某年、某月、某日。
今朝の目覚めも最悪だった。
頭上をまさぐるように、もたつきながら照明をつけ、時計を見ればいつも通りの時間。
顔を顰め、部屋の中空を睨む。目に見えるわけではないが、汚染された大気がわずかばかり入り込んでいるようだった。自ら望んで住んでいるとはいえ、もう少しマトモな部屋を取ればよかったという後悔は尽きない。
寝る間も外すことはなかったガスマスクを一時的に外し、オブラートにまとめておいたいくつかのサプリを口に放り込み、パック型のゼリー飲料で一気に流し込む。
これが朝食なのだから、『食事』という言葉の存在には違和感しかない。合成食材もあるにはあるのだが、より流通量が多く、手軽なこちらの方がアーコロジー外で活動する自分の身の丈にはあっていた。
その後手早く着替えを済ませて部屋を出、取り出したのは携帯通信端末。稼ぎの割に維持費がかかることこの上ない代物だが、これが無ければ仕事にはならない。
というのも、この男の仕事は日雇いの派遣業である。送られてきた何本かのメールのうち、望む作業を選択していく──早い者勝ちでこそあるが、多少の融通が効くのは助かるばかりだ。
職種を変えてしまったがために辞めざるを得なかったとはいえ、数年前まで現役だったゲームでクエストを受けていた時とよく似ている。よくよく考えてみれば、少しのミスで命を落とす可能性があるところも、報酬がまちまちなところも……現実と仮想の世界は、嫌なところばかりが酷似していた。
男は歩みを止めることなく、思考に耽る。
今も仲間たちとともにあのゲームを続けられていたら。
自分の生きる世界は、自分の見ていた景色は──もう少し違っていたのだろうかと。
……そんな、靄のような夢を振り払う。少しでも生き残っている『自然』の可能性を探求できるのは『現実』だけなのだ。仕方のないことだ──そう何度も自らを納得させてきたのも、自分だったではないか。
端末に表示された“アーコロジー外土壌調査作業員募集”という見出しを選択し、目的地へと歩を早めた。
◆
調査といっても、本気で自然的生物やら何やらが生き残っていると考える人間は少ない。
要は学者であるとか研究員であるとかが必要としている、地質データを取ってくるとか、逆に対外活動用の新製品の試用――平たく言えば、人体実験の協力者を募集してるとか。そういったものばかり。
作業の前には誓約書を書く必要があったり、肉体労働が基本で人工心肺にかかる負担が大きかったりするので日雇い仲間にも敬遠されることのほうが多いが、この男はむしろ積極的に選んでいる。
わざわざ人を募集して実験を行うような企業は、基本的には後ろ盾がしっかりしているし、報酬もそこそこ良いためだ。端末の維持費、日々の食費を賄える程度には稼げる。
それに加えて、外での活動だ。アーコロジー外の自然の可能性に全てを賭けた人間としては、少しでも確率の高い可能性を信じたい。
そんな無謀な男は、以前は大学の助教授を務めていた。自然科学専攻の学生という身分からなんとか就職はできたものの、研究と学会準備に追われ、自分の時間といえばDMMOでの疑似的な自然体験。真に願っていた、環境改善の研究の延長戦――本物の土と、植物と、動物に触れること。再現性の高いゲームの中でも、その欲求を完全に満たしてくれることはなかった。
一面の湖を造っても、星空を創っても、桜咲き誇る聖域を作っても。偏執的なまでに執着した欲望は、ぽっかりと空いた虚空のようで。
仲間たちと過ごした時間が無駄だったなどということは断じて無い。それでも、仮初めの自然は……自分の理想に足り得なかったのだ。
そんなある日、追い討ちのように上司らのうわさ話を小耳に挟むこととなる。一筋の希望だった、富裕層が保有する『園』に行くこと――それもこのままでは難しいと知った時、彼は決心した。
アーコロジーを出る。彼らに縛られたまま行動せざるを得ないこの状況では、本当に見たい世界には辿り着けない。
それがどんなに厳しくとも、たとえ大事な友人たちとの唯一の繋がりであるダイブシステムを保有したマシンを手放すことになろうとも。
劣悪な環境下で短くならざるを得ない寿命を使い果たしてでも、彼は閉ざされた世界から破滅した世界へと飛び出したのだった。
◆
指定された場所に向かうと、既に何人かの人間がいた。おそらく同行者だろう、二言三言かわして交流を図る。一度とはいえ共に仕事をする仲間だ、仲良くしても損はない。
年齢は皆バラバラで、一回り上の初老の男性、成人したての青年と様々。それぞれに働く理由があるのだろう。詳しく尋ねることはせず、端末に詳細説明の連絡が送られてくるのを待った。
数日前起きた地震によって、付近のいくつかの地点に数キロメートルに及ぶ地震断層ができていた。今回の調査はその観測だという。
環境汚染により既に土壌もすさまじく荒れ放題だが、ボーリングと言った大規模な工程を経ずとも地下の状況を確認できるのは依頼者側にも都合がいいのだろう。
その考えは男も同じだった。もしかすると、うん年ぶりにマトモな状態の土を拝めるかもしれない。
──そんな淡い希望に胸を躍らせながら、目的地にたどりついた。覗き込んだ裂溝は深く、広い。十メートルはあるだろう反対側に行くことになれば、何かしらの手立てを考えなければならないだろう。
盛り上がった断層というよりは地割れのほうが正しいな、と言うのは、今回の同行者で最も学のある男の所見だった。かくいう自分もその通りだと思う。なにせこの地割れのパターンの場合、裂け目の底を見るためにはロープなりを使って観測地点まで降りる必要がある。断層がズレてできた活断層なら見るだけで済むのだが、と愚痴をこぼす同行者にこれまた同調した。
さて、観測するにはこの地割れを降下しなければならない。では誰が降りるか、という話になる。
当たり前だが報酬は歩合制ではない。ここで観測のためにロープに吊られようが吊られまいが、結局報告さえできれば同じ配当で分配される。ならば苦労はしたくない、と考えるのも当然だ。降下すれば緊張から呼吸数も多くなり、人工心肺の負担も多くなる。案の定、誰かが放った『誰が行く?』という言葉の後、率先して手をあげる者はいなかった。
……男を除いて。周りが嫌がる理由もわかる分、男が手をあげるのに時間はかからなかった。
観測結果が良いものであれば、それを一番に発見できるのはここで手をあげた者だ。なによりも自然に執着する男は、喜び勇んで命綱の準備をし始めた。
◆
結論から言えば、観測可能なギリギリのラインである300メートル地下地点から目視で確認できる範囲に、安全な状態の土壌は確認できなかった。何点かの土を採取して引き上げてもらった男は、同行者にそう伝える。
今更残念がる者が同行者のうち一人もいない現実を噛み締めつつ、命綱を外していく。男も落胆することなく、前向きに捕らえていた。また次があるさ、と。
『諦めなければいつか見つかりますよ』とかつてのギルド長に励まされたのを、思い出しながら。
そういえば、あのゲームのサポートは数か月前に終了していたな、と連鎖的に思い出す。サービス最終日には既にダイブマシンから離れていたので、送られてきたお誘いのメールにも応えることはできず、謝罪と挨拶を兼ねた返事を送るに留まった──
男にとっての自然が、彼にとってのゲームだったのだろう。サービス終了のその日までギルドを維持していたというのだから、彼の覚悟も生半なものではない。きっと同じなのだ、と男は納得した。
ああでも、と男は幾度目の後悔をする。
――あのままゲームで遊んでいられたら、やっぱり違ったのかもしれないな――と。
そんな男を不運が襲ったのは唐突だった。考え事をしていたのが悪かったか、同行者から不意に呼びかけられた声に驚いて身体を震わせたのが悪かったのか、今となってはわからない。
気づけば、ポケットから端末が転がり落ちて――数度地を跳ね、宙を舞う。そのまま向かうは、背後の地裂。
あれは維持するだけでも手いっぱいなのだ、買い直すなんて羽目になったらそれこそ生きていられなくなる――身体が動くのは自然だった。うっかり取り落したものを、慌てて拾おうとしてしまうのは人間の反射だ。価値のある物なら尚のこと。
なんとかそれをキャッチできた――
――ホッとしたのもつかの間、身体は中空に投げ出されていた。
駆け寄って覗き込んでくる同行者の姿が、見る見るうちに小さく、遠く、暗くなっていく。
ついぞ視界が真っ暗になり、浮遊感がなくなったところで、男の意識は遠のいていった。
彼の行動から人間性まで、全てが現在出ている情報からの想像です。
あの満点の星空を造るような男がユグドラシルを辞めるのには相当な理由があると思っています。
例えば、体調を崩すないし死亡し、継続してプレイすることのできない状態になってしまった。
例えば、現実で大自然に触れる機会を手に入れた。
原作の行間で彼がどうなってしまったにしろ、このお話では、少しでも彼に幸せになって欲しいと考えて書いています。