漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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キリトゥルムラインとアスリューシナ、互いを想う気持ちは
止められず……「指輪」の章、最終話です。


28.指輪(12)

未だ瞳に大粒の涙を溜めているアスリューシナへと顔を近づけたキリトゥルムラインは「それに」と言いながら器用にも肩をすくめる。

 

「アスナに好意を抱いている程度の貴族の令息なら他に何人だっている。それをオベイロン侯が爵位を振りかざして牽制してるだけだろ」

 

その言葉に驚きを隠せないアスナが大きく目を見開くと、その拍子に涙がぽろり、と流れ落ちた。それを予期していたようにキリトゥルムラインの唇が吸い上げる。

 

「ひゃっ……キッ、キリトさまっ」

「だって手が使えないから」

 

どうやら流れ落ちる涙をそのままにしておく、という選択肢は今現在、侯爵の頭の中にはないようだ。今まで、キリトゥルムラインの手ですくい上げられたロイヤルナッツブラウンの髪や手の甲にキスを落とされた事はあったが、今宵は頭に、前髪ごしの額に、果ては瞼に頬にと随分と色々な場所に触れられている感触を一気に思い出し、務めて冷静に今宵限りでガヤムマイツェン侯爵との関係性を終わらせようと決意していたアスリューシナの中で御しきれない様々な種類の感情が心の奥底にある箱の中で膨れあがる。

全てを吐息に変えてやり過ごすには大きすぎて、言葉に変えるには重すぎて、侯爵への気持ちが箱の蓋を押し開けようと懸命にもがいていると、キリトゥルムラインはアスリューシナに顔を近づけたまま不敵な笑みを浮かべた。

 

「けど、ここにきて初めて自分の爵位に感謝してる」

 

どんどんと大きくなる感情を鎮める手段がわからないままキリトゥルムラインの言葉の意味を計りかねていると、当の侯爵はますます笑みを深くする。

 

「だってそうだろ。オレには三大侯爵家の権威は通用しない。オレも同じ三大侯爵家の一人だ。なら後はユージオの言葉を借りるなら……『その相手に自分も好意を抱いているかどうか』……だったよな?」

 

既に何も疑う事はないと言いたげに確信めいた口調で告げてくる言葉は、拠り所もなく不安定に揺れ動いていたアスリューシナの全ての感情を一気に押し出して心の深くにしまい込んだ箱の蓋はゆっくりと開き、その中からキリトゥルムラインの想いに応えるように恋情がキラキラと飛び出した。

 

「キリトさまっ」

 

すっかり見慣れたヘイゼルの瞳からふわり、と大粒な涙が再び溢れ出てくる。次から次へととめどなく転がり落ちる真珠のような涙を見てキリトゥルムラインはそれまでの冷めた笑みを一転させ、心からの安堵と嬉しさを滲ませた笑顔でアスリューシナを見つめ続けた。

 

 

 

 

 

今度はほろほろと零れる涙はそのままで、互いに熱に浮かされたような視線を外せずにいた二人だったが、感情を高ぶらせたアスリューシナがぱちぱちと瞬きを繰り返したかと思うと急に眉間に深いシワを刻み、目を閉じて、同時にキリトゥルムラインの胸元に額を押し付ける。その急変に慌てたキリトゥルムラインが「アスナ?」と名を呼ぶと、少し荒さを感じる息づかいにアスリューシナが言葉をのせた。

 

「髪の……副作用が……強くなってきて……」

「もう喋らなくていい。屋敷まであと少しだから」

 

指示に素直にしたがって僅かに首を縦に動かしたアスリューシナの身体をギュッと抱え込み、支えている腕をさするが、彼女の早めの呼吸がキリトゥルムラインの焦りを増長させる。カーテンを閉め切った箱馬車の中、どれくらいの時間が経っただろうか、馬車が一旦停まるとほぼ同時に門扉を動かす音が耳に届く。すぐに馬車は動き出したが車輪が立てる音と馬の蹄の音の変化が通りの道を外れた事を示唆していた。

ほどなくして馬車が完全に止まる。

ガチャリ、と外から解錠の音を待ちわびていたキリトゥルムラインは扉が開くとアスリューシナを抱き上げて、馬車を降りた。ふわり、と自分の身体が浮いた事で屋敷に到着したのだと気づいたアスリューシナが小さく「降ろして……ください」と請う。

目を開けられる状態ではないが、すぐに複数の足音が近づいてくるのを耳で感じ取り、未だ戸惑っているキリトゥルムラインに向け「大丈夫、ですから」と告げれば、渋々といった気配を全身から発しながらそっとアスリューシナの足を地に降ろした。

だが、彼女の腰を未練がましく抱いていると、やって来た家令がキリトゥルムラインに深く頭を下げるよりも早くサタラの後ろを影のように付いてきていたキズメルと数人の侍女達が自分達の令嬢を取り囲む。

 

「失礼いたしますっ」

 

一斉に声をかけ、キリトゥルムラインがひるんだ一瞬の隙をついてキズメルがアスリューシナの左腕を預かり、もう一人の侍女が右腕を、もう一人が腰を、もう一人が肩を支えて侯爵から令嬢を引っぺがす。見事な連携に思わずキリトゥルムラインが「うっ」と唸ると、アスリューシナが周囲の侍女達に「少し、待って」と声をかけ、震える全身をぎこちなく動かして侯爵に対し礼を取った。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、お見苦しい姿を晒してしまい、申し訳ございません。今宵は、これで失礼させて、いただきます……次にお会いできます日を、心待ちに……しております」

 

言い終わると同時に傾いだ令嬢の身体は冷静で職務に忠実な侍女達がきっちりと支え屋敷の中へと導いていく。その後ろ姿を心許ない視線で見送っていたキリトゥルムラインだったが、アスリューシナを隠すようにキズメルが立ちふさがり侯爵に向けて一礼をすると、くるりと向きを変えて令嬢の後に続き屋敷へと入っていった。

その場に残ったのはキリトゥルムラインとユークリネ公爵家の家令とアスリューシナ付きの侍女頭サタラだけ。

しかし家令ももう一度深々と頭を下げるとすぐさま屋敷へと戻っていく。その後ろ姿を見送っていたサタラは家令の姿が消えると、逆に侯爵へ向け一歩を踏み出した。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、少しよろしいでしょうか?」

 

使用人が他家の当主に声をかけるなど本来ならあってはならない行為だが、サタラとキリトゥルムラインの間では今更なので侯爵令嬢の私室にいる時のように気にする事なく首肯すると、サタラは家令にも負けないほどに腰を折り曲げて頭を下げる。

 

「今宵は本当に有り難うございました。髪を染められたお嬢様がこの時間まで外出されても意識を失わずお戻りになるなんて、よほど侯爵様のお側で安心されていたのでしょう」

 

サタラの口から聞かされた言葉に驚いたキリトゥルムラインは思わず声を上ずらせた。

 

「えっ!?、意識を?」

「はい、社交界デビューの舞踏会では王城で倒れられて、パートナーを務めていらしたコーヴィラウル様がそれはもう大慌てで帰城されました」

 

それから病弱な深窓の令嬢というイメージが真実味を持って広く根付いたのだろうが、馬車の中でのアスリューシナの様子を思い出したキリトゥルムラインは彼女の状態がかろうじてその一歩手前であったろうと推測し、痛ましげに表情を歪める。しかしどこか達観した様子のサタラは淡々とした口調ままキリトゥルムラインに問いかけた。

 

「侯爵様、お引き留めしたのはお帰りの馬車内でのお嬢様のご様子を伺いたいからなのです」

 

言葉の真意を測りかねたキリトゥルムラインが眉根を寄せると、サタラは清々しい程の笑みを浮かべる。

 

「先程のように無理をして私達使用人に心配をかけまいとしていらっしゃるお嬢様ではなく、正確なご容態を知りたいのです」

 

そこで納得したキリトゥルムラインは今までの感じたままを口にした。

 

「ルーリッド伯爵邸で目眩がすると言ったから引き上げてきたんだ。瞳の色も混色し始めていた。最初はオレにつかまって歩いていたが、次第に足下がおぼつかなくなって馬車に乗り込んだ時は震えが止まらなくなっていたから車内では横抱きにして寝かせて……」

 

そこでサタラの片眉がピクリ、と動く。

 

「アスナは随分楽だと言っていたけど……もうすぐ公爵家に着く辺りになって呼吸が荒くなり体温も下がって……」

 

そこで再びサタラの片眉がピクピク、と痙攣した。

 

「わかりました、有り難うございます……侯爵様がどうやってうちのお嬢様の体温をお知りになられたのか、非情に気にかかりますが……」

「ああ、それは普通に、額をくっつけて……」

「私の胸の内におさめておきます。今回はお嬢様があの様な状態でしたので致し方ないと……思うことにします」

 

ふと見ると侍女頭のこめかみの血管が浮き上がり、前身で合わせている両の手が震えている事に気づいたキリトゥルムラインは、これは自分がアスナの私室に訪れる毎に彼女を抱きしめているとは知られないようにしないと、と気を引き締める。

 

「と、とにかく、そんな感じだった……けど……大丈夫か?、アスナ」

「はい、二、三日は寝室からお出になれないでしょうが……私共が付いておりますので」

 

サタラの自信に満ちた言葉と笑顔につられ、キリトゥルムラインの口角が上がった。

 

「頼もしいな、アスナ付きの侍女達は」

「お褒めのお言葉、光栄にございます。お嬢様付きの侍女達はその人選から育成まで旦那様とコーヴィラウル様が辺境伯よりこの王都のお屋敷にお嬢様を迎え入れる為、数年かけて揃えた者達ですから」

 

胸を張って自慢げに言い切るサタラの姿を見て逆にキリトゥルムラインは溜め息を零した。

 

「だよな……オレもそろそろ屋敷内の使用人達を信頼の置ける者で揃えたいと思い始めたんだが……」

 

そこでまずは自分を侯爵の座から排しようとしている者達との内通者を特定すべく動き始めたのだが、先刻のアスリューシナに対する侍女達の冷静かつ迅速な行動力を目の当たりにしてしまうと、主従関係をあの域まで持っていくにはあとどれくらいかかるのだろうか、と気が滅入りそうになる。

 

「いっそここの侍女達ごとうちの屋敷に受け入れたいくらいだ」

 

珍しく弱気な発言だったが「侍女達ごと」という言葉の主体が誰なのかを察したサタラは目を細めた。

 

「アスリューシナ様の先程のお言葉、侯爵さまと次にお会いする日を待ちわびると……やっと、ご自分のお気持ちをお認めになったのですね」

「だと……思いたい…………社交辞令でないなら……だけどな」

「社交辞令で『心待ちに』などと、うちのお嬢様は申しません」

 

きっぱりと言い切ってくれる侍女頭に背中を押してもらったような気分になったキリトゥルムラインは、赤らんだ頬を片手で隠しながら「なら……」と小さく呟く。

 

「こちらの侍女達のようなしっかり者を未来のガヤムマイツェン侯爵夫人の為に探さないとな」

 

その言葉にサタラが口元を緩めた。

 

「もしも……もしも、でございますが、近い将来、アスリューシナ様がどこかの上位貴族の殿方の元へ嫁がれますと、お嬢様付きの侍女達の何人かは再雇用先を探さないといけません。ユークリネ公爵家の紋章が入った紹介状を持った者が侯爵様の元へ参りましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます」

「ああ、喜んで受け入れるよ」

 

大歓迎だと言いたいところを飲み込み、安堵の笑みで約束を取り交わすとキリトゥルムラインは一歩サタラに近づいて急に声を落とし真剣な目つきとなる。

 

「……ところで今回の夜会、アスナを伴ったことで向こうに喧嘩を売った自覚はある。さすがに無理矢理な事はしないと思うが、十分気をつけてくれ。オレは一旦領地に戻らなきゃならないんだ」

「心得ております。あちらに喧嘩を売ってくださるような方でなければ、お嬢様はお任せできませんから」

 

あくまでも強気に言い放つ侍女頭に全幅の信頼を寄せながらもルーリッド伯爵家の馬車の御者がチラチラとこちらを覗い、目で催促をしているのに気づいたキリトゥルムラインは一層早口で要件を伝えた。

 

「領地に戻る前に……そうだな五日後の夜、アスナの部屋に行く」

「……侯爵様、もう正面から堂々とご訪問くださっても……」

「アスナに伝えておいてくれ。オレの合図があるまではちゃんとバルコニーの鍵をかけておくようにって」

 

そう言ってサタラから離れたキリトゥルムラインは今夜の余興の主役とも言える盗人の男達の動向報告を受ける為、ルーリッド伯爵家へと戻る馬車に乗り込んだ。

 




お読みいただき、有り難うございました。
アスリューシナがお輿入れしても、サタラは公爵家に残るでしょう。
旦那さん、こっちにいるし……何より次はコーヴィラウル様の婚活に
熱意を注ぐと思います(笑)

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