キリトゥルムラインは説明を始めた。
アスリューシナに状況の説明を求められたキリトゥルムラインは再び彼女が暗闇の縁に怯えた足で立つことがないよう抱き寄せて、自分の腕の中に囲い込んだ。今度はアスリューシナも素直にその胸元へともたれかけ身体を預ける。
互いに身を落ち着けたところでキリトゥルムラインはそのぬくもりが己の傍に在る事実に自分を納得させてから口を開いた。
「まず、どうしてアスナを見つけたかって言うとだな……」
ルーリッド伯爵家の家令からの要請で広間を一旦辞したキリトゥルムラインは汚されたシャツの着替えを手早く済ませて夜会で働く従者のような目立たない黒の衣服に身を包み屋敷内を移動した。自分でなければ、と言われた確認事項を処理して夜会に戻ろうとした時、たまたま不審な男達を見つけてしまったのだ。互いに人目につかぬ場所を選んで動いていたのでそれは全くの偶然ではなかったのかもしれないが、ともかくその者達は自分が余興と称して招いた男達に違いないと判断し、そのまま彼らの後ろを付いて行くことにした。
「どっちにしても奴らが行く方向から会場に戻ろうと思ってたし」
「もしかして……バルコニーから、ですか?」
「ああ、夜会会場から出た場所にはまだ令嬢達がいるかと思ってさ」
確かにその推測は間違っていなかった。夜会の主役である伯爵家の令息はもちろんだが、三大侯爵家の、しかもそれまで浮いた噂ひとつなく、特定の相手がいるという話もないガヤムマイツェン侯爵を射止めたいと思う令嬢は皆、あの場で彼が戻ってくるのを待ち構えていたからだ。
「あの男達がこの伯爵邸の忍び込んでいる事は警備の者達も気づいていたんだ。なんせオレが招いたようなもんだし」
「キリトさまが……ですか?」
「そう、伯爵とも話してただろ。余興があるって。奴らがメインの演者ってわけなんだが……当人達は知らないけどな」
アスリューシナは見えずともキリトゥルムラインの口の端が意味深に動いたのを感じる。
「だからオレは小園近くまでは後ろを付いていったけど、そこからバルコニーに上がるつもりだったんだ……なのに……」
不自然に言葉を途切れされたキリトゥルムラインの意図がわからずにアスリューシナは顔を上げ、侯爵を見つめた。目の前には怒ったような、それでいて困ったようにも見える曖昧な視線がまっすぐに落とされている。
「……声が聞こえたんだ」
「……え?」
「アスナの声、少し驚いたような…」
一瞬、何の事かと首を傾げたアスリューシナだったが、よくよく記憶を探り、キリトゥルムラインの言っている声が最後の段を踏み外しそうになった時のものだと思い当たって目を丸くした。
「聞こえ……たんですか?」
周囲を警戒していた男達でさえ聞こえなかったはずの声なのに、と口を開けたまま驚きを隠せずにいると、スッとキリトゥルムラインの目が細められる。
「耳がいいのは知ってるだろ?」
それから付け足すように「ま、アスナの声だったから、てのもあるかな」とおどけて言うが、すぐに表情は険しくなった。
「それにしてもユージオの奴、アスナをひとりにするなんて……」
その声に慌てたのはアスリューシナだ。
「違うんです。私がユージオ様にお願いしたんです…………久々の夜会に興奮してしまって、少し気を静めようと風に当たりに……」
「ふーん……それで奴らに気づいたってわけか」
アスリューシナの言葉を完全に信じたわけではなさそうだったが、キリトゥルムラインは溜め息ひとつで不問に付し、話を先に進める。
「とにかく、男達を追って行く姿を見た時はもう驚くやら焦るやらで……」
それ以上言葉では表せないのか、キリトゥルムラインは再びアスリューシナを包む手に力を込めた。少しの圧迫感は感じるものの痛さはなく、しっかりと触れられている事で逆に安心感を抱くようになってしまった自分の感覚を振り払うようにアスリューシナは強気で答える。
「だって、あの男達、キリトさまの……ガヤムマイツェン侯爵家の指輪の話をしていたんです。それで心配になって、つい……」
「そんなの……」
浮かんだ言葉はいくつかあった。
それはアスナが気にしなくてもいい事で、そもそもガヤムマイツェン侯爵家の問題であり、一人で苦手な暗闇の中へ飛び込んで行く必要なんてこれっぽっちもない。
出会った時から彼女はいつもこうだ、自分自身だって自由とは言えない身の上なのに、それ以上に自分の周囲の為に行動しようとする。
そんな彼女だから目が離せない、手を繋いでいたい、傍にいたいと思ってしまうのだろうとキリトゥルムラインは言いたかった言葉を飲み込んで、替わりにこれ以上はないくらい愛しげな笑みを浮かべ、彼女の頬を優しく撫でてその美しい瞳を覗き込んだ。
しかし、途端に眉間には皺が寄り、漆黒の眼に緊張の色が走る。
「アスナ、話の続きは馬車の中だ」
突然、何を言い出すのだろう?、と丸く見開かれた瞳にキリトゥルムラインが覗き込むように顔を近づけた。
「ったく、具合が悪くなったらすぐに言えって言ったのに……染色の影響、出てるよな。顔色も悪いし瞳の色も変化してきてる」
意地を張った否定の言葉など、はなから受け付ける様子のないキリトゥルムラインの真剣な面差しにアスリューシナは素直に「ごめんなさい」と苦笑気味に零す。彼女の傍を離れた負い目もあってか、それ以上キリトゥルムラインからの叱責はなくただ気遣いだけの顔に転じていた。
「立って、歩けるか?」
「大丈夫です……けれど、少し目眩がするので腕をお借りしたいのですが……」
「……抱いていくか」
「嫌です」
「アスナ……強がってる場合じゃ……」
「折角の薔薇園なんですよ。キリトゥルムラインさまと並んで歩きたいんです……もう少しだけ侯爵さまを独り占めさせて下さい」
いつものアスリューシナならば決して口にしないような言葉と甘え口調にキリトゥルムラインの胸がドキリと跳ねる。
「急いで公爵家に戻って色を洗い流した方がいいんじゃないのか?」
キリトゥルムラインの提案にアスリューシナは少し悲しそうな瞳で「いいえ」と答えた。
「これでも、社交界のデビュー舞踏会の前、兄に見守られながら、こっそり試したんです」
「試した?」
「はい、髪を染めたまま、どの程度、まともに立っていられるのか、や、症状が出てすぐに色を落とせば、それ以上具合が悪くならないか、など……」
何度も何度も体調を整えては思いつく限りの事を試したのだとアスリューシナは頭をふらつかせながらその時の様子を語った。しかし残念ながら結果は夜会や舞踏会に最後まで体調は維持できない事と一度具合を悪くしてしまったら髪を元に戻しても薬を飲んでも症状の緩和が早まる事はないと分かっただけだっだ。
「ですから、今更慌てて屋敷に帰ったところで、体調は変わらないんです。だったら、この薔薇園を楽しまないと……」
「……こんなに暗くちゃ薔薇なんて見えないだろ」
「形はおぼろげにしか見えなくても……」
そう言いながらキリトゥルムラインの腕にすがるようにして立ち上がったアスリューシナは弱々しくも、すぅっ、と息を吸い込んだ。
「とても良い香りがします。土に根を張って生きている花の香りは切り花とは違うんですね」
「……そうか?」
「はい、四年ほど前にユークリネ公爵家の屋敷に戻ってきてからこんなにたくさんの生き生きとした花に囲まれた事なんてありませんでしたから」
少し焦点の合わない瞳で、それでもふわり、と笑うアスリューシナの手を取って自分の腕に誘い、彼女の隣に立つ。キリトゥルムラインはアスリューシナをリードするようにゆっくりと小園の中を歩いた。
それでも時折アスリューシナがふらつく度に足を止め、その顔色を窺うが、彼女は何でもないと言った風に笑うばかりで何を考えているのか読み取れず、キリトゥルムラインは心に引っかかる違和感に不安を感じずにはいられなかった。
ユークリネ公爵邸まで迎えに来てくれた時と同様に帰りもルーリッド伯爵家の紋章のついた大型の箱馬車へキリトゥルムラインと乗り込もうとする時のアスリューシナの顔は既に隠すことも出来ないくらい土気色となっていた。キリトゥルムラインの腕をつかんでいた手も力が入らなくなったのかすっかり冷たくなっていて、今は逆に侯爵の手に包まれ力強く守られている。
ユークリネ公爵家令嬢が夜会を辞する旨を従者に言付けてからキリトゥルムラインが彼女を支えながら馬車の踏み台にに足をかけると、よろめいたアスリューシナに馬車の扉を開けていた御者が思わず手を伸ばした。しかしその瞬間、誰にも触れさせたくないのか、キリトゥルムラインが素早くアスリューシナを抱き上げて馬車に乗り込み、座席に座った自分の膝の上に彼女を下ろす。
ドレスで身体を優しく包み込むようにして横抱きにされたままのアスリューシナが上目遣いに批難めいた視線をゆるくキリトゥルムラインに向けるが文句を言っても無駄と思っているのか、それ以上は何もなく、ただひとつだけゆっくりと息を吐き出した。
キリトゥルムラインの手の平がそっと彼女の顔の上を覆う。
「ほら、目も開じて。馬車の揺れも辛いんだろ」
確かに絶え間なく襲ってくる目眩に馬車の揺れが加わればまともに座っていられる自信もないが、当たり前のように抱えられているというのも違う意味で目眩がしそう、と内心、恥ずかしさで一杯のアスリューシナだったが、反対にキリトゥルムラインの腕の中はどうしようもなく安心できて、今だけは、と彼の言葉に従い目を閉じた。
お読みいただき、有り難うございました。
キリトが広間から出て行った場所を動かず、ひたすら戻ってくるのを
待っているご令嬢達……ここで待ち続けるのが正解なのか、
はたまた見切りをつけて他の令息の元へとアピールをしに行くのが
正解なのか……うーん、悩むところですよね。