キリトゥルムラインに向かい、侍女頭のサタラが話し始め……。
「それは、無理かと思います」
告げられた内容と妙に冷静なサタラの声音に、一気に感情が膨れ上がったキリトゥルムラインは振り向きざま、ギッ、と侍女頭を睨み、ならばいつになったら目覚めるんだっ、と噛みつきそうな視線を飛ばす。
けれど、それに臆することなく落ち着きを保ったままのサタラは淡々と話を続けた。
「私の知る限り、お嬢様が一番強く力をお使いになったのは十四年前です」
「それは……キズメルの父上にか?」
「はい、お嬢様自身、お身体の具合やお心の状態はすぐにでもベッドへお運びしたい位のものでしたが、あの時、傷を塞ぐだけで精一杯だった理由は、何よりお嬢様がまだお小さかったからです…………侯爵様、私を射殺しそうな目で見つめるのはおやめ下さい。誤解なさらないでいただきたいのですが、ヨフィリス様に力をお使いになったお嬢様を私は心から敬愛しております。きっと普通の手当では視力どころかお命すら失っていたことでしょう」
「何が……言いたい?」
「今、拝見しますに、腱を切られたとおっしゃった侯爵様の腕は傷跡は残っておりますものの何の不自由もないようにお見受けいたします」
その言葉に誘われるようにしてキリトゥルムラインはアスリューシナの手に伸びている自らの右腕に視線を落とす。言われたように、確かに傷口はうっすらと残ってはいるものの、痛みはもちろん違和感の欠片すらない……当然、剣を振るうのに何の支障もないだろう。
三大侯爵家当主の寝衣の袖口から見える二の腕をあまり凝視してはいけないと、サタラはすぐに視線を戻し唇を動かした。
「恐らく、お嬢様は侯爵様の重症のお身体を元通りの状態まで、と治癒を望んだはずです。そしてその願いを叶えるほどの強い力をお使いになった場合、その反動やご回復にかかる時間がどれほどのものになるのか、私共も予想が出来ません」
「そ……んな……」
ばっ、とキリトゥルムラインはアスリューシナの生気の感じられない顔を見る。
意識を失う寸前、自分が見上げた先にあった彼女は懸命に涙を堪えて美しく微笑んでいた。それが今は人形だと言われても信じてしまいそうな程に身じろぎひとつしないのである。
自分の剣士としての誇りの代償を目の前に突きつけられ、心が怯みそうになったキリトゥルムラインの泣き出しそうな横顔を見て、サタラは声に優しさを含ませた。
「けれど……お嬢様はお喜びになるでしょうね」
その言葉の意味がわからずに振り返ると、サタラの背後に並んでいる侍女達も一様にして苦笑を堪えながら互いに目線で頷き合っている。
「常日頃からお嬢様付きの侍女達はもちろん、この屋敷にいる使用人達は、皆、大きなケガをしないよう注意しております。その理由はおわかりだと思いますが……とにかく隠そうとしても目聡いのですよ、うちのお嬢様は。嘘や誤魔化しは簡単に見破ってしまわれますし、加えて頑固者ですから、周囲の者の痛みは放っておいてくれません」
サタラがちらり、と後ろを振り返る。するとそこにいた侍女達の全員が気まずそうな顔をしながらも自分の身体をどこかを愛おしそうに見つめたり、さすったりしていて……キリトゥルムラインは納得した。多分、そこがアスリューシナに半ば強引に治癒された患部だったのだろう。けれど令嬢付きの侍女と言えば使用人の中でも上級クラスのはずで、ケガなど大してしないと思うのだが、といった疑問を瞬時に読み取ったサタラは柔らかくなった声に続いて目元も緩ませる。
「当家の使用人は色々と秘密保持のお役目もあるので少数精鋭なのでございます。更にお仕えするお嬢様は私室からお出になる事も稀ですから、何か気慰みになれば、と侍女達それぞれが考えて行動しますので……」
つまりはその行動が原因でケガを負うことがあるらしい、と察したキリトゥルムラインだったが、その内容までは想像が届かない。
随分と興味の引かれる話は今度じっくり目の前の令嬢から聞くことにしよう、と口の端を上げた侯爵は再び彼女の手の甲をなで始めた。
「オレの持って来た薬が今のアスナにも効けばいいのにな……」
他者に使うばかりで自分はその恩恵にあずかれない奇跡の力……それどころか使うことで我が身に辛さが生じるのなら、その存在すら忌避してもおかしくないのにアスリューシナは率先して目の前の傷に手をかざすのだ。
令嬢を包み込むような眼差しで見つめるキリトゥルムラインの様子をどこか嬉しげに思っていたサタラだったが、侯爵が持参した薬、と聞いて眉をピクリと動かした。
「そのお薬ですが、侯爵様……以前、お嬢様が手当てをされたのは剣の手合わせで痛めた筋、でございましたよね?」
「ああ、そうだけど」
「……外傷でもないのに、どうしてお嬢様の知るところとなったのですか?」
「それは、オレがアスナを抱き……」
「だき?」
キリトゥルムラインの背筋がピンッと伸びる。瞬時に身体全体の動きを停止させた外見は石像のようだが貧血からだけではない嫌な汗が寝衣に隠れている背中をじっとりと湿らせていた。
見なくてもわかるほど壁際の侍女達からも「だき?」の続きを促すオーラがキリトゥルムラインに向け、一斉に降りかかっている。
ほんの少しの間を置いて「オレがアスナを抱きしめた時、いつもと違う感覚を察知したんだろうなぁ」と続けようとした唇は、もう一度怖々と「だき」を繰り返した。
「抱き……上げようか?、って言ったんだ……ほら、夜会で無理させだろ?、そしたら断られて、その時、オレの腕にアスナの手が当たったんだよ。んーでほんのちょっと顔をしかめたから、それで気づいたんだろうな……」
ぐぎぎっ、と首を回し、こんな感じでどうデスカ?、と窺うように横目でサタラを見るキリトゥルムラインだったが、侍女頭は恐れ多くも三大侯爵家当主の言葉をひとつも信じていないような眼差しで、それでも空々しい話に合わせて険のある言い方を口にした。
「ホイホイと無闇矢鱈にうちのお嬢様を抱き上げようとするのはお控えください、侯爵様」
「はい、そうします」
まるで実感のこもっていない形だけの同意を返されたサタラはこれ見よがしに大きく鼻から息を吐き出す。けれどキリトゥルムラインにしてみればアスリューシナを抱きしめる事も抱き上げる事も条件反射よろしく既に身についてしまっている無意識の行動だ。そそっ、と恥ずかしさを滲ませながら己の腕の中にその華奢な身体がやってくれば、当然抱きしめるし、少しでも彼女がふらつけばすぐにでも抱き上げる。今更控えろと言われても無理な話だった。
「とにかく、そのようなわけですから侯爵様のお身体に不自由が出てないのでしたら、お嬢様はそれをお喜びになるに違いありません」
「そう……だな」
今度はキリトゥルムラインが苦笑いを浮かべる番で、ちゃんと自責の念を抱きつつも令嬢の気質を理解し、受け入れている事を感じ取ったサタラは侯爵が自分に視線を向けてない所で不敵に微笑む。
「とは言え先程も申しました通り、私共もお嬢様がお喜びになるからと言って、率先してケガを負ったり、あまつさえそれをお嬢様に見せたりはいたしません」
「うん……そうだろうな」
「小さなケガでしたら傷薬を使いますし……」
それが一般的な対処方法だろう、とキリトゥルムラインも素直に頷く。
「少々、目立つケガをした時は極力お嬢様に悟られないように致しますが……」
使用人としては当然の配慮だ、ともうひとつ頷く。
「だいたいはお嬢様に見つかってしまい……」
常日頃から周囲の者達への気配りを怠っていないところがアスナらしいなぁ、と知らずにキリトゥルムラインの唇が弧を描いた。
「なので……滅多にない事ですが、この屋敷の使用人達のケガにお嬢様が手を当てて下さいます時は……」
何やら不必要に気迫のこもった声が襲いかかるようにして自分へと迫ってくるのを感じ取ったキリトは弧を描いたままの口で、パッ、とサタラに顔を向けるが……時、既に遅しだ。
「痛みのみを取り除いて下さるよう、お願いしております。後は適切な処置を施しておけば人の身体というものは自然と治す方向に働きますので、仕事に支障をきたすことはございません。完全治癒など、お嬢様のご負担を考えれば恐れ多いことなのです」
にこやかに言い切ったサタラの目はちっともにこやかではなく、弧を描いていたキリトゥルムラインの唇はそのまま端っこがひくりと痙攣している有様だった。
「え……っと……」
「奥様は只今他国に赴いておりますので、お戻りに半月ほどかかりますが、旦那様とコーヴィラウル様からはご承諾いただいております。良い機会でございますからこの屋敷の人間がどのようにお嬢様に接しているのか、その気構えというものを侯爵様のお身体が回復なさる間、このサタラがしっかりとお伝えしたいと存じます」
それってアスリューシナ付きになる新人の侍女教育に近い感じなのでは……とキリトゥルムラインの表情筋が再度固まった時、それこそ自分の専売特許だと思っていた悪戯っ子めいた笑みが一瞬、サタラの顔に浮かぶ。
「いつまでも私達がお嬢様をお世話できるわけではありませんから」
そう言われてしまっては、近い将来、彼女を自分の屋敷に迎え入れたいと願っているキリトゥルムラインも頷くしかなかった。
「よろしく……頼む」
お読みいただき、有り難うございました。
サタラさんによるアスリューシナのトリセツ講義ですね(苦笑)
さて、今年はこれで最後の投稿となります。
一年間『漆黒に寄り添う癒やしの色』にお付き合いいただき
本当に有り難うございました。
また来年も宜しくお願いしますっ。