漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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ユークリネ公爵家にやって来たのがキリトゥルムラインの使者だと信じて
キズメルと共に馬車に乗り込んだアスリューシナは、とある一室に囚われていて……。


44.建国祭(6)

どうしてこんな事になってしまったんだろう……そんなぼんやりとした思考に合わせて、簡素な木製の椅子に腰掛けたまま俯いている先の視界にある靴のつま先をうっすらと認識する。中央市場に行く時はいつも決まって履いているショートブーツ。既に皮は柔らかくアスリューシナの足に馴染んでいて「ぬかるみや砂埃でおみ足が汚れるといけませんから」と、市場に通うようになってすぐにサタラが用意してくれた愛用の品だ。

思えばキリトゥルムラインと出会うきっかけも小男の足をこのブーツにひっかけたのが原因だった、と思い出し、そのまま足を痛めた事とそこに侯爵自らが軟膏を塗ってくれた光景を思い出す。

 

(あの軟膏、本当によく効いて……)

 

一時は本気で中央市場に卸してもらえないかと考えたくらいだ。自分は屋敷でのんびりしているばかりだから、とサラタやキズメルを通じて屋敷内の使用人達がケガをした時にも使ってもらおう、と思ったのだが、それを口にした時、サラタはとても微妙な顔をしてから遠慮がちに首を横に振ったのだった。

 

『もったいなくも有り難いお申し出でございますが、私共は常日頃から大きな傷は作らないよう心がけて行動しております』

 

それはアスリューシナの「癒やしの力」を知っている使用人達が、自分達がケガをするとどれほど固辞しようと彼女が力を使うとわかっているからだ。

 

『それでも絶対しない、とは言い切れないでしょう?……そんなに重く考えず、ちょっとケガをした時でも気軽に使ってもられば……』

『それならば普通の塗り薬で十分です。それに、その軟膏は侯爵様がお嬢様の為にとお持ち頂いた品、使用人が使うわけにはまいりません』

『……サタラ……』

 

確かに初めて侯爵さまから頂いたお品ではあるけれど、それが傷薬だなんて……と、こんな状況にありながらアスリューシナは僅かに口角を上げる。幸いにも俯いているせいで長い髪が表情を隠してくれていた。

 

『それに……お嬢様はご自身の傷にはお力をお使いになれないのですから、万が一の時の為にも大切に取っておきましょう』

 

少し悲しそうに微笑むサタラを見ていたらそれ以上は言えなくて、こくり、と頷いてあの軟膏はアスリューシナの私室のチェストに大事にしまわれたのだった。結局、次に薬の世話になったのは贈り主であるキリトゥルムラインだったのだが……。

 

(……キリトさま……)

 

今頃、彼はどうしているだろうか?……必死になって自分を探してくれているだろうか?……けれど屋敷まで迎えに来た者が本当は誰の従者だったのか、それすら手がかりはないはずで、ましてや自分自身もここが王都のどこなのかわかっていない状態だ。

数刻前、ガヤムマイツェン侯爵の使いだと言ってやってきた使者と共にキズメルを伴ってフードを被ったまま馬車に乗った。馬車は予定通り中央市場に向かっていたから安心していたのだが、さすがに建国祭の期間中とあって人出が多いせいであまり中心部までは近づけないのだろう、いつも公爵家の馬車を控えさせておくのとは違う場所で馬車は止まった。

御者が扉を開け先に従者が降り、その後、いつものように周囲の様子を確認するためアスリューシナより先にキズメルが馬車の外に出る。

その途端、使者と御者の態度は一変した。

両側からキズメルの腕を押さえ込んだのだ。「何をするっ」という怒号に近い彼女の声を聞いてアスリューシナが急いで馬車の扉から身を乗り出すと、そこにはさらに三人の男達が待ち構えていた。

彼らは素早くキズメルの口に長布を噛ませてそのまま後頭部で結び声を封じると次に暴れる彼女の両手を縛り上げた。それでも身をよじってこの危機的状況を何とかしようとすれば、男の一人が彼女に近づき低い声でこう言ったのだ……ご令嬢がどうなってもいいのか?、と。

振り返ったキズメルの目にはさっきまで同じ馬車に乗っていた使者がアスリューシナに向け抜き身のナイフを構えている姿が映り、彼女は怒りで震えながらも自分を制した。

そこに耳障りな声が無遠慮に飛び込んできたのだ。

 

『待っていたよ、アスリューシナ』

 

声の主はオベイロン侯爵だった。こんな状況にも関わらず薄い笑みを口元に浮かべ、満足そうな目でこちらを見つめながら近寄ってくる侯爵に一瞬キズメルは我を忘れて体当たりをしそうになったが、その時には既にがっちりと男二人がかりで身体を拘束されていた。侯爵が近づいてくると使者は令嬢に向けていた刃物を仕舞い頭を垂れる。アスリューシナはそこで屋敷に迎えに来たのが本当は誰の指示なのかを悟り顔面を蒼白にさせるが、侯爵はフードの中の見えない反応など気にもかけず周囲を一瞥して市場に集まってきた民衆の姿に眉をひそめた。

 

『さて、こんなゴミ溜めのような場所に長居は無用だ。王都を離れる前に休める場所を用意してあるからそこに行こう』

 

中央市場やそこにいる人々への侮辱に対してすら自分の現状に混乱していて声も出せずにいたアスリューシナだったが再び馬車に押し込められそうになって我を取り戻した。

 

『キズメルっ』

 

ここで大事な専任護衛と離されたら彼女の身がどうなるかわからない、そう咄嗟に考えたアスリューシナは自らを鼓舞するようにスカートを握りしめ鋭く侯爵を上から睨み付ける。

 

『彼女と一緒でなければ舌を噛みます』

 

周囲には侯爵を含め、大の男が六人いて更に刃物も所持している状況では自分に出来る抵抗と言えば自らの身体を取り引き材料とするしかない。フードで表情は見えずとも冷静な声音が逆に彼女の本気を表していた。ところがオベイロン侯は駄々をこねている子供を見るような薄笑いで、さして大事でもないといった風に冷めた目つきで令嬢を見やる。

 

『自分を傷つけたところで君は痛くも痒くもないだろう?』

 

言われた意味に戸惑っていると、それでもここで騒がれては面倒と思い直したのか急に侯爵が向きを変え、噛みつかんばかりのキズメルにちらり、と視線を投げた。

 

『両手を縛り上げて……その獣のような口と目も何とかしろ』

 

侯爵の命令に彼女を押さえつけていた男達が手早く両方の手首を背中でひとまとめに縛り、口には布を噛ませ、目隠しを施す。その仕上がりを待ち、顎でその女を馬車に乗せろと指示を出した。突き飛ばすように男達がキズメルを歩かせ、馬車の入り口まで誘導すると思わずアスリューシナが小さく「キズメルっ」と焦り声を上げながらその不自由な身体を支えるように車内へと誘う。

隣り合わせに座らせようとした途端、侯爵が無言のまま乱暴な手つきでアスリューシナからキズメルを引き離し、公爵令嬢を奥に押し込みその隣に当然のように、フンッと鼻を鳴らして腰を降ろした。一方、いきなりオベイロン候から突き飛ばされる形となったキズメルは周囲の状態が分からないまま尻餅をつきそうな勢いでアスリューシナの向かいの座面によろけながら座り込む。最後にキズメルの隣にガヤムマイツェン侯爵家の名を騙り公爵家にやってきた従者が乗り込むと既に次の行き先は決まっていたようで、誰も言葉を発せずとも馬車は静かに動き出した。

そうしてどの位経った頃だろうか、アスリューシナにとってはとてつもなく長い間、馬車に揺られていたような感覚だったが、それは視界に映る拘束状態のキズメルとすぐ隣の存在によって不安で押しつぶされそうな自分をどうにか保っているので精一杯だったせいかもしれない。

どこをどう移動したのかもわからずオベイロン侯が「休める場所」と言っていた一軒家に馬車が到着すると、アスリューシナは引きずられるようにして家の中に連れ込まれ、続いて覚束ない足取りで躓きながら付いて来ていたキズメルはそのまま同じ部屋には入らず、廊下の奥へと追い立てられていく。

自分の主と離されたと感じたキズメルは再びうなり声を上げ身体をよじって反抗していたが、彼女の後ろを監視するように歩いていた従者が顔をしかめて小声で何かを囁くと、悔しそうに喉を短く鳴らして大人しく歩き始めた。

一方、自分の後ろにいたはずのキズメルが同じ部屋に入ってこなかったと知ったアスリューシナは隣にいたオベイロン侯をフードの中から不安げな視線で見上げたが、それに気づいた侯爵は満足げな笑みで唇を歪ませ自分が上位者である事をひけらかすような鷹揚な態度で両手を広げる。

 

『君の大事な従者だからね、別室で待たせておくよ。僕は優秀な使用人しか同じ部屋には入れないんだ』

 

しごくまっとうな事を言っているかのような口ぶりにアスリューシナの眉が不愉快さを示したが、その口からは懇願ともとれるような力無い言葉しか漏れ出てこなかった。

 

『キズメルには、何もしないと約束して下さい』

『もちろん。その代わり君も僕のお願いを聞いてくれなきゃね』

 

オベイロン侯はその部屋の中央にあった何の装飾もない木椅子にアスリューシナを座らせると目の前に跪き、マントに隠れていた彼女のほっそりとした腕を撫で上げて目を細めた。

 

『さあ、この滑らかな肌にどれだけの傷を付けたら見せてくれるのかな、アスリューシナ……君の…………「癒やしの力」を』

 

肘のあたりをまるくさすられる感覚に恐怖と嫌悪を感じていたアスリューシナは侯爵の口から出てきた言葉に息を詰まらせる。ユークリネ公爵家の家族とその使用人達、それに辺境伯の屋敷で世話になった人達しか知らないはずの単語が耳に入り心臓が大きく鼓動を打ち始めた。

 

『な……んで、力のこと……を……』

『怯えなくても大丈夫だよ。僕は君の全てを知ってるんだから。その秘密の髪の色もね』

 

言うなり伸びてきた両手が自分の両頬に触れるのかとアスリューシナが肩をすくめ身体を固くすると、その手はそのまま耳元まで進み、ずっと頭部を隠していたフードの端を掴むやいなや乱暴な仕草で後ろに払いやる。そこには今夜の「建国祭」の花火見物の為、と侍女達が楽しそうに笑いながら丁寧に編み込んでくれたロイヤルナッツブラウン色の髪が現れた。




お読みいただき、有り難うございました。
ここからしばらくアスリューシナsideです。
キリトゥルムラインsideと違いどこもかしこも重いです(涙)
重力操作されてるのかも、と思うくらい……。

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