エギルの店からリンゴと蜂蜜の入った袋を大事そうに抱えたエリカが立ち去ると、ほどなくして
今度は真っ黒なトレンチコートを纏った若者が店先に現れた。
果物屋の店主は意味深な笑顔を見せると彼との距離を縮めて声をひそめる。
「これはこれはガヤムマイツェン侯爵様ではありませんか。本日は一体どのようなご用件で
しょうか?」
「……エギル、その呼び方と話し方、や・め・ろ」
大げさな態度にうんざりしたような顔で店主を睨み付ける。何も知らない人間が二人の会話を
聞けば、この一見女性かと見まがうくらいの女顔をした若者が侯爵?、と耳を疑うところだが
はるかに年上であろう店主に対するその態度はまさに多くの領民を統べる者のそれだった。
侯爵と呼ばれた若者は刃物のような視線を一旦遮断するように目を閉じて大きく息を吐き出すと
次にエギルを見つめる眼差しは微苦笑となっている。
「今年のうちのリンゴの出来が……あまりよくないと報告があった……」
弱々しい言葉にエギルも苦笑いとなる。
「それでわざわざ領主様みずから市場に?……お前も苦労性だなぁ」
苦労性との評価に気分を害したのか、ことさら強く反論を示す。
「べ、別に……市場にはしょっちゅう来てるだろっ。ちょっと気になったから寄った
だけだ」
「はいはい、寄っただけね。その割に少し前からずっとこっちの様子を覗っていたように
見えたが?」
確かに侯爵の風貌は真っ黒のロングコートとブーツ、手には黒の指ぬきグローブで少し
長めの髪は闇のような黒だ。肌の色は男性にしては白い部類に入るだろう。その為か顔は
コートの襟を立てて見える面積を極力少なくしている。物陰に隠れればそう簡単には目に
とまらないはずだが……残念ながらこの一癖も二癖もありそうな果物屋店主には丸見えだった
らしい。
侯爵はバレているとも気づかず身を潜めていた自分が恥ずかしかったのか、一瞬頬を染めたが、
先刻に見た光景を思い出してすぐに険しい目つきとなった。
「さっきまでここにいた……あれ、誰なんだ?」
漠然とした問いかけだったが、エギルはすぐに誰を指しての言葉なのか理解して、意地の悪い
笑みを浮かべる。
「気になるか?」
「……話していた内容が、だ」
「侯爵様は素直じゃないな……けど、彼女のお陰でお前さんとこのリンゴも売りさばく方法が
見つかった。感謝しろよ」
売りさばかなければ困るのは仕入れたエギルのはずだが、エギルの店で売れない、という事が
商品価値を左右するのは確かで、引いては来年以降のこの市場への卸にも影響が出ることを
理解しているガヤムマイツェン侯爵は押し付けられたような「感謝しろ」の言葉に反論は
出来なかった。
「エリカって……言ってたよな」
「耳がいいんだな」と揶揄するように呟いたあと、エギルは表情を鋭くする。
「だがそれ以上は話せないぞ。エリカちゃんはお前と違って昔からのお得意さんだ。オレにも
この市場を任されてる責任ってのがある……だが」
そこで言葉を句切ると穏やかな眼差しで少年を見た。
「お前さんなら彼女にたどり着くかもな」
ガヤムマイツェン侯爵はその後も毎週のようにエリカを探して中央市場を訪れていた。会って
アップルパイのアイディアの礼を一言いいたいだけだ、と自分自身に言いながら。
もう一度あの鈴を転がすような声が聴きたい、楽しそうに微笑む口元が見たいという心には
気づいていない。エギルが「昔からのお得意さん」と表現したのだから、この市場でも古くから
店を出している店主に聞けば何かわかるかも、と色々と声をかけてみたが、この中央市場を
まとめているエギルが「エリカ」という名前以上の情報は明かさないと明言しているせいなのか、
古狸や古狐のような古参の店主達も一様に口を割る事はなかった。
結局エギルの店でエリカを見かけて以来、市場に来ては闇雲にあちらこちらを巡ること一ヶ月。
それを見て見ぬふりをしているのはエギルだけではなかったが、侯爵はそんな視線を気にする
ことなく、ひたすらに煉瓦色のマントを追い求めたのである。
「はぁーっ……会えないもんだな」
市場のすぐ隣にある広場の噴水のふちに腰を下ろし、焼きたての骨付き肉を囓りながらガヤムマイ
ツェン侯爵は溜め息をついた。
あの日からかれこれ一ヶ月以上も経ってしまっている。侯爵としての責務がある為、毎日は
市場に来られないせいもあるが、ここまで出会わないとは予想していなかったのだ。エギルの
口ぶりからすると昔からこの市場を利用していたことは明白で、それなら城下に住んでいる
可能性が高い。ならばそれほど日を開けずに市場にやってくると思っていたのだが……どうやら
その目算は甘かったようだ。
リンゴの礼を、と考えていたのだが、そのリンゴの出回る時期さえ終盤になりつつある。
エギルの言葉通り、今年のガヤムマイツェン領のリンゴはパイにすると歯ごたえも良く、
すっきりとした酸味が効いて甘い物が苦手な者でも食べられると評判になり、仕入れ分は順当に
売りさばけたそうだ。しかも併せて勧めたリンゴの蜂蜜も今は品切れの店さえ出ているという。
リンゴの売り上げ話を聞かせてくれた時のエギルのにやつき顔を思い出したせいもあって、
普段なら息つく暇も無く平らげてしまう好物の鶏のタレ焼きが、今日ばかりは一口囓っては
溜め息をつくの繰り返しだった。
そんな心ここにあらずの状態だった為か、普段ならそっと自分に近づく人影を察知できないはずは
ないのだが……。
(あっ!!)
気づいた時にはコートのポケットに忍ばせておいた山羊の皮袋を抜き取られていた。
一目散に逃げ去る小男を追って、すぐさま駆け出す。
小男は市場の人混みに紛れようと、雑踏の中、人を押し分けて突っ込んでいく。
その乱暴さにぶつかる人々から悲鳴と怒号の声があがった。
侯爵はその騒ぎを追うように走るが、小男に突き飛ばされ、倒れそうなご婦人の腕を支え、
転ばされた子供の様子を気遣いながらの追走なので標的との距離がなかなか縮まらない。
それでも視線の先、十数メートル先を背を丸めて走る小男の手にはしっかりと皮袋が握られて
いるのを確かめつつ地面を蹴る。
「チッ」
舌打ちをしながら誰かが倒した木箱を飛び越えた拍子に少し高い目線から泥棒の位置を確認した。
男の小柄な体つきは人々の驚声がなければ簡単に人の波に埋もれてしまっていただろう。
騒ぎに気づいた市場の客達が巻き込まれるのを恐れて突進してくる小男に道を開け始めている。
このままでは徐々に距離が離されてしまいそうだった。
(なんとか警備隊が駆けつけてくる前に取り戻さないとマズイことになるな)
焦りで足がもつれそうになった時だ、小男の数メートル先にここ一ヶ月以上も探し続けていた
煉瓦色のロングマントが目に入った。
!!!!!
視線が男から離れてその向こうのマントに釘付けとなる。
しかし男と彼女のマントとの距離がすぐさま縮まり、同じ視界に入ることとなった。
それでもフォーカスはマントに固定されている。
ちょうどその時、彼女のすぐ傍にいた長身の女性がよろけ、覆い被さるようにマントを隠す。
長身の女性はイノシシのように向かってくる小男に恐れおののいたのだろう、しかしその女性を
かわそうとしたのか、女性と入れ替わるように彼女のマントがフワリと広がって逆に小男の
前に転がり出た。
(危ないっ)
そう侯爵が叫ぶより早く、マントの裾からショートブーツを履いた細い足が地面を踏みしめる。
そして計ったようにタイミングよく、皮袋を持った小男がそのショートブーツに自らの足を
ひっかけた。
「うひゃっ」
珍妙な声を上げると同時に小男が身体がかしいだ。
背を丸めて前屈みで走っていたこともあって見事にバランスを崩し、手を着く暇もなくつんのめる
ようにして地面へ勢いよく顔をこすりつける。
小男の派手な転倒に周囲の人達は一斉に視線を集中させた。
ただ一人、その小男を追ってきた侯爵だけは違う方向を見ている。
小男がショートブーツに躓いた時にはらり、と一房落ちたのだ……目深にかぶったフードの中
から……見事なロイヤルナッツブラウンの長いキレイな髪の毛が。
だが、彼女自身がそれに気づいた途端、慌ててきびすを返し小男を囲んでいる大衆の中へと
姿を消した。
瞬間、彼女を追うため方向を変えて走りだそうとした侯爵だったが、泥棒の手から皮袋を奪い
返すのが先決と思い直し、小男の元に駆け寄る。
小男を警備隊に突き出す気はなかった。
そうしたところで事態の根本的な解決にはならないからだ。
どうせ金で雇われただけで、雇い主の本当の名など知らないに違いない。
侯爵にとっても盗まれた皮袋の中身を警備隊に問われるのは避けたいところだ。
顔だけではなく頭も地面にひどく打ちつけたのか、いまだ起き上がることすら出来ない
小男から素早く皮袋を取り戻すと侯爵は立ち上がって彼女が消えたと思われる方向を
見つめた。
(まさか……あの色……)
お読みいただき、有り難うございました。
やっと第2話で長ったらしい名前のキリト登場です。
これでもまだ一部ですが……正式名はもう少し後で名乗りますので。
まだまだ「キリト」「アスナ」の記載が出来ません。
次は中央市場編からもう少し煌びやかな場所に舞台が移ります。
なのでエギルさんはしばらくお休みです。
商売に励んでいてくださいね。