「れいん?白糸台の大将の?オーバーワールド?ハッキング?やばいんじゃないの?」
人を不安にさせる用語の連発にメンバー全員の心拍数は上がる。
「まぁ、驚くだろうな。玲音は…といっても彼女が作ったプログラムの【lain】だが、遍在しててな、いつでも呼び出せるんだ。鷲巣様とその部下、銀さん達とか、まぁ呼び出せる人間は限られてるが」
彼はそう言いながら、フォルダをカチカチと開いていき、更新日の近いファイルを開いた。メディアプレイヤーが開き、音声データのようだ。
―――
―――
―――
「9月23日、女子高生による中年銃殺事件の目撃者証言C、四回目…」
「牧野さん、御無沙汰ですね。あなたはこれから話されることに責任を持てますか……あ…牧野さん!」
―――このところ、眠れないんだ。デスクトップを見ていると、落ち着くんだ…。
「ここはほんとは禁煙ですが、落ち着くんであれば、構いませんよ…。さっそく始めますが、今日おいでいただいたのは……」
―――俺にはもうわからないんだよ!……なあ刑事さん!精神科の先生呼んでくれよ!
―――俺、もう駄目だ。死にたくなんか無いのに、つい死のうとしてるんだよ!
―――見てくれよこの傷!もう、切るとこ無いよ!!!
「第七取り調べ室だが、ドクターを連れて直ぐきてくれ。こいつも駄目だ」
―――……………
「……あーもうドクターはいい。……掃除屋を呼んどいてくれ。あと、コーヒーを一杯…」
――――
――――
――――
「名は牧野慎二。29歳。会社員。家電メーカー勤務が表向きだが、裏ではハッカーやっててな、『この件』について深く入り込み過ぎて、こうなった…っておい」
周りを見渡すと、メンバーは言葉を失っており、微かに震えていた。
「隼様、子供には刺激が強すぎたのでは」
ハギヨシが言った。
「…だな……。すまなかった。子供らしからぬ子供ばかり見過ぎてたせいで、どうやら感覚が麻痺ってたみたいだ」
(龍門渕家2代目当主が【オーバーワールド】から連れてきたハギヨシの事も、今は話さない方が良いかもな)
◆
三回戦目が終了し、1時間半程の休憩時間が与えられた。試合は半荘途中でも時間で区切られ、この時間がずれるということは無い。非公式戦であり、表向きには(どの道公表はされないが)単なる政財界の交流イベントであるが故である。休憩時間中は自室に戻って食事を頼んでも良いし、バイキングや売店を構えている広間もある。
京太郎は売店に立ち寄り、適当にサンドイッチやらコーヒーやらを手に取り、レジに並んだ。
(やたら金の掛かった船だが、売店の飯の内容は値段が倍以上の割にはコンビニと大して変わらないな…というか完全にコンビニ。大手企業のお偉いさんもここに来てるし、その関係なのかもな。代打ちなんて雇わず、自分で打てばいいのに)
と考えていると、彼の前には制服を着た女子咲が並んでいた。
「咲!」
「京ちゃん?」
振り返った彼女は姿の一部は、京太郎の見慣れないものだった。
「眼鏡?」と聞くと
「あ、ごめん…」
その時レジが空き、先にそっちを済ませた。
甲板がそう遠くない場所だったため、二人はそこに向かうことにした。
外に出てみると雲一つない空と、暑くも無く寒くも無い程良い澄んだ空気。衛星で確認できない場所、と言われていたが、嵐があるわけでもなく、灰色の世界と言うわけでもなかった。
京太郎は大きく伸びと共にいっぱいに息を吸い、吐いた。甲板には人も多くなく、静かで落ち着くことも出来た。
「で、その眼鏡は?…あと大丈夫か?…色々」
売店で買ったツナのサンドイッチを開けつつ、京太郎は聞く。昨晩のこともありやはり心配ではある。
「これは…」と言いながら、咲はその眼鏡は少しだけずらし、そしてぱっと直ぐに戻した。フレームの外側に見えると言うものでは無く、眼鏡をかけていること自体に効果があるようだ。
(外も……同じ……いや……もっとひどい……本の中の世界よりも……ずっと)
ずらした瞬間に見えた海と空は赤と黒を主としたものであり、地獄と言うのがあるのならこうなのかもしれないと咲は感じた。海と空には、少なくとも地球上の生物の形をしていない禍々しいかつとてつもなく巨大な『何か』が、視界の7割を埋め尽くす程度の数がいたが、彼女は深く考えるのをやめた。それに近いものが出てくる海外の本を咲は読んだことがあるが、その引き出しを記憶の奥底に沈めた。入り込んではならない。
「衣さん!?」
視界を戻した直後、京太郎の先に二人の男女を発見した。衣とケイ。咲は声をかけた。
「何?」
京太郎も振り返ると、確かにそこに二人を見つけた。二人の手には売店で打っていた飲み物がある。すれ違いだったようだ。
「須賀君」
ケイも気付いた。
「咲!」
約半日振りの再開。心細い、という程でもないが、周りの殆どが大人で構成されている環境もあって、やはり同じ年代の者といると安心するものであるのか、ほっとした空気がそこに生まれた。
「衣さん、大丈夫なの?」と聞くのは咲。
「大丈夫?…とは?……まぁ衣は大丈夫だが」
「え…あ、えっと(てっきり衣ちゃんもだと思ってたけど、私やミョンファさんだけなのかな?)」
「その眼鏡は何だ?雰囲気が違うな」
「あ、そうそう。俺もさっき聞きそびれてたな」
「これは……何から言えばいいかな」
「昨日のと何か関係があるのか?『見えるもの』がどうのこうのって」
サンドイッチを食べながらの質問。行儀が悪いと咲は思いながらも、分かっていることを話し始めた。
(ミョンファさんか…。あの子も眼鏡かけてたな。昨日はかけて無かったのに。今晩部屋に来るが、咲には、まぁ後で良いか)
と京太郎が思ってる時
「それなら衣も見えるぞ」
衣は大して驚く様子も見せずに言った。
(あぁ…たしかそんなこと言ってたな。『世界』…『母体』……)
ケイは一回戦目が終了した後に衣が言っていたことを思い出した。
「え?」
で、あるにも関わらず平然と出来ていることに咲は驚いた。彼女は質問した。大丈夫なのか、と。
「大丈夫も何も、衣にとっては心地よい。音も、空気も、脈動も。これはきっと、母親の身体の中なのだろう」
胎内。見ようによってはそうも見えるかもしれないと一瞬咲は思ったが
(いやいやいや、やっぱり無理だよ…)
きっと感性が違うのだろう。少なくとも自分には耐えることは出来ない。衣と自分は違う。そもそも人と人は違うものなのだ、と彼女は割り切ることにした。
「そっか。でも、私には、ちょっと無理…かな」と答えた。
「まぁそう言うものだろう。確かにこれは普通の世界では無いからな」
衣は笑っている。不気味さは無い。純粋な少女のものだ、
「見えるか?」
京太郎は隣のケイに聞く。
「全く。青い海と青い空。波の音。船の音。それだけだよ」
「だよなぁ…。ま、世界の形がおかしくなっていたのは、今に始まったものじゃないか」
「世界の形がこうであると決めつけられる程、僕達はそんなに歳を取っていないよ」
その時、リストバンド液晶が3回ほど点滅し、情報の更新が通知された。
「まだ1時間はあるが、まぁ早いに越したことは無いか」
京太郎と咲は表示された部屋番を確認しその数字を読んだら
「同じだ」「衣もだ」
「どっちと」
「宮永さんと」「咲とだ」
となった。
京太郎と別れ、三人は指定された対局室の方に向かうことにした。衣の件もあり、対局を早く終わらせることを意識しなくていいという点のみであるならケイにとっての一休みの回とも考えることが出来るが、
(この二人か…)
やはり相手が相手である。ケイもただ遊びでこの大会に参加しているわけでは無く、目的のためには、やはり勝たなくてはならず、少なくとも前半戦である1日目は、なるべく強い相手とは当りたくは無かった。
そして
「え?」
扉を開けた先には、さらに追い打ちをかけるような相手が待っていた。
見慣れた学生服の少女。
だが彼女は普段の姿をしていなかった。
髪を束ね、眼鏡を装着し、
その姿は大事な試合の時には必ずなっている。
この姿の彼女と打つのは、ケイにとっても初めてである。
「辻垣内……先輩……」
辻垣内智葉。
この大会に参加しているなど、ケイに予想できるはずも無い。
しかしその刺さるような視線は、質問させることを許さなかった。言葉を放った瞬間に、刀で一閃されるかのような圧力。
故に卓に着き、打つしかない。ケイにも、そして同卓する咲と衣もそのことを承知していた。
言葉無く場決めも終わり、座る。
座っている。ただそれだけで凍りつくような世界。ケイはこの世界を嫌と言うほど体験してきた。
衣や咲に見えている世界は彼には見えない。やはり、一人一人見えている世界は違うのだと彼はあらためて実感する。
衣は見えている世界の事を胎内と例えた。ケイにとってはこの氷の世界こそ、彼にとっての胎内なのである。
◆
座順
咲→ケイ→衣→智葉
東1局 親 咲 ドラ {南}
(どうしてこれたんだろ)
智葉の個人戦の成績は三位。決勝で咲とも打っている。
(まさか参加費を払って…。すごいお金持ちなのかな…でも…)
決勝では勝てはしたものの、その差は殆ど無かったに等しく、次打てば勝てたかどうかが分からない。神代小蒔や藤原利仙などの打ち手とは別種の強さ。純粋に強いという以上に、常に神経をすり減らすことを要求される麻雀が展開され、竜との対局に備え、体力と集中力を温存しておきたかった彼女にとって、あまり打ちたい相手では無かった。加えてその場には天江衣とケイもいる。考慮しなくてはならない要素が多く、気が滅入る。
(『この』大会以外でなら、沢山打ちたい人達なんだけど…)
4巡目
東家 咲 手牌
{二三八九⑧⑧22南西北北北} ツモ {一} 打 {南}
(配牌もツモも良い。聴牌しそう…。昼なのもあるかもだけど、この場所だと衣ちゃんの力も弱まるのかな)
同巡、対面の衣から{2}が切られ、咲は反応した。
東家 咲 手牌
{一二三八九⑧⑧西北北北} ポン {2横22} 打 {西}
(これで{2}『も』喰い取れた。嶺上は{七}…。この局は見える……)
毎局という程ではないが、姉が言っていたように全局見えなくなる、ということは彼女には起きていない。
しかし、ひりつく。
次巡の咲のツモは『喰い取れた』{2}。刃を常に首にそっと当てられているような感覚。それが、
(こっちからも来ている…)
この{2}を槓すれば嶺上開花で和了できるが。この{2}を槓していいものだろうかと躊躇いが咲にはある。
南家 ケイ 捨て牌
{①西白9南}
(自風のドラの{南}が手出し。私も{南}を持っていたし、暗刻で持っていた中からだったなら分かるから…まず暗刻…今は対子、ということは無いはず…。感覚が正常だったらの話だけど)
咲は一歩踏み込むことを選択。ケイは牌を倒し、咲はその形に納得した。
南家 ケイ 手牌
{七七七⑥⑦⑧134[5]6南南} ロン {2}
咲 17000(-8000)
ケイ 33000(+8000)
衣 25000
智葉 25000
({南}が対子…暗刻だったのを感じることが出来なかったわけじゃない)
咲はその{南}の位置を見て確信した。
(私が{南}を切った同巡に{南}を暗刻にして、{1}単騎の聴牌。その次巡に{6}をツモ。{南}を切り形役無し。槍槓のみの手にした。私への狙い撃ちのみの目的。でもそれで結構…)
一撃で殺されなかった。それだけでも咲にとっては収穫であり、8000の出費は安いものであった。咲は間合いを測る上で、引いて観察のみで測るか、自ら踏み込んで測るかの二択において、後者を選択した。リスクはあるが、半荘一回の短期決戦においては十分リターンもある。
(でも…やっぱり戦いにくいなぁ…。お姉ちゃんの鏡が羨ましい)
やはり咲は、この大会以外で彼と打ちたかった。
東2局 親 ケイ ドラ {東}
(異様…)
二つの世界が混在している。衣に見える世界は熱のあるものであるはずなのだが、この卓上だけは違う。凍り付いている。ここだけ細胞が死滅しているように感じる。死と生の混在。
(以前までの衣なら、この感覚は不快だったのだろうな…)
全身に纏わりつく冷たさ。吐く息どころか内臓さえも凍る空間。地区大会決勝、あの時のように。
(今では心地よく思える。アカギ…。アカギは、この船に居るのだろうな…。衣はお前に早く会いたい…)
15巡目
東家 ケイ 手牌
{四四四七八①③⑤東東東中中} ツモ {3}
(この局は天江さんの支配が強い。聴牌までは行きそうにないな。彼女曰く、普段よりも牌が見えなくて、ガラス牌も無い…だったか。時間も昼だし、無理をする必要も無い)
南家 衣 捨て牌
{①発中⑥二9}
{2七二⑤⑧西}
{七一}
(何もしなければ海底でツモ。だがそれよりも索子の直撃の方が怖いな)
ケイは現物の{⑤}を河に置き、{3}を抱えての降りの動きを見せるが、同巡衣から{四}が切られる。
(海底だけでもずらすか)
彼は{四}をポン。海底は彼に。
東家 ケイ 手牌
{四七八①③3東東東中中} ポン {四四横四} 打 {中}
次巡。{九}をツモった彼は、衣の支配の一つの習性を思い出し、
(天江さんの支配は、王牌には及ばない…。なら)
「カン」
{四}を加槓し、嶺上をツモる。嶺上牌は有効牌の{②}だった。
北家 咲 手牌
{①①②④④④⑥⑦⑦⑦777}
(ん…どの道王牌にある{④}や衣ちゃんの手にある{7}は槓できないだろうけど、あの人が『性質を理解した上で』槓したとしたら、あの{②}で面子が出来たかな)
との咲の推察通り、ケイは手を進める。
東家 ケイ 手牌
{七八九①②③3東東東} カン {四四
新ドラ {③}
ケイの加槓により海底は咲へ。
そして同巡の咲のツモはドラ表示牌の{北}。それをツモ切った咲には予感があった。
(この巡り……また……)
視線を下家に送る。
「ポン」
衣が鳴き、海底へコースイン
するも……、そこで彼女の手は一旦止まる。
南家 衣 手牌
{③③③23344567} ポン {北横北北}
(海底は{4}…打{2}でも{3}でも結果は同じだが、通常なら待ちの広い{3}を切る…だが…)
通常とは違う巡りを衣も感じていた。平時とは感覚が違う中ではあるが、このまま行けば刺されるという予感…この予感は狂っているだろうか。狂っているのであれば、刺さる予感は稀有であり、そのまま{3}を切れば良い。だが予感を信じるのであれば、通常とは違う選択をする必要がある。
(己の感覚さえ疑わなくてはならないこの場で、アカギならどう打つ……)
アカギならどう打つか。そう思ってしまうということは、やはり彼女はアカギを意識しているのであろう。彼女にとってそう思考が働くことは悪くは無かった。
(アカギなら…!)
彼女は{7}を切る。強打。通常の打{3}でも、保留の{2}でもない。直感の、勝負の打牌。アカギのように、己の感性を信じての一打。
そしてそれはケイの待ちと…『智葉の手』を躱すことに繋がった。
西家 智葉 手牌
{一一三九九13888西西西}
({2}なら『斬って』いたが、去年までの彼女とは違うらしいな…)
南家 衣 手牌
{③③③2334456} ポン {北横北北}
海底の{4}での和了という利を捨て、直感で選んだ打{7}は対面の咲の槓材であった。
「カン」
{7}を倒し、
「もう一個、カン」
嶺上で引いてきた{④}を倒す。そうして引いてきた牌は{①}。
北家 咲 手牌
{①①①⑥⑦⑦⑦} カン {■④④■} カン {7横777} 打 {②}
新ドラ {9} 新ドラ {発}
咲の鳴きによりまたも海底は衣へ。
(最後の嶺上は{⑥}。和了るから流れない。問題は最後の{⑦}…)
その{⑦}を
東家 ケイ 手牌
{七八九①②③3東東東} カン {四四
(生牌の{⑦}。宮永さんが攻めてきたということは、聴牌料だけでは無く、和了る算段もあるということ。責任払いがある以上、これは切れない。全く…怖ろしい麻雀だ)
前に進めば咲への事実上の振り込み、下がれば衣に海底が回る。
(カンが計三度も入ったことにより海底牌が天江さんの想定していた牌とは変わっている……しかし、あの{7}切り…まさか)
ケイが選んだ牌は{⑦}でも、聴牌維持の{3}でも無かった。
{九}。単なる降りであろうか。
否。
「ポン」
鳴いたのは対面の智葉。
西家 智葉 手牌
{一一三13888西西西} ポン {九横九九} 打 {三}
ケイも、そして彼女も海底で衣がツモると確信した。たとえカン複数回が入っていたとしても、衣はツモるのだと。
(ずらされた…)
二人の予測通り、衣の海底は{6}だった。だが、衣は知っていたから{7}を切って咲に鳴かせたわけでは無く、そもそも{7}が咲の槓材だとは読めていない。海底の{6}を知ったのは咲が鳴いた後。衣の打牌は、あくまで直感とアカギへの意識から来るものであった。
海底の{6}は咲へ。
(衣ちゃんの…か…。カンが入ってずれているから安心…なんてわけない。勿論切らないよ)
咲の打{⑥}で結果は流局に終わった。聴牌は咲と衣、そして智葉の三人。
咲 18000(+1000)
ケイ 30000(-3000)
衣 26000(+1000)
智葉 26000(+1000)
(強い)
場の全員が感じていた。
本来であれば、衣の海底ツモで終わるはずの巡りが、上級者同士で打てばここまで変わるものなのか。互いが互いを牽制し、思い通りにさせない、ならない麻雀。まだ東2局であるにも関わらず、既に半荘1回分は打ったであろう疲弊感があった。
(やはり、脅威だな)
智葉が意識したのはケイ。彼の麻雀は、対イカサマ、対異能と歪んだ麻雀の中で真価を発揮しているかのように見える。イカサマや異能の性質を見抜き、その裏、虚を突くことで勝ち続けてきた。
(だが、本来見抜くだけでは勝つことは出来ない)
彼の麻雀には運が背中を押しているようにしか見えない。そう彼女は感じている。たとえイカサマや異能を見抜いたとしても、『手』がそれに応えていなくては成立しない。
例えばこの半荘にしても東1局、咲の加槓のタイミングで聴牌していなくては当然和了れず、咲の打{南}のタイミングで暗刻であった、もしくはドラの処理のタイミングが前後していたのなら咲の選択も変わっていた。東2局にしても最初に彼が{3}をツモったからこそ事が通常とは別の巡りを見せた。
(これで異能でないというのだから恐れ入る)
異能者殺しのこの船において、彼の視界はいたって正常であることは彼が裸眼であることからも証明されている。
(つまりこの現象は【オーバーワールド】からの『リターン』では無い…。まるで、人類が【オーバーワールド】に対抗して生み出した戦力の一つのようにも思える。勿論、ケイは造られた人間ではないが…)
東3局流れ1本場 親 衣 ドラ {⑦}
一巡目
北家 ケイ 手牌
{一二五①③123567西発} ツモ {発} 打 {西}
(流れが来ていると錯覚するほど手は良いが、この面子では素直に喜べない。落とし穴にも思える…)
彼の推察を後押しするように、対面の智葉は次巡に仕掛けた。晒された牌は、暗槓の{三}。新ドラは{⑦}。
(三色が消えた。すんなり行かせてくれない人だ)
次巡
北家 ケイ 手牌
{一二五①③123567発発} ツモ {六}
南家 智葉 手牌
{一一二二⑦⑦⑦中中中} 暗槓 {■三三■}
あまりにも異様な流れは、ここまで場を乱すものなのか。
だが、智葉はこの異常さに乱されたりはしない。偶然に踊らされることなく、彼女はただ静かに構える。
(…半歩踏み込めば死ぬ……)
聴牌気配程度など消されている。この場にあるのは、常に死と隣り合わせの間合いの測り合いであり、論理的推理のみで事を選択してはならない。それはケイも承知している。
故にこの場ではケイは躱す。打{③}。浮いた{一}、{二}には決して手をかけない。これでケイの和了りの道はほぼ無くなったと同時に、智葉の和了りの目も減った。
この硬直状態の隙に、脇の二人が前に出る。
「ツモ。2100・4100」
東3局は咲の和了で終わる。
(東1の振り込みがプラスに働いたか…。個人戦の時よりもさらに強くなっているな…宮永咲……この大会以外でなら、もっと君と打ちたいものだな…)
この場に智葉が求めていたのは勝利では無い。戦いでも殺し合いでも無ければ、スリルでも無い。
それは普段の彼女らしからぬ、感傷的なものであった。
◆
孤独という程では無かった。友人もいる。後輩もいる。妹分もいる。会話する相手もいる。当然、麻雀を打ってくれる仲間もいる。幸せか不幸かといったら、どう考えても幸せ側の人間なのだろう。
ただ私には、近しい者がいない。付き合う人間が少なくても、たった一人でも傍にいてくれるような近しい相手がいれば、その者はきっと満たされるのだろう。私には、どこかそういったことに憧れがあるのかもしれない。
嫌われているわけでは無いと思うが、それでも距離は感じる。私の性格とか、見た目からだろうか。普段は眼鏡はしないし、生真面目に髪を束ねたりはしない。気さくに振る舞っているつもりだが。それとも、私が距離を取っているのだろうか。だとしたら、随分と臆病な人間なのだろうな。私は。
ケイを初めて見た時、近い臭いを感じた。少なくとも、血を見てきている。彼は他人と距離を取る人間だった。幼馴染の桂木でさえだ。私のところに入ってきた情報では、彼にとっての唯一はアミナであった。そう遠くない『場所』に住んでいることもあって、彼のことを知ることはそう難くなかったどころか、彼自身が力と影響力を拡大させていっていたため、向こうから情報が入ってきた。
知れば知る程、彼は私に近い存在なのだと思えて、どこか親近感まで湧いて来ていた。地獄でもがく彼に手を差し伸べてやりたいほどには。結局私程度が出来たのは、事が済んだ後のアミナについてくらいだが、私自身、少しでも彼の力になれたことには嬉しさを感じることが出来た。
正直、ケイとはもっと話したい。だが彼が他人に心を開かない以上、彼に近付くには牌しかない。それも、同じ土俵に上がった上で。私がこの船に来たのはそのためだった。
インカレ女子優勝者が私の知人であり、彼女自身この船のことも知っていたため、私に参加権を譲ってもらった。船のルール上、参加権の譲渡は可能だがその場合たとえ優勝しても何を得ることも出来ない。私はそうであってもここに来たかった。ここに来れば、彼と同じ土俵に立てると思ったから。牌を通して、彼を感じることが出来ると思ったから。
だが
オーラス 智葉 ドラ {白}
東家 智葉 手牌
{三四四四五六七⑤⑥⑦567}
南家 ケイ 捨て牌
{2⑨③南①2}
{9⑦九東}
ケイが{六}を河に置いた時、さすがに私も折れた。
そして次巡、彼は{七}を手出し。
彼の麻雀は、氷だ。
ここまで冷たくされると、感じることも出来ない。
牌の対話など、出来るはずも無い。
本当に…私は何をしているんだろうな。
「ツモ」
南家 ケイ 手牌
{二二三三五六七⑤⑥⑦567} ツモ {三}
◆
{三}の位置を見るに、智葉が張った直後にツモって来た{三}二枚を抱え、{六}、{七}と落としたということを彼女は知った。{三}を三連続でツモる。歪みに歪んだ流れを正確に読み、躱したのだと。
だが
この半荘は結局、誰も30000点を超えることなく僅差で幕を閉じた。
しかし、オーラスでケイがリーチをかけていれば別である。
彼は何故かけなかった。智葉にはそれが解らなかった。故に彼女は何を得ることも無く終わったのだということを思い知らされた。
「リーチをかけるのが怖かったのが正直な気持ちです」
ケイが口を開いた。智葉には思いもしなかった、彼からの言葉。
「流れは読んでいたと思っていたが」
智葉は彼に言葉を投げる。
「いえ。あまりにも歪み過ぎていて、確信に到れなかったですね。皆火力が高くて、下手すれば最後の最後で僕だけ飛び、そんな結末もあるかもって。後の試合のことも考えると、僕の選択は『ここはこれしか無い』です。堂嶋さんやフランケンさん辺りが見たら、流れを殺してる、牌の神様に嫌われるって言われそうですが」
意外だった。
「意外だ…」
口にも出した。
「そうですか?」
「あ…いや、何でもない」
彼がここまで自分のことを話してくれるなど想像もしておらず、不意を突かれたのもあるが、何より、悪くなかった。牌では無く、普通に言葉を交えることが、酸素を身体に取り入れているようにごく自然で、その自然さが彼女を少しずつ満たしていく。
「衣は楽しかったぞ」
「私は、ちょっと疲れた…かな」
深い海からようやく地上に戻れた時の解放感。言葉が、声がその時に得る新鮮な空気のように感じる。
「ところで先輩、何でここに?」
場の緊張が緩んだためか、その質問もあっさりと投げられた。
「えっとだな……なんというか……」
何のためにここに来たのか。それが揺らぐ程度には、彼女自身の緊張も緩んでいた。
「………」
考える。
「……………」
なんと言ったらいいものか。
「…………………」
よく考えたら、ものすごく恥ずかしい事ではないのかと彼女が思った瞬間。
「辻垣内さん……顔が」
「赤いぞ」
脇からの指摘であり、事実。
「あ……まぁ、言えないなら……良いです」
踏み込んではならない領域に入った気配を感じ、ケイは少し慌てた様子で席を立った。
「あっ……待てっ」
智葉が止める。
「逆に、お前は何でここに来た?」
質問を質問で返すなど無礼も承知であったが、ここは勢いで行くしかなかった。
「え?それは天江さんの」
「そうでは無い。そうでは無いだろ?……答えられないなら…答えなくていいが……」
「まぁ……先輩になら。天江さんと咲さんにも聞かれても良い内容ですし、ここで言いましょう……実際思ったより早く終わりましたし、時間には余裕もあります」
あっさりと返された。彼女にとって意外な状況が続く。
牌でないと話せないと思っていた相手が、思っていた以上に近い位置にいた。
今話してる相手は、紛れも無いケイだ。偽りなく自分の目的と想いを話している。距離は、少なくとも遠くは無い。彼女はその時、自分が遠回りをしていたのだということに気付いた。
◆
(咲……大丈夫かな)
土曜の朝。結局妹のことが心配で一睡も出来なかった彼女であったが、不思議とまだ眠くない。休みと言うこともあり、ある程度不規則な生活をしても構わないが、普段なら数時間後には妹に会っているのだろうな、と彼女は思っていた。
そうして窓の外の景色を見ていると、電話。取るのが面倒であったため、留守電まで待った。しかし、留守電から発せられた声を聴き、彼女は飛びあがるように電話に走った。
受話器を取る。心拍は破裂するほど激しい。
「風間……さん………」
電話の主は風間巌。ZOOの園長。東京に出てきて以降、彼女は何度も彼に世話になった。金の事、麻雀の事、生活の事。しかしその彼から電話が来ることなど、めったにない。彼女は心拍と呼吸を落ち着かせようとするが、出来るはずも無かった。
「照……落ち着いて聞け……というのも無理かもしれんが、伝えておく」
その声から感じることはまず間違いなく、悪い情報だということ。
照は息を呑んだ。
そして、一音一音はっきりと、『そのこと』が彼女に伝えられた。
彼女は受話器を落とす。
彼女からその時全身の力が抜ける。
夢であったのならどれだけ良かったか。
新庄直樹が一人で、山城麻雀に挑戦した。
これは同時に、彼の死を示す知らせである。
照の鏡は、鏡だけではその支配を発揮出来ない。彼女の麻雀の根幹は、彼が築いたものであり、彼女にとって新庄直樹は師匠であり、父であった。