漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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ユークリネ公爵家のアスリューシナの私室に突然侵入してきた青年の正体は……。


06.訪問者(2)

途端にほんの数刻前に王城のダンスホールでちらりと覗ったひとりの人物とその容姿が合致する。

 

「ガ……ガヤムマイツェン侯爵……さま?」

 

思わず口元を両手で覆って更に数歩後ずさった。そして今更ながらに己の姿を自覚する。

 

(髪の毛!)

 

急いで両肩に流れ落ちている髪を両手でかき集めてみたものの、それ以上はどうしようも

なかった。隣室のベッドに脱兎の勢いで頭から突っ込みたい衝動をどうにか堪える。

せめてこの薄暗い室内という状況の中、彼の目が正確な髪色を認識しないでくれるよう祈る

ばかりだ。

アスリューシナは俯いて瞳をギュッと瞑いだまま、ガクガクと震えて崩れ落ちそうな足に

なけなしの力を込めた。

だが、願いも空しく目の前の侯爵から感嘆の声が漏れ聞こえる。

 

「やっぱり……見事なロイヤルナッツブラウンだ」

 

(ああっ……)

 

ロイヤルナッツブラウン……その単語が耳に届いた瞬間にアスリューシナの全身から血の気が

引いた。

貴族に、しかも三大侯爵家と言われる最高位の侯爵に自分の髪の毛を見られた。それが何を

意味するのか、冷静な判断はできないが、家族が、そしてこの屋敷に仕えてくれている

使用人達が十数年間もひた隠しにしてきた秘事だ、簡単に暴かれて言い訳がない。

事の重大さに気が遠くなりかけてふらり、と上体が傾ぐ。それを見た侯爵が素早く駆け寄り、

アスリューシナの腰に手を当て身体を支えた。その手の感触が一気に違う緊張感を生んで、

失われたと思われた血流があっという間に頬に集中する。ハッキリと取り戻した意識は

すぐにこの事態を何とかしなければという決意に変わり、アスリューシナは震える顔をあげた。

自分を覗き込むようにして気遣うガヤムマイツェン侯の瞳をまっすぐに見つめる。

腰に回された腕をやんわりと押し退けて身体を離し一歩下がると、ナイトドレスの裾をガウンと

一緒に両手でつまんで腰を落とし、深々と頭を下げた。高位の者に対する最上級の礼だ。

右足首が再びじわじわと痛み出すが、それを気に掛けている余裕はなかった。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、今宵の非礼とも言える突然のご訪問、真意をお聞かせください」

 

頭を上げないアスリューシナに向けて、ガヤムマイツェン侯がやわらかく声を発する。

 

「王城でも思ったけど、さすがは公爵令嬢と言うべきか、所作が綺麗だよな。妹に見習わせたい

くらいだ。けど、その姿勢、痛めた足首が辛いんじゃないのか?」

 

アスリューシナが思わずハッと顔をあげた。

 

「どうして……それを……」

「こんな型破りな訪問になったのは、お礼を言いたかったからと、そのケガの謝罪をした

かったからだから」

「……え?」

 

戸惑うアスリューシナの様子を気にも留めず、侯爵は少し焦ったように言葉を続ける。

 

「本当は王城で何とか声を掛けようと思ったんだ。でもすぐに帰ってしまっただろ。随分

無理をして踊っていたみたいだから、やっぱり痛むのかと思って……で、まあ、我ながら

無茶だとは思ったんだけど……こうやって忍び込ませてもらったわけで……」

 

ガヤムマイツェン侯の言っている意味がほとんど理解できず瞳の意志が揺らいだ。

 

「とりあえず礼はとらなくていい。公爵令嬢だろ。礼をとるのはオレの方だ」

「……爵位があるのは父ですから」

 

暗に自身に爵位があるわけではないのだから侯爵に頭を下げるのは当然のことと示す言葉に

ガヤムマイツェン侯は意外そうに目を瞠った。公爵などの上級貴族に限らず下級貴族の

男爵令嬢でさえ自分の家の爵位を鼻に掛ける令嬢は珍しくない。

アスリューシナの言葉に落ち着きを取り戻したのか、クスッ、と小さく笑うとおもむろに

片手を差し出す。その手を不思議そうに見つめているアスリューシナに向けて「そこの

ソファに座って」と促した。

無意識に何の躊躇いもなくその手をとってしまってからアスリューシナは「あっ」と漏らすが

今更手を引っ込める無礼は出来ず、侯爵に連れられて部屋のソファに腰を下ろす。

「隣に座っても?」と問われて、返答を考える間もなく自然にこくん、と頷いてしまう

自分に驚いていると、ドサッ、という音と共に隣のソファが沈んだ。

弁明の言葉を待っているアスリューシナの物言いたげな瞳は見ずに侯爵はゆっくりと室内を

見回している。

 

「随分と燭台が置いてあるんだな。そのお陰でカーテンの隙間から灯りが漏れてるこの部屋に

気づいたんだけど……まさか本人の部屋だとは思わなかった。少し不用心じゃないのか?」

「暗いのが苦手で……今夜はたまたまバルコニーへの扉を侍女が閉め忘れたんです。

それに普通は外からバルコニーまでは侵入できません」

「まあ、そうかもな。なんなら警護のアドバイスとして侵入経路を教えようか?」

「けっ、結構です。私がいきなり警護に関して口を出せば屋敷の者が不思議がります」

「違いない……非常識な侵入者の存在がバレて、しかもそいつが侯爵で、更にこんな風に

令嬢の私室のソファに並んで座ったと知られればかなりの大事になりそうだ」

 

面白がるように笑顔を向け「バルコニーまでたどり着くヤツがそうそういるとは思えないが、鍵の

閉め忘れは注意した方がいい」と告げてくる侯爵を前にアスリューシナは呆れた眼差しで見つめ

返した。

三大侯爵の中でも最年少の青年がこれほどマイペースな性格とは思っていなかったからだ。

だいたい三大侯爵と言えば一番に顔が浮かぶのは例のヒキガエルのような人物で、あとは

自分より十歳以上も年上の妻帯者である人物と二年程前に爵位を継いだばかりの一つ年下の

人物だ。強制的に関心事となっている一人を除いて、ハッキリ言えば今の今まで何の関心も寄せて

いなかった。

オベイロン侯との縁談を断る為の夫候補として兄からは「理想は三大侯爵家」と言われたが、

一人は妻帯者、一人は当の断りたい本人、ときては実質残りの一人を候補者に推しているような

ものだが、それも自分より年下という理由でアスリューシナは始めから「三大侯爵家」を

今回の件を回避する方法としては考慮にも入れていない。

その何の関心もなかった侯爵がいきなり自室に現れ、あろうことか表には出せない本来の

髪色を見てしまったのだ。しかし当の本人は驚愕する事もなく、それどころかソファに

腰掛けてニヤニヤと楽しそうに笑みを浮かべているのだからアスリューシナは呆れるやら困惑する

やらで頭の中はグルグルと混乱が続いている。

こんな状況をひとり楽しんでいる侯爵に向け、アスリューシナは心を落ち着けようと一呼吸置いて

から緊張の混じった声を発した。

 

「それで、先ほどおっしゃったお礼と謝罪、と言うのは私に、ですか?」

「もちろん、あ、それと、頼み事も追加して欲しい」

「どれも私に対して、ということでしたら心当たりがありません」

「だろうな……王城で見かけた時の反応からして、そうかな、とは思っていたけど。まずは

礼だ。ウチの領地産のリンゴをパイにするアイディアをくれて助かった。有り難う」

 

真摯に頭を下げる姿にまたもやアスリューシナは当惑した。こんなに素直に頭をさげる貴族など

聞いたことがない。しかし、その戸惑いの奥から新たな緊張を孕んだ疑問が生まれる。

 

「私がパイを提案した話……どこからお聞きに?」

「それは直接。エギルの店で話してるのを三軒先の向こうから聞いていたんだ」

 

その予想外の返答に思わずアスリューシナの声が裏返った。

 

「は?……市場にいらしたんですか?、侯爵のあなたが?」

「それを言うならお互い様だろ。いくらフードで顔を隠しても公爵令嬢が市場にいるのだって

結構ありえない。お陰でここ一ヶ月ずっと市場を探し続けるはめになった。名前だって

『エリカ』だったし」

「……耳がいいんですね」

 

奇しくも果物屋店主に続いて彼女からも聴力の良さを指摘され、侯爵は苦笑いを浮かべる。

「偽名なのか?」と問えば公爵令嬢は小さくかぶりを振った。

 

「ミドルネームで……私の正式名は『アスリューシナ・エリカ・ユークリネ』です。

エギルさんや他にも数人の店主さん達は私の身元をご存じですが、それでもファーストネームを

使わない方が良いという父の判断で小さい頃から市場では『エリカ』と呼ばれているんです」

「なら『アスナ』は?」

「……」

 

目をまん丸く見開いて驚いているアスリューシナを見てガヤラマイツェン侯はニヤリと口角を

上げた。

 

「踊りながら兄上がそう呼んでいただろ?」

 

短い言葉だけで、それが今夜の王城でのファーストダンスの時の事だと思い至り、無意識に

溜め息をついた。

 

「本当にお耳が良いんですね。それは近しい者が使っている愛称です。『アスリューシナ』を

縮めて『アスナ』と」

「なら、オレも『アスナ』と」

「え?!」

「アスナもオレの事は『キリト』でいい。親しいやつらはそう呼ぶから」

「親しい方は?」

「そう。『キリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェン』……は仰々しいだろ」

「なら、私は『ガヤムマイツェン侯爵さま』のままで」

「どうして?」

「どう考えても親しくはありません」

「この状況はかなり親しいと思うけど」

「思い違いです」

「これから親しくなると思うが」

「なりませんっ」

「オレが年下だからか?」

「歳は関係ありません……て、どこまで聞こえていたんですかっ」

「耳がいいんだ。ダンス中の会話はほとんど聞こえてたよ」

「ほとんどっ?!」

「頼むから音量を絞ってくれ。侍女が聞きつけて来たらそれこそ大騒ぎになる」

「うっ……ごめんなさい」

 

縮こまるように肩をすぼめたアスリューシナを見てキリトゥルムラインは笑いをかみ殺した。

この状況でアスリューシナが謝罪をする必要がないことなど少し考えればわかることだ。

それを侯爵の言葉に従って躊躇いもなく謝る姿に好意が膨らむ。王城で伝えられ

なかった言葉を告げるだけと思っていたキリトゥルムラインの心に小さな想いが生まれていた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと双方、正式名を名乗ることが出来ました。
そしてやっと顔を合わせて会話をすることも……。
ですがアスリューシナ嬢がキリトゥルムライン候を愛称で呼ぶにはまだまだ
かかりそうです。

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