キリトゥルムラインは左手で剣を扱える理由を問われて……。
揺れる身体を必死に押さえつけてはいるが絶え間なく上下する肩とそれに連動する痛々しいまでの息づかいは隠しようがなかった。もしもアスリューシナが今のキリトゥルムラインを正面から見つめる事が出来たなら、その額に浮かぶいくつもの大粒の汗に驚愕しただろう。
それでもキリトゥルムラインは左手から剣を離さず、目の前の、跪き、呻き声を漏らしながら両手で必死に顔を押さえている侯爵の姿を視界から外せずにいた。
幼少のアスリューシナ誘拐の企てと今回の暴挙を思えば今すぐにでも息の根を止めてやりたい衝動に駆られる。一方ではそんな感情をなんとか抑え侯爵の視力のみを奪う事で収めようとする自分も確かにいて、今はとにかく時間が欲しい、と精一杯の強がりで立ったまま散々浴びせられた蔑みの視線を今度は自らが足元の男に落とした。
「ガヤムマイツェン侯爵家の紋章……交差する二本の剣の意味を……ああ、そうか……『詭謀』のオベイロン家は……自身が戦場に出る事は、なかったのかも、しれないな」
頭上から降ってくる言葉を、発した者とは違う意味で捉えたオベイロン侯の唇が引きつりながらも笑みに近い角度に上がる。
「当たり前だっ……戦場なんて野蛮な場所にっ……このオベイロン家がっ」
「だからだ……人を駒のように扱い、痛みを知らない。結果のみを欲して、そこに辿り着く過程を、顧みない……ヒースクリフ侯爵家にも『陰影』の特質が残っているのか、ちゃんと伝わっている……ガヤムマイツェン侯爵家の当主は代々…………二刀流だ」
「に……刀流…………くそぉっ」
右手を封じただけでは完璧ではなかったのだと自らの失態を認めたオベイロン侯が悔しげな言葉を吐いて身体を丸めた。けれど一瞬の後、その縮こまった背中がまるで内側から何かが膨れあがってくるかのように揺れ始める。
「ふっ……ふふっ……ふはっ……はははっ……」
これまでとは一転してくぐもった笑い声が跳ねる身体と同調して耳に届き、それが間違いなく目の前の男が発している声なのだと認識した時、オベイロン侯は既に血で拭いたような状態の顔面を上げ、血まみれの両手を高々と持ち上げた。
「いいさっ、両目の傷など一時の事っ。全てが片付いたら『癒やしの力』で治せばいいのだから。まずは、小僧、お前を侯爵という地位から引きずり下ろしてやるっ」
「なん……だと?」
「お前はこのオベイロン侯爵の顔を切りつけた大罪人だ。そんな奴が貴族でいられるわけがないだろう?。どのみちその右腕ではそう長くも動けまい。僕はもうすぐ到着する馬車でアスリューシナと共に一旦屋敷へ戻って治療を受け、この事実を『法の塔』へ正式に申し立てる事にしよう」
自分が犯したアスリューシナやキリトゥルムラインへの殺傷行為は長年培ってきたオベイロン侯爵家得意の『詭謀』でどうとでも出来ると踏んでいるのだろう、再び勝ち誇ったような耳障りな笑い声が部屋を満たそうとした時、真っ直ぐで力強い少女の声がそれをねじ伏せた。
「そんなの、このボクが許すはずないだろっ」
トンッ、と軽く床を蹴る音とほぼ同時に「ぐゅえ゛っ」とヒキガエルの鳴き声のような濁音が響くと、数メートル先に飛ばされたオベイロン侯の身体は勢い余って床の上を二、三回跳ねてからようやく止まり、ぺらんっ、と伸びたまま完全に動きを止める。
室内に駆け込んでくるなり侯爵ののど元に回し蹴りを入れた時、ふわり、と舞った長いアメジスト・バイオレットの髪が静かに肩に落ち着くと、ユウキはふぅっ、と大げさに息を吐き出した。
「あーっ、すっきりした。城で見かける度に喋り方とか態度がムカついてたんだよね、こいつ。でも、いくら超法規的特権があっても気に入らないってだけで叩きのめすわけにもいかないしさ……って、あれ?、キリト?、キリトっ!」
ユウキの到着で気が緩んだのか、気力、体力共に限界を超えていたキリトゥルムラインはオベイロン侯が気を失ったのを見届けてから、剣を手放し、自分もガタンッ、と床に両膝を着く。ぶらり、と不自然に揺れる右腕を見てユウキが仰天してるとキリトゥルムラインはそのまま自由に動かない腕をかばうようにして倒れ込んだ。
それまでキリトゥルムラインの背中を見守り続けていたアスリューシナが「いやぁっ」と泣き叫ぶようにして拘束されたままの両手を捩るように動かし、膝頭がすり切れるのも構わずに側へとにじり寄る。
「キリトさまっ、キリトさまっ」
「……アスナ……ごめん、遅くなった……」
「いいえっ、いいえっ、キリトさま……私なら、大丈夫です」
既にかなりの量を出血している為、朦朧とした意識で見上げたキリトゥルムラインの視界には懸命に涙を堪えて微笑んでいるアスリューシナの顔がボンヤリと映っていた。喉の小さな傷以外は自分が見知っている色白で滑らかな肌の彼女の顔だと思い、安堵で自然と柔らかな口元になる。今夜の花火は見られなかったけれど、次は必ず一緒に、と二人で紡ぐ未来を想像して張り詰めていた神経が緩んだ。
それでも懸命に自分の名を呼ぶその唇は布を噛まされていたせいかいつもより潤いが足りない気がして、手を伸ばそうとするが、そこで右手が動かない事に改めて気づく。けれど彼女を取り戻せたのなら腕の一本くらい……と既に痛みさえ遠くなった感覚と緩慢とした思考がそのまま深く、深く、安息を求めて沈み込み、アスリューシナの顔が黒い霞に覆われようとすると、そこに産まれたばかりのような小さくて温かな声がして聴覚だけがかろうじてそれを拾った。
「今度は、私が守りますね」
頭の中の一番隅っこの部分では、その声の意味を理解した気がする。そして、それに抗い、すぐに拒否を、拒絶を伝えなければいけない事もわかってはいたのだ。しかし無情にもキリトゥルムラインの瞼はゆるやかに閉じ合わさり、「ダメだ、アスナ」と呟いたはずの声は相手に届くことなく、細い息となって唇の隙間から這い出ただけだった。
「キリト……キリトっ……いつまで寝てる気?……」
不機嫌なユウキの声が頭上から降ってくる。ここがどこで、なぜ自分は寝ているのか……と、目を閉じたまま記憶を辿ろうとしたが、そんな事より胸の上に感じる暖かくて甘い香りのする存在の重みに無意識に唇の両端が上がった。
途端に「パンッ」と小気味よい音がして緩んだ頬に痛みが走る。その衝撃で瞬時に目が覚め、意識を取り戻せば、目の前には明らかにキリトゥルムラインの頬をはたいたと思われる角度の手をそのままにしたユウキが、にかッ、と笑って「もう二、三発、必要?」と問いかけてきた。
秒速で返答しなければ、すぐ近くに待機している少女の手の甲が再び自分の頬を殴打する事は間違いなく……しかも今度は往復の軌道を描く事も火を見るより明らかで、キリトゥルムラインは思わず言葉より先に首を勢いよく左右に振った。すぐに、くらり、と目が回る。
その姿をしゃがみ込んだ体勢で見下ろしていたユウキはキリトゥルムラインの頬をはたく必要がなくなった手の平をそのまま侯爵の目の前にかざして「急に動かない方がいいよ」と動きを制した。
「切られた腕は治ってるけど、流れ出た血までは戻ってないから」
腕が治ってる……その意味を問う言葉は短い一言で十分だった。
「アスナ、か?」
「そ。……そんな目で睨まないでよ。初対面のボクに彼女を止められるわけないだろ?」
軽く肩をすくめる仕草さえ苛立ちの原因となるのか、ユウキを睨んだままのキリトゥルムラインは一旦、瞳を閉じて深く息を吐き出す。
「悪い、ユウキに腹を立てたわけじゃないんだ」
キリトゥルムラインもわかっていた。単純に『癒やしの力』を使わせないだけなら、この国の最強騎士であるユウキがアスリューシナの身体をキリトゥルムラインから引き離せばいいだけの話で、数多の傷を負い両手を縛られている令嬢の抵抗など無いに等しいだろう。
抑も、腱の切れた片腕などさっさと見捨てて斬り落とし、止血して命を繋ぎ止めるのが定石なのだ。二刀流は使えなくなるが、もう片方の腕が残っていれば不便ながらも日常生活は送れるはずである。
それでもアスリューシナが痛みの除去と傷口の閉塞だけに留まらず腕の完全治癒をやり遂げたのは……意識が遠のく寸前、アスリューシナが口にした「守る」の意味にキリトゥルムラインは苦しげな表情の中に泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「覚えていて……くれたのか?……」
ルーリッド伯爵家での夜会から戻る馬車の中で彼女にだけ告げた本心を……『侯爵か騎士か、どっちでも好きな方を選んでいいなら、迷わず騎士を選ぶだろうな』……きっと素直なアスリューシナはこう考えたのだろう、剣を振るう事が騎士としての誇りなのだから右腕を治さなければ、と。
お読みいただき、有り難うございました。
「あーっ、すっきりした」は私も同意です(苦笑)
喋り方さえ気に入らなかったようですから、あわよくば「喉が潰れちゃっても
いいよね?」くらいの勢いで蹴りを決めたのではないかと……。