漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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アスリューシナをオベイロン侯から救い出すべく単身、乗り込んだ
キリトゥルムラインは十四年前の誘拐事件の犯人が目の前の侯爵だったと知り……。


49.決着(2)

「おまえ……だったのか……」

 

小さくても重い響きがゆっくりとその場を満たす。

十四年前、ユークリネ公爵家に使える人間達が、アスリューシナの家族が、そして何よりアスリューシナ自身が負った心と身体の傷の深さを思ってキリトゥルムラインは唇を噛んだ。公爵家でも解明出来なかった事件の首謀者が目の前にいる三大侯爵家のオベイロン候なのだという事実に納得と驚愕が同居する。しかも十四年前ならば彼とて子供と称して違和感のない年齢のはずだ。三大侯爵家の跡取りとしてきちんとした教育を受けているはずの少年が公爵家の令嬢を拉致監禁する計画を図り、大人を従えて実行にうつすなど、どこまでも理解の範疇を超えている。

しかしそんなアンバランスな感情も今現在のアスリューシナの姿に意識が戻れば圧倒的な憤激によって簡単に押し流された。

 

「そして今度は妻として娶るだって?、ユークリネ公には認めてもらったのか?……いいや、何より、ユークリネ公爵令嬢自身の意思は?、そもそも婚儀を交わす相手の身体を傷つけ、あまつさえその喉元に刃物をあてて……」

「いいんだよ」

 

狂喜の光を瞳に宿したままのオベイロン侯はキリトゥルムラインの声を遮り、当然とばかりの物言いでにたり、と笑い顎を反らす。

 

「この僕が欲してるんだから。三大侯爵家のオベイロン侯爵であるこの僕が。もうユークリネ公の返事など必要ない。僕の意思は既に何度も伝えてあるんだ。今度こそ僕の邪魔は誰にもさせない」

 

アスリューシナの細い首にナイフの刃先がくっ、と食い込んだ。その圧に耐えきれなかった白い肌がぷつ、と破れ鮮血がにじみ出てくる。オベイロン侯は彼女の血が付いたままのナイフの先端をキリトゥルムラインに向け「君にもね」と勝利宣言のように言い放つと、未だ塞がれない傷元に舌を這わせその血を舐め取った。美酒を含んだように、その味を咥内で堪能する姿と精一杯顔を反らせてオベイロン侯から距離を取ろうとしているアスリューシナの涙目の表情にキリトゥルムラインの怒気が再燃する。

けれどはなからアスリューシナの身を丁重に扱うつもりがないオベイロン侯はわざとらしく肩をすくめた。

 

「ああ、いけない。うっかり傷をつけてしまったよ。婚礼衣装では隠せないけれどベールをかぶるから大丈夫だろう。いいや、それよりも……」

 

傷口から再び血が盛り上がり、留まりきれずに首筋を伝い落ちてくる。オベイロン侯はアスリューシナの腕をつかみ、無理矢理に引っぱり上げて彼女を立たせると鎖骨近くに顔を寄せ、自らの舌でキリトゥルムラインの感情を逆なでするようにその鮮やかな赤を舐め上げた。堪えきれずに口を塞がれている状態のアスリューシナが、くっ、と息を飲み、肌を粟立たせるが自由にならない両手と爪痕がつくほど強く握られた腕と数え切れないほどの切創を抱えた身体では侯爵の拘束を振りほどく術はない。キリトゥルムラインの口元から、ギギッと籠もった歯噛みの音がする。二人の反応を楽しげに受け取ったオベイロン侯は流れ落ちる残りの血をナイフの刃で受け止めながら口づけをしそうな距離まで公爵令嬢の耳へと口を寄せた。

 

「アスリューシナ、君が素直に自分の傷を治せばいいのさ」

 

意地を張り続ける我が儘にこれ以上付き合ってはいられないと未だ少量ながら出血の止まる気配のない傷口へナイフの先端を鋭角に突き立てれば、思わずきつく目を瞑ってしまったアスリューシナの代わりにキリトゥルムラインが叫ぶ。

 

「待てっ、オベイロン侯…………彼女の力は、自分の傷を癒やせない」

「なんだって?」

 

珍しくも純粋に驚きの表情でアスリューシナの首元にナイフの刃先を寄せたまま、オベイロン候は探るような視線を令嬢に向けた。恐怖の感情を抑えながらゆっくりと瞼をあげたアスリューシナは首に感じている冷たい刃の存在に怯えながらもこくり、と小さく頭を動かしてキリトゥルムラインの言葉が真実であると訴える。自分が把握していなかった事実に「まさか……そんな……」とぶつぶつ呟いていたオベイロン侯だったが、やがて「まあ、いい」と切り替えて腕を伸ばしナイフの矛先を変えた。

 

「なら、ガヤムマイツェン侯爵の傷を治してもらおうとしよう」

 

理解は出来ずとも使用人にさえ心を砕く彼女の性格を把握しているオベイロン侯はたった今、知ったばかりの『癒やしの力』の制約を確かめるべく思いついた方法に目を輝かせ上機嫌となる。オベイロン侯の言葉の意味を計りかねたアスリューシナが、それでもガヤムマイツェン侯爵の傷と聞いて不安を抱きながらオベイロン侯を見つめると、その視線をちらり、と振り返って目にした侯爵が益々愉楽な気持ちを高ぶらせた。

 

「そうさ、今から僕がガヤムマイツェン侯爵をこのナイフで傷つけるから、それを君が治すんだ」

 

アスリューシナの瞳がこれ以上はないくらい大きく見開かれる。そしてすぐに顔を横に振りながらブルブルと小刻みに震え始めた。今までどれほど自身の身体を傷つけられても呻き声ひとつ漏らさなかった口から、布越しに「う゛ー、う゛ー」と言葉にならない拒絶の声が必死に紡がれる。けれどそんな訴えなど見えてもいないし、聞こえてもいない様子のオベイロン侯は自らの発案にひどく満足げに頷いた。認めるには少々口惜しい話だが、ユークリネ公爵令嬢のアスリューシナはどういういきさつでか、自分と同じ三大侯爵家がひとつ、ガヤムマイツェン侯爵家の若き当主にひとかた以上の情を抱いているらしい。『癒やしの力』が他者にしかその効力を発揮しないと言うのならば、ここまで自分を探しに来た侯爵を傷つければさすがの彼女も力を使うだろうと考えたのだ。

それに目障りなガヤムマイツェン侯爵を自らの手で害するのもまた一興だろう。どうやってここを探り当てたのかは不明だが、単身で乗り込んで来たという事は騎士団や街の警備隊には知られていないはずだ。せっかく大枚をはたいて雇った騎士くずれの者達はとんだ期待外れだったようだが、そろそろ領地へ向かう為の馬車もやって来る頃合い、どうせならばこのままこの部屋にガヤムマイツェン侯爵だけを一人残して出立したとしても、一体誰がここにこの国の三代侯爵家の一人が閉じ込められているなどと気づくだろうか…………と、オベイロン侯は仄暗い笑みを浮かべて、どちらにしても自分に損はないと目を細めた。

ガヤムマイツェン侯爵の身に深い傷を負わせ、そのままこの部屋に放置するもよし、或いはついにアスリューシナが『癒やしの力』を使い、それをこの目で確かめられるのなら積年の願いを成就させる第一歩となるのだ。

オベイロン侯は今まで以上にアスリューシナの身体を引き寄せて自らの半身に密着させ、動きを完全に封じてその細いおとがいのすぐ下にナイフの刃を水平にあてた。

 

「さて、ガヤムマイツェン侯爵、僕の花嫁にこれ以上無駄な痛みを与えたくなければ剣をその場に置いて、こちらに来るんだ」

 

完全なる勝者の微笑みのオベイロン侯を睨み付けたキリトゥルムラインは一瞬の迷いもなく剣の柄から手を離す。カタンッ、と床を鳴らした剣はすぐさま沈黙の無機物と化した。「来ないで」と願うアスリューシナの瞳だけを見つめて、一歩、一歩、ゆっくりとキリトゥルムラインが近づけば、自然と二人は見つめ合う形となる。キリトゥルムラインが現れるまで感情を覗わせることのなかった瞳が、今は懸命に涙を堪えて愛しい人の身を案じていた。

互いに無言ではあるが自分を無視するような視線の交わりが癪に障ったのだろう、オベイロン侯の眉間に深い皺が刻まれ、何の言葉を発することなく手にしていたナイフを若き侯爵の腕に突き刺す。キリトゥルムラインの顔が歪むのと同時にアスリューシナの咥内から甲高く、驚きと嘆きの「んーーーっ」という叫声があがった。

自分の首元からナイフが離れたアスリューシナは咄嗟にキリトゥルムラインの傍へ向かおうと身体をよじるが、同時に今までオベイロン侯からがっちりと掴まれていた腕が解放され思い切り肩を押し飛ばされる。両手を拘束されているせいでバランスを取りそこねたアスリューシナが横倒しに床に身体を打ちつけたのを見て、キリトゥルムラインが「アスナっ」と声を張り上げた。

キリトゥルムラインの注意がアスリューシナに向いている間に未だ彼の腕に深々と刺さったままのナイフをオベイロン侯は引き抜くどころか、そのまま筋肉と一緒に腱までをも切断すべく両手でナイフを持ち直し、体重をかけて刃で腕を切り裂けば、鮮血が吹き出す。さすがのキリトゥルムラインも痛みに耐えかね、切られた箇所の上腕部を強く掴んだまま「う゛う゛っ」と息を詰めらせてその場に膝を折った。




お読みいただき、有り難うございました。
流血シーン、大丈夫でしたでしょうか?
さすがにご本家(原作)さまのような「背中からグサリ(貫通)」は仮想世界でも
ない限り確実に絶命しちゃいそうなので(苦笑)

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