聞いた声とは……
最初は夜会会場からガラス越しに聞こえてくる話し声かと思ったアスリューシナも何回か頭を巡らせてその声の出所が自分と同じ、伯爵邸の屋敷の外からと気づいた途端、キュッと身体を強張らせた。外回りを警備している者達の話し方とはどこか雰囲気が違う事に気づいたからだ。極力控えた足音が二人分、もうすぐこのバルコニーの下を通り抜けようとしている。今から慌てて室内に入る時間はないと判断し、心臓の鼓動さえ抑え込むように身体を丸めた。
「……なら、……ねえし……ないか?」
「だいたい……」
「うるせえっ……しろっ」
途切れ途切れに耳に入って来る言葉使いは粗野で決して耳に心地よいものではない。しかもどうやら二人は互いを罵っているようだった。中央市場で聞くようなぶっきらぼうでも親しみのある物言いとは違う声にアスリューシナは一層身を縮込ませた。二人の声が近づいてくるに従って自分の身体がどんどんと石のように固まっていく。けれど心臓だけは反対にいつもより激しく鼓動していて、その音が漏れ聞こえてしまうのではないかと目を瞑って両手できつく自分を抱きしめた。
ドギトキと全身を内側から叩き壊すような心音を鎮めながら早く二人の男が通り過ぎて欲しいと願うしか出来ずにいたアスリューシナの耳が一つの単語を拾う。
「……本当にガヤムマイツェンの……」
(えっ!?)
すぅっ、と心臓の音が遠ざかり、耳が鋭敏に彼らの声に反応し始める。男達はアスリューシナがうずくまっているバルコニーのすぐ傍を通り過ぎようとしているのだろう、彼らの声が今まで一番大きくハッキリと聞こえた。
「ちゃんとガヤムマイツェンの指輪だ、間違いねぇ」
「確かめたんだろうな」
「オレは一度、この袋ごと手に入れたことがあるからよ」
「だからって中身がホンモンかどうか…」
「ああっ、さっきからごちゃごちゃとうるせえなっ。とにかく出口に急げ。今はこの屋敷から出んのが先だ……侯爵に気づかれる前にな」
「ちっ……それもそうか」
(指輪?…………ガヤムマイツェン侯爵家の?)
思い当たるのは初めてキリトゥルムラインが自分の私室を訪れた際に見せてくれたあの指輪しかない。
「……この指輪が爵位継承の証なんだ。これがないとオレは侯爵の身分を剥奪されかねない……」あの時の侯爵の言葉が頭の中に蘇ると同時にアスリューシナは顔を上げる。揺らいでいた瞳にはしっかりとした意志が宿り、必要以上にきつく閉じていた唇には緊張で早まりそうな息づかいを抑えるために一回だけ大きく息を吐き出して落ち着かせた。体中の震えがいつの間にか治まっている事を確認して素早く立ち上がるとアスリューシナはバルコニーの端から小園へと続く数段の階段を音を立てずに駆け下りようとして、地に着く際にバランスを崩す。最後の段だけ幾分高さがあったようで光の届かない足下では確かめようがなく、つい「きゃっ」と小さな短驚の声と共によろけてしまったが男達の耳には届かなかったのか、それとも広間から漏れ聞こえている音と同化したのか、ともかく彼らの動きに異変がない事を確認してからアスリューシナは無事、地面に着地した足で小走りに移動を始めた。
闇に消え去る寸前の男達の背格好が小園の照明によって僅かに照らし出されているのを見たアスリューシナは二人の内の一人、隣の男と比べても随分と低い身の丈を更に丸め、やけに細い足をせわしなく動かしている姿に既視感を覚える。
(あれは……ずんぐりむっくりの卵のような……)
僅かに否定の可能性を含んでいた自分の想像が一気に確信へと変わる。
男達が口にしていた指輪が決して持ち主から奪われてはいけない物だと悟ったアスリューシナは躊躇いもせずに男達を追って小園の奥へと突き進んでいった。
どうやらルーリッド伯爵が言う「小園」とは随分な謙遜なのだと気づいたのは夜会会場である広間からと薔薇達を照らしている庭の照明の明かりがほとんど届かなくなってもアスリューシナの両脇を囲むようにして続く薔薇の園に終わりが見えないからだ。
奥に移動するればするほど薔薇達の背丈が自分と同じ高さに近づき、より多くの薔薇をバルコニーから眺められるよう計算されている事にも感服する。お陰で万が一、男達が突然振り返っても簡単に自分の姿を見とがめられる心配はないようだが、逆にこちらが見失ってしまう危険性を恐れてアスリューシナは目と耳に神経を集中させた。
(小園でこの広さなら本園はどれくらいなのかしら……)
実際は月光も弱々しく薔薇の色を確かめることは出来ないけれど、辺り一面、見渡す限りに咲き乱れる色とりどりを想像して不審者の追跡という大それた行動を起こした緊張感を散らしていると、少し先を行く男達はもう言葉を交わし合うことなく今は屋敷からの脱出が第一と定めたようだが、複雑な薔薇園の中を迷うこと無く進んでいた足を急にピタリ、と止める。
咄嗟にその場にしゃがみ込んだアスリューシナの頭上を頭を巡らせている二組の視線が通り過ぎた。
「……か、後ろから……」
「ああ、俺も……が……」
やはりこの格好ではドレスの衣擦れの音が立ってしまったのだろうか、それとも自分の靴が草を踏む音?、と彼らが足を止めた理由を考えつつも、乱れる息と共にもの凄い早さで脈打つ自分の身体を抱え込む。何枚も着重ねた夜会用のドレスはそれだけでかなりの重量を生み出しており、あまつさえその裾を持ち上げて音を立てぬよう気遣いながら早足で移動しているのだから当然アスリューシナの体力は既に底を突いていた。
すぐには収まりそうにない息づかいはもちろんだが、男達の視線を避けるために腰を降ろした自分の身体がもう一度立ち上がってくれるかどうか、アスリューシナは震える両足をドレスの上からそっとさする。
男達が動き始めたらすぐに反応しなければならないのに、今の状態は後を追うことも逆に見つかって逃げる事も到底無理だと全身が訴えていた。
(……でも、指輪が……)
ここまで来て見失うわけにはいかない。この事態を未だ自分しか気づいていないとすれば尚更だ。
男達が再び動き出すまで、ほんの僅かな休息と思ってアスリューシナが気を抜いた一瞬、突然背後から手が現れた。
「ひゃッ……」
いきなり背中を覆うようにピタリと身体を押し当てられ、同時に両脇から伸びてきた手の片方が自分の口を塞ぎ、もう片方がそのままぐるり、と腰に絡みつく。咄嗟に口から飛び出した驚声はすぐに蓋をされたせいで「んーっ、んーっ」とくぐもった声が出口を探して口の中でもがいていた。
抜けだそうにも呼吸さえ整っていない状態では力強く抱きしめられていると言っていいほどの拘束に抗う力が回復しているはずもなく、驚きより焦りと恐怖で一気に血の気が引いた時、耳元で小さく、でも温かな一言が囁かれる。
「アスナ」
今、このルーリッド侯爵家の敷地内で自分をそう呼んでくれる人物はたった一人。
その存在が密着している背中から、両腕から、手の平からじわじわと自分の内に染み入ってきて、途端にアスリューシナの身体から緊張の力が抜ける。同時に、糸が切れた人形のように、くたり、と弛緩したアスリューシナを囲う腕にキリトゥルムラインが更に力を込め、こちらもその存在を存分に実感した。
アスリューシナの口元から手を外す替わりに目を瞑ってアトランティコブルーに染まった髪へと顔を寄せ、鼻先で髪の感触を確かめてからすりすりと額をこすりつけて耳たぶに触れそうな距離まで唇を近づける。
「よかった……無事、だよな?」
耳から直接流し込まれたような問いは細く、そして僅かに揺れていた。
ちゃんと視線を交えて答えたくて、首をそろそろと回し振り返れば鼻がぶつかりそうな至近距離に不安な表情のキリトゥルムラインの顔がある。
「はい、キリトさま」
本当は笑顔で告げたかったが、頭の中は正確な状況把握も出来ておらず、それにもう気力も体力も余分な物は何も残っていなかった。だからなのか、今宵は互いを正式名称で呼び合うと決めていたはずなのに「アスナ」と呼ばれて不安が消し飛び、安堵が全身を覆ってつい自分もまた彼のいつもの呼び名を口にしてしまったのは……。
アスリューシナはそのままゆっくりと静かに身体を反転させ問いかけるようにキリトゥルムラインの顔を見上げた。
一体どうしてここにキリトゥルムラインがいるのか、あの男達が何者なのかを知っているのか……しかし、それよりもまずはガヤムマイツェン侯爵家の当主である証の指輪があの者達の手にあることを伝えなければ、とアスリューシナが唇を動かした時だ、それを見越したようにキリトゥルムラインが再び声を潜めて顔を近づけてくる。
「あの男達が行ってしまうまで我慢してくれ」
キリトゥルムラインからの言葉だけで不思議と何もかもが落ち着きを取り戻す。
すぐに、こくん、と首肯してアスリューシナは温かい腕の中へとその身を預けた。
お読みいただき、有り難うございました。
復活っ、卵形の小男!
今度は転ばないように気をつけて欲しいもんです。
卵の妖精に薔薇と続きましたがハートの女王や
トランプ兵は出てきません(笑)。