漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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ユークリネ公爵家で休息をとっていたキリトゥルムラインは
従者に頼み込み、アスリューシナの私室へと案内され……。



57.寄り添い合う(3)

見慣れていると思っていたアスリューシナの私室だったが、昼間の明るい時間帯での訪問は初めてだったと改めて気づき、その印象の違いにキリトゥルムラインは少し驚いた。いくら蝋燭の灯りがふんだんにあったとは言え、バルコニーに面した何枚もの大きな硝子窓から差し込む沢山の陽光には敵うはずもなく、部屋の隅々まで目にすることの出来た今、品の良い調度品でまとめ上げられ、それでいて温もりのある雰囲気はまさにアスリューシナそのものだ。加えて、夜の訪問にはいなかった彼女付きの侍女達がこそかしこに控えている。そんな中、自分がいた客間の寝室からずっと肩を貸してくれている従者が共に令嬢の居間まで入室した時、そっ、とキリトゥルムラインに耳打ちをした。

 

「念の為申し上げておきますが、我々男の使用人がお嬢様の私室に入ることはありません。警護に関してはお嬢様の専任護衛は女性ですし、ここの侍女達は……何と言いますか……頼りになる者ばかりですので、お嬢様がご自身で立っていられない場合でも、お部屋にお連れするのには何の問題もないものですから」

「だろうな……」

 

なので、今回、自分が令嬢の私室に入れたのは侯爵に付き添っているからなのだと説明した後、従者は居心地が悪そうに周囲の侍女達を見遣る。

しかしここの侍女頭をはじめとして、これまでの他の侍女達の姿も何度か目にしたことのあるキリトゥルムラインにとっては、その口の堅さも、忠誠心も、そして何より清々しいほどの逞しささえも賞賛に値するものだ。

世話をしてくれている従者にアスリューシナの私室への案内を頼んだ時、躊躇いの中にほんの少しの苛立ちが混じっていたのをキリトゥルムラインは感じ取っていたが、この部屋にいる侍女達からはその割合が更に上がっている。面を下げているので視線や言葉を寄越してくるわけでもないのに、剣士としての本能だろうか、皆が皆、一様に令嬢が戻って来た事への安堵と、この部屋にやってきた四大侯爵への困惑、そして怒気が交じり合っていた。

自分達が仕える令嬢の帰還には感謝しているが、同時に昏睡状態の原因でもある青年の存在に対し複雑な感情を抱えているのだろう、それだけアスリューシナを大切に思ってくれているのを感じたキリトゥルムラインだったが、申し訳なく思いながらも今は何よりアスナの姿を確認するのが先だと従者と共に寝室へと続く扉の前まで辿り着く。

ここをくぐるのは二回目だ。

一回目は少し前の領地を往復する前夜、キリトゥルムラインの前で瞼を閉じてしまった彼女を抱き上げ、ベッドまで運んだ時だったが、あの時はすぐに追い出されたのでその後の様子を知る術がなかった。

無意識に高まった緊張感をほぐすため深く息を吐き出している間に、扉の一番近くに控えていた侍女が一礼をしてから侯爵に背を向け、寝室のそれを叩く。

すぐに薄く扉が開き、中から見知らぬ侍女の怪訝な顔が見えたが、その表情もキリトゥルムラインの姿を認めると一跳した。単に若き三大侯爵家当主が令嬢の私室を訪れて来たことに対する驚きだったのか、はたまた他家の従者の肩を借りてまでやって来る執着への呆れを含んだ怖気なのか、眉毛と口元の両端がヒクリと震えた後、小さな声で「少々、お待ちを」とだけ言うと再び扉が閉じられる。

あと扉一枚隔てた場所にアスリューシナがいるのだと思えば、再び扉が動くまでの時間を祈る気持ちで待ち続けていると、ほどなくして音も無くその時はやって来た。

静寂の中、扉がキリトゥルムラインを迎え入れる為にゆっくりと、そして今度は大きく開かれる。

まるで水中から水面の空気を求めるように従者から身体を離し手を伸ばして足を動かす。アスリューシナの寝室は先刻までキリトゥルムラインが使っていた寝室と同様にカーテンによってしっかりと日差しが遮断されていたが、それを補うように蝋燭がそこかしこでやわらかな灯りを提供していた。これまでキリトゥルムラインが夜に訪れるアスリューシナの私室もまた同じように蝋燭の火が室内を照らしていたが、そこが明るく安らぎに満ちていたのはアスリューシナが微笑んでいたからで、今の彼女の寝室には張り詰めた空気しか存在しない。

壁際に控えている侍女達も、ただ一人ベッドの脇に佇んでいる侍女頭のサタラも侯爵であるキリトゥルムラインに向け隣の居間にいた侍女達のように感情を滲み出すことはせず、ただ面を伏しそこに立っている。けれどキリトゥルムラインにとってはそんな事を気にする余裕はなかった。目の前のベッドにまるで棺に納められたように力無く静かに横たわっているアスリューシナの姿を見たからだ。

 

「アッ……」

 

渇いた喉からは満足な声すら出ない。視界は大きく歪んでいたが、それでも力を振り絞りふらつきながらも一歩、また一歩とベッドに近づく。枕に沈んでいる蒼白のアスリューシナの顔以外は目に映っていなかった。

倒れ込みそうになる身体をどうにかベッドへ両手をつく事で防ぎ、そのまま上から彼女を覗き見る。

 

「ア……スナ」

 

小さく、小さく、やっとの思いで紡いだ彼女の名だったが反応は何もなかった。それどころか息をしているかさえ不安になってくる。

 

「……侯爵様、どうぞおかけ下さい」

 

いつの間にかサタラがすぐ後ろに椅子を用意してくれていた。もともと支えがなくては立っていられない状態だ、その言葉に崩れるように腰を降ろす。

けれど、すぐにアスリューシナの耳元に顔を近づけ掠れた声で何度も「アスナ、アスナ」と呼び続ける様が痛々しく、寝室の侍女達は俯いたまま閉じられない耳を恨んだ。そんな姿を見かねたのか、サタラが侯爵の背後に歩み寄る。それに気づいたキリトゥルムラインだったが、視線はアスリューシナから外さず「サタラ」と説明を求めた。

 

「ご覧の通りでございます。侯爵様とご一緒にお屋敷に戻られてから今まで、意識は戻っておりません。ですが……」

 

言いよどんだサタラに向け、キリトゥルムラインがゆっくりと振り返る。

 

「……お力をお使いになったのでしたら、致し方ないのです」

 

キリトゥルムラインの漆黒の瞳が大きく見開かれた。その黒瞳をサタラはまっすぐに見つめ返す。

 

「キズメルから、彼女が知る限りの事は聞いております。侯爵様がそうとう酷い傷を負われたらしい、と申しておりました」

「あ……あ…………右腕の腱を……切られて…………それを、アスナが……」

「その右腕ですか?、お嬢様の手を握っておられる。今は、問題なく動かせていらっしゃるようですね」

「……はい」

 

掛け布から出ていたアスリューシナの手を当然の如く両手で包んでいたキリトゥルムラインは、サタラの指摘で初めて失態だと気づいたようで、侍女頭の冷たい視線と声に違う意味で喉の渇きを覚えた。思わず丁寧な返事をしてしまったが、だからといって今更彼女の手を解放はしない。一方、沈痛な面持ちのサタラはアスリューシナの手を包み込んだままの侯爵の手をジッと見つめたまま、諦めたように、ふっ、と息を吐き出した。

 

「これからは、そうやってお嬢様の手を離さないで下さいまし。お優しくて情の深い方なのです。ご自分の痛みなどすぐ後回しにされてしまうので、私達はいつも心配で心配で……」

 

周囲に控えている侍女達が小さく、うんうん、と頷いている。ここの侍女達の許しを得たと感じたキリトゥルムラインが握る手に少しの力を込めた。それでもアスリューシナの指はピクリとも動かない。

 

「このままで……大丈夫なのか?」

 

サタラがよく目にするキリトゥルムラインのやんちゃな笑みは完全に鳴りを潜めていて、さっきのアスリューシナを呼ぶ声やこちらを見る不安げな瞳はまるで迷子のようだ。けれど『癒やしの力』を持つ者の傍にあり続けたいと望むならば、とサタラは主家嫡男のコーヴィラウルから指示された通り、キリトゥルムラインにユークリネ公爵家にいる人間しか知らない話を打ち明け始めた。

 

「お嬢様のお力は使えばその反動がご自身に返ってきます。以前、侯爵様が痛めたとおっしゃっていた腕がお嬢様の手当で良くなった事を覚えておいでですか?」

 

キリトゥルムラインは黙って首を縦に振る。他の侍女達にとっては既に侯爵が『癒やしの力』を受けていた事実に驚愕するばかりだが、面を上げる者も声を出す者もいなかった。

 

「あの時、お嬢様からの伝言がございましたね、『しばらく大人しくしているから』と」

「そうだったな…………もしかして、あれは病み上がりだったからじゃなくて?」

「はい、お察しの通り、あの後お嬢様は丸一日意識が戻りませんでした」

 

キリトゥルムラインの顔が苦痛と怒りに耐えるようにみっともなく歪む。

 

「くっ……そんな事になるならっ……」

 

知らなかったとは言えそこまでして治して欲しい痛みではなかった、と、あの時、自分の腕に手を当ててくれたアスリューシナの一種神々しい姿を思い浮かべ、その後、元に戻った腕を見てそれが持参した傷薬の効果なのか、と疑いを抱きながらも信じてしまった自分の単純さに怒りを覚える。そんな感情に何度も向き合ってきたサタラは少し表情をやわらめて口元に苦笑を浮かべた。

 

「そういうお方ですからね。こちらがお止めしようとしても無駄なのですよ。ですからどなたか、しっかりと繋ぎ止めてくださらないと……」

 

そう言葉をかけられてキリトゥルムラインは再び彫像のようなアスリューシナの顔を見つめ、彼女の手を握っている自身の手を見る。

 

「…………心配で、もう、一生離せそうにないな」

「是非、そうして下さいまし」

 

サタラの顔が嬉しさに緩むと周囲の侍女達の肩の力も喜びと安心で、ほぅっ、と抜けた。

普段から色素の薄いアスリューシナの手はその顔色と同様に病的な白さにまで色を落としていて、自分の両手とて未だ震えが止まらないと言うのにキリトゥルムラインは丁寧にその甲を撫で続けている。それでも一向に血色は良くならず、瞼が持ち上がる気配すらない。さっきのサタラの話を思い出したキリトゥルムラインは「それなら」と振り返ることなくサタラに問いかけた。

 

「今夜には意識を取り戻すのか?」

 

しかし、その問いにサタラは冷酷とも言える返事を突き返した。




お読みいただき、有り難うございました。
ここまで連れて来てくれた従者さん、困ってます。
「私、出て行った方が良いですか?、それとも
ここで侯爵様をお待ちした方が……」
そこで居間にいる侍女サン達にキッ、と睨まれ
「はい、外(廊下)におりますね」と出て行くのでしょう。

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