漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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オベイロン侯に囚われたアスリューシナは、侯爵が自分の髪の秘密を
知っていたことに驚愕する。そして侯爵の手で頭部を隠していたフードを
取り払われて……。


45.建国祭(7)

その色を視認した途端、オベイロン侯がうっとりとしたように三日月のごとく目を細める。

ひくっ、と小さく息を飲みながらアスリューシナが咄嗟に髪を隠そうと頭を抱えるために持ち上げた両手はその動きを予期していた侯爵の手によって捕縛された。きつく手首を掴まれると力を込めてゆっくりと降ろされ、そのまま膝の上でひとまとめにされる。

手首に感じる侯爵の手は人の物とは思えないほどに冷たくべたり、としていて何よりそこから伝わってくる歓喜がアスリューシナの全身を得体の知れない恐怖で包み込んだ。

令嬢が自分の支配下に下ったと判断したオベイロン侯が僅かに振り返るといつの間に入って来たのか、公爵家から一緒だった従者が素早く近づいて来て既に抵抗する気配すら失った彼女の両手首を柔らかな布紐で括る。それを見下ろしながら満足そうに頷いてその手を離した侯爵はゆっくりと立ち上がり今度はすぐ眼下のロイヤルナッツブラウンへと手を伸ばした。半ば茫然自失のアスリューシナは髪に触れられた事に気づくと、ピクリと肩を揺らしたが耐えるように目を瞑り唇を固く引き締める。

ぷちっ、と小さく何かを引きちぎる音の後、結い上げられていたた髪が幾重にも流れ落ちる細雨のようにサラサラと広がると、今まで複雑に編み込まれていたとは思えないほど癖のない艶髪が彼女の背と肩を覆うように真っ直ぐ伸びていて、その輝きは染色では到底出せない本物である事を物語っていた。

今まで感情を表に出すことなく、沈着冷静に事を運んでいた侯爵の従者でさえ主の背後から瞠目したまま息を飲んでその色から視線を外せずにいる。同じように瞬きすら忘れて魅入っていたオベイロン侯の片手が引き寄せられるようにその髪に伸び、その一房をすくい上げて顔を寄せ深々と息を吸い込んだ。

 

「ああ、良い香りだ。色に相応しい芳香じゃないか。そして、これぞ私が求めていた色だよ」

 

一層、身を縮こませ肩を振るわせているアスリューシナの様子など歯牙にもかけず、侯爵はひたすらロイヤル・ナッツブラウンの髪に頬ずりをしたり香を堪能したりを繰り返す。

 

「あの時は小さな君に触れる時間さえなかったからね」

 

その言葉に身に覚えのない彼女は勇気を振り絞って顔を上げ侯爵の目を見つめた。その表情だけで何を問いかけているのか理解した侯爵は「ほらね、何せ君は僕と視線すら合わせてくれなかったし」と非難めいた言葉をさも楽しそうに吐いて瞳を覗き込んでくる。

 

「僕はちゃんと命じておいたんだ。攫ってくるだけでいい。『癒やしの力』は僕が試すから、って。なのに僕が到着した時、君はあいつらに散々傷をつけられて……あれは僕がつけるはずだった傷なのに。しかもどうやって嗅ぎつけてきたのか、公爵家の野蛮な従者が僕が雇った男達をのして君を連れ去ろうとしていたんだよ……その時の僕がどれほど驚いたか、君にわかるかい、アスリューシナ」

 

話の中身である輪郭がぼんやりとアスリューシナの中で形作られていって、足下から這い上がってくるような冷気を錯覚し、ふるり、と全身を震わせると髪と同色の瞳に何を見たのか、侯爵が益々目を細めた。

 

「僕はあの時まだ子供だったけれど、それでも大急ぎで君のいる小屋へと駆けつけたんだ。いくら傷つけても治らないって報告が入ったからね。僕以外の男が君に触れるなんてすぐに止めさせなくてはならなかったし『癒やしの力』が現れないなんて信じられなかったからさ。けど君を閉じ込めているはずの部屋の扉が開いていて、中に入ってみると君をマントに包んで抱きしめている男がいるじゃないかっ」

 

その光景が脳裏に焼き付いているのだろう、高ぶった声と共に嘆きなのか、はたまた怒りなのか判別できない位強い感情に支配された眼が目一杯に見開かれ爛々と輝き始めている。

 

「驚きのあまり声すら出なかったよ。しかもその男、この僕の目の前にやって来て薄汚い手を差し伸べてきて……『君もここから一緒に逃げよう』なんて声までかけてきたんだ。不敬にもほどがあるだろう?」

 

これまでの侯爵の言動を見ていれば幼い頃からその気性が変わる事はなかったのだろう、さも当然のように言い放つ姿は人間味を通り越して既にアスリューシナの理解の範囲を超えていた。同じ言葉を使っているはずなのに、その内容が理解できない……何を言っているのか読み解こうとする努力すら無意味と感じるほど異質な存在にアスリューシナの瞳が恐怖で揺れている。

 

「それにその男が僕に対して屈んだ拍子に見えたんだよ、君の腕や足に刻まれた鮮烈なまでの赤々とした無数の傷跡がね。だから思わずその美しさに見とれて、その男に近づき、それから持っていたナイフで男の顔を切りつけてやったのさ……片目の眼球を二つに割るように深々とねっ」

 

自分の手際の良さを自慢するような言い様に、確かにその場面に自分もいたはずなのに当時の記憶がすっかり抜け落ちているアスリューシナは、想像だけで血の気を失った。オベイロン侯が害したのは間違いなくアスリューシナの父であるユークリネ公爵の専任護衛だったヨフィリスだ。しかし侯爵は身体を起こし、両手を広げて芝居がかった仕草でアスリューシナの顔色もその感情も意に介さずとうとうと話し続けている。

 

「だってそんな君を見ていいのは僕だけだろう?……けど、やっぱり君の傷のような美しさはなかったな。だけどあの男が血まみれになりながら驚いた顔は今でも忘れられないよっ」

 

心底楽しげに歪む眦と唇。しかし次の瞬間にはその表情が今度こそ嫌悪に覆い尽くされた。

 

「なのにあの男の君への執着はひどいものだった。君を僕の元に置いていくどころか君を抱いたまま駆けだして行くなんてね。でも、あの傷は確かに致命傷に至るはずだったんだ。だってあれは僕の計画を台無しにした正当な罰なんだから」

 

そう言い放つといきなり屈み込んできてアスリューシナの頬が触れる距離まで顔を近づけてギョロリ、と眼球だけを回してくる。

 

「なのにどうしてあの男は生きている?」

 

突然、低く気怠げな声で責め立てるような疑問をぶつけられ、視界をオベイロン侯の怒りで満ちた顔で塞がれたアスリューシナは絶えきれず、答えを拒むように強く目を瞑った。

 

「ねえ、アスリューシナ?、君なんだろう?……君の『癒やしの力』があの男の命を救ったんだろう?……あんな下賤の者へ勝手に力を使うなんて、本当に馬鹿げてる……なぜなら、君は僕のものだ……だからあの力も僕のものなんだよっ」

 

立て続けに浴びせられる声は、最初は生ぬるい水とも湯とも言えないような温度だったのに、どんどんと感情の高ぶりと共に勢いと熱さを増していき目を閉じていてもその理不尽な熱は彼女の心を追い詰めてくる。

あの時、ヨフィリスの前に現れた子供はアスリューシナと同じく監禁されていた被害者などではなかったのだ。まさかそんな子供が大の大人を使って公爵令嬢を連れ去る計画を立てた首謀者だとは彼も思わなかったのだろう。常日頃から自分の娘や雇い主の令嬢に穏やかな笑顔を見せているヨフィリスだったから、アスリューシナを救い出す時も見知らぬ子供とは言え声を掛けずにはいられなかったに違いない。目の前に立つ子供が三大侯爵家の子息とは夢にも思わず……そして自分を傷つけるなど露ほども疑わず……。

今、こうして真実がわかってもアスリューシナが当時の光景を思い出すことはなかったが、それでも痛さや怖さ、それに何よりも悲しみの感情はしっかりと植え付けられていて、それら全ての根源がひとりの人間による狂喜からくるものだったのだと知り全身がカタカタと震え始める。

真実を知って声さえ出せぬほど怯えきっている公爵令嬢とは反対に劇場で開幕を待ちかねる観客のように高ぶった感情のまま期待に目を輝かせた侯爵は彼女の腕を愛おしげに一本の指腹でなぞり上げると興奮で赤みを帯びた唇を舌でひと舐めしてから猫なで声で囁きかけた。

 

「さあ、僕に見せてくれたまえ、君の奇跡の力をっ」




お読みいただき、有り難うございました。
かなり不快なシーンばかりですが……大丈夫でしょうか。
もう侯爵サマの独壇場ですねぇ。
今まで出番が抑えられていたせいか、ほぼ一人で喋っちゃってますよ。
もしかしてご本家(原作)さまより人でなしかも……。

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