急いだキリトゥルムラインは……。
アスリューシナの私室にやって来たキリトゥルムラインはちょうど寝室から出てきた数名の侍女達の手にしている物を見て声を掛ける。
「終わったのか?」
「はい、今し方」
ここに来る途中、この屋敷で自分の側付きをしている従者のホークを通して中央市場から届けられた伝言から完全に忘れきっていた小さな英雄とも呼ぶべき存在を思い出した事で多少時間を費やしてしまったが、どうやら間に合ったらしい、とキリトゥルムラインは胸をなで下ろした。寝室に通じる扉は未だ開いたままで、閉じられる前にっ、と駆け寄る一歩手前の速力で顔を突っ込む。
「アスナ」
寝室の主の名を小さく口にしてから、それが入室の合い言葉とでも言うのか、特に誰の許可も待たずキリトゥルムラインはアスリューシナが伏せっているベッドへと一直線に歩み寄った。ベッドの上を見下ろせば、そこには閉じた瞼を縁取る長い睫毛を揺らしながら苦しげに浅い呼吸を繰り返している公爵令嬢の火照った顔がある。きっとキリトゥルムラインに名を呼ばれた事すら気づいていないだろう。
先刻すれ違った侍女達が持っていた洗面用具や数枚のタオルで全身を清めた後、寝衣も替えた為にいつものアスリューシナの香りが僅かに和らいでいるが、清潔になったはずの肌には既に発熱による新たな汗が滲んできている。
それでもキリトゥルムラインはサイドテーブルに用意してある布で彼女の額やこめかみを軽く拭うと「うん、さっぱりした後は食事にしようか、アスナ」と笑いかけた。
アスリューシナが意識を取り戻したのは屋敷に戻ってきてから三日後の事だった。
その知らせを受け、慌てて令嬢の寝室へと駆けつけたキリトゥルムラインだっだか、そこに「キリトさま」と優しげに微笑む姿ではなく、ベッドの上で熱と苦痛に歪む痛々しい姿を目にして愕然となった。
声も出せずに立ち竦んでいると、背後からサタラが「侯爵様」と声を掛けてくる。
「ここからはお辛いばかりです。お嬢様もこのようなお姿を侯爵様の目に晒す事を快くは思われないでしょう。いかがなさいますか?」
それはキリトゥルムラインが自分の屋敷、侯爵家に戻る選択肢を示していた。
元より右腕の傷口の存在など傷跡でしかなく、この三日の間で体力も戻り、体調もすっかり回復している。自分の痛みを取り除いたせいで彼女が苦しむ姿を見続けなければならないのは、治癒された側の人間からすれば悔恨と自責の念に耐える日々が続くのだとサタラにはわかっているのだ。
けれどキリトゥルムラインはアスリューシナから目を逸らすことなくハッキリとした声でサタラに問いかけた。
「ユークリネ公爵殿の意向は?」
「はい、旦那様は全てガヤムマイツェン侯爵様のご意思を尊重する、と」
「なら何も問題はないな。アスナが元気になるまで引き続きこの屋敷には厄介をかけるけど…………サタラ、今のアスナに……触れても、大丈夫か?」
既に覚悟は出来ている強い口調から途端に気弱な声で尋ねられたサタラは嬉しそうに口元を緩めて「これまでと同様にお声をかけ、手を握って差し上げて下さいませ」と答えた。
アスリューシナ付きの侍女達にとってもすっかり見慣れた光景である位置に腰掛けたキリトゥルムラインは今までなら上掛けの上にただ置いてあるだけだった白い手が布を握り潰さんばかりに固くなっているのに気づいて、その手の指を一本ずつ丁寧に解きほぐし自らの手で包む。
すると今度は自分の手に細い指が食い込むが、キリトゥルムラインは痛みなど感じていないような穏やかな声で「アスナ」と呼びかけた。
「……アスナ……みんな、待ってる」
アスリューシナの荒い息が上がる中、吐息のようなキリトゥルムラインの声がその隙間を縫うようにして彼女の耳まで届く。
「中央市場のトトも、それから、賑やかな店主達も……」
ゆっくりと柔らかな声がアスリューシナを包み込むように浸透していった。
「ルーリッド伯爵からも薔薇の花がたくさん届いてるし……」
その漆黒の瞳を一心にアスリューシナへと向けているキリトゥルムラインの声が小さく震える。
「オレだって……約束……しただろ?」
痛みから逃れるように渾身の力でキリトゥルムラインの手を掴んでいたアスリューシナの指から、スッ、と緊張が緩み、ぴくり、と瞼が痙攣を起こす。何かを感じたキリトゥルムラインが、じっとアスリューシナを見つめる前でそのロイヤルナッツブラウン色の瞳がゆっくりと現れた。
「リ……ンゴの、花…………」
強張っている唇から掠れた声が漏れる。口で呼吸をしているので唇も口内も喉までも乾ききっているらしく、それ以上は声が出てこない。瞳もぼんやりとしていて焦点が合っておらず、意識は戻っているはずなのに熱で思考力が奪われているのは一目瞭然だった。それでもキリトゥルムラインの不安な声を聞き取って答えを返した後、間近でないとわからないくらいに薄く微笑んだアスリューシナを見て、キリトゥルムラインは大きく頷く。
その拍子に黒の双眸から一筋の涙がこぼれ落ちるが、それに構うことなくキリトゥルムラインは逆にアスリューシナの手を握り返した。
「ああ、一緒に見に行こう、アスナ……」
それからのキリトゥルムラインは時間があればアスリューシナの側に付き添った。
昏睡状態の時はただ手を握る事しか出来なかったから、と逆に侍女達の前で堂々と世話が焼ける事を喜んでいるかのように令嬢の寝室に足繁く通ったのである。意識が戻ったとはいえそこから丸一日は覚醒している時間が短く、ただ高熱にうなされているだけの状態が続いていたが、その間もキリトゥルムラインはアスリューシナの唇を湿らせたり、汗を拭ったり、少量の薬湯を口に運んだりとサタラに教わりながら看病を続けた。
その様子を嬉しさの中にほんの少し呆れを混ぜて見守っていたサタラが気づいたのだ、アスリューシナが朦朧とした状態でもキリトゥルムラインの声には反応する事が多いと。
その事実が判明してからは薬湯と少量の食事を摂る時刻には必ずキリトゥルムラインがやって来るようになった。気のせいかもしれない、と疑う程度だが、侍女達に見せつけるように優越感を忍ばせた顔で優しく令嬢の名を呼んで意識を浮上させる。
侍女達が熱を帯びた肌の上に吹き出している汗を拭い寝衣や寝具を取り替える時は苦しげな息づかいを繰り返すだけで、高熱と痛みで硬直している身体を摩っている間すら目を閉じたまま指先のひとつも動かないと言うのに、キリトゥルムラインが二度、三度、その愛称を口にするだけでその重い瞼は持ち上がるのだ。
今もキリトゥルムラインが食事を促す言葉をかけただけで、薄く涙で滲んだ瞳が彷徨い出てくる。
僅かな間を開けて自分のすぐ側にいる青年の正体に気づいたのだろう、少し驚いたように眉毛が持ち上がるのは思考と記憶が直結していない証拠だ。けれど一瞬にしてふわり、と膨らんだ喜びが全てを押しのけ、それからようやくその意味を思い出して困り眉に転じると、毎回アスリューシナの百面相を楽しんだキリトゥルムラインは再び大きく口を動かしてゆっくりと「ア・ス・ナ」と呼びかける。
サタラから聞いた話ではアスリューシナは力を使った後、必ず熱を出すのだが耳鳴りも酷いので周囲の音はうまく拾えないのだそうだ。
ならばなぜキリトゥルムラインの声に呼応するような仕草を見せるのか、その答えは彼女の回復を待つしかないが、とにかく聴力どころか目を覚ます度に隣にいる三大侯爵家当主の姿に驚いているのだから記憶もうまく繋がっていないはずで、それなのに、その後必ずキリトゥルムラインの存在に嬉しそうな表情を浮かべるのだから、それだけで周囲に控えている侍女達は悶える心を懸命に押し殺す作業に専念するしかない。
キリトゥルムラインの口の動きで名を呼ばれたと理解したアスリューシナは、眉をへにょり、と落としたまま潤んだ瞳で侯爵を睨み付けているようだがその眼光には全く威力がないので、睨まれた当人は恐れも見せずに更に覗き込む。
「んー、まだ色が薄いな」
「侯爵様、近すぎです」
病気ではないのだから感染する恐れがないとは言え、アスリューシナの苦しげな息を吸い込む程の位置まで顔を近づけたキリトゥルムラインにサタラが小言を投げた。思うように身体を動かせない令嬢に代わって適切な距離感を諭す令嬢付き侍女頭からの言葉だったが、言われたキリトゥルムラインは全く意に介していない様子でその距離をゼロまで詰める。
「熱もまだまだか……でも栄養は摂らないとな、アスナ」
再び汗ばんでしまったアスリューシナの額に自分のそれを押し付けたキリトゥルムラインは、触れていた頭が小さく左右に揺れた振動に気づいて顔を離した。
「食欲がないのはわかるけど、食べないと回復も遅くなるぞ」
「侯爵様、お嬢様は侯爵様に触れられたくないのですよ」
「そんなはずないだろ?、今まで何度も触れてるんだし」
「いいえ、今のご反応はお食事に関してではございません」
ポンポンと会話を交わしている二人の後方から壁際の侍女の一人が「あのぅ」と窺うような目で声を発する。三大侯爵家当主と上司である侍女頭の二人に同時に振り向かれ、会話を遮った侍女は小さく「ひっ」と悲鳴のような緊張の息を飲み込んでから恐る恐る唇を動かした。
「思うのですが、お嬢様は単にご自分の寝室に侯爵様がいらっしゃる事に戸惑っておられるのでは?」
きっと私の感覚が一番一般的(まとも)だよね?、なんたってうちのお嬢様、お年頃なんだからっ、と両隣の侍女仲間にこっそり視線を走らせれば、よくぞ言った、と勇気に対する労いと賞賛の眼差しが返ってきて、進言した侍女は自分の正当性に安堵してふぅっ、と力を抜く。けれど、その意見を聞いた二人は互いに意外そうな顔を見合わせた。
「もしオレの寝室にアスナがいても、オレは戸惑わないけどな……」
「そうでございますね。こういう事は慣れですから」
既に何度も深夜の私室を訪問してナイトドレス姿のアスリューシナを抱きしめているキリトゥルムラインにとっては侍女からの助言など的外れな物でしかなく、同様にこれまでの経緯を把握しており、且つ、確実な未来として仕えている令嬢が目の前の侯爵の元へと嫁ぐと信じている侍女頭にとっても、キリトゥルムラインの寝室への入室はそれこそ予行演習くらいにしか思えなかったのである。
お読みいただき、有り難うございました。
令嬢付きの侍女さんと言えど、深夜の訪問者の存在には気づいて
いないので「うちのお嬢様と侯爵サマ、なーんか一気に距離縮まったっ」とか
「いつの間にか愛称で呼んでるー」とか、裏でピーチクパーチクしてます、きっと。