王が召し抱えている一流の楽士で構成されたロイヤル管弦楽団が厳かに音を紡ぎ出す。
それぞれに奏でる音色が美しく絡み合い王城の大広間全体を包み込んだ。
音に誘われるようにいくつものペアがフロア中央に集い軽やかに踊り始めれば、リズムに
合わせて色とりどりのドレスの裾が翻る。
王城での舞踏会に出席するのは貴族達の一種のステータスのようなものだ。上級貴族はその
権威を誇示するかのように、この日の為に贅を尽くした衣裳を新調する。下級貴族はなんとか
ツテを頼って招待状を持つ者に同伴を請い、この夜会で自分の地位をよりよく出来る関係を
築こうと交流を求める。
その中でも今、ファーストダンスを踊っている一組の男女に多くの注目が集まっていた。
そんな視線に構うことなく、男性が自分の腕の中にある女性の名を口にする。
「アスリューシナ……アスリューシナ……アスナ!」
目の前のダンスバートナーから幼い頃の愛称で強く呼ばれたアスリューシナは、驚いて両肩を
ビクッと震わせた。それでも流れるようなステップには何の影響も出ていない。
「ああ、ごめんなさいお兄様。ちょっと考え事をしていて……」
「ひどいな。久々に国に帰ってきてアスリューシナをエスコートしているのに、心ここに
あらずとは」
批難めいた口調で大げさに眉をひそめているが、その口の端は緩やかな笑みをたたえている。
兄が本気で気分を害していない事など先刻承知のアスリューシナは悪びれる様子もなく最上級の
笑顔で微笑み返した。
今までは王城の舞踏会へはアスリューシナの両親であるユークリネ公爵夫妻が出席していたのだが
今回は二つの理由からアスリューシナが兄であるコーヴィラウルに伴われ登城している。
理由の一つは父であるユークリネ公爵の片腕として常に周辺の諸外国を渡り歩いているコー
ヴィラウルが珍しく公爵家に戻ってきていたからだ。
そしてもう一つは今年で18歳を迎えるユークリネ公爵家の一人娘、アスリューシナに縁談の話が
持ち上がった為で、その相手がこの国の『三大侯爵家』と謳われるオベイロン侯爵だったからで
ある。
「ぼーっ、としているとオベイロン侯と婚約させられてしまうよ」
「嫌な事を思い出させないで、お兄様。あんなヒキガエルみたいに笑う人なんて……」
アスリューシナは形の良い眉を僅かに吊り上げた。
そんな妹の発言にユークリネ公爵家の嫡男は困った笑みを浮かべ、彼女をリードしながらも
周囲を見回す。
「そうは言ってもなぁ、父上と母上はかなり乗り気のようだし。俺もずっと屋敷に居るわけには
いかないから協力してやれる時間もそれほどない……ああ、いたいた、ほら」
そう言ってアスリューシナに目配せをすれば、その視線の先には口元を歪めるように微笑みながら
ユークリネ公爵兄妹を舐め回すよう見つめているオベイロン侯爵の姿があった。
今宵は肩のあたりまで伸ばしている髪を黄金色に染め、錦糸を織り交ぜた組紐を使って後ろで
ひとつに束ねている。濃緑の礼装に身を包み紳士然としている佇まいに鋭い鼻梁や切れ長の双眸と
いった端麗な面立ちだが、アスリューシナの瞳には何一つ魅力的に映らなかった。
目を合わせないようにその姿を認めたアスリューシナがあからさまに嫌悪の表情となる。
コーヴィラウルは軽く息を吐き出すと、ことさら妹に顔を近づけて囁いた。
「なら、この舞踏会で誰か相手を探すんだな。うちの爵位なら文句を言う貴族はいないだろうが、
父上達を納得させる為には、まぁ理想は『三大侯爵家』……だろうなぁ。今宵は王城の夜会
だけあって三大侯爵の皆様方も勢揃いしているそうだから」
「無理よっ」
アスリューシナは兄を睨み付けながら言葉を遮った。
「ヒースクリフ侯爵様はとうにご結婚されているし。オベイロン侯爵様を除けば残るは
ガヤムマイツェン侯爵様だけでしょう。ガヤムマイツェン候は私より年下ですもの……」
「年下と言っても確か、ひとつだろう?」
今度は妹の口を兄がつぐませた。曲に合わせて妹を大胆なターンでくるりと回すと素早く辺りを
見回す。
「ほら、あそこの壁際にいる。なんだかこっちをジッと見ている気がするけど……それに
してもあの若さで爵位を継いだせいか妙に大人びているというか、色気のある奴だよな」
兄の言葉に倣って視線を巡らせれば、なるほど目的の人物が腕組みをして軽く壁に寄りかかって
いた。
「ひとつでも、年下は年下よ……」
遠くてよくは見えないが確かに落ち着きのある態度だった。しかしその印象とは逆に礼装越し
にもわかる細めの体つきは少年のようで、そのアンバランスさが魅力となっているのか、
覗うように侯爵へ秋波を送っている令嬢達の数は少なくない。
自分に向けられている眼差しには頓着がないのか、ガヤムマイツェン侯の瞳はあくまでホールで
踊っている兄妹にのみ注視していた。その視線に疑問を抱いた兄が再び妹の耳元に口を寄せる。
「もしかして、知り合いなのか?」
「まさか」
即座に否定の言を述べた。
アインクラッド王国の『三大侯爵家』と言えば正真正銘貴族のトップだ。
建国から続く歴史の古さに加えて領地の広さ、莫大な財産はへたな公爵家より格が上とされて
いる。その三侯爵が揃うなど王城での夜会ならでは、なのだろう、それぞれの侯爵に向けて
数多の視線が遠巻きに送られているがそれ以上の数の注目を集めているのは、やはり華麗な
ステップを披露している一組の兄妹だ。
「俺は国にいる方が珍しいくらいだからね。加えてアスリューシナ、お前は十五歳の時の舞踏会
デビュー以来、まともに夜会に出ていないんだろう?」
問われて兄の胸元で妹が小さく頷いた。「なら、物珍しさに視線も集まるわけか」と自分達兄妹が
見世物状態なのを理解する。
「そう言えば、知っているか?、ガヤムマイツェン侯の髪の色、染めてないそうだ」
コーヴィラウルの言葉にアスリューシナが驚いて目を瞬かせた。
アインクラッド王国の人々は髪の色が薄い。国境近くの辺境地域の人々は他国との交流が多い
せいかその限りではないが、王都で何代にも渡り居を構えている者は庶民から貴族に至るまで
ほとんどと言っていいほどシルバーグレーの髪をしていた。多少シルバーが濃いか薄いか、
またはシルバーに混じって別色の色が僅かに混じるかといったくらいの差なので、自分の髪を
染めて楽しむのが当たり前となっている。しかし、今、こっそりとアスリューシナが盗み見て
いるガヤムマイツェン侯の髪の毛は見事なほどの濡れ羽色だった。
「本当に?……染めているのではないの?」
「ああ、妹君も同じく黒髪だと聞いている。前ガヤムマイツェン侯の奥方は他国の方だから
それでなのかもしない」
アスリューシナは改めて周囲の貴族達の髪色を眺めてから、ふと自分の肩に流れ落ちている
一房に目を落とした。コーヴィラウルも妹の髪を愛おしそうに見つめる。
「アスリューシナはいつもアトランティコブルーなんだな」
「そうね、染めるならこの色と決めているから……気に入ってるの」
「うん、似合ってる」
兄からの素直な褒め言葉に照れたのか微かに頬を染め、あえて話題を戻した。
「それで、前ガヤムマイツェン侯は、今、どちらに?」
妹からの問いにしばし兄が考え込む。
「……確か、西のアーメリア国だと思う。あそこの外交担当として派遣されてから
滞在年数も結構経っていると思うが、ご成婚されても外交の職を退かなかったから、よほど
気に入っておられるのだろう」
「結婚後の領主としての責は侯爵夫人が?」
「ああ、もともと侯爵が外交として赴いた国で夫人と出会われたんだ。夫人は母国でも政務に
積極的にご参加されていたそうだから、結婚後の領主代行もそれ程苦ではなかったのかも
しれない。2年前にご嫡男が15歳で成人されたと同時に爵位をお譲りになって、今は夫人も
あちらこちらを飛び回っていると聞くが……王都の屋敷にほとんど不在ってのは、うちと
似てるな」
最後の言葉を苦笑気味に告げると、アスリューシナは逆に眉根を寄せた。
「うちはお父様、お母様に加えてお兄様もご不在、でしょ」
「……ゴメン、ゴメン。またお土産を買ってくるから」
困ったように謝りながら自分の腰に回されている手に力を込められると、アスリューシナも
それ以上は言えず、少し俯いて今日の自分の胸元を飾っているネックレスに目をやった。
プラチナホワイト色の生地にゴールドとサファイアブルーの二色の絹糸でふんだんに刺繍を
あしらった今夜のドレスはデコルテ部分が大きく開いており、そこにシャンデリアの輝きを
反射してキラキラと輝くネックレスがアスリューシナの胸元を豪奢にしている。
その目線に気づいたコーヴィラウルが柔らかく微笑んだ。
「そのネックレス、今日のドレスに合っているよ。その色なら普段のお前でも使えるだろう?」
「そうね、お兄様がくれたお土産の中ではかなり気に入ったわ……コハク、と言ったかしら?」
「そうだよ。簡単に言えば樹脂が固まったものだ」
トップにはひときわ大きくシャンパーニュ色のコハクが存在感を主張し、それを囲むように小粒な
カシミアグリーンのコハクが配置されている。細かな装飾を施したシルバーの台座にはめ込まれた
コハク達は一目で一級品とわかる光沢を放っていた。
「不思議ね……でも、とても綺麗。有り難う、お兄様」
「ああ、笑顔のお前が付けてくれれば宣伝効果は抜群だからな。この舞踏会でそのネックレスを
目にとめたご婦人方から注文が入れば本格的に商売にできる」
笑顔で謝意を述べたアスリューシナの顔が兄の言葉を聞いて信じられないようなものを見る目に
変わる。
「……お兄様はすっかり計算高い商い人となってしまわれたようね」
「えっ?、いや、アスリューシナ?、違うよ。これはお前に似合うと思ってわざわざ異国の
問屋まで足を運んで選んできたんだから。アスリューシナ、俺が大事な妹を商売の道具に
使うような兄に見えるのか?」
「……見えます」
タイミングの悪いことにアスリューシナの機嫌がどんどん下降していくのと同時に、広間に
流れていた音楽も終盤を迎えた。最後に互いが向かい合って腰を屈め礼をとると、ひらりと
ドレスの裾を翻してアスリューシナは兄を置いてホールから降りる。その後ろ姿を追うように
足を速め彼女に近づき、引き留めるように肩に手を掛けた。
「アスリューシナッ」
途端にアスリューシナが兄の手をパンッとはじく。
振り向きざまに小さくひとこと言い放った。
「もう、屋敷に帰ります」
それを聞いてギョッとした兄はすぐさま妹の片肘をつかんで大広間の端へと連れて行く。
次にダンスの申込みをしようと狙っていた男性貴族達がどうしたものかと戸惑いをみせながら
その様を見守っていた。
「まだ一曲目だぞ。さっきの言葉は俺の失言だった。ちゃんと謝るから……それにお前だって
三大侯爵家とまでは言わないまでも、早めに相手を見つけなければならないのはわかってる
だろう?」
そう言われてアスリューシナは口を強く噤んだ。
兄の言うことは自分自身が痛いほど自覚している。このままだとオベイロン侯との縁談を
両親は嬉々として進めるだろう。破談にするには早々に自分で結婚相手を見つけなければ
ならない……それも両親が納得してくれるくらいの相手でなければダメだ。
だが、もし、もしも、親が認めてくれなくても、それでも共にいたいと思う相手と巡り
会えたならアスリューシナはユークリネの家名を捨ててでも嫁ぎたいと思っていた。
少なくともそこまでの想いをオベイロン侯に抱くことは出来ないと2年前から自分の
中ではわかりきっていた事だし、兄にだけはその気持ちを打ち明けている。
「まったく、どうしてよりによってオベイロン侯なのかしら」
大きな溜め息に続いて小さく呟いた声に兄が肩をすくめた。
「そうは言っても、お前が社交界にデビューしてから彼がご執心だったのは周知の事実だったろ。
肩書きだけ見ればこれ以上の良縁はないしな。お前がグズグズしているから侯爵が更に積極的に
動き出したってわけだが……」
「お母様は昔からオベイロン侯爵家の領地の広さを羨んでいたものね」
「ウチは商売による収入しかないからね、広い領地に憧れる気持ちはわからないでもないさ」
「それにしたって、あのオベイロン侯よ」
「侯の外面の良さは筋金入りだからなぁ。ここにいる貴族達でどれだけの人間が彼の本質に
気づいているのか……」
声を潜ませてはいるが穏やかな雰囲気ではない兄妹の会話に割り込む隙を見いだせずにいる
紳士達の中で一人だけ、ゆっくりと近づいてくる影があった。
素早くそれに気づいたアスリューシナが慌てて両手でドレスの裾をつまみ、足早に会場の
出口へと向かう。一拍遅れて兄が妹の後を追った。ちらり、と振り返ればもう少しで声を
かけられる距離まで近づいていたオベイロン侯が忌々しそうに片眉を曲げている。
その瞳の奥に宿る光は獲物を欲するように鈍く輝いていた。
(あれはヒキガエルっていうよりニシキヘビだよなぁ)
自分の見解を抱いたまま会場を逃げ出したアスリューシナに追いつき、その隣に並んで
出口へと歩きつつ、兄は妹の表情を認めて内心で溜め息をついた。
こうやってオベイロン侯との縁談話を回避すべく相手を探しに夜会に出れば、結局、彼と
遭遇してしまうのだ。あちらもこの話を進める為、アスリューシナとの接点を持ちたい
のだろう。かと言って夜会以外で貴族との偶然の出会いなどほぼ皆無に等しい。兄妹の友人
貴族を介して、と思ってはみても既にオベイロン侯がアスリューシナを望んでいることは
貴族の間でも知れ渡っているので、そこを押しのけてでも名乗りを上げてくれる者を
期待するのは夢物語のようなものだった。
ひどく疲れたような顔をして小さく「とにかく帰りたいの」と可愛い妹に言われれば、
あのオベイロン侯の待つホールに戻ろう、とはどうしても言えない。もともと社交界
デビューまでは病弱で屋敷から一歩も出たことのない深窓の令嬢として知られている妹
だから体調を理由に辞するのは不振に思われないだろうと判断し、コーヴィラウルは
一足先に公爵家の馬車を手配すべくアスリューシナから離れた。
お読みいただき、有り難うございました。
やっと「アスナ」の記載ができました(1回だけ)……。
貴族階級について、ですが今回は
上級貴族 → 公爵・侯爵・伯爵
下級貴族 → 子爵(準伯爵)・男爵
と(いちを)決めています。もちろん覚えていただかなくて問題ありません。
ガヤムマイツェン家は「侯爵」ですが、ユークリネ家は「公爵」です。
音にすると同じなので入り交じると私のタイピングミスでは?、と思われる方も
いらっしゃるかもしれませんが(笑)
でも、うっかりすると間違えている時もあり、冷や汗をながします(苦笑)