ルーリッド伯爵邸の薔薇の小園に静寂が訪れてから数刻後、ガヤムマイツェン侯爵から大事な指輪を盗んだと思われる男達二人は自分達の背後に感じた気配を探っていたが、五感が何も拾わないとわかると再び彼らの言う出口を目指して動き始める。
それを互いが寄り添ったままの体勢で静かに見送ったガヤムマイツェンとアスリューシナだったが、物音一つ聞こえなくなっても言葉ひとつ発せず、その身を離そうとはしなかった。
侯爵家の令嬢であるというのに、たったひとりで男二人の後を追う姿を見た時は、その予想外の光景に唖然となったキリトゥルムラインだったが、その行為がどれほどの勇気を必要としたものだったかに思い至り、今はただ彼女の心が身体と共に落ち着くのを待つ。しかし腕の中の華奢な両肩が次第に震え始めた事に焦りを覚えて、堪らずに身を屈め「アスナ?」と再びいつもの呼称を口にした。
覗き込むように顔を近づけたが、アスリューシナはすぐに反応をみせず身体を丸めるように下を向き、弱々しい声を吐き出しす。
「ご……ごめんなさい……」
尋常ではない様子にキリトゥルムラインの焦りが増した。
「どうした?、具合が悪いのか?」
キリトゥルムラインからの問いかけに、ふるふると首を横に振って否定したアスリューシナだったが、それでもうつむいたまま、たどたどしく声を紡ぐ。
「暗いの……」
「えっ?」
「だから……暗闇が……苦手……なの…………さっきまでは……夢中で……」
それを聞いて今度はキリトゥルムラインが初めてアスリューシナの私室を訪れた際の会話を思い出す。
随分な数の燭台に驚いたキリトゥルムラインに対して彼女は「暗いのが苦手で……」と返していた事を……。
いつもは優雅とさえ言える仕草に丁寧な言葉使いを崩さないひとつ年上の公爵令嬢がやっとの態で言葉を吐き、自分の腕の中で小さくカタカタと震えてる様にキリトゥルムラインは咄嗟にアスリューシナの身体を抱きしめた。
言葉通り、ここまでは奴らを追うのに必死だったアスリューシナは心許せる侯爵が現れた事で冷静さを取り戻し、それから今の自分の状況を自覚してしまったのだ。
慣れた私室でさえ夜はいくつもの燭台の灯りがなければ過去に引きずり戻されてしまうというのに、この場所には伯爵家の広間の輝きも小園の照明も届かず、ぼんやりと浮かんた月光のみが頼りだった。
なぜそれほど闇を恐れるのか戸惑うキリトゥルムラインだったが、今、その理由を問うている場合ではないと彼女の背中をゆっくりとさすりながら震えを和らげる為に何度も彼女の名を呼ぶ。
さっきまで僅かな怯えも見せずにしっかりと前を向いて男達を追っていたアスリューシナの姿は今はどこにもいなかった。
先程のキリトゥルムラインは男達の後ろから付いていく彼女に追いつく為にわざと彼らに気配を悟らせたのだ。ただアスリューシナに追いつくだけなら走る速度を上げれば済む話だったが、それではその先を行く奴らにも自分とアスリューシナの存在を知られてしまう。それを避けるために自発的に足止めを促したのだが、実際、後ろから感じるだけでもアスリューシナの体力は限界に近かったように思う。
男達に気づかれまいとしゃがみ込んだ彼女の背中は可哀想なくらい荒い息づかいに揺れていた。それでもどこか気を張っているのは伝わってきて、そんな様子に我慢できず、つい声を掛ける前に抱きしめてしまったのだが……キリトゥルムラインの声を認めた途端、氷が溶けるように四肢を緩ませたアスリューシナをその身で感じ、どれほどの優越感を味わっただろうか。
しかし今はいくら名を呼んでも彼女の身体は糸で縛られたように強ばっており、それが解ける気配すらない。
寸刻、キリトゥルムラインは思考を巡らせた後、抱きしめていた腕の力を弱め全身でアスリューシナを包み込むように背中を支え、髪を梳き、頬で軽く頭に触れた。
「アスナ……」
わずかながらに反応を見せたアスリューシナに静かに言葉を続ける。
「ここは暗闇の中じゃないって、想像してみて」
「ぇっ?」
震えが収まることはなかったが、下を向いていた彼女の頭がキリトゥルムラインの顔を持ち上げるように少し上向いた。
「ここは暗闇の中じゃない……オレの腕の中で……ほら、ユークリネ公爵家のアスナの部屋を訪れた時、いつもこうしてるだろ」
「キ……リトさ……ま……」
「そう、出迎えてくれたアスナはいつもこうやって……」
「……は……い……」
それはいつの間にか決まり事のようになった二人だけが知る儀式だ。
既にその感覚は互いの身体に染みついている。
アスリューシナの震えが段々と小さくなっていくのを支えていた手で感じ取ると、最後は身体から追い出すように大きく深呼吸を繰り返す背を、とんとん、と叩いた。侯爵のもう片方の手と頬は変わらず、アスリューシナの頭部に密着しているが、彼女は気にする事なく顔を上げる。
「もう……大丈夫……です」
「うん、でも、もう少しこのままでいたい」
そう強請られてしまっては震えを収めてくれた手前、強引に離れるわけにもいかず、アスリューシナはそれこそ私室に居る時のように目の前の胸元に頬を押し付けた。すると自分の背に回されている腕が目にとまる。
既に男達は遠くに行ってしまったのだとわかっていてもこの腕の中から辞することの出来ないアスリューシナはもぞもぞと動いて侯爵の腕に両手を伸ばした。夜会の広間で自分の元を離れたキリトゥルムラインに美しい令嬢がすり寄っていた光景をぼんやりと思い出し、無意識にそっ、と絡めるように侯爵の腕を抱きかかえて引き寄せてみる。
抱きしめられるのも心地良いが、こうして自分の中に閉じ込めてしまうのもまた嬉しいのだと気づいたアスリューシナが、もっと、とせがむようにキリトゥルムラインの腕にしがみつこうとした時だ、頭の上からぼそり、と戸惑いの声が落ちてきた。
「……なんか……オレ、誘われてる?……」
「えぇ?……」
見上げると薄い月明かりでもわかるくらい頬を染めた侯爵の顔が飛び込んできて、一拍おいた後に自分の行為の大胆さを悟ったアスリューシナはその何倍もの濃い赤に顔全体を染めきり、あわてて手を離す。
「ごごごごめんなさいっ……そのっ……えっと……」
「うん、まあいいんだけどな。むしろ待ち望んでいたくらいで……」
「ちちちっ、違うんですっ」
「なんだ、違うのか……」
「えっ?、そうじゃなくてっ……ちょっと……見ていたら……なんだか……」
「……オレの腕って見てると捕獲したくなるとか?」
「だから、キリトさまの腕の事ではなくて……」
そこまで言ってアスリューシナはふぅっ、と息を吐き出した。
「先程の夜会の場で見知らぬご令嬢方がキリトさまの腕に触れていらっしゃったのを見ていたら……という意味で……」
「……見ていてどう思ったのか……オレとしてはもの凄く気になるんだけど……」
「んー……、嬉しくないのかしら?、と……」
「はぁ?」
「それに、何だかもやもやして……それで……」
「ああ、もやもやはしてくれたんだな。よかった……で、それで?」
「同じ事をしてみたくなってしまったと言うか……ほとんど無意識で……本当に、ごめんなさい……」
すっかりしょげ返っているアスリューシナの頭の上に少々勢いをつけて、ぽふんっ、とキリトゥルムラインの顎が乗った。
「どうしてそこで『ごめんなさい』になるのかわからない」
「ユージオ様がおっしゃってました。こういう事は誰にされても嬉しいわけではない、と……」
「うん……まあ、そうだろうな……」
「ですから……」
「オレが嬉しくないと思ったのか…………アスナは?」
「はい?」
何を問われているのか聞き返そうとして顔を上げたアスリューシナと額を合わせる程の距離でキリトゥルムラインが詰め寄ってくる。
「だから、アスナはこうやってオレに触れられて……どう思ってるんだ?」
「……どうって……」
そこでアスリューシナは言葉を詰まらせた。私室でキリトゥルムラインの腕に包まれるようになってから考えないようにしてきた自分の感情を正面から問われているのだ。
今までこんな風に自分から誰かの元へ身を寄せたことなどなかった。
家族の者以外、こんな風に抱きしめてもらったこともなかった。
アスリューシナの心にユージオの言葉が浮かぶ……「やはりその相手に自分も好意を抱いているかどうかが一番重要ではないか……と」……しかし同時に広間にいた令嬢の声が胸を刺した。
「三大侯爵のお二方を手にしていらっしゃるんですものね」
ユージオとの会話の中ではうっかりと表情に漏れてしまったが、アスリューシナは胸の内に鮮やかに芽生えている感情を小さな箱に丁寧に閉じ込め、ゆっくりと蓋をしてからキリトゥルムラインに笑いかける。
「それよりも、どうして私の後を追ってこられたのですか?、それにさっきの男達はガヤムマイツェン侯爵家の指輪を……」
「アスナ」
話を逸らされたキリトゥルムラインが僅かに苛立ちを含ませてアスリューシナの名を呼ぶが、ひるむことなく彼女は笑顔を保ち続けた。
「教えて下さい、キリトゥルムラインさま。男達の内の一人は市場で騒ぎを起こした者ですよね」
先程までの余裕のない言葉使いもどこか親しさを感じて更なる想いを刺激していたのだが、すっかりと元の口調に戻ってしまったアスリューシナに向けキリトゥルムラインは少しの落胆を込めた視線で見つめる。それから頑なな瞳に根負けした侯爵は溜め息をひとつ彼女の頭上に落としてから事の次第を説明し始めた。
お読みいただき、有り難うございました。
落ちそうでぇ……落ちないっ(苦笑)
アスリューシナが暗闇を苦手とする過去の出来事とは……?