襲われたアスリューシナだったが……。
キズメルの願いを叶えるようにして少し遠くから大勢の足音が一気に近づいてくる。
間に合った、と安堵するよりも早く馬車の揺れがピタリ、と止み、それまでの暴挙はまるで自分の意志ではなかったと言うように男達はあっさりと馬車から手を離してコソコソと四方八方に散っていった。
夢から覚め、正気に戻った普通の通行人と化して誰一人として振り返りもせず一目散に姿を消した彼らを不審に思いながらキズメルが腕の中の公爵令嬢に事態の好転を伝えようとした時だ、ドンッドンッドンッと少々乱暴な叩扉の音がして反射的にビクリッとアスリューシナの肩が震えた。
「ユークリネ公爵令嬢?」
問いかけると言うよりはどこか巫山戯た口調に嫌悪感が湧く。
「ユークリネ公爵令嬢……いや、アスリューシナ嬢、いるだろう?」
まるで無邪気な子供が隠れ鬼をして遊んでいるように響いてくる声にキズメルは底知れない何かを感じ取った。声は確かに成人男性の物だ。しかしこちらに公爵令嬢がいると確信していながら、わざと問いかけてくるような優位者の物言いは不快でしかない。
どらちにしろ返事など返せる状態ではない主人に代わり、戸惑いながらもアスリューシナから身を離したキズメルは扉に近づき慎重に「どなたでしょうか?」と低い声を発した。
すると外から同じ声が「おい、開けろ」と命じた途端、いきなりバンッと乱暴に扉が開き、同時に背後でアスリューシナの小さく「ひうっ」と怯えたように息を飲んだ音がする。
条件反射で素早く身構えて不審者の侵入を防ごうとした時だ、「どきなよ」と高圧的な一言が真正面から当たり、キズメルは強気にも目の前に現れた男性を睨み付けた。
しかしその男性はキズメルをただの汚れた岩か石とでも言いたげな視線で不快そうに一瞥を投げた後、すぐに下卑た笑みを浮かべて奥で縮こまっているフード姿の侯爵令嬢に向け猫なで声を忍び込ませる。
「僕が来たからもう大丈夫さ、アスリューシナ嬢」
言いながら強引に馬車に乗り込もうとする男性の前にキズメルが立ちふさがった。
「失礼ですが、公爵令嬢様が乗っておられるとご存じならなおのこと、勝手は振る舞いはご遠慮ください」
あくまで礼を尽くした応対をしたのは、車内に片足を乗せているこの男性の身なりが一目で分かるほど贅を尽くしていたからだ。加えて背後に控えている護衛達も騎士団と見まがうほどの装備をした大人数である。目の前の男性だけが武装らしい武装と言えば腰に下げている長剣だけで、その唯一の武器も模造品まがいの実用性にはほど遠い品なのだが……しかし柄や鞘には一見の価値がある見事な装飾が施されていた。
男性が無理矢理車内に乗り込んできた事で宝飾品と言ってもいい剣がカチャカチャと鳴る。
「使用人ふぜいが僕の前に立つなっ。僕に話しかけていい許可を出した覚えはない」
「なっ!」
あまりの言様にキズメルは一瞬、返す言葉を失った。確かに自分は公爵家に仕える一介の従者だが、令嬢の専任護衛を務めているのだ、それなりに剣は扱えるし体術の覚えもある。貴族と見て間違いないだろう初対面の男性から何と言われようとも主を守るのは当然と行動と判断してアスリューシナの姿を隠そうと身体を割り込ませた時、下を向いたままのアスリューシナの震える声が耳に届いた。
「キ……ズメル……やめて」
ハッと振り返り「お嬢様?」と納得のいかない声で主の前に膝を突く。
いつの間にか力が抜けて膝の上に投げ出されている両手を握れば、その冷たさに息を飲んだ。
しかし、アスリューシナの許可を得たと解釈した男性貴族は得意気に笑って、当然のようにフードを被ったままの侯爵令嬢の隣に腰を降ろす。
「ああ、やはりその声はアスリューシナ嬢。こんな場所で会うとは……偶然、小汚い貧民層の者達に囲まれていたのを見つけてね、運良く僕が駆けつける事が出来て本当によかった。もっとちゃんとした護衛を付けないと……ああ、あの見苦しい連中はうちの護衛部隊が追い払ってやったよ」
男性が少々得意気に語る言葉の途中で我慢出来ずに立ち上がろうとしたキズメルの手を冷たいままのアスリューシナの手がギュッと握り感情を押さえつけた。そのままの姿勢でフードの奥から頭を下げ、震えを隠すように抑揚のない声を紡ぐ。
「はい、お助けいただき有り難うございました、オベイロン侯爵様」
主の声で男性貴族の名を知ったキズメルはアスリューシナを盲愛している侍女頭のサタラがかの侯爵を「ミミズトカゲ」と評していた事を思いだし心中納得で頷いた。
素直な反応にますます気をよくしたオベイロン侯は口の端を歪めてそっ、と片手をアスリューシナへと伸ばしてくるが、その手が辿り着く前に先程よりも硬い気丈な声が跳ね返す。
「ですが、護衛は優秀な彼女がいてくれれば十分です。現に私は全くの無傷ですから侯爵様のご心配には及びません。今回の件は改めて御礼をさせていただきますので、私はこのまま屋敷に戻りたいと思います」
退座を促す言葉に気づいているのかいないのかオベイロン侯はひっこめた手で自らの顎をさすりながら「へえぇっ」と小馬鹿にしたような声を漏らした。
「この使用人が優秀な護衛ねぇ…………まぁいい。ユークリネ公爵家に戻ると言うならこの僕がご一緒しよう」
アスリューシナが肩を振るわせるのと同時にキズメルが「はっ!?」と声を上げ、身分もわきまえずに候を睨み付ける。
「恐れながら申し上げます。いくら三大侯爵家がお一人、オベイロン侯爵様と言えど公爵令嬢であるお嬢様と同じ馬車にご乗車など許される行為ではありませんっ」
これまでの侯爵の態度からすればアスリューシナがかぶっているフードを取れと言い出すのは時間の問題で、そうなればこの様な狭い密室では誤魔化すこともままならないとキズメルは不敬を承知で食い下がった。しかしキズメルの必死の訴えもオベイロン侯は軽く受け流し「何度言わせるんだ?」と途端に荒々しい声を発する。
「僕に話しかけていいといつ許した?、生意気だなぁ、使用人のくせに」
候の手が腰の剣の柄を掴んだ。実用性が皆無ななまくらでも硬い棒を大の男が振るえば身体のどこに当たろうと痛くないはずはない。そして平時、キズメルは侯爵に対して反撃はもちろん防御さえ許される身分ではないのだ。
それでも、ここで傷つけられたとしても候が気分を害し馬車を降りてくれさえすれば、とキズメルが目を瞑った時だ、すぐ近くで凛とした声が響く。
「お待ち下さい、侯爵様…………屋敷までの同乗を…………お願いいたします」
「お嬢様っ」
「ほらね、彼女は僕の方が頼りになるとわかってるのさ」
自分の価値を認められたとあからさまに表情に出ているオベイロン侯はすぐさま剣の柄から手を離し、目を三日月に変えて更にアスリューシナの近くへとすり寄った。
「可哀想に、まだそんなに怯えて。大丈夫だよ、アスリューシナ嬢。僕の護衛部隊も馬で後ろに着かせるから」
そう告げるなり目の前で膝をつき令嬢と手を取り合っている専任護衛に冷ややかな視線を浴びせる。
「さあ、お前はさっさと馬車から降りるんだ」
「えっ」
今度こそ戸惑った声がアスリューシナの薄い唇から漏れ、わずかにフードの奥の顔を傾けると、それ以上に驚いた顔のキズメルが満足そうに笑っているオベイロン侯爵の顔を唖然とした面持ちで見つめた。
「私に……お嬢様の傍を離れろ、とおっしゃるのですか……」
「当たり前だろう?……侯爵の僕が使用人と同じ馬車に乗ると思ってるのかい?」
「ですがっ、私はアスリューシナ様の護衛ですっ」
「この僕が一緒なんだから必要ないんだよ。さあ、とっとと降りろ」
開け放たれたままのドアを顎で示され、目で催促されたキズメルはアスリューシナの手を離し、スッと立ち上がると今度こそ感情にまかせて口を開くが、そこから声が飛び出る前に主である令嬢の声がキズメルの名を強く呼ぶことで引き留める。
「キズメルっ……侯爵様のおっしゃる通りに。私なら大丈夫よ。それよりも今は早く屋敷に戻りたいの」
主の命で我を取り戻したキズメルは不承不承ながら腰を曲げ「承知致しました」と頭を下げた。その姿を楽しそうに眺めている侯爵の視線を気にしながらも、そっと主人の顔を見ればフードの端から覗いているはしばみ色は専任護衛を安心させたいのか、決死の覚悟を滲ませていて、それでもわずかに不安のゆらめきを感じ取ってしまったキズメルは再度、深く一礼をしつつアスリューシナだけに向けて深意を含ませた言葉を渡す。
「一刻も早くお屋敷に戻れるよう手配いたします」
お読みいただき、有り難うございました。
キズメルも完全に敵にまわしましたね、オベイロン侯(苦笑)
内心「ミミズトカゲ?……生物として認識したくありません」なくらい
嫌われたかも……。