馬車の中で二人だけの時を過ごすキリトゥルムラインは……。
いきなり、何かを思い出したようにキリトゥルムライから領地への帰還を知らさせたアスリューシナは、一瞬キョトンとしたもののすぐに理解を示した。
「そうですか……貴族の皆様は、王都に滞在するより領地で過ごされる時間の方が長いのが普通ですものね」
「まあ、そうなんだけどな。でも、もうすぐ建国祭だろ。それが終わってから領地に引き上げるのが一般的だけど……ちょっと急ぎの要件があるんだ」
キリトゥルムラインの言葉で建国祭のパレードを思い出したアスリューシナは彼の腕の中で僅かに首を傾げ上目遣いで問いかける。
「騎士団に所属していらっしゃらないと建国祭でのお役目はないのですか?」
「だったらいいんだけどな。どっちかって言うと所属してない騎士の方が雑用を押し付けられる」
称号を持っていながら騎士団に所属していない者と言えば既に現役を退いた老体か、貴族の爵位持ちで領主としての役目に日々を費やしている者あたりだ。
騎士団に所属していない騎士として、これまでの建国祭で自分が割り当てられた役目を思い出したキリトゥルムラインはうんざりとした顔で明後日の方向を見つめた。
「まあ、あの盛装で参加しなくて済むのは有り難いけど、やっぱりパレードはメインのひとつだし。城から出た国王の姿を市井の者達が目にする事が出来るのはあの日くらいだから……お陰で、当たり前だけど警備体制が尋常じゃないんだ。オレみたいに若い称号持ちのくせに騎士団に入ってない奴はここぞとばかりに働かされるんだよなぁ」
口をへの字に曲げたキリトゥルムラインの顔を見てアスリューシナが楽しそうに口角を上げる。
「でしたら、建国祭の日はお忙しいのですね」
「ああ、でも逆に昼間のパレードが終わればお役御免だから、夕方以降は自由に動ける。中央市場も随分と賑やかになるだろ?、一緒に観に行かないか?、暗くなってからなら髪はそのままでフードを被れば楽しめる」
「建国祭の夜の中央市場ですか……」
「アスナ?」
「いえ……」
躊躇うように再び俯いたアスリューシナは胸の上で重ねていた両手にグッと力を込めると、そのままの姿勢で静かに「キリトさま」と呼びかけた。
「今宵は……有り難うございました」
「アスナ?」
突然の謝辞に戸惑いの声でキリトゥルムラインからもう一度名を呼ばれるが、それには応えず彼女は淡々と感情を窺わせない口調で話し続ける。
「こんな風に着飾って、兄以外の方にエスコートをしてもらい夜会に出席するの……ちょっと憧れていたんです。ルーリッド伯爵様には優しく接していただきましたし、ユージオ様とは楽しくお話が出来ました。見事な薔薇も見る事が出来て……小園とおっしゃってましたが、広い薔薇園も素晴らしくて……キリトさま、私、あんなに生命力に満ちた植物をすぐ傍で感じるの、王都に戻って来て初めてだったんです。それにあれ程走ったのも本当に久しぶりで……ほんの少しだけビックリするような事もありましたが……でも……とても、とても楽しかったです……今宵だけでたくさんの嬉しい思い出が出来ました」
「アスナ……なんで急にそんな事を言い出すんだ」
「ですから……もう……十分です」
「なにを……」
小園から感じていた彼女の違和感を思い出したキリトゥルムラインはアスリューシナの一人で勝手に何かを諦める決意をしたような言い方に不安と焦りでつい声を荒げてしまいそうになった時だ、自分の腕の中で公爵令嬢がゆっくりと顔を上げた。泣きそうなくらい儚い笑顔で「今宵で……」と震える声を絞り出す。
「もう……キリトゥルムラインさまと、お会いするのは……」
最後まで言わさぬ素早さで、名を呼んでも一向に聞き入れてもらえないキリトゥルムラインは彼女の言葉を押し返すように自分を見上げているその額に自分のそれをそっと押し当てた。
「リンゴの花……」
ぴたり、と合わさった額に驚いてそのまま目を見開き、いきなりこの場にそぐわない単語を発したまま静かに目を閉じて少し微笑んでいるようなすぐ目の前のキリトゥルムラインの顔にアスリューシナは問い返す。
「はい?」
「アスナはリンゴの花、見たことあるか?」
「白い……とだけ、聞いたことがありますが、実物を見たことはありません」
なぜ、今、リンゴの知識を問われているのだろうと、自分の言葉の続きをひとまず止めて待つとアスリューシナが初めてキリトゥルムラインと相対した時に魅入ってしまった漆黒の輝きがゆっくりと姿を現した。あの時は澄んだ夜空の黒と感じた色が、今は更なる熱量を持って深く濃く底知れぬ何かを秘めている。
「今は収穫を終えて養分を蓄える時期だから枝葉しかないけどな、領地の寒期が終わる頃、たくさんの蕾が膨らんで花が咲く。花びらは真っ白じゃないんだ。淡いピンクが混じっていてとても綺麗だよ。辺り一面がリンゴの花でいっぱいになるあの景色を……アスナに見せたい」
欲望と例えていいほどの強い願いを感じ取ってアスリューシナが身を引こうとすれば背中に回っているキリトゥルムラインの腕に力がこもり、逃げる事は出来ないと身体的にも精神的にも追い詰められて堪らずに目をきつく瞑ると、触れ合っている額同士をお仕置きと言わんばかりの強さでグリグリとこすりつけてくる。
「ったく、なんで急にそんな事を言い出したんだか……ああ、オレが傍を離れた隙に他の令嬢達に何か言われたのか」
がっちりと額を固定されている為に顔を動かすことが出来ないアスリューシナは未だ目を開けられないまま「ち、違いますっ」と即座に否定した。
「私が……浅はかだったんです。キリトさまと同じ三大侯爵家のオベイロン様から好意をいただいている事は皆様がご承知なのに……」
「なのにオレと夜会に出席したらアスナの評判に傷がつく?」
自分の言葉尻を盗られた挙げ句、思ってもみない言葉を続けられてアスリューシナは思わずクッと目を見開き額をくっつけたまま無理矢理に顔を押し上げた。
「わっ、私の評判なんてどうだっていいんですっ」
いきなりの剣幕に押されてキリトゥルムラインが思わずアスリューシナの額から顔を浮かせると、唇を戦慄かせたまま既にヘイゼルの色に戻りつつある瞳にじわり、と涙が浮き出ていて、悔しそうに歪んだ眉の間には皺が寄っている。それでも侯爵を真っ直ぐに見つめたままアスリューシナは震える声を吐き出した。
「わ……私を伴う事で、キ、キリトさまが……」
今宵、ルーリッド伯爵邸で数人の令嬢達が口にしていた言葉……それはアスリューシナが三大侯爵のオベイロン侯だけでは飽き足らず、自らの美貌でガヤムマイツェン侯爵との繋がりまでも見せびらかし、他の令嬢達とは格が違うのだと言いたげの傲慢な女なのだろうとの酷評だったが、それは裏を返せばそんな令嬢をエスコートしているキリトゥルムラインの評価にもつながる発言なのだ。
アスリューシナが自分から離れると言い出した理由を得心したキリトゥルムラインは憮然たる面持ちのまま軽く鼻から息を吐き出す。
「オレの侯爵としての尊厳を守ろうとしてくれてるのは嬉しいけど、生憎、オレはこの称号にそれほど固執してないんだ」
「キリトさまっ」
珍しくどこか投げやりな言い方をするキリトゥルムラインにアスリューシナの声が尖った。
「と言ってもちゃんと領主としての役目は果たしてるぞ。領民達には小さい頃から世話になってるしな。イヤイヤこの爵位を譲り受けたわけじゃない。ただガヤムマイツェン侯爵家は同じ三大侯爵家のオベイロン侯爵家とは違って男系継承を絶対としていないから、オレ個人としては妹のリーファが後を継いでも問題はないと思ってる」
そこまで言うとキリトゥルムラインは小さく「でも、まあ」と言葉を濁してから遠い目でどこかを見つめた。
「前にも話したけど妹は刺繍針を持つより剣を握ってる方が楽しいと言い切るくらいだから……」
実は過去に一度だけ、爵位譲渡の際に両親へ提言した事があるのだ、侯爵の地位はリーファか、或いはリーファの夫となる人物でも良いのではないか?、と……真剣に問いかけたつもりだったが、キリトゥルムラインの言葉を聞いた途端、両親は大笑いをして、母である侯爵夫人などは目に涙まで溜めて「なら試しにリーファに昨年の領地からの収入を伝えて城に収める納税額の何割に当たるのかを計算させてごらんなさい。きっと頭から湯気を噴き出して白目をむいて倒れるから」と言い、それを聞いた父である当時のガヤムマイツェン侯爵は「更に口から泡を吹くかもしれないなぁ」と頷きながら添えたのだ。
剣を振るうにしても馬を操るにしても頭が鈍くでは出来ないのだが、どうもガヤムマイツェン侯爵令嬢は数字に弱いらしい事が侯爵家の身内とリーファ付きの侍従、侍女達の共通認識だった。
そして侯爵は「数字に強いしっかり者の婿殿が来てくれるとは限らないし、お前が侯爵家を継いでくれるのが一番安心なんだよ」とキリトゥルムラインからの問いかけを収めたのである。
「だからって今回みたいに卑怯な手を使ってオレを無理矢理侯爵の座から降ろそうとする親族に従う気はさらさらないけど……侯爵か騎士か、どっちでも好きな方を選んでいいなら、迷わず騎士を選ぶだろうな」
そう言って再び視線をアスリューシナへと落としたキリトゥルムラインは心を許した者だけに見せるニヤリ、とした笑みを浮かべた。
お読みいただき、有り難うございました。
やっと名前(だけです)が、出てきましたリーファ嬢。
「数字に強いしっかり者の婿殿」は残念ながら出番
ありませんけど……(気弱な瞳と黄緑色に髪を染めた
頼りなさげな彼、かも……全然しっかり者じゃなかった!)