漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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十四年前、建国祭の中央市場からアスリューシナの拉致監禁を計画し、
救出に来たヨフィリスを傷つけた人物がまだ少年だったオベイロン侯と
知ったアスリューシナは……。


46.建国祭(8)

アスリューシナは再び、自分の目に映る靴先へとゆるい意識を呼び戻した。

この部屋に入ってきた時からずっと椅子に座らされてはいるが、足は拘束されていない。けれどひとつに縛られた両の手首は腕を小さく切りつけられる度に跳ねて皮膚が赤く擦り剥けてしまっている。

痛みは既に感じなくなっていた……いや、最初から恐怖の方が上回っていて、腕の皮膚の上をナイフの刃先が滑る毎に浮かび上がる真っ赤な絹糸のような傷口が増える程、逆に希望は減っていき現実から気持ちが遠のいていく。

アスリューシナの意識は朦朧としているとさえ見えるのにオベイロン侯の目にはその姿が映っていないのか、先刻告げた通り彼女に話しかけながらも自らの手でその肌へ楽しげにひとつずつ傷を付けていた。

 

「……けれど、あの後君はすぐ祖父である辺境伯の元へと行ってしまったからね。さすがに僕も困ったよ……」

 

これからオベイロン侯の領地へと移動するのだと行って長距離用の馬車を待つ間、侯爵は暇つぶしでもするような気軽さで用意していたナイフを取り出し、彼女の腕をつかんだのだ。

 

「……辺境伯の屋敷から君を連れ出すのは無理だったけれど、僕は信じてたさ。アスリューシナ、君は必ず僕のいる王都に戻ってくるってね……」

 

領地で結婚式を挙げるのだから、と言って、ドレスで隠れるところにしか傷はつけてこない。

 

「……なのにやっと王都に戻ってきても君は屋敷から一歩も外に出てこないし……」

 

それでも彼女の両腕には既に無数の鮮烈な赤が皮膚を縦横無尽に引き裂いている。

 

「……社交界デビューの時はとんだ邪魔が入り、三月ほど前の王城の夜会では君はすぐ逃げてしまっただろう?、先の市場からの帰り道ではろくに時間も取れなかったからね、今夜はこうやって僕の方から出迎えに行ったというわけさ……」

 

彼女から何の反応も得られない事にようやく気づいたのか、ナイフの刃先から視線を上げたオベイロン侯は焦点の合っていないナッツブラウン色の瞳を覗き込み、少し不機嫌そうに眉を歪めた。

 

「……どうしても僕に『癒やしの力』を見せないつもりかい?……それとももっと深く、大きな傷をつければいいのかな?」

 

やっと手に入れたオモチャが思うように動かず、その原因を調べるように息がかかるほどの距離まで近づいてもアスリューシナは虚ろな瞳のまま瞬きすらせず心を凍らせている。しかし身体が反応を生まない間も彼女の意識は徐々にあの時の自分の記憶へと辿りつつあった。

 

(そう……あの時も同じように……椅子に座って、同じように口は動かせなくて……)

 

いくら大切に思っている専任護衛の身柄を盾にしているとは言え、市場では「舌を噛む」と覚悟を見せたアスリューシナに対する策として今は両の手首と同様に彼女の口には布が噛ませてある。幼い時、建国祭の市場でトトに気を取られている間に誘拐された彼女も、やはり男達によって今と同様、口を塞がれていたのだ。だから「癒やしの力」は自分を治癒する為には使えないと訴える事も出来ず、されるがままでいたのだが、例え今の侯爵にそれを言えたとしても素直に信じてくれるとは思えなかった。

 

(けど、あの時は目も塞がれていたから……)

 

自分達の人相を覚えられる事を恐れた為か、当時の彼女は男達の手に落ちた時から目隠しをされていて、恐怖と痛みで流していた涙も半日を過ぎた頃には心と同様に乾ききっていた。それでも止むことのない男達からの暴力から自分を守るには何もない暗闇に自己を閉じ込めるしかなかったのだ。そうして昼も夜もわからないまま眠る事も許されず、どれほどの時が経ったのかも知らずに男達の声や空腹や喉の渇きすら感じることを忘れた頃、あまりにも大きな破裂音が自分の意志とは関係なく飛び込んできて、久々に意識が耳からの音を取り入れた時、懐かしささえ感じるヨフィリスの声が彼女を迎えに来てくれたのだ。

その声に安堵した幼いアスリューシナはすぐ気を失うように深い眠りに落ちた。

その後、ヨフィリスが男達から自分を救い出し、そして顔に重症を負ったまま自分を抱えて公爵家まで馬を飛ばした一連の記憶はアスリューシナには残っていない。ただ、気づいた時にはヨフィリスのマントに包まれて父であるユークリネ公爵の腕の中にいたのだ。そして周りにいた人間達の悲鳴に驚いて顔を巡らせた時、すぐ後ろには血まみれのヨフィリスが倒れていて、そこからは無我夢中だった。

父の腕の中から這いだし、体力など欠片も残っていない身体を懸命に動かして彼の元へと辿り着いた。

いつも父の側で精悍な顔つきで護衛をしている姿が好きだった。

父が執務室で仕事をしている時は、護衛の任を離れて柔らかな笑顔さえ浮かべてくれる。キズメルと一緒に強請れば、本も読んでくれた。

市場の視察に連れて行って、と父に願い出る時、父は決まってちらり、と彼の顔を見るのだ。護衛対象が増えても構わないか?、と問うように。そして彼はいつだってすぐに目を細めて頷いてくれた。

その大好きなヨフィリスが薄汚れてボロボロになって息も荒く血まみれで目の前に崩れ落ちている……自分が何をすべきかなんて考える暇もなくアスリューシナはその小さな身体でヨフィリスの頭に覆いかぶさった。まさに全身で祈りを癒やしの力に変えたのだ。気力も体力も自分の中に残っている力という力を全て使い切って、最後に息づかいが落ち着いたヨフィリスを見た時、ふと、市場で出会った小さくて真っ黒い犬を思い出した。

あの黒いワンちゃん、ちゃんと助けてあげられなかった……と思うと同時にアスリューシナは再び昏睡状態に陥ったのだった。

…………結局、その後、意識を回復した時、アスリューシナの身体は辺境伯の屋敷の寝室のベッドの上だった。

男達に監禁されていた間、視界を遮られていたせいか、それとも自らを闇の中に孤立させていたせいか、その時から暗い場所が怖くなってしまい、夜になると辺境伯の屋敷に仕えている侍女達を困らせた。

父も、母も、兄も、王都の公爵家にいた時に身近にいた人達はアスリューシナの事など忘れてしまったかのように、誰も会いには来てくれなかったが、それでも祖父母である辺境伯夫妻や彼女にとっての伯父や伯母、従兄弟達は家族同然に接してくれたので、いつしか寂しいと思う感情を口にするのは我慢出来るようになった。そして辺境伯の屋敷で世話になるようになって半年が過ぎた頃、父が仕事で近くまで来たから、と辺境伯の領地に立ち寄ってくれたのだ。さすがにその時ばかりはポロポロと大粒の涙が止まらず、父が屋敷を辞するまでずっと側を離れなかった。

その事があったせいか、それから半年毎くらいに父や母が会いに来てくれるようになり、数年後には父の傍らで次代のユークリネ公爵としての勉強を始めたという兄も訪れてくれるようになった。

そして、辺境伯の屋敷での生活が十年近くになろうという時、母の訪問時に随行していた事もある侍女の一人、サタラが主である公爵の命を受けアスリューシナを王都の公爵家へ戻す準備をしにやって来たのだ。

そろそろアスリューシナを王都で社交界デビューさせてはどうか?、という提言は意外にも辺境伯から持ち出された話らしい。その為に必要な教養や所作は既に辺境伯の元でみっちり教え込まれていたし、そういった点では厳しい目を持つアスリューシナの母も当然生家である辺境伯の屋敷で同様の教育を受けてきたのだから、王都を離れていたとは言えアスリューシナのデビューに対して不安を覚えることはなかった。むしろ広大な領地を治める辺境伯の令嬢という立場から領地を持たないユークリネ公爵夫人となった彼女としては、自分の娘には広い領地を持つ裕福な貴族の元へと嫁いで欲しい願いがあったのだろう、話がまとまるやいなや、すぐさま最も信頼が置けるから、と息子付きにしていた侍女頭を娘の王都帰還の支度を調える為にと遠地に送ってしまったのである。

かくして、アスリューシナは辺境伯の屋敷に預けられた時も、王都の公爵家へと帰還を促された時も、自らの意志はなんら関係なくその身の所在を決められたのだった。

 

(この色と力がある限り、自分の気持ちだけで物事を決めてはいけないと覚悟していたけど……)

 

だからこそ、周囲の誰が何を言おうとも「癒やしの力」だけは自分が使いたい時に使う、とアスリューシナは心に決めていた。自分自身には使えない力だが、特異な自分の為に心を砕き、優しく接してくれる人達の為にならいくら辛い思いをしても構わないし、それだけが唯一自分に許してあげられる自由なのだ、と。

なのにこの力のせいで再び自分は囚われの身となってしまっている。

 

(この力は……、この力は……)

 

アスリューシナが強情にも力を使うことを拒んでいるのだと決めつけて、オベイロン侯は侮蔑を込めた声で彼女の耳元で囁いた。

 

「あの時も言ったけどね、アスリューシナ。君のその力、このままでは世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないと、まだわからないのかい?」

 

びくんっ、とアスリューシナの肩が大きく揺れる。

 

(そうだ……この言葉…………馬車の中でオベイロン侯から発せられた「禍罪」という言葉…………違う……もっと……もっと、昔にも…………)

 

遠くで少年の声が僅かに届いた。

優しく自分を包んでくれているヨフィリスのマントの中で、あざ笑うような声だけが勝手に耳から侵入して凶器となり心に深く呪いのような傷を付ける。

 

『…………あーあ、これじゃあ、世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないよ…………』

 

その声は十四年前、ヨフィリスの手で救い出されたアスリューシナが監禁されていた部屋から連れ出される時、背後から向けられたまだ少年と呼ぶべき姿のオベイロン侯の声だった。




お読みいただき、有り難うございました。
十四年前の事件の全貌がほぼ明らかになってきました。
アスリューシナが辺境伯の元で生活していた間、キズメルは会いに
行く事が出来ませんでしたが、サタラはコーヴィラウル付きになっても
侍女頭に昇進しても、公爵夫人に「お供させて下さいっ」と懇願して会いに行って
いたと思われます(苦笑)
(料理長の旦那さまを王都に置いてきぼりにして……)

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