アスリューシナとの会話を思い返していたらしいキリトゥルムラインの視線が自分に戻ってきた事を認めてからサタラは再び口を動かした。
「あの十四年前の建国祭の日の出来事は、当時このお屋敷にいた者達にとって決して忘れる事の出来ない傷となって残っております」
今なお続く痛みに耐える強張った口元、寄せられた眉、悲しみの色を宿した瞳のサタラがふと後方のキズメルを見れば、彼女もまた同様に痛みを感じているのだろう、うつむく姿勢で表情は分からなかったが強く握られた拳が微かに震えている。その姿に沈痛な思いを抱いたもののサタラはこの公爵家にご息女が誕生した頃の日々を振り返り、僅かに目元を緩めた。
「キズメルもお父上が旦那様の護衛長をしておりました関係で最初はお嬢様の遊び相手にとこのお屋敷にやってきたので……」
そこでキズメルの唇が動く。
「お生まれになってまだ間もないアスリューシナ様に初めてお目にかかった日の事を今でもよく覚えています」
ゆっくりと上げた顔、苦痛の中にも柔らかさを取り戻したキズメルの目が侯爵を捕らえる。
「お背中に羽根が生えているのではないかと疑いたくなる程、それはもう愛らしいお姿でございました。そして見た事もないような御髪の色で、私は隣にいらした侯爵様と後ろにいた父に向かって交互に『綺麗だね、可愛いね』と何度も繰り返し言い続けました」
「そうか……アスナがキズメルの事を姉のようだと言うはずだな」
本当に産まれた時から彼女を見守っている専任護衛なのだと知り、アスリューシナがキズメルに寄せる信頼の深さを改めて納得すると共にその関係に僅かな憧憬を覚える。しかしそんなキリトゥルムラインの心の機微など気づかぬサラタは再び固い声を侯爵に向けた。
「当然の事ながらお嬢様のお姿は信用のおける一部の使用人にしか明かしませんでしたが、今の侍女達と違い当時の奥様付きの侍女達はごく一般的な者が多く……はっきり申し上げますと、噂好きでお喋り好きな者もおりましたので、お嬢様がお歩きになられる頃には確証はございませんが多分、その辺りからご容姿に関する話が漏れたのだと思います」
「ああ、どこかの貴族の屋敷にロイヤル・ナッツブラウンの髪を持つ子がいるっていう……それならオレも昔に聞いたことがある」
「はい、ですがその噂に対処する前にあの事件が起こってしまいました」
サタラがこれから話すであろう内容を受け止める気構えを整える為、キリトゥルムラインはすっ、と視線を落としてアスリューシナの寝顔を漆黒の瞳に収めると再びサタラに向き直り慎重に頷いた。
「建国祭の期間中は今も昔も変わらず中央市場にいる誰も彼もがまさに文字通りお祭り気分です。特に陽が落ちた後は花火の打ち上げを待つ高揚感と相まって更に興奮に満ちて…………あの夜もその一種異様とも言える人々の多さのせいで旦那様はうっかりとお嬢様を見失ってしまったのです。もちろん最初は単に迷子になっただけと、キズメルのお父上と一緒に市場の店主達にも声をかけながら人混みをかき分け探したそうでが、花火が終わり、人々の波が市場から引いてもそこにお嬢様のお姿はありませんでした。もし王都の人間がお嬢様を見つけたとしても、その姿は他国の者だと思われれば騒ぎにはなりません。お嬢様にも万が一の時はその様に振る舞うよう旦那様と約束をしておられたのでその夜はどこかの民家にお世話になって、朝になれば市場に戻り、馴染みの店主達に心配を掛けた事を謝ってからこの公爵家へお戻りになるはずと思っておりました。そして、そんな都合の良い想像をしながらこのお屋敷で旦那さまとご一緒にお嬢様を待ち続けて三日が経ったのです」
「三日……そんな長い間、何の手がかりもなかったのか?」
「はい、さすがにこれは誰かの悪意が絡んでいるのだと誰もが気づき始め、最悪、お嬢様と引き替えに金品の要求があるかも、と覚悟しておりましたが、その様な接触も一切なく。王都周辺の各関門は建国祭の間、普段より人の出入りは入念にチェックしますので王都からお嬢様が連れ去られるという可能性は低いと思いましたが、お嬢様のご容姿を明かす事が出来ない以上、騎士団や町の警備隊に協力を求めるわけにもいきません。三日間、昼も夜も交代で伯爵家の護衛の任に就く者達は捜索を続けました。特にキズメルのお父上、ヨフィリス様は旦那様の護衛長というお立場から当然あの夜の市場へも同行しておりましたので、お嬢様を見失った事をご自分の責だとお考えだったのでしょう、仮眠もほとんどお取りにならずまさに不眠不休に近い状態で市場を中心に捜索に出られていらっしゃいました」
当時の父の必死な姿を思い出していたのか、キズメルが目を伏せて苦しそうに眉を歪める。
「そしてお嬢様を見失ってしまったあの夜から三日経った深夜、ついにヨフィリス様がお嬢様を見つけ出し、馬に乗って戻ってこられたのです。真夜中にも関わらずその朗報はすぐに屋敷中を駆け巡りました。誰一人として夜着姿の者はおらず、それこそお屋敷内にいた全員が正面玄関へと駆けつけたのです。そこで私が見たのはすでに大きく開け放たれた扉の向こう、暗闇の中から足を引きずる音だけが聞こえた後、室内の明かりが届く場所までやってきたヨフィリス様のたいそう汚れたブーツが見えたかと思うとすぐに胸元まで灯りが届き、外套にすっぽりと包まれたお嬢様を抱く片手が見え……そこで皆が駆け寄ったのです。両手を広げて出迎えられた旦那様にヨフィリス様は何もおっしゃらずお嬢様をお渡しになり……そして…………その場に崩れ落ちました」
「そこから先は私に話をさせて下さい」
思い出に抗うように顔を上げたキズメルがハッキリとした声でサタラを真っ直ぐに見つめると、その姿を信じて侍女頭は一歩下がった。その信頼に軽く頭を下げたキズメルは次にアスリューシナの寝顔を見てからすぐ傍の侯爵へと視線を移す。最後に荒ぶる記憶をなだめる為か呼吸を整えて続きを語り始めた。
「確かに、お嬢様の行方を捜し続けていたあの数日間の父は娘の私ですから近寄りがたいものでした。焦りと不安と後悔と……サタラは仮眠もとらず、と言ってくれましたが正確には眠る事が出来なかったのだと思います。自分が付いていながら、もっと注意を払っていれば、今頃どんなに心細くされているか、とそんな思いが父を突き動かしていたのでしょう。
あの夜、そんな父がお嬢様と一緒にこのお屋敷に戻って来た……その知らせを聞いた時、私も皆と一緒に正面玄関へ迎えに走りました。しかしお嬢様が旦那さまの腕の中に収まった途端、どさり、と倒れた父の元に駆け寄った私の目に映ったのは、それはむごい姿だったのです。
頬には肉をえぐるような傷が深々とついており、その切創痕は父の片目まで伸びていました。顔の半分は傷口から流れ出ている血に覆われ首から肩、服までも真っ赤に染めていたのです。片手にお嬢様を抱きかかえ、もう片方の手で手綱をさばきながら半分の視力でここまで……気力だけで辿り着いた父にはもう言葉を発する事すら出来ませんでした。お嬢様のご無事を喜んでいたその場の空気は一転し、父の名を呼ぶ旦那様の大きなお声、医師の手配に走ってくれる侍女、父を屋敷の中へと運び込もうと集まってくれた従者、本当にその場にいた皆が父のために動いてくれました。そんな中、外套で周囲の様子が見えないままお屋敷まで到着したお嬢様は旦那様の腕の中でようやくご自分のいる場所がおわかりになったのだと思います。そしてそれまで何の言葉も発せず、感情もお見せにならなかったお嬢様が地に伏した父に気づいて突然泣き叫ばれました。旦那様の腕をはがし無理矢理父の元へと駆け寄り、手を添えて血に汚れるのも厭わず泣きながら大声で何度も何度も『ヨフィリス』と父の名をお呼びくださった。
この様な言い方は不遜ですが、私の父は本当にアスリューナ様を可愛がっていたのです。恐れ多くも旦那様はお嬢さまと私を並べて姉妹のようだとも言ってくださった。父は時々、時間が空いた時にお嬢様と私に本を読んだりもしてくれました。旦那様はお屋敷にいても執務室から出ることはあまりなかったので、その様に接する父にお嬢様も心を許して下さっていたように感じます。そんな父が血まみれで倒れているのですから、お嬢様が正気を失うのも当然だったでしょう。
最後に「死なないで」とだけ口にされると父に覆い被さるように、お嬢様もお倒れになりました。その後、父は一命は取り留めましたが傷跡は長く顔を這い片目の視力が戻ることはなく、それで護衛長の任を辞したのです。そしてまたアスリューナ様もそれから高熱をお出しになりましたが、旦那様はお嬢様のお身体が回復するのを待たずに、遠い辺境伯様の元へとお預けになる決心をなさいました……」
そこまでを一気に話し終えたキズメルは自らの内に落とすように最後の言葉をポツリ、と口にする。
「父が命を落とさずに済んだのはお嬢様のお陰です。なのに私は……意識が戻らないまま高熱にうなされているお嬢様が馬車に乗せられるのをただ見送る事しか出来なかった」
そっとサタラがキズメルに近づき、まるでその時の少女を慰めるかのように彼女の肩を優しく撫でた。
お読みいただき、有り難うございました。
書いていても、読んでいても、しんどい部分が続きます。
申し訳ございません(登場人物にも読んでいただいている方にも)。